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「 慶国の風習 」
 

 それはなに、と陽子がたずねると、庭を横切って歩いていた祥瓊は、かかえていた大箱をおろして蓋をとった。ちょうど衣装倉の虫干しの日で、女官たちは朝から忙しそうにバタバタと、箱をかかえたり、おろしたり、はたきを振り回したりして駆け回っていた。
 ちょうど月に一度の休日だった陽子は、邪魔にならぬように庭に避難して、敷物をしいた草の上にのんきに転がっては室内の喧騒振りをちらちらと眺めている。ちょっとだけだからね、と見せてくれた箱をのぞきこむと、数寸ほどの正方形の布が、黒い紗を張った台にピンで行儀良く並べられている。倉にねむっている衣装布地の標本の一覧らしい。
 鳳凰の織り模様の美しい朱金、霧雨にけぶる露草のような淡い水色、夜明け前の森をつつむ暗緑色、・・それぞれに意匠をこらした美々しい布たちが、歴代の王や女王の身体を包んだ威厳をたたえて、どこか窮屈そうにおさまっていた。
 さまざまに華美な布の中で一枚だけ、純白のなんの織り模様もないそっけない布地が目を引いた。
 陽子が指でつつくと、あのね、それはちょっと色っぽい用途に使う布地なのよ、あんたにはまだ早いわ、と祥瓊は鼻を鳴らした。
 宮廷生活の長かったこの娘は、同じ純粋培養でも色事にはとんと縁のなかった陽子とはちがって、そういった方面の知識だけは肥えている。
 「色っぽいってどんな?」
 話の流れ上聞かずにはいられないようだったので、とりあえず聞いてみる。
 「初夜の翌朝、娘が着る服はこの純白の布地でつくる風習があるのよ。私はたしかに結婚しましたよ、っていうのを周囲に知らせる意味でね」
 「ふぅん」
 陽子は手許の草をちぎって放り投げた。祥瓊は着たことがあるの、とたわむれに言うと、あるわけないでしょ馬鹿ね、と頭をぽすんとはたかれた。
 「さあ、あたしは忙しいから行くわ。陽子は今日は休日なんだから、何にもしちゃ駄目よ。いい?なーんにもよ。こないだみたいに勝手に尭天に降りて、見かけた泥棒をひっとらえて来たりしないのよ」
 「はいはい」
 ごろんと寝転がって、去っていく友の後姿を見送りながら、退屈だ、と思った。何にもしないというのは活動的な彼女にとって在る意味とても難しいことであった。
 そうだ、あそこに行こうかな、と陽子はふと思った。
 そうだ、そうしよう。あそこは最近気に入っているし、なかなか面白いものがたくさんあるからな。ちょっとだけ…
 そっと女官の様子を伺って、誰もこちらに気を向けているものが居ないことを確認すると、女王様はぴょこんと起き上がり、身軽にその場を逃げ出した。

 その冬器は、ほこりにまみれていた。
 そしてそれを手にする女王の髪も、冬器に輪をかけてほこりまみれだった。
 「やっぱり可愛い形じゃないか?うんうん」
 ひとりで呟いて、じっと手の中のものを見る。これをとるために、高い棚によじのぼっては床上のあっちこっちに関係のない呪具を転がし、落とし、ガシャガシャとやかましい音をたて、目指す箱の中に首ごとつっこんでようやくひっぱりだした。大きさは、女王の華奢な掌をすっぽりとおおう程度。鈍く光る飴色をしていて、丸い輪の形の中心部に短い取っ手がひとつついている。手鏡のようにも見えるが、輪のなかには硝子も銅版もなく、向こうの景色が筒抜けだ。おそらく素材は紅水晶だろう。ほこりにくすんではいるものの、きれいに磨けば淡い桃色に透き通るのだろうと思われた。取っ手の根元には、羽を広げた蝶が一匹、洒落た意匠で彫りこんであった。
 冬器の中でもたいした力のない、数代前の王の時代から延々蓄積された呪器を放り込んでおく古器殿は、しばらく前から陽子の格好の遊び場のひとつになっていた。政務に疲れた折などはよく、口やかましい麒麟や浩瀚から身をくらますために、たびたびこっそりとここへこもった。
 宮庭や雲海の岬には、いなくなった女王を求めてたびたび捜索隊が繰り出されるのに比し、建物の中は意外と盲点らしいというのがその理由である。
 この冬器倉庫はかなりごちゃごちゃしていて、いたく女王の気に入った。
 天井までそそりたつ壮麗な石の棚に、ところせましとガラクタ(に見える)がひしめいている。
 今はもう使わなくなって久しいものながら、腐っても御物ということであろう、捨てるわけにも行かないがために降り積もるに任せたあげくの過去の遺物の数は、おそらく億は下るまい。いったい何の用途に使うのかさっぱり不明のものから、明らかにただの石というもの、何十年かかっても解けそうにない気が違いそうに複雑な知恵の輪、あまり実用的でない妖獣用の首輪、誰かが読みかけたまま閉じられていない本、見事な寄木細工の置時計、なんでもある。
 その中で、陽子の気をひいたのがこの紅水晶の輪だった。なぜ魅かれたのか、理由もわかっていた。
 リボンのような可愛い蝶の意匠が、過ぎし蓬莱時代にあこがれていたコスメブランドのデザインによく似ていたのである。いつか高校を卒業して大人になったらあそこで化粧品を買ってみたい、なおかつ非常に人気のあった携帯用手鏡もそろえてみたいと思っていたものだった。
 「ほら、みんな疑問視するけど私だって女なんだ。可愛いものは好きなんだぞ」
 なんとなくえばって独り言を言ってみる。小さな声だったけれども、かすかな響きは石の棚に反響してわんわんと、好きなんだぞ、好きなんだぞ、好きなんだぞ・・とあくことなく繰り返した。
 「いったい、何がお好きなんですか」
 ふいに、かけられるはずのない声が聞こえて、文字通り 子はとびあがった。
 とびあがったはずみで棚に頭をぶつけ、さらにいくつかの冬器が転がり落ちてはがしゃがしゃと賑やかなことこの上ない。
 「・・主上。なんてお姿を」
 ため息とともに降ってきた白い手をつかんで、陽子はようよう立ち上がった。
 目の前に金の髪が滝のように流れ、隙間から感情の起伏に乏しい薄紫の目がのぞいていた。
 「や、やぁ景麒。出迎えご苦労」
 愛想笑いも通じない。景麒はもうひとつため息をつき、問答無用に主の手をひっつかみ、古器殿の外へとひっぱり出した。
 ぱたぱたとホコリを払ってもらいながら、陽子はそっと、輪をふところに忍び込ませた。
 「またも飽きずに雲隠れでございますか。この裾の汚れ具合を見た女史と女御が、はたして何といいますやら」
 さきほど大撲も探しておりましたよ、と付け加えた麒麟に、居心地悪い思いを味わう。
 「今日は休日なんだぞ。何してたっていいじゃないか」
 「せめて書置きなりとも残してから逃亡なさってくださいと申し上げているのです。宮内といえども、いまだすべてが安全というわけではありません」
 あまり人気のないところにお一人でいらっしゃいませんように、よろしいか、と淡々と言われて、しぶしぶ陽子はうなずいた。みながこうして心配してくれるのも、ありがたい話だとよくわかっている。
 「すまない。正寝にもどる。景麒もよかったら一緒にお茶でも飲んでいかないか」
 「いえ、私は瑛州での政務がまだ残っておりますので、これにて御前失礼を」
 仕事第一の生真面目な麒麟は、職場へ行く前にわざわざ遠回りして、王気を目当てに探しに来てくれたらしい。陽子はさらに、背が一寸ほど縮んだような心地になった。
 「悪かったな」
 「お気遣いなく。もう慣れました」
 淡く微笑んで、端正な麒麟はうやうやしく拱手し、それでも嫌味を言うことは忘れずに、背を向けた。
 立ち去りかけて、陽子は背後にふと麒麟の声を聞いた気がした。
 「いったい、誰がお好きなのですか」
 それがさっきの古器殿で呟いた独り言への、問いの続きだと気づいて振り返ったときにはもう、麒麟の姿は回廊の向こうへと小さくなっていた。
 (好き?誰が?)
 胸元をおさえて、そこに硬い輪があるのを確かめると、陽子は友人達の待つ堂室へむかって歩き出した。

 最初、虫だと思った。
 灯火をともして書物に没頭していた浩瀚は、明かりにひかれてまたぞろ羽虫が飛んできたのだろうと、うるさげに手で払った。
 とたんに虫が鳴いた。
 「ぴやっ」
 どこかで聞いたような声音に、思わず目をあげた。見ると、親指の先ほどの小さな赤いものが、薄羽をはためかせてぱたぱたと、広げた書の上を飛んでいる。ふさふさと毛が生えていて、目が二つ。手と足が二本ずつ。
 じっと見つめていると、さきほどから浩瀚が読み下していたやたらと画数の多い漢字のひとつに降下してきて、ぱたりととまった。
 「主上?」
 浩瀚が呼ぶと、素直にこちらを見上げてきた。碧玉の瞳は見間違えようもなく、己の主のものにウリ二つだった。
 「ぴやっ」
 一声鳴くと、差し出された手にむかってもぞもぞと移動を開始する。足はあるが、二足歩行は無理なようだ。両手をついての四本足で、長い裾に四苦八苦しながらも爪につかまると、掌によじのぼった。
 目の高さに虫をかかげて、浩瀚はのぞきこんだ。
 間違いなく己のお仕えしている大事な主のお姿である。かなりサイズに問題があるし、言葉も、ぴや、しか言えぬようではあるが。
 何かの呪いをかけられて縮んでしまわれたのか。それとももしかして食事に毒でも?
 ここのところ特に気をつけて水面下にうごめく謀反の芽は丁寧に摘み取っておいたはずなのだが…
 浩瀚は内心の焦燥をおさえて、掌の上をごそごそ動き回っている主を見つめた。
 「こーかん」
 ふいに主が呼んだ。あわてて、はい、と返事をすると、またごそごそと動き回ってはぴやぴやと鳴く。
 返事がかえってきたのを嬉しがっているご様子である。
 掌からあやうく落ちかけた女王を、浩瀚は細心の注意をはらってそっとすくいあげた。浩瀚の指が体に触れたとたん、たちまち小さな背が丸まったかと思うと、くるりとした球体になった。
 「・・・っ」
 気づけばもう、掌の上には主の姿はなく、透きとおったきらきらと美しい紅玉がひとつ、ころんと転がっているだけだった。
 卓上の範国製の硝子の器に、ゆっくりと紅玉を入れてから浩瀚は腕組みをして考え込んだ。
 ついさっきまで動いていたのが嘘のように、それはどう見ても玉でしかなかった。硬くカチンとしたただの塊で、「ぴやっ」と鳴き声をあげることもなく、灯火の光を透かしてぼんやりとした朱色にまどろんでいる。
 「たれかある」
 手を叩いて家人を呼ぶと、常日頃からいつでもお召しがあればと控えているのであろう、ついたての奥からすぐさま下男があらわれて、うやうやしく拱手した。
 「女御と女史を呼んでくれ。夜遅くにすまない、と詫びてな。・・ただし、他のものには誰も気づかれぬように注意せよ」
 かしこまりまして、と音もなく出て行った男の背を見送りながら、つぶやいた。
 「まったく、いつも暇なく、拙の心の臓を痛めつけるお方であることよ」
 ふと無意識に赤い宝玉の入った硝子鉢のふちをなぞっていた自分に気づいて、浩瀚はひとりで苦笑した。

 翌朝、女御の前触れに続いて朝議の広堂へ入った陽子は、壇上の御簾にいたる裏段の最下段に、冢宰と台輔があたかも二枚の岩のように立ちはだかっているのを見つけ、何事がおこったのかとぎょっとして立ちすくんだ。顔の血が下がっていくのが自分でもわかった。
 どこぞの州で乱でも勃発したのだろうか。要職の官吏の間でなにか造反でも・・いや、あるいは天災か。
 邑に季節はずれの大雪でも降ったのかも・・瞬時に最悪の事態の数々が脳裏を駆け巡る。
 青ざめた小さな顔で、それでもいつもの凛とした口調で、陽子はたずねた。
 「何事だ。場を移した方が良いか」
 「・・・・」
 双方とも無言である。
 仏頂面の麒麟は、主の顔に描かれた暗号でも読み取ろうとするかのように、硬い紫水晶の両目をすがめてはじっと見つめているし、浩瀚の薄茶の瞳にいたっては細くてとんがっていて、葉っぱの形の手裏剣のようだ。
 景麒が先に口をきいた。
 「主上。昨夜、また何か妙なことをなさいませんでしたか」
 「あ?なんだって?」
 予想していたのとはまったく違う言葉は、まるで鳩に水鉄砲。
 たたみかけるように浩瀚が続けた。
 「お体に大事などはございませんか。お目覚めになってからいままで、体調になにか変わりはございませんか」
 ない、と陽子は簡潔に答えた。まったく覚えがございません。
 「藪から棒に何だ。昨夜なら、私は床に入ってすぐに寝た。何も妙なことなんぞしなかったし、お体だってほらこのとおり」
 絶好調だ、となだらかなふくらみをみせる胸をぐいと突き出すさまに、思わず男二人は目を泳がせた。
 「なんだったら鈴と祥瓊に聞いてみろ」
 「もちろん、二人にはすでに昨夜のうちに確認をとっております」
 ぴしゃりと浩瀚が止める。だったらいいじゃないか、と陽子が一歩引くのを、浩瀚はずいっと一歩すすんでさらに少女の姿を上から下まで丹念に眺めた。
 台輔にたずねるように目線をおくると、麒麟はしぶしぶ、小さく首を振った。
 「・・よろしいでしょう。では、主上におかれましては、本日も大変ご機嫌麗しく」
 「麗しくもヘッタクレもあるもんか!」
 「さあさあ。官吏たちがお待ちしております。はやく朝議の席におつきください」
 なんだ、おまえ達が止めたんじゃないか、とブツブツ呟いている少女を、はやく段を登ってくださいませと背後から追いたてながら、景麒はちらりと浩瀚を振り返った。
 浩瀚はうなずいた。わかっております。ご油断ならさず。まだしばらくは怠りなく監視いたしましょう。
 昨夜遅くに変てこりんな虫が飛んできてくるくると玉に変わってしまった後、浩瀚は鈴と祥瓊を私室へ呼んで事情を話し、すぐに主の様子を探りに行かせた。
 少女二人は親友を心配するあまり、寝巻き姿のまま王の居室へ飛んでいった。しかし結果として、なにも、なにごとも異常が認められなかったのだ。その晩の王の食事にはなんらかの毒物の混入された痕跡はついぞみつけられず、陽子がひとりでこっそりどこかへ抜け出した様子も、正寝に不審者がうろついていて誰何された、という物騒な報告もなかった。
 つつがなく夕刻のひとときをすませて女官たちとひとしきり歓談したのち、連日の政務で疲れていることもあって比較的はやい時間に床に入ったという。牀榻まで侵入して確認したところによると、すやすやと寝息をたててぐっすり眠っていたらしい。頬をつつくと「あ、月餅、もう一個・・」と寝言まで言ったそうだ。
 朝を待ってから台輔に一連の次第を報告し、王気にいささかの異変がないことを確認してから(「水揚げされた魚のごとくぴちぴちと跳ね回る気配の王気でいらっしゃる」とため息をつきながら景麒は答えた)こうして直にお顔を拝してみたわけだが、浩瀚自身、主の姿になんら変わったところを見つけられなかった。
 とすると、昨夜の虫は陽子本人とは無関係の怪事なのかもしれぬ。だがしかし、あれほど瓜二つのお姿をしたものが、ご本人とまったくの無関係でありえるだろうか。
 まぁ、とりあえずは・・と浩瀚はずいぶん高いところにのぼってしまった赤い髪をちらりと視界の端に納めてひとりごちた。大事なお方がご無事だったことを、ひとまずは良しとしよう。
 麒麟は王の後ろに、冢宰は下段の最前列の定位置につくと、燃えるような真紅の髪の少女が威風堂々と玉座に座った。御簾があげられたとたんに、堂内いっぱいにきらきらしい陽光が満ちわたる気配につつまれる。小柄で華奢な娘が、この時ばかりは大の男が圧倒されるほどの覇気をまとう。
 山の端から鮮烈な朝陽が躍り出て、大地をまばゆいばかりの黄金色にぼうっと燃え立たせる、その一瞬の夜明けにも似た僥倖を、浩瀚はこよなく愛していた。
 慶の未来が、この朱色の陽光に包まれて末永く続いていくことを切に願わずにはいられない。そのためであれば、己はどんなことでもするだろう。
 その日の朝議はとどこおりなく始まり、そして和やかに終わった。

 陽子は両肘を手すりにおき、その仰向けた掌の上に頤をのせていた。頤の上には眉間にしわを寄せてなにやら思案深げな様子の、凛々しくも可愛らしい顔がのっている。
 正寝の一室から雲海をのぞむテラスの、二段になった手すりの上に、景女王はよじのぼっていた。一段目に腰掛けては足をぶらぶらと遊ばせ、少し高い位置にある二段目に頬杖をついている。
 心地よい潮風が吹き、少し歩いたところの角を曲がらねば誰も視界にはいってこない奥まった一区画である。考え事をするには絶好のロケーションであり、景麒に見つかればすかさず雷を落とされるのがわかっているものの、しばしば陽子はよじのぼっては座り込むことを飽くことなく繰り返していた。
 今日のようなよく晴れた美しい宵には、よじのぼらねばならぬような義務感さえおぼえる。せっかくの漆黒の海と夜風、肌で感じなくてはもったいないではないか。
 陽子は今朝方の出来事を思い返しながら首をひねっていた。
 己の半身と冢宰のただならぬ様子が腑に落ちなかった。あの後、結局何があったのか、二人とも教えてくれなかった。
 何事もなければよろしいのです、と口を合わせて言うばかり。
 二人といえば仲良しの女史と女御もそうだった。
 いくばくかの事情を知っている様子であるのに、陽子には何も言ってくれない。おそらく口止めされているのだろうから強いてたずねるのも気の毒で聞けなかった。
 朝議が終わったあと段から降りてきた陽子に、浩瀚は懐に手を入れて美しい朱色の玉をとりだしてみせた。
 「これに見覚えはございませんか?」
 まったくなかったので、ない、と素直に答えると、そうですか、とまた懐へ玉をしまってしまった。それきりだった。あとは通常の仕事が延々と夕刻までつづき・・つい先ほど、夕飯の時間が近づいたのをみはからってそろそろ終わりましょうか、と終了するまで何一つ聞かせてもらえずじまいであった。
 「そりゃまぁ、いいんだけどさ」
 謀反とか天災があったというわけでもなさそうだったから、それでよいといえばよいのだけれど。
 夕飯はいつも一人で食べるのが常だが、今宵は鈴と祥瓊も一緒に席についた。単純に嬉しかったが、一口、箸を運ぶたびに、注意深くこちらを観察するような目線をびしびし送ってよこすのには閉口した。なんだかみんなして気持ち悪い、というのが正直なところである。
 心地よい潮風は、少し湿り気を帯びて真紅の髪をなぶった。
 今日は晴れだったけれど、明日は雨になるのかもしれない。空気の中に新鮮な水滴の臭いを感じながら、先日発掘した冬器を取り出して、そっと闇夜にかざしてみる。
 今夜の月は薄くきった爪の形で、雲海の水面ぎりぎりのところにぽつっと浮いている。明かりになるほどの大きさはない。湿った夕闇の中で、丁寧に指で輪郭をなぞった。
 丸い輪、小ぶりな柄、そして根元のリボンのような飾り。陽子は一人で笑んだ。やっぱり可愛い。欲しかった手鏡のことを思い出す。
 輪の真ん中にむかってふぅっと息を吹きかけると、たちまちぱぁっとあたりが明るくなった。
 陽子の息に呼応して、まるでシャボン玉のような具合で、無数の銀色の蝶が輪の向こうに飛び立ったのだ。それぞれが指一本ぐらいの大きさの蝶々たちは、はたはたとレースのような羽をひらめかせ、銀粉をキラキラと撒き散らしながらいくつかはふっと煙状によじれて溶け、またいくつかはどこかへと群れをなして飛んでいった。蝶が姿を消すと、またあたりに闇がもどる。
 この冬器の産む蝶に気づいたのは、つい昨夜のことだった。
 就寝前の手遊びに、冬器を顔にかざす真似事をするともなくしていた折、ふとため息をついたところが、たちまち銀光がほとばしってぎょっとした。
 輪からあれよあれよと銀の蝶が吹きだしてきて、あやうくかざした冬器をとりおとすこところだった。
 瞬く間に牀榻中が蝶々だらけになってしまってどうしたものかと慌てたが、しばらくすると一匹、また一匹と粉細工が崩れるように消えていった。何匹かは窓の外に飛んで出ていったが、それもたぶん庭で消えたことだろう。
 何度か繰り返してみて、これはどうやらシャボン玉・蝶々版の遊び道具であると勝手に決めた。
 どう見てもそれ以外の用途も、さしたる害もなさそうだった。かつては古の王の幼い太子のためにでもつくられたのであろうか、子供のたあいない遊び道具としていつしか御庫に眠ることになったのだろう。
 銀の蝶々が舞うさまは見とれるほどに美しく、陽子はすっかり気に入った。儚いところは真夏の夜空にあがる花火にも似ており、シャボン玉と花火がいっぺんに楽しめるなんてなかなか美味しいじゃないか、と思った。
 また、ふぅっと息を吹いた。闇に銀光が砕け散る。ちかちかと瞬いて、あたりはぼうっと霞んで明るくなる。羽がひるがえるさまは銀魚のうろこが散華するようだ。
 蝶々を眺めながら、陽子は気づけば浩瀚のことを考えている己に気づいた。
 今朝方、朝議の堂内で自分を見つめてきた薄い葉っぱの形をした鋭い目。ひどく真剣に陽子のことを按じてくれているのが、真摯につたわってくる目であった。
 たとえば景麒の紫の目は、泡ひとつ混じっていない氷の結晶のようで、素直に綺麗だと思う。桓の目は鋼の色で、まっすぐで磊落でこれまた綺麗だ。浩瀚の目の色は薄茶、浅瀬の海草に半ば溶けたような琥珀の色だ。綺麗なだけではなく、柔らかいながらも周囲に妙な圧迫感を与える目だった。嫌な感じではない、ただ、ぐっと押されたとたんにじわじわと、苦しいような切ないような、それでいて皮一枚下では喜んででもいるかのような、ふつふつと泡立つ感覚が襲ってきて落ち着かない。
 そしてあの声だった。
 怜悧な、硬い玉を溶かせばこういう音がしそうな澄んだ低い声。自分の耳はいったいいつ頃からであろうか、一生懸命に彼の声をすくおうとしては、常に網を張って待っている。
 「そうか」
 唐突に陽子はつぶやいた。なんだ、簡単なことじゃないか。
 「私は、浩瀚のことが好きなんだな」
 蝶の残光を受けてほのかに光っている冬器を目の前にかざしてみる。
 風が逆向きに輪の中心をすり抜けては、陽子のすこし火照った頬をひんやりとなぶった。輪の向こうに丸く切り取られた水平線では、月が夜空に引っかき傷を作っている。
 改めて口に出して言ってしまえば、なにをいまさら、という気持ちだった。
 そうかそうか。だからいつも浩瀚の側にいたいと思うし、会えない時間には何をしているのか気になるし、苦笑でも叱責でもいいから声を聞かせて欲しいと願ってしまうんだ。
 (誰をお好きなのですか?)
 冬器を見つけた御庫で、景麒にそう聞かれたことを思い出した。
 女王の恋は慶国ではまだ禁忌だ。腐っても半身、景麒はうすうす主の恋心に気づいていたのだろう。
 その相手が誰であるかも、おそらくは。
 「ごめんな、景麒」
 また半身にいらぬ気苦労をかけてしまうと思うと、いまさらながら申し訳ない気持ちになった。自分の想いに気づいた以上はこれからはさらにどっさり心配をかけるだろう。
 あいつ、ハゲたりしないといいけどな。くすっと笑った。あの長くてさらさらした金髪は月の光みたいだから、わりと気に入っている。ハゲると悲しい。
 笑うとすこし気持ちが落ち着いた。
 手の中の輪にむかって、ふぅっと息を吹いた。陽子の気持ちそのままに、銀の蝶々は千々に乱れてぶつかりあっては闇の中に残像を描く。
 やがて花束のようにふわっと夜空に広がると、数匹の蝶は消えずに残り…そうして、冢宰府の方角へむけてさわさわと飛んでいった。手すりに顔をふせていた陽子は、それを見なかった。

 「ぴや」
 聞き覚えのある鳴き声がした。浩瀚ははっと顔を向けた。はたして、開けっ放しの窓をするりとくぐり抜けて、小さな赤い虫がパタパタと飛んでくるところだった。
 昨夜は一匹だったが、今夜は三匹もいる。
 それぞれにぴやぴやとにぎやかに鳴きながら、広げた料紙の上にぽとりと落ちるもの、一輪挿しの花瓶の口にすがりつくもの、あと一匹は浩瀚の掌にころりと転がった。
 「主上」
 お声をかけると、掌の一匹が嬉しそうにぴや、と鳴いた。たちまち四つんばいでうろうろと手の上を歩き回る。一刻もじっとしないところは通常サイズの女王とまるきり同じだ。
 「こーかん」
 ふと動きをとめた一匹が口をきくと、残りの二匹もすかさず真似をして口々に呼び立てる。
 「こーかんこーかん」
 「はいはい。お側におりますよ」
 花瓶につかまったはいいがおりるにおりられぬ一匹に手をのべると、ぴょんと勢い良く飛び移ってきた。
 勢いあまって転がり落ちそうなのを指で戻そうとして、そういえば昨夜はつついたとたんに玉に変わったことを思い出した。
 そうっと注意深く指の腹で押し上げるようにすると、ぴやぴやと鳴きはしたものの、小さな人型を保ったままこちらを見上げてくる。碧い目が宝玉のようだった。
 これはいったいなんだろう、と浩瀚は首をひねった。
 まがまがしい感じはいっさい受けない。小さな虫はいたって無邪気に転がったり飛んだりするだけで何ひとつ悪さをするわけでない。
 不敬と知りつつもこの状況をいつの間にやらすっかり楽しんでいる自分がいるが、それはさておき、何らかの呪であることは間違いなさそうだった。
 おそらくは、冬器。さしたる呪力のない冬器だ。
 人を害するものでなく、遊戯要素の強い女子供用の呪具。
 御物か、とあたりをつけると、最近よくそこに潜伏しているという主のことが頭に浮かぶ。
 やはり主上が関係しておいでということだろう。きっと御庫で・・・何かを見つけられたに違いない。
 わっと甲高い鳴き声が盛り上がり、さらに数匹の虫が新たに窓から飛び込んできた。
 さっきよりもかなり数を増している。ひっきりなしにぴやぴやと鳴きながら、室内のあちらこちらに、あるものはガツンとぶつかって悲鳴をあげ、あるものはころころとつぶてのごとく落っこちていく。
 おやおや、これは大変。
 浩瀚はため息をついて立ち上がった。お一人でも大変なのに、こんなにたくさんおいでの主上は、すこしばかり手に負えぬ。
 手の中の虫をそっとつつくと、たちまち、くるりと背をまるめて美しい紅玉となる。
 つまみあげてしごく丁寧に硝子器にしまいこみ、卓上をごそごそ這いまわっていた一匹をつついた。
 膝に転がっていた一匹も捕獲、椅子の足をよじのぼろうとしていた一匹も阻止。そうして、いつしか範国製の硝子の器はきらめく紅玉でいっぱいになっていた。
 改めて数えてみたところが、昨夜と今宵の収穫の合計は16個。大漁であった。
 あごの下に手を当ててなにごとかを考え込んでいた浩瀚は、おもむろに下男を呼んだ。昨夜と同じく、音もなく現れた下男は、うやうやしく主の言葉を待った。
 「冬官を呼でくれ。武具担当の者ではなく、装具師を。腕の立つものを頼む」
 かしこまりまして、と下男は夜の廊下を足早に消えていった。

 翌朝は、陽子の予想どおりに雨となった。
 細く糸のような雨が粒になりきらぬまま霧状にたちこめ、わずかな風に流されては宮の柱をふんわりと優しくなでていく。側壁のない回廊を歩くと、いつのまにやら全身がしっとりと濡れそぼった。小糠雨というものなのだろう。
 灰色の薄暗い空を眺めながら、今日は蝶を飛ばせないな、と残念に思った。吹けばちゃんと舞うのだろうけれど、雨に濡れては可哀想だ。
 回廊を右に折れると積翠台にでる。今日の午後の執務は冢宰と二人でとることになっていた。景麒は州候の所用があり、朝から宮を留守にしていた。
 積翠台の裏に流れる小さな滝の音が、霧雨の中にこもるためだろうか、回廊までりんりんとよく響いて聞こえてくる。陽子は水滴のたてる涼しげな音が好きだった。
 室内にはすでに浩瀚が待っていて、卓上には今日の分の書類がきちんとそろえて積んであった。準備万端、いつでも仕事が始められる体制だ。
 「はじめようか、浩瀚。・・・こりゃ、なんだ?」
 席に座ったところで、積み上げた書類の横に、漆塗りの黒い木箱があるのを見つけて眉をひそめた。
 小さな箱だ。ちょうど装身具を入れるのにちょうど良いぐらいである。
 浩瀚は拱手した。
 「主上にお借りしていたものをお返しいたしたく」
 「お前に何か貸したっけ?」
 さっぱり心当たりがない。
 とりあえず紐をほどき、蓋をとった。
 とたん、霧にけぶる薄暗い室内に、陽炎に似たぼっと紅い光が灯った。
 なんだろう、とよくよく見ると、光の正体は、粒ぞろいの丸い紅玉を練り絹で連ねた見事な首飾りであった。
 紗に包まれ、青い鳥の形の留め金がちょこんと飾ってある。常日頃装身具類にはまるで興味のない陽子も、綺麗だな、と思わず目を見張った。
 「これは・・・覚えがない。御物だろうか?」
 「御意」
 「ふぅん。じゃあ祥瓊が用意してお前に渡してくれたのかな・・わかった。返しておくよ。にしても綺麗だな」
 陽子は玉をそっと撫でてみた。滑らかな表面の艶が、さらに増したようだった。
 「何に使ったの、これ。お前の用には足りたのか」
 「半分・・というところでしょうか」
 「半分?残り半分は足りなかったのか」
 「はい」
 それは困ったな、と生真面目に相槌を打ちながらも、どうも次第がよくわからんが、と狐につままれたような顔をしている女王に、浩瀚の目元はやわらかく緩んだ。
 「拙めに、つけたお姿を見せてはいただけまいか」
 「私がこれを?なんでまた」
 是非に、と笑う浩瀚に、私なんかつけても似合わないからダメだと口を尖らせ、首を振る。しかし相手は引き下がらない。羅紗をはいで、首飾りを手にとった。
 「どうぞお首をのべてくださいませ」
 有無を言わせぬ口調にしぶしぶさしだしたうなじの、娘特有のまろさの麗しいこと。
 目に沁みいる柔肌に触れぬよう、細心の注意を払ってそっと紅玉をかける。留め金をかけてとめると、青い鳥のクチバシが上下に噛み合ってカチッと小さく音が鳴った。
 「よくお似合いでございます」
 「そ、そうか?」
 官服の濃紺の地にくっきりと真紅の玉が燃え立ち、襟元にわずかにのぞいた琥珀色の肌と、肌をとりまく炎のごとき髪の色とがせめぎあうさまは、実際、一幅の絵画のように美しかった。
 気恥ずかしげに首に手をやり、ほんのり頬を上気させている女王に、さらに浩瀚はつと掌をさしのべる。
 「ん、もうはずす?」
 「いえ。そろそろお胸のものをお出しいただければと」
 「胸のっ・・て」
 今日はおやつ用の月餅なんか隠してないぞ、と言いかけて、はっと袷を押さえた。
 あれのことだ、蝶々のシャボン玉製造機…!
 胸の奥深くにつっこんで今もある。こいつはあれのことをなぜ知っているんだ?
 「さきほど、首飾りをおつけしたときに失礼ながら確認させていただきました。本日の主上のお胸は少々いつもより豊かなようにお見受けいたします・・なんぞ入れてございましょう」
 「なんで私の胸のサイズなんかいちいち知ってるんだ、おまえは!」
 「これも冢宰のお役目のひとつにございますゆえ」
 嘘付け変態、と憤然とふりあげられたこぶしをやわらかく押さえて、浩瀚はさらに掌をさしのべる。
 調べはすでについているらしい。しぶしぶ陽子は胸元に手をつっこむと、中の冬器を取り出した。
 差し出された冬器を、慇懃に一礼してから受け取ると、しげしげと観察する。
 小さくて手鏡に似ているが中央に硝子はなく、ぐるりを輪がめぐっているだけだ。柄の長さは成人の手には短いが、子供用というほど短かすぎるわけでもない。華奢な装飾からみても女性用であろう。
 やはり、と浩瀚はうなずいた。
 昨夜、玉を連ねて首飾りに仕上げてくれた冬官の言が正しいようである。
 はい、宮中の女性が使う呪具といえば、たいていが色恋関係のものでございます・・と、かの冬官は忙しく手を動かして玉を連ねながら、冢宰の問いにそう答えた。
 夜分遅くに呼びだされ、何事かとおっかなびっくり伺った冢宰府には、部屋の主の六官の長以外は誰もいなかった。
 かの冢宰のご所望は、この玉をすぐに首飾りに加工して欲しい、今すぐにできるか、といういささか奇妙なもので、むろんできまするが・・と困惑した。ただ道具が入りますゆえ、と一度自室へ戻って道具類一式をあつらえてきて、こうして貴人の顔前で直接に作業をお見せしている。彼にとっては初めての経験だった。

 ・・・ただ、露骨に情欲を煽る品の無いものから、ほのかに秋波を送るだけの微笑ましい物までそれこそ千差万別にございます。蝶が玉に変わる程度のものでしたら、微笑ましいものの部類に入りましょうや。この玉を拝見いたしましたところ、拙めが愚考いたしますに、かつては好いた相手に想いをそれとなく伝えるのに使われた『想円蝶鏡』というものではないかと。
 は。それは、どんなものかとお尋ねで?
 ・・・はい、息を吹きかけますと蝶が散りまして、想い人のところに飛んでいくというたあいないものにございます。蝶は、息を吹いた本人の姿かたちをとるそうで。
 話せるかと?
 はぁ、好いた相手の名前ぐらいでしたら、たしかしゃべることもできるようですが・・だいたいが鳴くぐらいでございますよ。ぴーぴーと。そうそう、蝶は触るとこのような玉に変わるとか。たしかに相手に想いを送ったぞ、という証拠の品となるように・・・
 「御庫で見つけたとき、ずいぶん可愛いと思ったんだ」
 勝手に持ち出してすまなかった、と謝る女王の声で、浩瀚の物思いは霧散した。
 「柄のリボンが特に気に入ったんだ。ANA SUIみたいで」
 「りぼん、とはこの意匠のことでございますか」
 「うん。蓬莱では、女の子が髪の毛につけたりする飾りにする」
 「はて、あなすい、とは?」
 「ああ化粧品のメーカーの名前。若い女の子に人気があった。私も大人になったらそこの化粧品を使いたいと思っていたんだ・・こういうリボンつきの手鏡も売っててさ。高校生の小遣いじゃちょっと買えなかったけど、欲しかった」
 うつむいてしゃべっていた陽子は、手に細い柄が押し付けられる感覚に目を上げた。
 端正で怜悧な顔がすぐ近くでこちらを見つめていてどきりとする。
 「お返しいたします」
 「・・・いいの?」
 「もちろん。ただ、ひとつだけお願いが。一度だけ、拙の目の前でこれに息を吹きかけてみてはくださいませんか。蝶が散るのでしょう?」
 大好きな薄茶の目はやっぱり綺麗な葉っぱの形をしているが、微笑を浮かべているためにちょっと弓なりになって、ちょうど小糠雨の雫を湛えた形にたぐんでいる。
 おや、と思った。このシャボン玉製造機のことでもっと怒られると思っていたのに、浩瀚は、なんだかずいぶん嬉しそうに見える。気のせいだろうか。
 「部屋中、はんぱないぐらい蝶々だらけになるんだぞ。ちょっとうっとおしいんだぞ」
 「見てみとうございます。どうか、主上」
 うなずくと輪をかざし、ふぅっと息をふきかける。
 たちまち銀の蝶々が無数に湧いた。
 きらきらと煌いてはさほど狭くない室内いっぱいに目にも鮮やかに舞い踊る。眼の表面をふわふわと慰撫するような幽美な残像に浩瀚は目をみはる。
 やがてひとつ、またひとつと溶けるように消えてゆき、残ったひと群れは窓の外、滝の方へと飛んでいこうとしてまた部屋の中にぐるりと戻ってきた。
 戻ってきたときにはすでに蝶の姿ではなかった。羽虫である。キラキラした可愛らしい、羽の生えた赤毛の小粒な虫となっていた。
 「なっ、・・なんだこれは!私の顔がついてるぞ」
 うわー、いやだ、気持ち悪い、と逃げ回る陽子を捕まえて、ごらんくださいと肩にとまった一匹をちょんとつつくと、床にコロリと紅い玉が転がった。
 「・・・・げ」
 「お首の首飾りの玉は、これでございますよ」
 「なっ・・蝶々が飛ぶだけだと思ってたのに。シャボン玉製造機ではなかったのか!」
 「想い人のところに飛んでいって、こんな虫になるのだそうです。おととい、昨夜と二晩つづけて、拙のもとへ可愛い小虫がたくさん飛んで参りまして・・最初は主上のお身に何かありましたのかとたいそう気を揉みましたが」
 景麒と浩瀚が朝議の部屋で仁王立ちしてたわけはこれか。そりゃあびっくりもするだろう。
 急にかっと火照りはじめた頬を両手ではさんで陽子はその場にしゃがみこんだ。
 このまま地面の下に消えてしまいたい心地がする。想い人のところに飛んでいく虫だって?だとしたら、ああ、なんてこと。
 浩瀚は膝を突き、主と目をあわせると、愛しげにそっと首元の玉をなでた。聞こえてきた言葉に陽子は耳を疑った。
 「嬉しゅうございました」
 「・・嬉しい?」
 「はい」
 まじまじと相手の目を見つめてみる。さっきよりもさらにきゅっとたぐんで、葉っぱの形ではなくなっていた。薄くきった爪の形、三日月をひっくりかえした形だ。
 「具合でも悪いのか、浩瀚」
 「しごく良好です。いえ、そう・・ちょっとだけ、熱っぽいかもしれませんね。嬉しさのあまり顔に血がのぼりましたゆえ」
 「嘘つけ。頬っぺたが白いじゃないか」
 「主上よりは、いくぶん拙めは色白でございますゆえ」
 「どうせ私は色黒だ」
 ふりあげられた小さなこぶしをやんわりと縫いとめると、その手から、主の言うところのシャボン玉製造機を再びとりあげた。輪をひきよせ己の口元にかざすと、おもむろにふぅっ、と息を吹きかける。ふわっと銀の灯りがあふれ出た。きらきらした蝶々はふくれあがって堂内に満ちると思いきや、こたびは全部が全部、わっとばかりに陽子にたかった。
 陽子はまぶしさにあわてて目をつぶった。女王は瞬く間に、白銀の砂糖をまぶした菓子棒のごときお姿になった。
 ぴや、と鳴き声がした。銀光のほてりをのこしたまま、蝶はさきほどと同じような小さな羽虫となっていた。
 「しゅじょう」
 「えっ、なんだ?」
 「しゅじょー、しゅじょう」
 ぴやぴやと鳴く合間にたしかに己を連呼され、おそるおそる目を開けた陽子が見たのは、肩や膝、胸などにしがみついた小さな小さな豆サイズの浩瀚がたくさん、四つんばいでごそごそ動き回る姿だった。
 「うわ!こ、こら、どこに入る気だ浩瀚!」
 胸元の袷にもぞもぞともぐり込もうとした一匹に気づいてぎょっとする。
 急いでつまみ上げようと指をのばすと、つっと爪の先がふれたとたんにこれまたコロンと丸く固まって床に落ちた。
 コロコロと転がるのを拾い上げると、空を映した雲海の水を固めたような、透き通った蒼い玉となっていた。
 「この玉めは、非常に素直な一匹です。ほめてやりたいと存じます。・・主上、私の気持ちがおわかりいただけましたか」
 「・・・・」
 うん、ともいや、ともつかぬまま、上目遣いで見上げてくる少女に、浩瀚は破顔した。
 「申すも恐れ多いことなれど、どうやら主上と拙めは、俗に言う相思相愛のようでございます」
 陽子はまだ半信半疑といった目をしながらも、恐る恐る唇の両端をあげてみせた。ぱたぱたと手を振って体中の豆浩瀚を勢い良く振り落とすと、銀盤に雨粒が踊るような音をたてて、蒼玉が床上に散っていく。犬が身震いして水気を払う仕草にそっくりだ。
 「・・嘘じゃないだろうな」
 「拙めが主上に嘘をついたことなど、これまでにございましょうか」
 大仰に手をあげて嘆いてみせながらも、瞳だけは、微笑を含んで澄んでいる。
 「馬鹿め。山ほどあるじゃないか」
 ため息をひとつつくと、細い腰に両腕をあて深く息を吸って胸をそらす。つんつんと剣呑なご様子で、女王は男の真正面で仁王立ちになった。
 「一度しか言わない。いいか、よく聞け」
 「はい」
 「私はおまえが好きだ」
 指をつきつけ、無垢な乙女のものとも思えぬ漢前な台詞を豪快に言い放つ。
 「おまえは私が好きか。どうだ。言ってみろ」
 「・・・この上なく。全身全霊をかけてお慕い申し上げております」
 深く頭をさげた浩瀚は、恭しく拱手したまま愛しい女王の前にひざまずいた。
 そっと褐色の愛らしい手をすくいとり、額に押し頂いてからそっと唇を寄せると、桜貝のような爪から、暖かい陽だまりの匂いがふっと香った。
 熱湯に触ったかのように、陽子はあわてて手を引っ込めた。
 「そ、そうか。よし上等だ。そうと決まれば話は簡単だ。わたしの覚悟はできてるぞ。おまえの覚悟はできているか?」
 「は。お覚悟と?」
 いったいなんの、と聞き返す前に、止める間もあらばこそ、さすがに顔をほおずきそっくりの朱色に染めながらも、陽子はおもむろに、しゅ、と衣擦れの音をひびかせて帯を解き、ぽいっと後ろへ放り投げた。
 ゆるくあわせただけの軽い上裳がはらりと左右に揺れて分かれ、透ける薄絹一枚に包まれただけの玉体の線があらわになる。
 「しゅ、主上!」
 珍しく狼狽の色もあらわにうろたえる臣下を尻目に、さあ浩瀚、と陽子は宣言した。
 「どんとこい!」
 「・・・・」
 有能な冢宰をして、これが初夜の誘いであることに気づくまでに寸秒を要したのは、許される範疇に入るだろうか。
 そして今の刻限がまだ朝の部類であること、さらに今から仕事をするはずであった予定を思い出したのは、しなしなとまとわりついた薄絹ごしに見える玉肌に手をのばし、生娘の餅のように柔らかな肉の弾力を掌で確かめたあとだった。

 あの時のお前はまったくもって変態そのものだった、と後になってこの時のことをふりかえった女王は、しみじみと、晴れて恋人となった男に言ったものだった。
 それに対し、冢宰はすましてこう答えたという。
 どんとこい、と言われて、どんといかぬ男なぞおりませぬよ、と。

 たしかにこのときの冢宰はかなり、どん、といったらしい。
 積翠台へ追加の書類をかかえて訪れた祥瓊が、薄絹一枚でぐったりした女王がひとりで座り込んでいるのを見つけて目を剥いた折、救出してくれた女史に対して女王は息も絶え絶えに「死ぬかと思った、白稚が鳴くかと思った」と呟いたという。
 そして、その朝、女王の着ていた薄絹はたしかに白一色の簡素なものであったはずなのに、みると隙間無く銀色の蝶々の柄が一面に散っていて、光の加減でキラキラと目に眩しく輝いていた。それはそれは派手なものに変わっていた。
 審美眼の確かな女史にとって、その衣は派手ではあるけれど、たいそう美しく華やかで、うら若い娘が着るには非常に好ましいものとして映った。
 「いいわね、これ・・・」
 ちょっとこの衣を借りるわよ、と、まだ気だるい様子で横になったまま、気付けの甘酒をちびちび飲んでいる女王に一言ことわると、女史はいそいそと衣を抱えていずこへともなく出て行った。

 小糠雨の降った翌日は、うららかな快晴となった。
 滴で洗われた空は抜けるように澄んでいて、中心で輝く赤い太陽をくっきりと際立たせていた。雲海は、赤と青と緑と、空と地がともに交じり合い、見るも美しい彩の波を岩壁に寄せている。
 陽子は浩瀚と並んで、例の奥まった一区画にある手すりによじのぼって、雲海を見下ろしていた。
 さすがに浩瀚はのぼるのを遠慮して、頓着なく座り込んでしまった主の腰を支えるにとどまった。
 しかしその腰に触れる手つきのしかと言葉にできぬ繊細な仕草は、あきらかに昨日までは見ることの出来なかった艶がのっている。
 「それで、主上。その衣を祥瓊はどうしたのですか」
 「それがさ・・・」
 陽子は首を振った。首元の紅玉の首飾りが涼しげに揺れる。
 「なんでも、こちらのでは初夜の翌朝、新婦さんが着る服っていうのが特別にあるそうじゃないか。真っ白い薄絹らしいな。祥瓊が言うにはね、慶特有の名産品のひとつとして、花嫁用の衣装を売り出そうっていうんだ」
 「あの蝶々の柄の布地で?」
 「そう。なぜだか知らないが、あのド派手にギンギラした蝶々が気に入ったんだってさ」
 こっちは気恥ずかしいばかりで穴があったら即座に入りたかったのにだぞ、と女王は唇をとがらせた。
 「で、正寝付きの織司のところに出かけていって、これと同じ布を織ってくれとさっそく頼んだそうだ。いくつか試作品を作ってみて、商品化できそうなものがあったら、まずは堯天の問屋におろしてみたらどうか、って」
 いずれ慶国中の花嫁が、翌朝にこの意匠の衣を着るようになったら素敵じゃない?と祥瓊は目を輝かせて言った。
 「でも・・・こんな派手なもの、売れるのか?」
 「あら、派手だけど品があるわよ。あたしが言うんだから嘘じゃないわ。それにね、慶の誇る女王さまの幸せにあやかって、自分も着てみたいと思う娘だってたくさんいると思うのよ」
 女王さまの幸せのあたりで顔から湯気をだした陽子に目もくれず、これは売れるわ、と自信たっぷりに祥瓊は握りこぶしを作った。
 「柄っていってもね、あの蝶々は、もとはシャボン玉製造機から出てきた蝶々なんだ。なんだかしらんがその・・・コ、コトが終わったら蝶々が衣にへばりついてとれなくなってしまったんだ。ほんとは、蝶々は触ると玉になって・・・」
 「知ってるわよ。だからね、衣と一緒に、装具師にも頼んでみたのよ。あまり上質じゃない紅玉で、庶民にも手がでるぐらいの廉価な首飾りを作れないかって。お安い御用だと言ってたわ。衣と首飾りを一そろいで普及させましょうよ」
 そのほうがきっと付加価値が高くつくに決まってる、と、したたかな経済活性化政策を考えているらしい彼女は、もはや世間知らずの深窓の姫君であったかつての面影は微塵もなかった。
 「なるほど。そうでしたか」
 浩瀚はくつくつ笑った。
 「しかし祥瓊の案、なかなかよろしいのではないですか?なんにせよ少しでも慶の産業が活気づくことは歓迎すべきです」
 そうかな、と首をかしげつつも陽子は、腰にまわされた浩瀚の手にそっと自分の手を重ねた。浩瀚の手は細いようでいて案外大きい。そしてあたたかな温もりが心地よい。
 「・・・主上。今宵もうかがわせていただいても?」
 「望むところだ。受けてたつ。ただ・・・」
 「ただ?」
 「景麒にはちゃんと報告したい。二人で挨拶に行かないか。あいつのことだ、またなんだかんだいらぬ心配をして気を揉んでいるだろうから」
 「もちろんでございます。ご一緒させていただきます」
 「ちゃんと言っておかないと、景麒がハゲるからな」
 「頭髪の薄くなられた台輔のご様子は、拙もあまり拝見したくはございませんね」
 「だろう?」
 よし、そうしよう、と陽子は手すりから飛び降りた。胸元に入れていた冬器を取り出すと陽にかざしてみる。丸い輪のむこうに、いまは黄金の太陽がのぞいて見える。
 「ちょっと振り回されたシャボン玉製造機だったけど、なかなか役に立ったよな。私はこうして、浩瀚をつかまえられたんだから」
 そういって微笑む陽子に、浩瀚は眩しいものを見るかのように目を細めた。
 「拙めにとっては、さだめし太陽をつかまえるためにある呪具といったところでしょうか。まさに、あなたさまは拙めの黄金の太陽でいらっしゃる」
 背後から両手を回して女王を腕の中に閉じ込めながら、さも幸せそうにささやく声に、陽子はくすぐったそうな顔で、これまた幸せそうに耳をかたむけた。首の紅玉が、陽光を浴びてひときわ燃え立つようだった。

<付録>
 慶国の風習に、好いた男との初寝の翌朝に、娘が純白の襦を着て祝う、というものがある。

 代々受け継がれてきたこの風習は、はるかな昔、達王の治世の初期頃から始まったものらしい。
 他国でも似たり寄ったりの習いはあれど、色が純白であること、襦の裾に黄色い鳥の刺繍を入れること、また娘は早朝に、襦をまとって川で沐浴せねばならぬことなどは慶国独特のものであるということだ。
 さて、名君とうたわれた達王もついには没し、その後、幾人もの女王がうたかたの泡のようにあわられては消え、消えてはまた移ろってゆき、・・いつしか時は景王・赤子の時代を迎える。

 蓬莱生まれという美しい女王が統べた赤楽朝は、革新的なことが次々と行われた時代でもある。
 書庫に眠る慶国史書には、この型破りな女王の成した改革のすべてが余すところなく記されて、その絢爛たる繁栄の様子が後世へと伝わっている。
 一方で、正式の史書ではない、王宮の瑣末な日常のことなどを面白おかしく語り伝えた民書とよばれる軽い読み物が多々残っているのも、この王朝の特徴であった。
 万事に大仰で形式的なことを嫌った女王の気質を反映してか、宮中の笑い話、風刺画集、女官の日記、恋愛手引書、季節折々の宮廷料理の解説本など、数え上げればきりがないほどの書物が、名もない作者たちによってあくことなく生み出されては巷間にも流通した。

 その中の一冊、『慶女百襦書』は、多彩な服を着こなした女性の絵図がついている、現存する中でももっとも華やかな画集のひとつだ。
 蓬莱風に言えばファッション誌、とでもいえるだろうか。当時の流行の服から袷の色の小粋な組み合わせ法、季節ごとに範から輸入される玉、簪の新作、TPOに合わせた髪形の紹介などのほかに、若い娘のたしなみとして、この初寝の襦についても紹介されている。
 が、この書物にのっている襦は一風変わっている。伝統的なものとは少しばかり異なって描かれているのだ。
 純白なところは同じだが、布一面には繊細な胡蝶の模様が、透かし織りの技法でぎっしりと織り込まれている。ぱっと見た感じは非常に愛らしいけれども、びっくりするぐらい派手でもある。そして裾に縫い取りされる鳥は、黄色ではなく青色に変えられている。特筆すべきな首飾りがセットになっている点だ。紅水晶の透き通った玉飾りが、娘の首をささやかながらも生き生きと取り巻き、立った今したたりおちた果実のしずくのごとく輝いている。
 画の下にそえられた文はこう伝える。
 この襦は、景王・赤子が初寝の翌朝に着ておられた衣装である、と。
 その美しい衣に感嘆した女史と女御が、すかさず写し絵をとって宮中に広め、やがては山をくだって暁天の街へ、さらには慶国全土へと伝わっていったものであるらしい。

 ところで、女王の相手が誰なのかについて書かれたくだりを読むには、また別の民書に場を譲らねばならない。


 
     
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