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「 方言師 」
 

 姓は鄭、名は諒。字を驟鱗という男は、慶国赤書外伝の語学史の項に名をつらねる語学博士である。三十半ばで昇仙し、杏色の瞳と青い髪の見目麗しい容姿、目端の効くたいそう優秀な人材であったと記されている。彼のあらわした語学書は数百冊にものぼるが、その最初の第一冊は通称『夕泉録』と呼ばれており、慶および諸外国で話されている方言の差異を系統立てて述べた非常にすぐれた一冊として、時の景王赤子に献上された。女王の保護を受け、その後は主に少学の教科書を多数出版して、その本は市井で長く愛読された。
 彼の娘は女王と同じ色合いの赤い髪を持ち、長じてのちは父を助け、共に慶国九州すべてに図書館を普及させる仕事に尽力した。
 外伝のほかに鄭家に伝わる日記が残っており、ここにはまだ語学博士になる前の驟鱗の逸話がいくつかのっている。以下はその中のひとつをわかりやすく口語訳したものである。


☆  ☆  ☆

 (さて、どうしたものか・・・)
 暮れ方の鐘が鳴り始め、山のはるか下方、おもちゃみたいに小さな街の大門が、ひとつ鐘が終わるごとにゆるゆると確実に閉まっていく。
 落ちた米粒が一箇所にざっとまとまっていくように見えるのは、閉門にごったがえす旅の人々であろう。あわてて門の内へと駆け込んでいくその喧騒は、男の立っている切り立った崖の淵までは届かない。風にのってかすかに漂ってくる鐘の音だけが、秋の残照にひとつずつに溶け、黄金色のとろりと甘い波となり、深山の空気を震わせている。
 今宵は山の路木で野宿と決めていた。
 安妓楼で一晩過ごす程度の路銀はあったが、長年のお尋ね者生活が骨の髄までしみついているためか、人目につくところを本能的に避けるようになってしまっていた。天気さえ良ければ、役人を気にしなくてすむ山中の方が熟睡できて良いのだ。男の背負った雑嚢には、冷えた握り飯と点心がひとつずつ、それに着替えが少々入っていた。
 ひとつ前の街で手に入れた。もちろん盗品だったが、晩秋の日差しはきついといえども芯のほてりはすっかり冷えた霜を感じさせる。まだ傷んではいないだろう。着替えにいたっては絹製で、なかなかの上等品だった。
 寝床と食料と着替えめどがついているとなると、あとは金。
 そう、さきほどから男を悩ませていた問題は、今宵、もうひと稼ぎするや否や、ということにあった。
 男のたたずんでいる崖のすぐ脇に、小さなせせらぎが流れていた。川は細滝となって崖を一気に落ちこみ、さわさわと陽炎の羽音のような、くすぐるような水音がひっきりなしに鳴っている。せせらぎを上流へとたどる方角にはあるかなしかの獣道がとおり、そこを登ると、やがて、こんこんと清水の湧き出る小さな泉へと続いていた。
 つい先ほど、男はその泉から気配を殺してここまで降りてきた。泉のすぐわきに常緑の大木があって、水面につきでた小枝のひとつに袍がかかって揺れているのを見たためだった。
 ・・・人がいる。衣からしておそらく少年だろう。
 さかんにぱしゃぱしゃと、魚が跳ねるような音がしていたから、水浴びの最中とみえた。なぜ年端もいかぬ少年が、こんな山奥の泉で水浴びをしているのかは不明だった。衣は一枚きり、水際の足跡は、男がそっと身をかがめて確かめたところ小さなものが一種類。つまり一人分しかなかった。
 大人の連れがいないとすると、まるで襲ってくれといわんばかりの軽装だ。まっとうな旅の者であれば、すぐ下にある大きな街で泊まることを選ぶだろう。
 水浴びの主は男のように、少々わけありな渡世をたしなむものなのかもしれなかった。
 派手な水しぶきがひときわ大きな弧を描いたとき、きらきらひかる水晶の破片とともに水面がさっくりと割れ、あたりへ飛び散るしずくの間にちらりと、見事な朱色の頭がのぞいた。
 それが頭髪であることを理解するのにちょっと間がかかった。紅葉を煮込んで練りあげた濃い紅は、男の目に切り傷のような残像を刻んだ。知らず知らず身をのりだして見ていたが、犬の身震いそっくりに朱頭がぶるぶると打ち振られ、つい、とこちらを振り返りそうな気配を感じると、なにやら得体の知れぬ焦燥感にかられるままにすぐその場を立ち去ったのだった。
 (なぜ逃げちまったんだ、俺は)
 男は己の行動が不可解だった。
 普段なら、水浴び中の相手は格好の盗みの標的となる。特に、好んで盗む対象とするのは年頃の娘だった。生まれたままの姿でいるところで衣を取られた娘は、たとえ盗賊に荷物を盗まれたとしもとっさに助けを求める叫び声をあげられない。救助にかけつけた人々に、体を見られることの方を恥ずかしがるからだ。これがやんちゃざかりの小僧だったり壮年のおかみさんだったりすると、そのままの姿でなりふりかまわず追いかけてきたりするのでひどく難儀だったが、花も恥らう娘さんはしおらしく、だいたいがそんな恐れがない。
 ただ、裕福な家庭の娘が沢でひとりで水浴びをすることはめったになく、たいていがそこらへんの農家の娘だったりするので、たとえ盗めたにしても路銀はたいした額ではない。が、相手を傷つける心配もなく、自分が捕まる心配もなく、楽に盗めるなら小額で十分だった。男は盗みはしても、刃傷沙汰はしない、という彼なりのちっぽけで硬い信念を持っていた。
 (もう一度泉のところへ行ってみよう)
 くるりと男は向き直った。
 己の職業を唾棄すべきものと嫌悪しているくせに、そこは妙なもので、信念ばかりでなく妙なプロ根性もあったりする。ここで逃げてはコソ泥の名折れ、まるで襲ってくれといわんばかりの状況を見逃すのは泥棒としてどうかと思う。あいにく獲物は娘ではなく少年のようだが、こんないりくんだ山奥だ。茂みにまぎれて逃げるのは造作もあるまい。ひとりうなづきながら、再度こっそりと、沢の横の獣道を上がっていった。
 水音はまだ続いていた。
 ぱしゃ、ぱしゃっと飛沫が賑やかに水面を叩く。水浴びというより単に水遊びを楽しんでいる様子だった。この寒空に物好きなことだ。
 男は身をかがめて丈の高い草に半ば隠れると、衣のかかっている木に近づいた。
 ゆらゆらと微風に揺れる短袴と袍、その下の曲がりくねった木の根と根の間に、雑嚢が無造作に置かれている。
 そっと、手を伸ばす。そっと、そうっと。
 指が袋の紐にふれた。よし、とわずかに気がゆるんだとたん、ふいにうなじがちりちりと、いっせいに毛ば立つのを感じた。
 とっさに飛び起きたが遅かった。喉元に冷たい鋼が触れる感触がする。ちくり、と喉が痛んだ。
 そういえば、ついさっきまでしていた水音がしない。
 いまさらながらゆるりと回転する己の思考回路が、視界いっぱいをおおう剣の鋭さに比べて、ひどくのんきで野暮ったく感じられる。
 「立て」
 凛、とした声が降ってきた。
 目をあげる。白銀の刃の根元を褐色の細い指が掴んでいるのが見える。そのさらに上には煌々と光る、少年の翡翠の玉のような瞳があった。
 ひどく綺麗な顔をしている。男なのがもったいないと、またぼんやりと思った。
 なめらかな丸みを帯びた頬は、しずくをまといつかせてしっとりと濡れている。こころもち反った可愛らしい鼻、ふっくらと柔らかそうながらも、きりりと勇ましく引き締まった口元。こちらをまっすぐに睨みつけてくる両の目は、紅色の睫毛の先に水滴を露のごとく灯し、思わず吸い込まれそうな色をたたえている。濡れそぼった朱色の滝が、形のよい頭部から首すじ、鎖骨に豊かにはりついて肌を覆っている。
 男は、首元を動かさぬように細心の注意を払いながら立ち上がった。それでも喉元にごくわずかに、生ぬるく垂れていくものがある。己の血だ。よほどの逸剣なのだろう、恐ろしいほど澄んだ切っ先がかすめるだけでも、さくりと表皮を切り裂くらしい。そこらのボンクラとはまるで違うのが素人にもわかる。
 いざ背をのばして完全に立ってみると、少年の頭はずいぶんと下方にあった。
 見下ろして男は愕然とした。
 (なっ・・・)
 朱色の髪が流れつく胸のあたりが、あろうことか、ふんわりとふくらんでいるではないか。
 髪と髪の隙間にちらりと垣間見えるのは、ほのかな桃色の頂。まごうかたなく乙女のものにちがいなく・・それは晩秋の水の冷たさにつん、ととがって色づいていた。
 男の声に思わず狼狽がこもった。
 「お、おまえ女か」
 「だけど?」
 だからなんだという風に、うっとうしげに眉をひそめられる。柄にもなくうろたえて、枝にかかった袍をとってやろうと手をのばすと、とたんに、
 「動くな!」
 ぴりりと怒鳴られた。しかたなく直立不動の姿勢にもどる。
 「逃げるわけじゃない。布で体をかくしてやろうと言ってるんだ」
 「いまさら何だ。さっきからずっと覗いてただろう」
 気づいていたのか、と改めてまじまじと少年・・いや、少女を眺めてみると、現金なもので、さきほどまで小僧に見えていたのが不思議なほどに今は女にしか見えなかった。
 きゅっとくびれた腰のあたりからむっちりと脂ののった腿の狭間のかげりまで、斜陽にあぶられて、ある部分は赤く、ある部分は黒々とした影を落としては、若い娘であることを主張していた。
 「おい落ち着けよ。俺はのぞいてたわけじゃないぞ、その、・・ただの泥棒だ」
 「・・なお悪いじゃないか」
 男の開き直り方がおかしかったのか、少女ははじめてくすっと笑った。
 ただそれだけで、ぴりぴりと痛いぐらいに張り詰めていたその場の空気がふっと緩む。
 「逃げるなよ」
 とあらかじめ釘を差しておいて、少女はゆっくりと剣先を下げていった。男はほうっと肩で安堵の吐息をついた。
 「やれやれ。助かった」
 「あのな」
 あきれたように少女は両手をひろげると、がしがしと無造作に髪をかきあげた。覆われていた両の乳房がむきだしなる。
 いきなり眼前にあらわれた、小ぶりだけれども形の良い小麦色の胸元に、男はぎょっと目を剥いた。あわててごつい手で隠してやろうとしたものの、指が触れる直前でふと己が何をしているのか気づき、熱した鍋にさわったかのように指をひらひさせてのけぞった。
 「お、おま、おまえ!いいか、ちょっとは恥じらいを持て、恥じらいを!」
 「なんでこう、こっちの人間はやたらと恥じらいばっかり大事にするんだろうな」
 ラクシュンにしろケイキにしろコーカンにしろ、みんなそろってなんなんだ恥じらいがどうのこうの・・・ブツブツとなにやらわけのわからないことを呟いている少女に、今度こそ着るものを掴み取って投げつけた。
 「着ろ!」
 男は吠えた。
 「服が濡れるのはいやだ。体が乾いたら着る」
 意にも介さず、少女は草地にむかって袍を投げ返すと、汚れるからそこの上に座れ、と仕草で示した。そうして自分は短袴を地面に敷いて、よっこらしょ、といいながら、こともあろうに胡坐をかいて座った・・全裸のままで。
 「・・・・・」
 広げられた腿の付け根に吸い寄せられてしまうのは雄の性である。いかんともしがたい。ならぬならぬと思いつつも、どうにもそこから目が離せない。
 なおも座れ座れと剣先を振られてやけくそになり、少女の真正面にどっかりと、鼻息荒く座り込んだ。
 なんで俺ばっかりがこんなにイライラしなくちゃならんのだ、と思いながら。この小娘はまるで涼しい顔をしていやがる。
 「で、水浴び覗き兼泥棒殿。あなたの名前は」
 「さてな」
 「年は。どこの生まれだ。慶か。いつからこんなことしてる」
 「うるさい。いっぺんに次々聞くな。それにな、俺は年長者だ。餓鬼の癖にえらそうにしてないでちっとは敬意を払ったらどうなんだ」
 荷を盗もうとしておいて敬意もへったくれもないもんだ、と我ながら苦笑した。しかし娘はまじめくさった顔つきでうなづいてみせた。
 「すまん。どうもこういう口調に慣れてしまったみたいだ」
 「いや・・・」
 調子が狂った。男は居心地悪く尻のあたりをもぞもぞさせたが、妙な気持ちだった。もとより娘の口調に傲慢なところなどさっぱりなかった。単に悔しまぎれの文句をつけてみたかっただけだったのだ。
 「・・・字は驟鱗。年が明ければ25。生まれは慶だが・・そうだな、あちこち点々としたから、里はどこだかおぼえとらんよ。コソ泥は12歳の頃からだ」
 なんでまあ、こんなに子供相手に素直にぺらぺらしゃべってるんだろう。相手は剣を持っているとはいえ年端もいかぬ未成年者で、当初の予定ではこっちの獲物だった小娘だ。
 (いつの間にやら完全に立場が逆転している)
 それだけ、目の前の素っ裸の少女には、ついつい大の男がうなづいてしまうほどの得体の知れぬ覇気が、香気のようにゆらゆらとたちのぼっていた。こうして対面で向かい合っていると、得体の知れぬ力が高潮のよいに波動となっては寄せては返し、男の方へとぐっと吹き付けてくる心地がする。
 「25?老けてるな。てっきり三十路半ばかと思った」
 「ほっとけ!」
 「いや。それだけ苦労したんだろうな」
 明るい碧玉にじっと覗き込まれて、男・・驟鱗は視線を泳がせた。人からまっすぐに見られることに慣れていないため、受け取り方がわからないのだった。
 「で、まさか泥棒家業は好きでやってるのか」
 「すきでもきらいでもない。渡世の手段のひとつだな」
 「いつまでもこんなことやってると碌な事にならんぞ。いまのうちに足を洗え」
 「簡単に言ってくれるじゃないか、お嬢ちゃんよ」
 驟鱗は唇をゆがめた。世間知らずで小生意気なだけの子供は大嫌いだった。
 「俺が生まれたのはな、まだ慶に今上帝がたってない頃のことだ。おまえぐらいの年だと知らんだろ。予王の頃の慶といったらほんとにひどかったんだ」
 そうか、と少女はうなづいた。何の表情も浮かんでいない。
 「あちこち妖魔だらけでな、誰がいつ食われてもおかしくない状態だった」
 「そうらしいな」
 「知ってるのか?」
 「慶じゃないけどね。傾きかけた国をうろついてる妖魔ならたくさん見た」
 さて、ということは、こいつはどこの生まれなんだろう。この娘の年で、妖魔が出ている国といったら・・さしづめ柳か。いや功か、戴か。
 「俺の両親は、はやり病でのたれ死んだらしい・・当時拾ってくれた人に聞いた話だから嘘かほんとかわからんが」
 「うん。で?」
 「で?」
 「それで、あなたが泥棒をすることに決めたのは、慶が荒れていたから仕方なかったということか?」
 「あたりまえだろう。仕方なかった」
 (いや・・違うな。そうじゃない)
 こっそり心の中で言ったつもりが、知らず知らず顔に出ていたらしい。少女が身をかがめてのぞきこんできた。
 「違うって顔してるぞ」
 「うっとおしい小娘だな!こっちに来るな、乳を寄せるな!」
 はいはいと案外あっさり身を引いてくれて、ちょっとほっとする。
 「ああ、まぁ・・そうさ、違うってな違う。俺は人に拾われて、荒れてはいてもちゃんと食わせてもらったから。学校にも行かせてもらったし、そこそこ優秀だったもんで、少学の推薦までもらえる予定だった」
 「すごいじゃないか」
 率直に感嘆の色をにじませた声音に、驟鱗は再び居心地の悪い思いを味わった。・・この娘はどうもさっきからちぐはぐすぎる。妙な威圧感があるかと思えば、若木のように素直でまっすぐだ。
 改めて考えてみると、昔の頃のことを思い出したのは、驟鱗にとっても実に久しぶりのことだった。現在の気楽だけれども空虚で投げやりな、どこか出所のわからない焦燥感を伴う毎日の中でも、かわらずに陽はのぼり、陽は沈む。そうしていつのまにやら日は過ぎていくのだ。
 あえて忘れたふりをしていた。幾重にも包んで箱にしまいこんでいたはずの懐かしい記憶の切片が、秋の夕暮れのひんやりした空気とともにぽろぽろと流れて、ひとたび零れ落ちたカケラは驟鱗の手を離れて、ひとりでに踊りだすようだった。
 「少学には行ったのか?」
 「行くのをやめた」
 「なんで」
 「ちょうど育ててくれた人が死んだんでな。ひきとってくれた時点ですでに老人だったから、ずいぶんな年になっていたんだと思う。里の人に一応葬式は出してもらえたけれど、ひどいもんだった」
 今と同じような晩秋の肌寒い日だった。当時の阿鼻叫喚のありさまが、ふとまぶたの裏に浮かぶ。
 (じいちゃん。寒かったろうな)
 養い親の入った甕は、麻の紐でがっちりくるまれて棒にぶらさがり、びょうびょうと吹きすさぶ寒風に揺れていた。胸にあばら骨が浮いた男二人にかつがれ、墓地のある窪地へと降りていく後ろを、少年は黙ってとぼとぼと追った。
 いましがた出てきたばかりの二人で住んでいたささやかば小屋からは、どこか調子の外れた歓声とともに、さかんにものを壊したり破ったりする音が響いている。
 老人は貧乏だったが、珍しい古書をたくさん持っていた・・それを、里の人間がよってたかってあさっている、その騒音だった。
 売ってなけなしの金にするならまだしも、大半は窯にくべて煮炊きの燃料とするためである。当時の慶では、本が有難がられて高値で売れることはほとんどなかった。食っていくことが優先の、そんなぎすぎすした生活があたりまえの時代で、古書がもったいながるという価値観は絶えてなかった。
 少年は老人の甕に最後の土の一握りがかけられるのを見届けると、着の身着のままで静かに里の門を出た。二度と背後を振り返ることなく、二度とそこには戻らなかった。街道に弱弱しい黄金色の薄日がさして、かつては綺麗に舗装されていた敷石の穴を黒々と見せていた。底冷えのする夕刻の風が、幹をゆする慟哭とともに少年の髪を巻き上げていった。
 もともと、老人と少年は流れ者としていついたよそ者だった。里は疲弊していた。病を治したり薬を作ったりして里人の面倒を見ていた老人がいなくなったいま、特に義理もない、なんの役にもたたぬ少年を受け入れてくれる余裕は、経済的にも精神的にも、この里には残っていなかった。
 「少々勉強が得意なだけのただの小生意気な坊主だったからな。里を出てからは、せいぜいが使い走りか、かっぱらいぐらいしかできなかった」
 (最初の盗みをしたのは、食べ物でなく本だったっけか)
 うん、と男は手を組み合わせる。視界の端に、娘の赤い髪がちらちらと、風に吹かれて揺れている。
 里を出てすっかりすすけた浮浪児となっていた驟鱗にとって、本は老人と暮らしたささやかながらも楽しかった日々を思い出させるものだった。胃を内側から食むような、きりきりする飢えを我慢してでも、とにかく店先のその本が欲しかった。たしかさびれた港に面した紀州の小さな町だった。少年は、本をひっつかむと路地裏に駆け込んだが、栄養失調の足ではすぐに追いつかれた。大人たちは日ごろの鬱憤をはらすかのように関係ないものも加わっては、よってたかって血を吐くまで殴られた。そのとき驟鱗は街路に這いつくばって誓ったのだった。俺はもう絶対に本なんて欲しがらない、盗むなら食うものだけを徹底してとってやる、そうしてなにがなんでも生き残ってやる、と。
 少年はいびつで硬い信念を持ったまま泥棒になった。
 盗まなくても食える余裕があるときでも、機会さえ見つかれば容赦なく盗んで逃げてをあえて繰り返した。相手は選ばなかった。子供から老人まで、あたたかく幸せそうに見える奴なら誰もが獲物だ。
 食べるもの、着るもの、金目のものだけを盗んだ。本は盗まない、人は殴らない、傷つけない、殺さない。
 ただ、騙した。ひどく冷徹に。
 いたいけな子供を演じては同情をひき、騙しては裏切った。いつしか、自分の心はそれを何も感じなくなっていた。
 「本はどうなった。それから読んでいないのか?」
 「・・あ?ああ、いや。捨ててあるものは遠慮なく読ませてもらったさ」
 男は夢からさめたように一瞬またたいたあと、おどけたように片目をつむった。
 「あの頃はけっこう捨ててあった。農家の薪置き場に、燃やすために積んであったりな。本を盗むのはやめたってだけだ」
 「ふぅん。やっぱり勉学が好きだったのだな」
 「そりゃそうだ。こう見えて神童といわれたりしたんだぞ。・・まぁ20歳すぎたらただの人、の口だったから今となっちゃなんとでもいえるが」
 ただの人、どころかただのコソ泥だ、と、またも苦笑が浮かぶ。思えば、ずいぶん投げやりな生き方をしてきたものだと思う。信念があった、必死だったといえば聞こえがいいが、ひどくごつごつと硬い。何も考えなくてすむよう、傷つかずにすむよう、単に青臭く拗ねていただけのような気がする。人の懐を狙って背をつける、そんなことしないですむ方法だって、あの当時でさえ、もしかしたら探せばあったかもしれない。
 (いまさら言っても仕方が無いか。・・・そうだ。孤児の保護法もできていたっけ)
 驟鱗の心中をそのままなぞるかのように、娘が言った。
 「たしか、孤児の保護令も始まったんじゃなかったか?」
 「そうだ。若い新王が立って・・今上の赤子さまだ。乱がひとつ終わったあたりだから、8、9年ぐらい前か。はじまったよ」
 「役所には届け出なかったのか?」
 「行くもんかい。どの面下げていけるかよ。その頃にはもうすっかりひねくれてたし、大人なんててんで信じちゃいなかったからな。役所なんかに行けば、いままでの盗みの罪でしょっぴかれるじゃないか」
 「・・そうか。そうだよな」
 ふぅ、と少女はため息をついた。だいぶ乾いてきたのだろう、ぱさりと落ちてきたひと房の髪をうっとおしそうに後ろへ放り上げる。また顔を出した乳房に細かな鳥肌が立っているのを見て、男もため息をついた。
 「そういう、自分から救済を求めない子供ってのは結構いるんだろうか。・・・ん?なんだ?」
 「おまえな。いちおう年頃なんだからちっとは護身しろ。世間ってのは、俺みたいな良心的な奴ばっかりじゃないぞ。襲われて傷つくのは女だからな」
 「いいんだ。女なんてとうに捨ててる。襲いたければ襲ってくれ」
 そっけない口調になにかひっかかるものを感じたが、重ねては問うことはしなかった。
 誰にだって踏み込んで欲しくない領域というものはあるということを、驟鱗は長い放浪生活の中で肌で知っていた。少女は愁眉を寄せてなにやら考え込んでいる。そして、勇ましい言動に似ず、少しためらうような口調で聞いた。
 「なあ。浮浪児って、今でもその・・多いんだろうか?」
 「いや・・一時のことを思えばずいぶん減ったんじゃないか?最近の役人どもはそれなりに有能で、里や街の隅々までよく目配りしてくれるようになってきたし。人身売買とかは裏でこっそりまだやられてたりはするけども・・ああいう裏社会ってのは、どこの国でも完全にはなくならないもんだろう。あの奏だってやってるぐらいだからな」
 「奏も?」
 「奏と、あと雁もだ。特に雁の色街なんて大賑わいだぞ。薬も子供も女郎も売買されてる」
 「・・・そうなのか?」
 「ああ、ただし、国の保護があるがな。そこが肝心だ。未成年なら、妓楼の雇主が学校に通えるよう手はずしないと罰則が科せられるし、妓女から転職する気があるならいったん保護した上で自立支援施設に入所させてくれるそうだ。上からの締め付けがすぎると民の反動が強い。それを抑えるために、最低限の悪はあえて合法化しちまう。大国ならではの知恵だな」
 「薬もか」
 「常習性・依存性の少ない、軽いもんだけは公に商店で売ってる。葉巻とか、幻覚きのことかの類だな。それ以上キツイのとなると、法律で厳格に規制されている」
 頭をぶるぶるっと振ると、娘はまっすぐに驟鱗を見上げた。しだいに明度を下げて薄墨色に沈んでいく林の中で、碧の目だけが野性の獣のそれのように、らんらんと光りを灯している。
 「・・それでも、」
 「ん?」
 「それでも、孤児になって心細くない子供はいないだろう。体を売って、哀しくない女もいないだろう」
 「あたりまえだ。世の中そういうもんだろ。気になっちまうってんなら、やっぱり甘ちゃんなんだよ、おまえ」
 「甘いかな。でも、そういうのを全部、・・甘いかもしれないけれど、私は、できたらなくしたいと思う」
 「なくしたいのか」
 「ああ。綺麗ごとだと思うか」
 「誰かがなくしてくれればいいっていうんじゃなくて、なくしたい、か。変な奴だな」
 「あ、そっか。うん。なくしてくれればいいな」
 「どっちなんだ」
 「どっちでもいいじゃないか」
 「・・まあ、いいけどさ」
 驟鱗の心に、新しい疑念がむくむくと、傘を広げたキノコのようにわいてくる。
 (どうも、やっぱり・・・おかしい。この娘、いったい何者だ?)
 少女は、どこか己と同じ強い孤独の匂いがした。同類であることはわかる。しかし、どこの職業階級に属しているのか判然としかねる。目線は役人のそれ近いようだが、それにしてはどうもいまひとつ微妙にずれている気がするし、だいたいが役人にしては若すぎた。おそらく農民でも商人でもないだろう、とすると・・なんだ。
 「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。今いくつだ。俺は言ったんだからおまえも教えろよ」
 「陽子だ。年は忘れた」
 「また妙な名前だな」
 「海客なんだ」
 「へぇ」
 なるほどね、それでこの違和感か、と半ば納得しつつも、なにかそれだけではないような気が、漠然とした。
 「驟鱗はさ。これからどうしたい」
 「どう、とは」
 「私はあなたを役人に突き出す気はない」
 「そりゃありがたいね。恩にきるぜ、お嬢ちゃん。飴でもやろうか」
 「ちゃかすな。あなたは、これからもずっと泥棒を続けて、こんな風にあちこちさまよって暮らしていくつもりか?」
 「・・まぁな。俺は泥棒でしか、金をかせぐ方法をしらん。仕方ないだろう」
 「いや。仕方なくないだろう」
 翡翠がきりきりと音がしそうなぐらいとんがった。不快ではない鋭さだ。心の臓に刺さってじんわりと沁み入る心地がする。葬式が終わって里を出たときに見た、あの割れた石畳の道をふいに思い出した。
 (夕陽に染まって、まるで血を撒いたあとのように見えた。綺麗な四角い石だったのに、あちこちがかけてボロボロだった)
 あの破壊されたボロボロの道を歩き出す前に、仕方なくないよ、と言ってひきとめてくれる大人が里にひとりでもいたら。俺の心にささっていた、嫌な棘を抜いてくれる人がいたら。もしかして自分のいま、この山奥で野宿なぞやっていなかったのではないだろうか。
 陽子は続けた言葉に、驟鱗は文字通り目を剥いた。
 「また勉学を、してみたくはないか驟鱗」
 「いまさら、この年でか?」
 「あなたは優秀なんだろう?」
 「昔の話だ」
 唐突に、凶暴な怒りのかたまりが腹の底から湧いてきて、全身を瞬時につらぬいた。真っ黒いものがいやらしく喉元でとぐろを巻きはじめる。いけない、と思った時にはもう、叫んでいた。
 「うるせぇよ!おまえにいったいなにがわかる!」
 驟鱗は陽子の肩を乱暴に鷲掴むと、力任せに草地へ押し倒した。つかんだ肩は驚くほど薄く華奢で、硝子細工のようなすべすべと滑らかな手触りがした。
 娘は抵抗しなかった。ちらりと横を向くと誰にともなく、なにかを制止するような調子で二言三言呟いた。怯える様子はないものの、なだらかな胸から腹にかけて、さっと一面に鳥肌がたっていた。組みしかれたかっこうのまま、静かに男を見上げてくる小作りな顔を睨んでいるうちに、ふいに視界が滲んで画像が揺れた。
 (いまさら勉学なんかしてどうなる)
 こんな小娘にいったい何がわかるというのか。失われた時間はとりもどせっこないのだ。人生に後戻りなんてきかない。もうこんなに汚れてしまった、罪を重ねてしまった、自堕落になってしまった、もう取り返しなんてつかないのだ、と驟鱗は思った。
 「泣くなよ。いい大人が」
 冷えた指先に目元をぬぐわれて、はじめて自分が泣いていることに気づいた。ぽたり、としずくが娘の褐色の肌に落ちる。
 「・・おれ、は、・・俺は・・」
 「つらかったんだな」
 「あ・・」
 ぽたぽたと幾筋もの雨粒がしたたって、褐色の海にのまれていくのが、ぼやけた視界にうつっている。
 「私は当事者じゃないから、あなたのつらさは半分もわからない。でもいままでの分をとりかえす権利が、あなたにはある。それだけはわかる」
 なめらかな掌に頬を包まれると、じんわりと熱が伝わってきた。頬全体を包むほどの大きさはなく、指先は冷たくても、ひどく温かな手のひらだった。
 陽光のような、という形容が自然と頭に浮かんでくる。なるほど、陽子がつくはずだ、と男は思った。本名か字か知らないけれど。
 やさしくてどこか懐かしい。天上でゆるぎなく輝いている太陽の、吹き上げた熱がひとしずく頬にしたたり落ちたかのようだった。
 「抱きたければ抱いてもいいぞ。骨と皮ばっかりでつまんないだろうが」
 いたずらっぽく笑う顔に、冗談でも男相手に、こんな状況でそんなこと言うのはやめろ、と言ってやりたかったが、あいにくと嗚咽が漏れそうになって喉が詰まり、声が出なかった。かわりに、娘の手を頬からはずすと、草の上の体をできるかぎりそっと抱き起こし、朱髪ついた草葉をはらってやった。
 じんじんと目もとがうずいている。しぶとく涙を吐き出したがっている困ったまぶたを袖でごしごしとこすった。
 「・・悪かった」
 「いや」
 娘は身軽に立ち上がると放り出したままになっていた雑嚢を持って来た。
 手を突っ込んでごそごそなにやらあさっていたが、やがて鮮やかな緑と金の絹糸で巻かれた丸いものをとりだすと、驟鱗の手に握らせた。水晶玉だった。
 「なんだ?」
 「もし、本当に勉強する気になったなら、これを持って尭天の役所へ行け。で、大学の入試を受けたいと言ってみろ」
 「これは何だ」
 「ただの水晶玉だが、いいか、途中で換金したりするなよ。その玉のまま役人にわたすんだ。推薦状のかわりぐらいにはなる」
 大学の入試を受けるには普通、少学の教師の推薦が必要だったが、受かるかどうかは別として、それなりの地位の者のコネがあれば受験資格を得ること自体はさほど難しいことではない。しかし、素っ裸で粗末な雑嚢をかかえ、男の前だというのに胡坐をかいて座りこんだりするこの小娘が、いったいどんな地位にあるのか疑問だった。胸が再びざわついた。
 「・・・陽子といったか。おまえ、仕事は何してる」
 「下女みたいなものだ。でもまぁ、そうだな、上の方の知り合いがいるにはいる。そいつはけっこうお偉いさんで・・・ちょっと怖いけど。その玉はそいつにもらった。だから、ほら、こうして」
 娘は、さっき驟鱗の喉元につきつけた見事な剣で顔の横の髪をひと房、するりと切りとると、水晶玉に巻かれた糸にからめて、可愛らしくちょうちょ結びをした。
 「これできっとわかるだろう。うん」
 「・・・・・」
「ただ、試験に受かるかどうかは驟鱗次第だぞ」
 「そりゃそうだろうが・・・」
 うんうん、と満足そうに娘は微笑んだ。水晶玉はさほど大きくはないのに、やけにずっしりと掌に重い。冷たいはずの表面はどこか生あたたかく、じっとのせていると、どく、どくとかすかに脈動しているようにも思える。もしかすると、ただの水晶じゃないのかもしれない。呪がかかった玉は、内に含んだ呪の文字数だけその重量を増すときく。
 呪を扱える場に暮らしているとなると、・・やはり、この娘は雲海の上に住まう仙なのかもしれなかった。宮中の下女か。
 (だとしたら、実際のところの年齢はいくつなのだろう)
 ゆるやかな湾曲の、あどけない口元が動くのをじっと見つめた。綺麗な唇だ、と突然に思った。
 「大学で、驟鱗は何を学びたい。何に興味がある」
 「さて。今となっちゃあな」
 男はしばし考え込んだあげく、ぽつっと呟いた。
 「あえて言えば・・」
 「いえば?」
 「語学、かな」 
 「語学?」
陽子は首をかしげた。
 「私は海客だからよくわからんが、こちらは言語はどこも共通なんだろう?」
 「ああ。だが、同じ中にもやっぱりこまかな差異があるんだよ」
 慶の各地を点々とするうち、南の方と北の方では微妙に風習も違っていれば、そこで話されている言葉もすこしばかり違っていることに気がついたのは、14歳かそこらだっただろうか。泥棒家業で大切なのは、その土地で生まれ育った住人のように背景にうまく溶け込むことであった。明らかによそ者然と浮いてしまっては、人ごみにまぎれてこっそり財布を掏り取るなんてことは到底できないからだ。
 新しい土地へ移動するたび、驟鱗はまず昼はその街の大通りに面した大衆食堂へ入り浸り、夜は裏通りのひなびた居酒屋を根城にして、徹底して、土着の者の言い回しやイントネーションを頭に叩き込んだ。それからようやく仕事へとりかかるのだ。
 「あちこち回っているうちに、その土地土地で話されてる言葉が違うのが面白いなと思った。国や地域ごとに特色があるのはもちろんだが、東と西ではもちろん、寒冷地・温暖地と気候によっても違うんだ。季節によって同じ言葉を違う語に置き換える地方だってあるし、語尾につける修飾句も微妙にちがう。独特の言い回しとか、聞きなれない単語があったりさまざまだ。国は違えど共通の職業者だけに使われる隠語もある」
 「へぇ」
 純粋な興味の色を浮かべて、無邪気に瞬く瞳に苦笑する。
 「面白いか?こんなの」
 「面白い。言葉の流れをたどることは、その国の歴史をたどるのと同じことだと、そういえば師がおっしゃっていたのを聞いたことがある。そういう各地の違いをいろいろとり集めて比較した文献を是非読んでみたい」
 ぱちんと手をあわせると、そうだ、と、さもいい案を思いついたといわんばかりに、娘はいたずらっぽく覗き込んできた。
 「驟鱗、やってみないか。語学の本だよ、書いてみてくれ」
 今度は驟鱗が瞳を瞬かせる番だった。
 「馬鹿。俺なんかに書けるわけないだろう」
 学者へ頼めよ、と言い捨てると、小さな手がするするとのびてきて、今度は頬ではなくしっかりと男の腕を掴んだ。
 さっきまで泉の雫にぬれそぼっていた二の腕は、いつの間にやらさらりと乾いてすっかり冷えていた。
 指の一本一本が、夕暮れ時の淡い陽光とともに、男の皮膚をすりぬけ、骨まで響いてくる気がする。
 言い聞かせるように陽子は言う。
 「あなたが学者になるんだ。いいから大学へ行け、驟鱗。何年かかってもいいからとにかく受かるんだ。無事に卒業できたら、図書府へすすんで語学博士をめざす」
 きゅ、と片目をつぶってみせる。
 「・・ってのでどうだ?」
 「人の人生に、勝手に壮大な図面を敷かんでくれ」
 「とりあえず泥棒稼業は廃業できるじゃないか。あ、覗きもだったな。はい決まり」
 「おい」
 くすくす笑うと、娘は朱髪をひるがえしてさっと男から飛びのいた。敏捷な山猫のような、かげろうの羽のような、体重をまったく感じさせない動きだった。
 「言葉の違いをたどった道筋は、そのまま、あなたの放浪してきた長い旅の記録ともなるんだろう?だから読んでみたいんだ」
 驟鱗は声を失う。ただ、夕陽の最後の名残をまとって赤い影法師となっている娘を見つめた。
 「私に教えてくれないか。浮浪児を生き抜いてきた、あなたのとおってきた道を。それはかつての慶のたどった、忘れてはならない大切な歴史でもあるのだから」
 気づけば、草陰から降るように虫の音が響き始めている。夕刻のはじまりだ。
 緋の色はすでにはるか遠くにかすむ黒々とした山の端へと流れ落ち、頭上いっぱいに凛々と紺青の大気を呼び寄せながら、半ば溶解した卵の黄身のように形をゆがめて、燃え残った太陽の後れ毛をなびかせるだけとなっていた。
 娘は、黒い森を背景に両足を踏みしめて立っていた。
 全身を弱いとろ火にまかれ、なまめかしい輪郭が琥珀色に浮きあがっている。ほのかに発光する女体は、普段は秘められているべきあらゆる部分が微細な箇所までくっきりときわだっている。髪の渓流は肩にせきとめられて左右に分かれ、涼やかにさらさらと流れくだり、翡翠の飛び石がひときわ強い輝きを放っている。唇は水面に浮かぶひとひらの花弁のようだ。なだらかな乳のふくらみとその頂上に陰影を刻む鴇色の飾り。なだらかな腹部をたどると、臍の小さな窪みにいたる。さらに過ぎてあらわれるけぶるような茂み、ゆるやかに開かれた腿と硬い膝頭、ひきしまった脚部へと続く絶妙な曲線のすべて。まるで琴の虚のように、互いの部分が反響して重なり合い、美しさという流麗な曲を奏でているようにも、女神のという名の一幅の絵を描いているようでもあった。
 この世をつくった天という存在を、男は今まで辟易しこそすれ、尊いものとしてあがめたことなどなかった。天は男に試練を与えるばかりで、なにひとつ喜びなど恵んではくれなかった。天の条理に組み込まれない、社会から外れた泥棒という最低な仕事で食いつないだ根底に、天への反発心がひそんでいなかったといえば嘘になる。
 しかし、この娘のかもし出す絶対的な美を前にしては、そのような建前や反骨心や子供っぽい意地など、あっさりと崩れ去ってしまう。風に吹きちらされた海辺の砂のように。
 自分は今、天の創造の神秘と、運命という糸の織り成す不可思議な布地に包まれている。
 そう、確かに感じた。
 (この娘は、いったい何だ)
 少女の形をしてはいるが、その背後には延々と、底知れぬ広大な時空が無限大に広がっている。蒼く澄んでいるようで、どこかほの暗い、世界の果てまで続く空間をいともたやすく、小さな体いっぱいに内包している娘。仰ぎ見て、自らの矮小さにおののかない人間は、きっといないだろう。
 (尭天か)
 行ってみようか。
 ささくれた驟鱗の心に、はじめてそんな気持ちが芽吹いて、ひりりと沁みた。
 かさついた心身が、希望という真新しい泉の水を吸い込んでひたひたと重く湿りはじめている。
 己の道を変えられるだろうか。割れた石畳をひとりで歩き始めたあの日から、自分はあちこちをさまよい、いろんなものを失くして生きてきた。失くしたとばかり思っていた道でみつけたものを、この娘は無駄ではなかったと、自らの力で価値のあるものに変えてみせよと言ってくれる。
 本当にそうだろうか。自分にできるだろうか。
 (もしそうだとしたら、・・そうだ)
 大学を受ける資格を得られるのかどうか、賭けてみるのもいいかもしれない。この水晶玉を持って、そうして割れた石畳を逆にたどる旅に出るのだ。
 「決心はついたか、驟鱗」
 草地に敷いた袍を拾って屑を払いながら、陽子が聞いた。
 まばゆいばかりの女神の体が粗末な布地にすっかり覆われてしまうのを見届けて、驟鱗はためらいながらもうなづいた。
 「ついた。この水晶玉を使わせてもらおう」
 「ああそれがいい」
 「礼は言わん。いいか、これはれっきとした取引だ。おまえが読みたいとかいってる本、そいつは俺が書いてやる。だからこの玉は、本の前払いの代金ってことにしておこう。納めておいてやるからありがたく思え」
 「いい根性してるじゃないか」
 「あたりまえだ。こう見えて生き残った浮浪児だからな」
 一瞬目をみはってからぱっと破顔した陽子は、大輪の緋牡丹がほころんだかのようだった。
 うんうん、と一人でうなづくと雑嚢を肩にかけ、面倒くさそうに髪をひと振りすると、じゃあ、と手をあげたのを見て男は慌てて止めた。
 陽も落ちたし、私はそろそろ行かなくちゃ、と娘はいともあっさり言い放った。
 「どこに行くつもりだ。これから行たって街の大門はさっき締まっちまったぞ」
 「うん知ってる。野宿もいいんだけど、そうすると後がややこしいから。今日のところはひとまず帰るよ」
 「帰るって、だからどこまで」
 「内緒」
 「待てよおい」
 「入試、頑張ってくれ。驟鱗はむっつりしてて執念深そうだからな。ねちねち勉強したら受かるよ、きっと」
 「待てったら」
 しゅるりと腰紐を解くと、ひんやりした秋風が腹部に流れ込んできた。陽が落ちるとやはり空気が急に冷める。軽くねじって紐を細めると、朱髪をつかんでざっと束ねてやった。毛の量が豊かなせいか中の方がまだ湿っていて、ずっと放っておいたからだろう、芯がかなり冷たくなっていた。
 「さっきも言ったが、おまえは一応女なんだ。濡れたまま放っておいたらバサバサになっちまうぞ。風邪引きこんでもしらん」
 「ありがとう。でも大丈夫、慣れてるよ」
 すっきりまとまった襟元を照れくさそうになでると、もう一度男にありがとうと礼をいい、娘は再び手をあげた。それでも、歩き出した背をなんだか無性に引き止めたくて、驟鱗は続けた。
 「おまえ、あれを忘れるな」
 「あれ?」
 「浮浪児や花娘のこと。気にしてただろう。俺は甘いなんて言ったが、たしかに雁や奏のやってることだけが正しいとは限らんかもしれん」
 困惑したように眉をひそめる顔が年相応に頼りない。
 「おまえの甘ちゃんな理想も、案外悪くないかもしれん。なんかいい方法があるだろう、頭をひねって考え出してみろ。・・ってこの水晶玉くれた知り合いとかに言ってみろ。そいつはお偉いさんなんだろ。大国の猿真似ばかりをする必要はない。慶はまだまだ復興途中だが逆に言えばそれだけに、なんでも新しく作りなおす余地があるってことでもある。慶らしいやり方が、きっとあるはずだ」
 「そうだろうか」
 「そうとも、お嬢ちゃん」
 「陽子だ」
 陽子さんとやら、と驟鱗はにやりと笑った。それからな。
 「俺に押し倒されて体中いっぱいに鳥肌をたててるうちはまだまだだ。女を捨てたつもりらしいが、おまえは十分に女だよ」
 「なっ・・」
 「忘れるな。次からはちゃんと用心して、男の前では服を着ることだな」
 「馬鹿!」
 罵声と共に投げつけられた少しつぶれた柿の実を、驟鱗はゲラゲラ笑って、ひょいと首をふってよけた。
 おまえなんか大学に落ちてしまえと叫ぶ陽子の顔は、熟した柿の実に負けるとも劣らず真っ赤になっていた。
 「じゃあな!」
 鼻息荒くどすどすと歩み去っていく華奢な後姿はやがて、黒い針金を細かく編んだような梢の重なりに紛れて、溶けるように闇に消えていった。
 「元気でな!」
 遠くの方でかすかに、凛とした声が怒った調子で怒鳴るのが聞こえた。驟鱗は見えぬとわかっていながら、その方向へ大きく手を振った。
 虫の音の合唱にひときわ高くなった心地がする。深深と闇が落ちてきて、泉の魚だろうか、なにかがぽちゃんと跳ねた残響が耳にざらついた。と、次の瞬間だった。
 ざざざっと梢がいっせいにざわめき、何か真っ黒い巨大な影がひらりと、銀の星がまたたきはじめた宵闇へと飛び上がっていった。鋭い牙の影、とがった耳、硬く長いふさふさした尾。たくましく躍動する背に、誰かがまたがっていた。獣に半ば同化していてよく見えないが、後ろでひとつにくくった毛の束が、風にあおられて鞭のようにしなった。人獣は瞬く間に、今はもう、空を噛む漆黒の影となった山々の彼方へと消えていった。
 「妖魔・・?」
 あっけにとられて、口がぽかんと開いた。まさかと思いつつも、どう見てもあれは妖魔だと断言できる自分がいる。末期を迎えた王朝の荒廃の中で、いやと言うほどやつらの跳梁・跋扈の影で命をつないできたのだから。
 (妖魔に騎乗する娘)
 それが何を意味するのか、おぼろげながらも、わかったような気がした。そして知らない振りをすることにした。
 世の中、知るのに時期がはやすぎる事というものはあるのだ。今はまだはやいだろう。まずは尭天に行くのが先だった。それからでも、すべてはきっと遅くないことだろう。
 さっき娘が衣をつるしていた木の根元に、寝袋を敷いて野宿の支度をしながら、やがてのぼった切り取った爪の先ほどの月に照らしだされた山の端を・・娘の去った方角を、驟鱗はいつまでも眺めていた。

☆  ☆  ☆

 「主上、浩瀚にございます。・・・ご無礼を。読書中であられましたか」
 遅い午後のひととき、冢宰が王の執務室を訪れると、慶の誇るかの朱色の女王は窓辺に肘をついて本を読んでいた。若葉色の表紙に泉の絵が描いてある。ずっしりと重そうな、分厚い本だった。
 窓からは初夏の薫風がさわやかに流れ込んできては、庭でほころび始めた花の香りと共に、卓上の墨汁の匂いも道連れにして、ふっくらと結い上げた主のうなじの後れ毛を、ゆるゆるとそよがせていた。
 陽子は翡翠色の目を上げた。薫風にそっと色つけたらこんな色になるだろう、と冢宰は心中ひそかにその双玉を愛でた。
 「かまわない、昨晩ぜんぶ読んでしまった本だから。御璽か?」
 「はい。春先の灌漑水路の件でございます。・・・あれほど徹夜はおやめくださいと申し上げましたのに」
 「まあまあ硬いこと言わずに。見せてくれ」
 ぺろりと舌を出しつつ地図と巻物を受け取ると、おだやかに目をはしらせる。たちまち要点だけを器用にすくいあげて鋭い質問をぽんぽんと投げてよこす、その的確さと簡潔さに浩瀚は内心舌を巻いた。
 ほんとうにこのお方は頼もしくなられた、と思う。開朝当時のころは、字と字を比べて同異を判別することにさえ頭をかかえて煩悶していた女王は、長年のたゆみない努力を実らせた結果、いまでは難解な書物もいともたやすくバリバリと食べてしまうまでに成長していた。今、手元に持っている本もそのひとつだ。
 「よし。これでいいかな」
 押した御璽の濡れた朱にふぅふぅと息を吹きかけながら手渡すと、恐れながら、ともう一枚書類を渡された。
 「こちらはご確認までで結構でございます。お目通しを」
 「なんだ?」
 「孤児の保護施設と、妓女の養成施設のことでございます。児童の方は、夏至祭を過ぎた頃合に無事に第一期の卒業生たちが巣立つようです。妓女の顔見世は、それぞれに楼の生活に慣れたあたり、およそその一月後あたりになるかと」
 「ああ!」
 陽子の目に喜色が浮かぶ。粋な薄桃色の半紙と、そこにしたためられたそれぞれの施設長をつとめる女傑と巨漢の、顔に似合わぬ瀟洒な筆跡を追った。
 あれからもう十年もたったか、と浩瀚は感慨にふけった。

 慶において、児童の遺棄および花娘の色街への人身売買は許さぬ、と女王が宣言したあの日の朝議は、まさに夏の終わりに吹く野分のごとく、荒れに荒れた。いまだ荒廃の名残をとどめて極端に子供と女性が少ない市井はもちろん、少しずつ体裁を整えはじめた宮を支える官吏のほとんども男性が占めていたあの当時のこと、それはあまりに荒唐無稽な子供の繰言のように響いたのだった。物を知らぬ胎果はこれだから困る、そんな予算を割く余裕は今の慶にはない、もっと他に優先すべきことがあると、わんわんと音が反響する大講堂で、声高に嘲笑する官吏も少なからずいた。そんな輩を壇上から見渡して、落ち着け野郎ども、と女王はぞんざいに言ってのけたのだった。度肝を抜かれた官吏たちはしん、と水を打ったように静まり返った。
 「子は国の宝だ。それ以上の優先事項はない。あって良いはずがない。親を失った子供は国が責任をもって保護し、最低限の生活と、本人の技量に応じた教育を受けさせ、成人するまで責任を持つ。保護者を失ったことにより盗み・強盗など犯罪に手を染めた者は、いったん更正施設に収容し、再度やり直す機会を与えることとする。勅命だ」
 それからな、と女王は続けた。
 「妓楼を廃止するとは言っておらんから安心しろ。本人の意思に反する女や子供の売買をやめるといっているんだ。妓楼がこの世に必要だというならば、それはそれでよかろうよ。なればこそ、妓女は専門職としての資格、つまり歌舞の芸、および話術を磨いた者のみとする。・・もちろん芸といえば、あっちの方も忘れてはおらん。夜の寝技の芸も含めて研鑽する」
 少女がけろりと言い放ったとんでもない単語に凍りつく人頭の群れ。無表情には定評のある浩瀚ですら、こみあげる笑いを抑えるために思わず書類で口元を隠したほどだ。かろうじて顔かたちを崩さなかったのは、面をかぶっているのではないかとひそかに側近たちにさえ疑われている鉄面皮・景麒のみであったが、その台輔ですら血の気が失せて蒼白となっていた。
 「よって、児童の保護施設と、妓女の専門学校を作ることにする。慶において、孤児はもはや己の将来を悲観する必要はなく、妓女は意味なく軽蔑されることはない。浮浪児の中からはきっと骨のある優秀な人材が多数生まれてくれるだろうし、容色を売るよりも技芸を売る方を主たる目的とすれば、妓女になりたいという志望者はかならずいると思う。予算は、なに、優秀な諸君のことだ。なんとしてでもひねり出してくれるだろう?」
 まだあるぞ、と女王は嬉しそうににやりと笑い、微動だにしない官吏たちを見渡した。
 「男に妓女が必要だそうだが、これは小娘である私には大変勉強になったので礼を言う。ということは優秀なだけでなく賢明でもある諸君は、逆もまたしかりであるはずだと思うだろう。そのとおり。ゆくゆく慶では、女人も誰はばからることなく遊べる夜の街を作るぞ。女性を喜ばせるための奉仕する男の専門職を養成する」
 もはや口のきけぬ態の男達を尻目に、だがまあ一応商売だからこっちは女性人口がもう少し増えてから、まずは子供の教育と、妓女の学校が先だ、と陽子は手にした扇を振った。それからかたわらの浩瀚を見上げた。
 「冢宰。一任してかまわないか?」
 「かしこまりまして」
 浩瀚はまだ書類で口元を隠しながらも、うやうやしく拱手してみせる。
 「次の議までにさっそくに予算を割いてくれ。頼んだ。うまくやってくれることを期待している」
 「鋭意つとめさせていただきまする」
 そうして、野分のようだったあの朝議は、放心状態の官吏たちの群れを床上に累々と転がしたまま、すっと御簾が降り、終わった。

 あれから幾度も新しい季節が訪れては去り、去ってはまた訪れた。
 かたわらの主と共に新年の祝鐘の音を聞くのも今年で十回を数える。慶は少しずつ、だが確実に変わっていった。
 「すごいな。やったな。ありがとう」
 ほぅ、とため息をついて、陽子はうっとりと肘をついてあごを乗せた。
 「なぁ。妓女達の顔見世の晩なんだけどさ、その・・なんだ。ちょっとだけのぞきに行」
 「なりません」
 「そんなに即座に否定しなくてもいいだろう!」
 「どうせ男の客を装って行かれるのでしょう。ご許可申し上げられません」
 「ケチんぼ浩瀚め!」
 「不思議なことに、主上に賜ります名であれば、どんなものでも拙めには楽の音に響きまする」
 浩瀚はすました顔で、さらりと、流れるように優美な仕草で部屋の入り口を指差した。
 「妓女の顔見世のお話はそれぐらいに。さて、徹夜なさるほどお気に召したそのご本の作者を、向こうの間に控えさせておりますが、いかがいたしましょう。主上には、目通りを許されますか、それともまたになさいますか?」
 「なっ・・・」
 それを早く言え!と、椅子を蹴倒す勢いで、たちまち脱兎のごとく控えの間に飛んでいった女王の後を、くすくす笑いながら、浩瀚もゆっくりと続いた。
 衝立の陰には、三十台半ばほどに見える青髪の男がうやうやしく拱手して立っていた。すらりとした体つきに簡素な紺の官服をぴったりと着こなし、腰に巻かれた帯紐には、分不相応にもみえる立派な水晶玉がきらきらと光を放っていた。
 「拝謁をお許しいただき、恐悦至極に存じます」
 「・・驟鱗、か?さあ顔をあげてくれ。私に見せてくれ」
 「御意」
 水晶玉と同じほどの透明度を持つ、きらきらした杏色の瞳が、一度わずかに伏せられたのちにきゅっとあがってまっすぐに陽子に向けられた。
 「なんだ、ほとんど変わってないじゃないか」
 「ありがたいことに、あまり老け込まぬ体質であったようでして」
 「なるほどな」
 ぷっと軽く吹き出して、口元をおさえる。
 そうして改めて頭のてっぺんからつま先まで男を眺めてみると、驚くほどにあの頃のままだった。
 薄暗く沈んだ夕暮れの泉の情景が、いまここにあるかのように、まざまざとまぶたの裏に浮かんでくる。さらさらと流れ落ちる滝の音、秋を盛りに鳴き交わしていたあの虫の音も、今にも聞こえてきそうだ。
 「約束の本をありがとう。たいそう面白かった」
 「ありがたいお言葉を賜り恐縮でございます。さっそくにもうお読みくださったとは。望外の幸せにございます」
 「そりゃあ代金前払いだったもの、読むさ。元とらないと。これこれ」
 陽子が水晶玉をつつくと、背後で浩瀚がため息をつくのが聞こえた。
 「主上より、台輔が冬官に作らせた魔よけの護符玉を、あっさりとどこの馬の骨とも知らぬ泥棒に下賜したと聞き及びましたときは、さすがにめまいがする心地がしたものですが」
 拙の心の臓は硝子細工でございますゆえ、とわざとらしく眉間を押さえる。
 「さらに、大学受験の受付場に、赤い御髪が結びつけらたこの玉を持参した浮浪者がいる、という報告をもらったときには、それこそ倒れんばかりでございました」
 「嘘だぞ、驟鱗。倒れるどころか、こいつはまったくピンピンしてて、すかさず特大の雷を落としてきたんだからな」
 「主上を大切なお方とあおげばこそ、臣のつとめにございます。あまりにたやすく人を信じるには、いささか危険すぎる時代でございましたゆえ」
 だそうだ、と陽子が肩をすくめるのに、恐れながら、と驟鱗は返した。
 「倒れんばかりと申せば、拙めも同じ思いを味わいました。あの泉で水浴びをしていた赤髪の娘が、我らが景女王そのお人であると知りました時は、口から心の臓が飛び出す心地がいたしたものでございます」
 まったく、硝子細工だったり、口から飛び出してみたり、おまえたちの心の臓ときたらそろいもそろって難儀なものばかりだ、と女王ははしたなくあっかんべをしてみせる。
 今では期待の語学博士として図書府の官吏となった男を、陽子はあっかんべをしたまま嬉しげに見やった。さきほど、ほとんど変わってないと言いはしたが、実は内心ではずいぶん変わったと思っていた。外見ではなく、身にまとう雰囲気が、だ。
 どこか虚無の穴をかかえて木の根元にかがんでいた青年。雑嚢に手をのばすところを、賊に気づいた班渠の注進を聞き、泉にもぐりながらもじっと見つめていた。必死に手をのばすその姿は、ただの雑嚢を盗ろうとするためだけでは、決してないように思えた。あの切実な手の指先が何を掴むのか、見てみたいと思った。
 そうして今、彼は自分の足でここに立っている。
 「どうだ、図書府は。もう慣れたか?」
 「は、至らぬ新人であるにもかかわらず、みなさまよくしてくださいますゆえに鋭意努めさせていただいております。まだご迷惑をかけることの方が多くございますのが心苦しい限りですが、しかし、仕事自体はとても面白く興味深いものばかりで、・・はい、ひとたび没頭すれば時を忘れてしまいます。・・ついでながら、私事で恐縮ではございますが、先の冬に、愚妻との間に最初の子も生まれまして。今では一家三人、幸せに暮らしております」
 「それはおめでとう!」
 心から笑んだ女王の、その花開くような艶やかなかんばせは、あの日、泉のほとりで破顔してみせた娘のおもかげをそのままに残していた。
 驟鱗はいささか真面目くさった顔つきになった。
 「そうそう、困ったことがひとつだけございます」
 「なんだ?なんでも言ってくれ」
 「いえ、たいしたことではございませぬ。実は、生まれたのは女の子なのですが、生後11ヶ月にしてすでにお転婆でやんちゃで手に負えませぬ。ご無礼を承知で申し上げれば、どうもこれは、髪が赤いせいもあるのではないかと、ふと最近、妻と話しておりまして」
 「赤い髪なのか」
 「は。先日も、妻の手をかいくぐって這い回り、あげくに全裸で胡坐をかいておりました。・・慌てて取り押さえましたが」
 「・・えっ、いや、それはその」
 「困ったことでございます。このまま成長しても、誰の前でもあのように胡坐をかくことかと思いますと、男親としましてはめまいがするような心地になりまする」
 「そ、そうか。困ったことだな、ああ驟鱗!」
 いいか、それ以上言うなよ、絶対内緒にしとけよ、と口だけでぱくぱくと伝えてくる少女の必死な様子に、驟鱗はこみ上げる笑いを必死にこらえながらも、尖ってみたり開いてみたり忙しなく動いているふっくらした唇や、ほんのりそまった目尻の紅、頬のまろみを帯びた薄桃色に、ふと、はじめての出会いの時には見当たらなかったまぎれもない乙女の色香を感じ取った。
 おや、と目を見張る。
 そして同時に、女王の背後にひかえた冢宰の方角から自分にむけて、不穏な冷気が漂ってくるのも気のせいではあるまい。
 なるほど、自分が泥棒をやめて大学に入り、婚姻して子供を作り、念願だった語学の本を書き上げたように。人生を大きく変えることに成功したように・・・
 女なんか捨てた、襲いたかったら襲え、髪なんか濡れていたってかまわない、と生硬に言い放ったあの日の少女、押し倒されて全身いっぱいに鳥肌をたてていた潔癖な少女もまた、いつの間にやら匂やかな女性へと麗しくも美しくその姿を変えたのだということを、驟鱗は知った。
 そして、その相手がおそらく・・誰であるか、ということも。
 驟鱗は徹底してものを観察し、わずかな痕跡から事実を構築する技に長けていた。そう、なんといっても引退泥棒の語学博士であるのだから。
 祝福の印をむすびつつ、そっと無言で拱手した男に、少女は目を丸くし・・そして、真っ赤になりつつも、もう一度、大輪の花のように笑んだのだった。


 
     
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