初夏、慶国楊州のX県では国内最大の馬市が開かれる。馬ばかりではなく馬牛羊犬豚鶏の六畜を扱うが、競馬や闘牛、品評会も開催され、今年は景王赤子の臨席もあるとのことで、ひときわ賑わっていた。
この馬市は三百年ほど前に始まった伝統的のある蓄獣の市だ。慶国南部の楊州のそのまた南に位置しながら農作物に乏しい寒冷な高原に、達王が牧畜を奨励したのが始まりだと言う。特に高原の中央を占めるX県では慶国原種の農耕馬がよく育ち、気質の穏やかな馬たちを調教して良質な乗馬も数多く産出するようになり、国一番の馬の生産地になった。
しかし、度々の景王不在による天候の乱れや自然災害は、もともと地力の乏しい高原に深刻な被害をもたらし、水は涸れ、木々は朽ち、草は根を絶やし、大地に不毛が広がった。食べ物がなくなれば蓄獣は育たなくなり牧畜は衰退する。高原に蓄獣の影はなくなっていった。
ところが馬の中には逆境に適応していったものもいて、草が無くなれば山羊たちの暮らす山間部に移動し、危険な山地で食糧をみつけ、野生の本能に従って生き延びた。やがてそれらを集めて、牧畜が再開したのは比王が立って十数年の頃、以来細々と途切れずに続いてきた。予王によるに女性追放の命令も、過疎の地においては周知されるものではなく、むしろ放牧をしながら移動式住居に暮らしていれば見つかって追放されることもない、と女たちの隠れ蓑にもなった。予王が倒れて現景王の治世となると、厳しい環境を嫌い女たちの多くは元の里に戻った。とはいえ、この地に残り根を張る女たちもいて、X県は慶国のほかの場所に比べれば女性の比率が高く、ほぼ半数に近い。おかげで復興も早く、今では往時の頃ほどとはいかないまでも、慶国では最も大きな家畜市となった。
「―――楊州侯より、是非とも馬市には主上のご臨席を賜りたいとのこと。X県ともなると遠方ですから、ご負担をおかけしますが、視察にはよい機会でございましょう」
ある日の午後、太師の下で机を囲んでいた三人娘が、勉学の中休みと老師交えてお茶を飲んでいるところに、
冢宰が現われそう告げた。浩瀚の薦めに、陽子も断る理由はない。それどころか居合わせた遠甫の言葉に、ぐっとつり込まれる。
「ほぅ。X県の馬市ですか。それは楽しゅうございますよ。牛相撲は誰でもが勝負に熱狂しますし、競べ馬は何頭もが一斉に走り、速さといい迫力といい面白ぅございます。その上、夏のX県は女性にもよろしい。昔から避暑地としても有名で、良き水が湧き出る地といわれましてな。“美人の水”と言われておる。飲めば身体を浄化し、口は香気を発する。目を洗えば瞳は澄み、沐浴すれば肌は玲瓏な玉となり潤う。女人の色を鮮やかにすると言われ……」
祥瓊と鈴の目が光る。もちろん冢宰浩瀚がこの場で話を持ち出したのは、二人が同行する前提なのだ。
「―――まあ、しかし、公務じゃから競べ馬を存分に楽しむ暇はないであろうな。陽子には気の毒だが、あれは市そのものの雰囲気を味わってこそ楽しいものだ。行幸となると陽子に自由はない。近くならばやりようもあるが、楊州は遠方。大変であることは覚悟せねばならぬよ」
遠甫の言葉は優しげだが、目は愉快に笑っていた。なにしろ陽子が承知する前に、祥瓊と鈴の目が『行くわよね!』『行くわよね!』と彼女を脅迫していたのだ。
「ああ。もちろん、それは受けるべきだな。多少の労は厭わないさ」
賢明なる冢宰の去ったあとも、美しさを求める娘心の高鳴りは続いていたらしい。
「―――それで、結局こうして市を自由に歩きまわれたのは、わたしだけって、申し訳ない気がするわ」
祥瓊は馬市の競技場で連れの男に話しかける。市の人出は数千人。草原に広がっているので人込みというほどではないが、荷馬車が並び店となっているあたりは、ぼんやりしていると人とぶつかるほど。二人は肩を寄せ合うように歩いていく。男にはそれが、なんとも嬉しい。
「いいじゃないか役得だ。祥瓊には馬を見る目があるから俺にしたってあり難い」
男は禁軍将軍の桓たいである。王の楊州視察の総責任者は、半日だけ市を自由に見て回る時間を得て祥瓊を連れ出していた。陽子は連日、時間の切れ目なく歓待を受けているところである。陽子の傍にはぴったりと虎嘯と鈴が控えていることだろう。それを思うと、祥瓊は自分だけがこうして楽しんでいれることが後ろめたくもなるのだ。
「それとも、なんだ。俺と一緒じゃ楽しめないか?」
「そんなこと! ああ、もう、そうよね。時間は限られているんだもん、三人分楽しまなくっちゃ。―――ほら、次ぎの競べ馬が下見場に出てきたわよ。性質をみるにはあそこで引きまわしている様子を見ないと。今度は力の強い子を選ぶんだったわね」
祥瓊は手持ちの書付を調べ、産地がどうの調教がどうのと、一人決めに続ける。桓たいは、一緒にいて楽しい、との返事を期待していたものの、あっさりかわされ心の中では溜息をついたが、祥瓊の高揚にこちらも上機嫌になる。
「よし、じゃぁ今度その産地のが勝ったら、20頭一緒に引取ると決めよう。もし、上位にこなかったら県正の推薦する方とする。あっちの馬だって悪くないのだから、この勝負で決めるぞ」
禁軍将軍がこっそりここにいるのは、軍で使う馬を選抜する目的もあったのだ。
競べ馬の競技場は、ただの広い平原で丁場柵すらない。競技のスタートとゴール地点の間に割り込まないように、出場を待つ馬たちは少し離れた草地に固められ、牧人が看視しているが、自由に歩きまわっている。さすがに下見場だけは、大きな囲いがあって、次ぎに出走する馬を人々が観察できるように分けてある。
その辺りを子供たちが、あっちへ行きこっちへ行き、右往左往しているのが微笑ましい。だが彼らはみんな今日の主役の騎手なのだ。競べ馬でおとなの男が騎乗することはない。祥瓊の故国でも早馬を競わせるのは子供の名誉ある仕事だった。祥瓊だって子供の頃、この時ばかりは怪我も厭わず、もちろん獣臭いのも嫌わずに乗ったものだ。そんなことを思い出すと、祥瓊の心は熱くなる。里廬の名誉をかけて、子供たちは愛馬とともに競うのだ。
「絶対、勝つわよ。身体の張りが特にいいし、手入れだって行き届いてるもの」
下見場にいた馬たちが、スタート地点に移動していくと、ゴールとの間になんとなく人垣ができていく。スタートとゴール地点には5色の大きな旗が立てられ風にたなびいている。コースの中間地点のあたりに荷馬車が並び、そのあたりから出走間近いことを知らせる銅鑼や鉦の音が響いてきた。桓たいと祥瓊はその中間地点辺りでレースを待つ。
二人と同様、多くの人々がコースの前に人垣を作っていった。女性追放の頃に女たちを保護してきたこともあり、この地域は女性の文化が豊である。勿論、移動生活をおくる人々は身に着ける衣装に財産をかけるという理由もあるが、総じて生活着だって装飾的で華やかだ。男性も女性も色とりどりの着物をまとい、軽やかに嬬裙をなびかせ、披巾や玉で身を飾っている。綿や絹織物の産地に近く、毛織物や皮製品、毛皮だって手に入るからだろうなど想いながら、祥瓊の眼はそれらを観察するのにも忙しい。
女たちの多くは、薄い絹を張った団扇で風を送りながら、もう片方の手には錫製の杯を持って、ときどき優雅に咽喉を潤おしている。歳のいかない少女たちでさえも錫の杯を握り締めて、肩を寄せあってはクスクスと笑いさざめいている。
――あの杯はなに? そう訊ねようと男の方を振り返る。ところがいつのまにか桓たいの姿は消えていた。
「桓たい?」
男は少し離れた荷馬車の横にいた。荷馬車の傍には小さな井戸があり、水を汲み上げて飲み物を配っている。観客たちが手にしている錫の杯はそこで渡されているらしく、馬車の横に張り出した屋台に人々が集まっていた。
「“美人の水”を飲まなきゃはじまらないだろう。祥瓊は慶国の人間じゃないから、こいつは知らないよな」
桓たいが持ってきたのは、やはり人々が手にしていた錫の杯。受取ると意外なほど冷たく、薄荷の香りが爽やかだ。
「遥か昔、この辺りには幾つもの玉泉があって、地中深くに玉石の層を造った。だが玉泉涸れて長い年月が経つうちに、そいつらは押しつぶされ水を生み出し、そのうち玉の精も枯れ果てて石灰のような層に変わったのだそうだ。やがて周囲の高山からの水が冷たい石層に阻まれて溜まり、水脈をつくった。この辺りで井戸を深くまで掘ると、この水脈に行き当たり、冷たい水を汲み出すことができる。しかもこの水は石層の成分が溶けこんだ発泡水だ」
「―――本当だわ。杯の中で泡立ってる……」祥瓊は桓たいの解説に少し感心する。
「この発泡水が“美人の水”ってわけだ。だが、そのままでは苦味がある。そこでこの地方特産の火酒に薄荷の葉と砂糖をたっぷり入れ、“美人の水”をこれもたっぷり注ぐ。砂糖を溶かし薄荷を匙で潰しながら、泡を少しずつ出して飲むんだ。玉蜀黍と黒麦から作られる特産の火酒はかるい味わいで“美人の水”とよく合う。薄荷なら草原中にある。この三つが一緒になって、馬市の伝統的な飲み物になったんだ。一人一杯ってもんじゃない。はじめに買った錫の杯にいくらでも注ぎ足していいから何杯でも飲む。きっと今日だけで何千杯もの“美人の水”が飲まれているだろうな。薄荷も砂糖も屋台に行けば山積みになっているぞ」
「桓たいの持っている方はなぁに? わたしのみたいに薄荷ははいっていないようだけど」
「これは火酒と半々にしたものだ。この酒はわりと素直な味だけど、香りがいい。こうばしくて、野趣がある。“美人の水”で割ると味も深まるし、気取った感じがなくて俺は好きだ」
見詰める男の視線を、女はやんわりと受け止める。
「祥瓊も好きだといいんだが」
祥瓊は微笑を浮かべ、匙をあそばせると、少し気取って一口飲む。ところが、はじめて味わう発泡水の思いがけない刺激に、気取った表情は消え失せる。“美人の水”は高い濃度の炭酸水だ。びっくり顔の祥瓊を見て、してやったりと、桓たいは笑った。
「―――なかなか。美味しいわ」
「無理するなよ。“美人の水”を飲めなくたって、祥瓊は美人だからな」
桓たいが大笑いするので、祥瓊は無性に悔しい。美人という言葉も、なんだか安っぽく聞こえて、これも悔しくなる。桓たいにしてみれば、有能な女史が見せた娘らしい表情が可愛く思えて仕方ない。この戯れをどちらが征するか、祥瓊が次ぎの一手を打つ前に、競べ馬の出走を告げる鉦の音が鳴り響く。
「さぁ、始まるわよ。絶対、わたしの言った通りになるんだから……」
見詰め合うことを止めると、どちらともなく肩を寄せ合い、腕を絡め、二人は同じ方を見て胸を高鳴らせるのだった。
「桓たいと祥瓊、上手くやっているかなぁ」
陽子は檜の浴槽にゆったりとつかって、一緒に入っている鈴に話しかけた。
馬市に来たものの、闘牛は決勝だけを慌しく観戦し、品評会の優秀者への褒賞授与も忙しく、今まで息を吐く暇もなかった。こうして昼間から入浴しているのも県正の歓待の一環で、必ずしも気の置けない時間ではないのだ。
「王を歓迎するのに専用の浴場まで造るってのは、少しやり過ぎという気もするけど。今度ばかりは有り難いよ……」
陽子はしなやかな身体を“美人の水”に遊ばせる。
海客の女王を歓迎するために、県正は蓬莱式の温泉風呂を造らせていた。常世の風習で入浴といえば、蒸し風呂が一般的であり、湯に浸かるという入浴は少ない。その上、浸かるという行為はもっぱら沐浴であり、沐浴に温水を用いることは更に少ない。特に“美人の水”は様々な成分が溶け込んだ炭酸水なので、沸かしてしまうと折角の水を滑らかにする炭酸が抜けてしまうので、冷たいまま行水のように掛け流すのだ。
しかし、女王が蓬莱にある温泉というものを気に入っており、慶国にそれが無いことを大変残念がっていると漏れ聞いた県正は、どうにかそれに近いものを、と工夫させたらしい。
「夏になるとお母さんがお湯をぬるくして、固形の入浴剤をいれてくれたっけ。本当の温泉には程遠かったけど、泡がぶくぶく出て面白かったけなぁ」
「わたしの頃にはそんなものはなかったわ。温泉なんて憧れだった……陽子はよく入ったの? 」
鈴は嬉しそうに湯をすくうと、何度も首筋に掛け、ぬめりを楽しむように手や胸元を撫ぜている。二人の肌にはビーズのように細かい泡がまとわり付く。身体を動かすと、炭酸のちくちくとした僅かな刺激がくすぐったい。
「わたしの頃だって紛い物の入浴剤や銭湯はあったけど、温泉地に行くことは滅多になかったよ。それに温泉にも硫黄が多かったり、鉄分が含まれてたり、いろんな種類があって、こんなお湯ははじめて。ほんとうに噂通り、肌が滑らかになっていく気がする。普通は掛けるだけだっていうのに、こんなにたっぷり使うって贅沢なんだよね。祥瓊もかなり心惹かれていたようだった」
「でも、桓たいと馬市に行ってみれば、と言ったら自分から喜んで行くと言ったのでしょ」
そうだよ、といって陽子は鈴の周りを泳ぐように移動すると、浴槽の縁に腰掛けた。
「鈴も虎嘯と行きたかったか?」
鈴は湯から上がった陽子の肢体をうっとりと眺めた。女性らしく淑やかな見栄えはまだ遠いが、活気に満ち美しいことには文句の付けようがない。そんな彼女だからこそ、本当は高原の野の香りに浸りたかったに違いない。
「わたしはここで陽子のご相伴をする方がいいわ」
「ほんとに?」
もちろんよ、と鈴が応えたとき、風呂の前室に女官が現われた。
「―――お飲み物をお持ちしました。馬市で慣例の発泡酒でございます」
「ああ、来た来た。構わないから、ここへ持って来てくれ」
陽子が悪戯っぽく言うと、女官は困った様子である。
「どうぞ、そこへお置き下さい。主上へはこちらでお出しいたします」
鈴は慌てて上がると、陽子を睨みつけてかるく着物をはおり、飲み物を運びに行く。
「陽子が頼んだの?」
「そう。桓たいがこの馬市名物の飲み物を頼んでおいてくれたんだ。わたしたちはお風呂にしているけど、“美人の水”は、こうやって飲むのが一番多いらしい」
祥瓊が受取ったのと同じ飲み物が、冷たい銅製の杯にいれられて陽子の手に渡される。
「うん。なつかしの“ソーダー水”の感触だ。桓たいも祥瓊もきっと楽しんでいるだろうな」
陽子はゴクゴクと飲む。
「あら、お酒が入って、ちょっといい感じになっているかもしれないわね」
ご馳走さま、と鈴は笑って陽子と見交わす。
「二人して、このお風呂分も飲んでくればいいんだ」
二人の娘ははじけるように声を上げて笑い出した。
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