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 「 麒麟の思い」
 
     
 

 「―――延麒」
 小春がそっと声をかけると、明かりもつけずに部屋の奥でじっと外を眺めていた金の髪の少年がわずかに振り返った。いつも笑顔の絶えなかった人懐っこい麒麟であった彼のその横顔に、深い憂慮の色を見て小春の胸がちくりと痛む。
 彼の気鬱の原因がわかりきっているだけに、小春は余計に辛かった。
 蓬山の新たな主として彼が卵果より孵ったのは十六年ほど前のことだ。六年して生国に麒麟旗が上がった。以来十年。安闔日が巡ってくるたびに我こそは雁の新たな王だと自負する者たちがこぞって蓬山へとやってきたが、天啓はいまだ下らない。
 それが、彼から笑顔を奪っているのだ。
 また廻ってきた安闔日。あとひと月もすれば今度の昇山者たちが蓬山へと辿り着き始めるだろう。
 今度こそ―――そう思う期待。
 でも、また今度も―――そう思う不安。
 「あせらずとも天帝がよきにお計らいくださいますよ」
 女仙の中にはそんな気休めの言葉を簡単にかける者もいたが、小春にそれはできなかった。
 なぜなら小春は知っているのだ。
 かつて雁には、主を選びきれずに寿命を迎えた麒麟がいることを。

 小春が雁に生を受けたのは、梟王の治世末期だった。梟王は治世三百年。即位して長く善政を布いたが、いつの間にか魔に心を蝕まれたのだろう。民を虐げ、悲鳴を聞いて喜ぶようになった。小春の廬もそうして梟王に滅ぼされた。少しの大人と少しの子供だけが残ったが、とても全部は食べていけなかった。だから小春は王母廟へ行って仙へ召し上げてくださいとお願いしたのだ。
 王母への賛歌一千唱で大願は成就した。女仙になってややすると、蓬山の捨身木に新たな雁の麒麟の卵果が実った。それを目にした時には本当に感動にうち震えたものだ。新参者ゆえ蓬山公の世話を任されることはなかったが、それでも雁の麒麟とまみえることができるのは何よりの幸せだった。
 いずれこの麒麟が新たな王を選び、雁を助けてくれるのだ。
 当時小春は、それを信じて疑わなかった。だが、その思いは三十年して見事に裏切られることになる。麒麟は、王気を見出すことなく息を引き取ったのだ。
 ―――小春。ごめんね。
 最後に聞いた彼の言葉を、小春は未だ鮮明に思い出すことができる。
 あれから幾度も麒麟の世話をした。その皆をよく覚えていたが、それでもことさら彼のことをよく思い出すのは、彼が小春にとって初めての麒麟だったからだろう。
 「小春?」
 暗い室内に響いた小さな呟きに、小春ははっと我に返った。
 自分から声をかけたというのに、いつの間にか自分の方が思考の淵へと沈んでいってしまっていたようだ。声をかけたままぼうっと立っている自分を怪訝に思ったのだろう。延麒は不思議そうに首をかしげつつも、どうしたことかと気づかわしげな視線を小春へ向けていた。
 「これは失礼しました、延麒」
 「いいえ。それはかまわないのですが……」
 延麒はわずかに首を振って、折り目正しくそう述べる。
 幼いころから貴公子のような優雅さと品の良さを備えた麒麟だったが、成獣してそれにますます磨きがかかったと小春は思う。それに近頃は憂いの影がかかって、「それがますます良い」などと新参の女仙の中には気楽なことを言う者もいたが、小春は、幼い頃のようにいつまでも屈託なく笑っていてほしいと願わずにはいられなかった。
 「どうかしたのですか?」
 延麒の問いかけに小春は努めてにっこりと微笑んだ。
 自分が笑顔でなければますます彼の表情が沈む。そのことを小春はよくわかっていた。
 「ええ。実は今、景台輔がお見えなのです」
 小春の言葉に延麒が軽く瞬いた。
 「景台輔が?」
 「ええ。何でも景王とのお約束でこちらにいらっしゃったとか。でも、特にお急ぎの様子でもないし、しばらくは蓬山にいらっしゃるとか」
 「―――そうですか」
 延麒は呟いて、わずかに視線を伏せた。
 慶国は治政三百年。延麒の生国雁の隣国で、胎果の女王が治めている国である。聞くところによると景王は、その登極を当時の延王、今は諡で卮王(しおう)と呼ばれる男に助けられた恩に報いんと、雁の王朝が崩壊するたびに雁の民を支援しているのだという。その義理深さと慈悲深さは、雁の民ばかりか十二国中の人々が称賛しているといい、そんな主を持った慶の麒麟はさぞや鼻が高かろうと思えば、延麒は己の境遇と比べてちくりと胸が痛んだ。
 「大事な時に邪魔をして延麒には申し訳ないと景台輔が。私に構わずともよいから勤めに専念してほしい、とおっしゃっておられましたけど、どうします?少しお顔を出されますか?」
 小春の問いかけに延麒は再び視線を上げた。
 胸の痛みを思えば、顔を出して平然としていられる自信はなかった。素っ気なく当たり障りない挨拶をするだけならいっそのこと、顔を出さない方がいいだろう。
 だがそう思う一方で、三百年の大国を支える麒麟に新参者が挨拶もしないとは、雁の体面を傷つけたりするのだろうか、とちらりと不安になる。それに、まだ生国を見たことがないとはいえ、雁は慶に多大な恩義を受けているのだ。全く顔を出さないわけにもいかないだろう。
 「いいえ。せっかくですから、一言ご挨拶しましょう」
  延麒が立ちあがると、小春はにっこりと微笑んだ。
 「そうなさいまし。景台輔が蓬山でお過ごしになったのはもう随分と昔のことですけどね、お二人は同じ蓬山に生まれた、いわば兄弟のようなもの。色々とお話を伺ってみられるとよろしいでしょう」


◇     ◇     ◇


 景麒の宮は紫蓮宮にあった。
 延麒が小春とともに紫蓮宮を訪ねると、景麒の姿は中の間にあった。椅子に静かに腰をおろし何やらじっと物思いにふける様子に、案内を受けて立ち入ったとはいえ延麒はばつの悪さを感じずにはいられず、一瞬このまま黙って立ち去ってしまおうかと思ったほどだった。だが、そんな延麒が思わず足をとどめてしまったのは、景麒の周りに金の髪の残像を残したような淡い光がたゆたっていたからだ。
 これが麒麟の気配……。
 延麒は、景麒の周りに見える金の光を興味深く見やる。考えてみれば、他国の麒麟に会うのはこれが初めてのこと。延麒が蓬山にいる十六年の間、延麒以外の蓬山公がいたことも、どこかの麒麟が訪ねて来ることもなかったのである。
 「―――これは、延麒」
 延麒が我を忘れて麒麟の放つ金の光に見入っていると、景麒がふと振り返って椅子から立ち上がった。
 静かな室内に響いた声に我に返り、延麒は慌てて拱手した。
 「おくつろぎのところ、お邪魔しました。お初にお目にかかります。延麒です。景台輔がお越しと聞いて、一言ご挨拶にまいりました」
 「気づかい無用と女仙に申し伝えておりましたのに……」
 延麒のあいさつに景麒はわずかにため息をついて、改めて延麒を見やった。
 「お忙しい折にお邪魔して申し訳ない。景麒です」
 景麒は言って拱手する。慣れた感じのその自然な優雅さに、延麒は思わずほうっと息をついた。優雅だ、品が良い、などと女仙にこれでもかというほど称賛の言葉を受けて、自分の身のこなしにひとかたならぬ自信のあった延麒だったが、たった挨拶ひとつで、格の違いというものを見せつけられたような気がした。
 「進香の邪魔にならぬよう気をつけますゆえ、しばらく逗留すること、延麒にも承知して頂けるとありがたい」
 「それは、もちろんです」
 延麒が頷くと、景麒はわずかに目を細めて微笑んだ。
 その笑顔に延麒はふと、この方に自分の胸中を相談してみようか、とそう思った。
 自分の今の悩みなど女仙に言ってもせんないこと。言われた女仙もただ困るだけだろう。そう思えば不安を吐き出す先を見つけられずに、ただただ内にしまってきたが、彼ならば同じ麒麟、自分の悩みも真摯に耳を傾けてくれるだろうし、ひょっとしたら有益な助言がもらえるかもしれない。
 ―――だが、何と切りだしてよいものか。
 延麒が言葉を探して身をそわつかせると、幸いにも景麒から声がかかった。
 「お茶でもいかがです。お忙しいのでなければ、ですが」
 延麒はそれに頷いた。


◇     ◇     ◇


 二人の間に静かな時間が流れていた。
 景麒は穏やかな麒麟だった。言葉少なく、変な気遣いでこちらが委縮することもない。ただただ静かにそばにあって、それでなんとなく安堵するような不思議な空気を持っていた。
 最初こそ、何と切りだそうかと思いを巡らせていた延麒だったが、静かに茶を飲んでいる間に無理に言葉にすることもないのではないかと思えてきた。
 彼とともに過ごす静かな時間に、それだけで心が少し軽くなったような気がした。
 「この紫蓮宮は、かつて蓬山にいた時に住まっていた宮なのですが」
 ややして景麒が静かに口を開いた。
 「あの頃とちっとも様子が変わらない。あれから三百年も経ったはずなのに、ここにいると一体今がいつなのかと不思議な気になってしまいます」
 「ここにお住まいのころを思い出しますか?」
 延麒が問えば、景麒はわずかに息をついた。
 「思い出す、というより、無理にも思い出されたといった方が正しいような気がします」
 その言い方は、思い出したくもないことまで思い出してしまったという感じがして、延麒は先に続ける言葉を失った。余計な言葉を口にして、彼を不快にさせたくはなかった。
 「私はここで二十数年過ごしました」
 景麒の続けた言葉に延麒ははっとする。
 では彼も、自分と同じようにもどかしい時を過ごしたのだ、と思ったのだ。
 「最後の数年は、焦りばかりを感じていたように思います」
 「このまま王に逢えないのではないかという不安からですか?」
 恐る恐る問いかければ、景麒の視線がふと延麒に向けられた。景麒は考えるように黙り込んで、ややしてゆっくりを首を横に振った。
 「いいえ。今考えれば恐らくそれは、いつまでたっても昇山してこぬ王への怒りにも近い感情でした。いつまで待たせるつもりなのだろうか。いつになったら昇山するのだろうか。このまま生国の空位が伸びれば国はますます荒れる。そのことを自覚しているのだろうか。―――王を恋い慕う、というよりも、国の荒廃を憂いて焦れておりました」
 「……すごいですね」
 延麒は息をついた。
 王に会えるのだろうか。本当に自分に天啓は下るのだろうか。そんな心配をする自分とは違う視点で物事を捉えていた景麒を延麒は素直にすごいと思った。
 やはり、自分の不安など矮小なことなのだ。同じ不安を抱えるなら、王がいなければ国が荒れると景麒のようにそちらに重点を置くのが宰輔としての本当の役目なのだろうと、延麒は眼の覚める思いだった。
 そんな延麒に景麒は苦く笑う。
 「すごいものですか。そんな私の思いが、二人の女性に多大なる苦労を背負わせた。一度ならず二度までも、私は同じ過ちを犯したのです」
 「過ち……ですか?」
 延麒が恐る恐る問いかければ、景麒の瞳が揺れた。
 「私が仕えた二人の主は、どちらも自ら王たらんとした方々ではありませんでした。彼女たちは、天啓が下らなければ得たであろう幸せを奪われ、天啓が下らなければ背負うことのなかった重責をその身に背負ったのです。ですが私はそれを、王に選ばれた以上当たり前だと思い、自分の行いを振り返って検証することなど思いもよらなかった。少なくとも私は、彼女たちの人生を変えたのだという自覚を持つべきだったのです」
 そこまで言って、景麒は軽く息をついた。
 「―――申し訳ありません。これから王を選ぼうとする延麒に話すことではありませんでした。自分のふがいなさを憂えるあまり、余計なことを」
 出来れば忘れていただけるとありがたい、という景麒に延麒は慌てて首を横に振った。
 「いいえ!」
 思わず声が大きくなったことを恥じらって、延麒は改めて景麒を見やった。
 「……出来れば、お話し下さい。その、今は少しでも王を選ぶとはどういうことか知りたいのです。王気とはどんものか、天啓とはどんなものか。そんなことも気になるのは確かですが、王と共にあるとはどういうことか、このごろよくそれを考えるんです。でも、当然考えたって何か答えが見つかるわけでもないし、こんなこと女仙に聞いたってわかるはずもないし……」
 延麒はなぜだか泣きそうになる自分を自覚して、慌てて瞬きを繰り返した。
 「景台輔は、王を選んで後悔なさっているのでしょうか?」
 「いいえ」
 即答された答えに、延麒は思わず景麒を見た。
 「主上に多大なる苦労を背負わせたと思ってもなお、やはり私は主上に会えたことを幸せに思います。長きにわたり苦悩したと知ってなお、一日でも長く共にありたいと願います。仮に、主上と出会ったあの日に戻ってやり直せるならばどうするかと問われても、やはり私は主上の前に膝を折り誓約を口にするでしょう。許しを頂けぬとあれば、無理にでも許すといわせるでしょう。それが麒麟の性だからといわれると、そうかもしれませんが、やはり私は主上と共にあれぬ日など想像もつかないのです」
 「―――景台輔は、景王がお好きなのですね」
 延麒の呟きに景麒は小さく笑った。
 好きという言葉では表せないほど自分は主上に恋い焦がれている、と景麒は思った。
 一度目の主を失った時、身が切れられるほど辛かった。しかしその悲痛の中で景麒を何より落胆させたのは、「この方ではやはり駄目だったのだ」という思いであった。
 今に思えば麒麟でありながら、自分は何と恐ろしいことを思ったのか。でもその時はただただその思いに捕われ、「次こそは務めを全うしてくれる主であってほしい」と願ったのだ。
 そういう意味においては、今の主は景麒にとって理想の主となった。山野は豊かになり、大地は豊饒をもたらし、治世は安定し、民は安心して暮らせるようになった。これ以上何を望もうか。
 だが、今になって景麒には、それ以上の唯一の願いができてしまっていた。
 主上に一己の女性としての幸せを―――
 かつての主が望み、自分が否定したもの。
 景麒は今、それを主上に与えられなかった己をひどく後悔していた。

 「王を選ぶとは、どういうことでしょうか?」
 二人の間に静寂が流れ、随分と経ったのち、延麒は静かに問うた。
 その問いに景麒は静かにほほ笑む。
 「麒麟にとって何よりの喜びでしょう」
 しかし、と景麒は続ける。
 「同時に苦しみでもあります。出会いは、いつか訪れる別れの始まりですから」
 「―――景台輔」
 「私が後悔しているのは、私が主上に与えられた幸せの半分も主上にお返しできていていないと思ってしまうからでしょう」
 景麒は言って、そっと立ち上がった。そして延麒の手をとって、延麒も立ちあがらせる。
 話はこれでおしまいなのだ。そう思えば名残惜しかったが、延麒はこれ以上ここにとどまれるような言葉を持たなかった。
 「もう、お行きなさい。つまらない愚痴につき合わせてしまって、申し訳ありませんでした。今度こそ、雁の新王と出会えるとよいですね」
 「……焦っておりましたが、今では今度の昇山者に王がいなくても良いような気がしてきました」
 「望まずとも、出会う時には出会うものです」
 「また、お会いできますか?」
 延麒は訪ねたが、景麒は小さく笑っただけだった。
 「―――会えますよね。慶と雁は陸続きの隣の国ですもの」
 延麒は言ったが、そんな機会が巡ってくる可能性が低いことを薄々感じていた。景麒の様子から、なぜここにいるのかなんとなく察しがついていたのだ。
 それでも、延麒は言わずにはいられなかった。
 「僕が生国に下ったら、真っ先に知らせを出します。僕が選んだ方はこの人ですって紹介します。だから……」
 「では、主上のお許しがいただけたら」
 景麒の言葉に頷いて、延麒は名残惜しく紫蓮宮を後にしたのだった。



 
 
     
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