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「 甘雨 」
 

 雲海を臨む露台に陽子はいた。
 浩瀚が参上した時に返事だけはした主は、背を向けて沈黙したままだ。
 波が打ち寄せる様を見ているのか、雲海の狭間から見える下界を眺めているのか。
 茜色だった空がほぼ夜の色に変わった頃、少女王はようやく振り向いて、控えていた六官の長に目を向けた。

 「元麦州侯に聞きたいことがある」
 鋭い問いに男は軽く目を見張った。元麦州侯に、とは珍しい下問だ。
 「何なりと」
 「麦州は青海に面して大きな港があり、他国との交易もあるな」
 「御意」
 「他国の商人にツテはあるだろう?特に雁、恭、範、奏あたりの、装飾品を扱う商人だ」
 浩瀚はしばし王の顔を見詰めた。先王までの慣習からいえば不遜極まりないことだが、今の主は人の顔を見ずに話をするのが嫌いだ。だがこの度においては、いつもの『顔を見て話す』とは趣が違った。男は(僅かとはいえ)呆れて、思わず見詰めていたというのが正しい。
 「雁と範ならばなんとか。…その後に何とおっしゃるか、丸判りですよ、主上」
 「だったら最初から何とかしろよ!」
 駄々をこねるような陽子の言葉に、浩瀚は笑みを押さえられなかった。彼女がこんな言い方をするのは、自分に甘えている時だからだ。
 「お疲れ様でございました」
 いたわる口調で隣に寄り添って片腕をのばせば、少女は素直に男の肩に頭を預けて腕の中におさまった。
 身体の左側が暖かい。
 風になびいた前髪を掬うように指先で額から頬を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。まるで猫のようだと思う。
 「反対するか?」
 「と申しますか…そんなに装うのがお嫌ですか」
 「綺麗な服も装飾品も、別に嫌いではないよ。あんなに重たくなければね。ついでにあんなに面倒でなければなおいい」
 今日は午後中、次の郊祀のための衣裳合わせがあって、女御達のさざめきと嬌声、主の悲鳴で正寝が騒がしかった。
 式典で盛装するのは仕事だと割り切ることにした、と言っていた。
 普段出番がない女御達が、ここぞとばかりに主をきらびやかに装わせようと手ぐすね引いているのも解る。だが衣裳合わせが主の負担になっているのも事実だ。
 「だいたい多過ぎるんだよ、御庫の中身が!」
 思い出したらまた腹が立ったらしい。
 「今日なんか、一揃え決めるのに十四回も着替えさせられたんだぞ!郊祀の度に試着の枚数が増えていくのは、絶対気のせいじゃない。おまけに毎回衣裳も飾りも全部違うんだ。即位してから何度郊祀があった?その度に試着させられるのには一つとして同じ物がないのに、また何組も新しいのが出てきて!今まで試着した分だけで、余裕で後三十年分の式典全部に違う衣裳で出られる!」
 「おや」
 思わず出た声に陽子は男を睨む。
 「何だ?」
 「いえ…よく覚えていらっしゃるものだな、と」
 『一つとして同じ物がない』と言えるということは、何を試着したかを覚えているということだ。そう思っての台詞だったのだが。
 「私が覚えてるわけないだろう。覚えてるのは女御。この簪は五年前の冬至の時に合わせてみた物だから違う物を、とか、この裳は前回この組み合わせで着てみていただいた、とか。よく覚えてるよ、優秀だね、金波宮の女御達は!」
 その優秀さは違うところで発揮して欲しい、と今度は額を胸に擦り寄せてきた。どんなに政務に疲れても、こんな風に甘えてはこない愛しい少女を宥めるように抱いて、浩瀚は胸を満たす甘い思いを堪能した。
 政務絡みでは厳しい進言もせねばならない。宥めることも諌めることもあるが、
なかなか甘やかすことは出来ない。年に何度かの、素直に怒って拗ねて甘える彼女を、ただ甘やかしていればいい稀有な時間。
 この時間を失うのはあまりに惜しい。
 ならば自分が奏上するのはこの言葉しかなかろう。
 「恐れながら、御物を売り払うのには賛同いたしかねます」
 「ええ〜?」
 浩瀚の裏切り者!ケチ!などと文句を言いながら胸を叩く少女を、微笑んだ男は改めて腕の中に閉じ込めた。


 
     
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