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 「 ある官吏の日常 」
 
     
 


 文房四宝―――文房具の中心である筆墨硯紙の四つを人々はそう呼び賞玩する。その中でも特に、使用しても消耗することがなく骨董価値の高い硯は重んじられ、褒賞としての格式も高い。つまり、もし文官が主上より硯を賜ることあれば、それはこの上もなく名誉なことで、硯の持つ価値以上の喜びと感動を抱かせるものなのである。
 さて、慶国に新しい女王が立って数十年。常に臣下の苦労を慮り、感謝と気配りを忘れない懐深いこの女王は、そう頻繁にというわけではないけれどもよく褒美を下す方であった。それは、手ずからの茶という(ある意味とても贅沢ではあるが)ささやかなものから、絹や錦、玉という高価なものまでさまざまであったが、なぜか今のところ文房四宝が下されたことは一度もない。
 主上より賜ったものが高価なものであればあるだけ、それは間違いなく名誉なことである。だが、文官にとって文房四宝はまた違った意味を持っており、玉よりも文房四宝を、その中でも特に硯を、と願う者は実は少なくはなく、国府で働く文官たちの多くがそんな日が来ることを密かに夢見ているのである。
 そんな状況にあって、最近慶国の官吏たちが熱心に噂し合う話題があった。それは
 「最初に、主上より硯を賜る栄誉を得るのは誰であろうか」
 というもので、そんな話題は表に漏れればあまり品の良いものではないのだが、麗しき女王を崇敬する思いが強いがゆえにどうしたって気になってしまうことであった。
 そしてここにも、それを話題に酒杯を傾ける三人の官吏がいた。
 場所は治朝、官邸の立ち並ぶ一郭、朝士を務める男の部屋。将来を嘱望されている紅顔の美青年は、名を夕暉という。
 「おれは、やはり冢宰が固いと思うな」
 そう言って手にしていた杯をくいっと傾けたのは、いつも酒びんを抱えてふらりとこの部屋にやってくる客人。夕暉にとっては大学の先輩に当たる男で、英qという。夕暉も舌を巻くほど頭の回転が良い男だが、同時に毒舌で、どきりとするようなことをポロリと口にしてしまうようなところがある男である。
 そんな軽口がいつか身を滅ぼすのではないかと密かに案じている夕暉であるが、仕事ではそんな隙を見せないのか、この男、今は田猟を務める。順調すぎる出世だ。
 そんな英qと同期であるのがもう一人の客人。明徳といい、二人より少し年長者に当たる彼は、英qの呟きに柔和な笑みをこぼした。
 「なるほど、妥当な線だ。冢宰は何と言っても主上のご信任厚いお方だからな」
 そう言いつつ夕暉の杯に酌をしだしたので、夕暉は慌てて姿勢を正して杯を捧げ持った。
 学生時代に培われた上下関係というのは、官吏になってもそう抜けるものではない。特にこの明徳は、学生の頃より温和で人当たりがよく面倒見も良かったものだから、今でも敬うべき先輩の一人として夕暉の中で存在が大きい。
 「ありがとうございます」
 夕暉は軽く会釈して杯を干す。先輩に注がれた酒は、一気に干すのがこちらでは礼儀だ。
 「で、朝士殿はどう思われるかな?」
 そう言って明徳は、どことなく悪戯っぽく笑う。というのも朝士を務める夕暉は、田猟である英qや御史である明徳に比べて身分こそ下であるが、二人よりも主上に近い。朝士は、警務法務を司り、諸官の行状を監督する朝外の官。州侯に至るまでを処断でき、それを王に奏上できる唯一の官なのである。
 つまりは二人の行状を王に伝えて処断することもできるわけで、明徳はよく冗談で「夕暉を敵に回すわけにはいかない」といってわざと恭しい態度をとったりするのだ。
 ただ、明徳がすれば気心知れた者同士の戯れとなり、英qがすれば何か下心があるのかとつい穿ってしまうのは、これまでの三人の関係を考えればいたしかたないことだと了承してもらいたい。
 「僕は案外、冢宰殿ではないような気がしますね」
 夕暉はそう言いながら杯を返した。
 明徳が受け取ったその杯に、今度は夕暉が酒を注ぐ。その傍ら
 「ほう」
 英qが息を吐いて片眉を上げた。夕暉の言葉に明らかに興味を持ったようで、口の端に小さく笑みを乗せ好奇の視線を夕暉に注いだ。
 「なぜそう思う?」
 「主上が浩瀚さまに硯を賜るつもりがあるのなら、もうとっくにそうなさっていると思うからですよ。これまで機会はいくらでもあったのですからね」
 「なるほど」
 夕暉の言に明徳が頷く。英qは黙ったまま空になった杯に手酌で酒を注いでいたが、視線は夕暉から外れてはいなかった。
 「それに、数年前主上は浩瀚さまに玉璧を下賜なさいましたが、実はその時、硯はどうかという話も出たようです」
 「ああ、あれだな。即位十五年に際して主上が冢宰の労をねぎらわれたとかいう噂の」
 ええ、と夕暉は頷く。
 「でも、主上は硯の案は退けられた。書能家で知られる浩瀚さまです。硯よりも玉璧の方が褒賞としてふさわしかったとは、僕には思えませんけどね」
 「それはどうかな」
 ここまで黙っていた英qが、指についた酒をぺろりと嘗めて、わずかに眉をしかめた。
 「文官にとって硯を下賜されることはこの上ない名誉だが、玉璧はその上を行く。何せ常に身につけられ、周囲に見せびらかすことができるからな」
 「確かにそうです。でも、浩瀚さまはその玉璧を、一度も身につけられたことはありません」
 「そうなのか?」
 「僕のきき及んでいる範囲では」
 「女史殿の情報か?」
 口の端にどことなく人の悪い笑みを乗せる英qに、夕暉は肩をすくめた。
 「まあ、そんなところですよ」
 「聞くところによると、下賜された玉璧は、それは見事なものだったとか?」
 「ええ、もともと主上の即位十五年の記念になるものをということで戴より取り寄せた逸品でしたからね。最初はその玉で主上のための歩揺を作る予定だったとか。しかし届いた玉をご覧になった主上が、細かく砕いてしまうのはもったいないとおっしゃられて、それでは璧にいうことになったそうですが、璧に仕上がったものをご覧になった主上が浩瀚さまに下賜なさったんです」
 夕暉が言えば、英qはわずかに眉をひそめた。
 「……それは単に、璧の出来栄えがお気に召さなかったんじゃないのか?」
 声をひそめたのは、さすがに大声で言葉にするのは憚ると思ったのか。しかし確かに、今の説明だけ聞けばそうととれる。
 だが、夕暉は小さく首をかしげた。
 「冬匠渾身の一作だったという噂ですよ」
 「それと主上が気にいるかどうかは、また別の問題だろう?」
 「―――それはそうですけどね」
 「だがそれが事実なら、冢宰はこれまでの労をねぎらわれたというよりも、いらないものを押しつけられたということになるわけだ」
 さらり、と明徳が口にした。その言葉に、英qはどこまで本気なのか、意外にも生真面目な表情で頷いた。
 「ああ、だから一度も身につけないわけだな」
 そんな二人のやり取りに、夕暉はわずかに顔をしかめた。
 「浩瀚さまがそんな大人げないことなさるかな」
 「じゃあ、なんかいわくつきだったとか」
 「例えば、主上が身につけては大事に至るような呪がかかっていたとか?」
 「そうそう、絶対襦裙を着たくなくなるような呪とか。それで冢宰が引き取ったのさ。元々めったにお目にかかれない艶姿なのに、まったくなくなっては仕事の張り合いをなくすからな」
 「なるほど。それは確かに大変な呪だ」
 明徳が笑含みに肩をすくめれば、英qは溜まらず笑い声を洩らした。
 「まったく、もう。お二人とも、冗談が過ぎますよ!」
 夕暉がたしなめると、二人は同時に肩をすくめた。一見正反対に見える二人が長らく親しく付き合っているのは、こうして意外とうまが合うからだということを夕暉は再確認して溜息をついた。
 「もう、どうして今日は凌雲師兄がご一緒じゃないんです」
 凌雲師兄ならこの二人をきちんと御してくれるのに、とため息をつけば、英qは残念だったなとばかりに笑みを浮かべた。
 「あいつは今、例の事件の取り調べで忙しい」
 「例の……、というとあの近頃城下を騒がせていたやつですか?」
 「ああ、そうだ」
 「やれやれ。司法局も次から次へと忙しいですね。お体を壊さなければいいけど」
 「なに、そのための仙だ」
 「仙だって、不死ではありませんよ」
 「まあ、そうだが。あいつは次の移動で昇進がかかっているからな。しばらくは頑張りどころだろう」
 「え?凌雲師兄ってまた昇進するんですか?」
 「嫌味な奴だろう?」
 「―――ええっと、そんなことは思いませんけど」
 どこまで本気か、かなりむっと顔をしかめた英qに戸惑いつつ、夕暉は「それにしてもすごい」と思わず呟く。
 「階段を駆け上るように官途を行かれますね。案外、最初に硯を賜るのは凌雲師兄かもしれませんね」
  しみじみと夕暉が呟けば、英qが面白そうに笑みを浮かべた。
 「なるほど。だがあいつは、硯を賜るのが先か、過労死するのが先かって感じだな。賭けるか?」
 「ちょっと!縁起が悪すぎますよ」
 夕暉がたしなめれば、英qはわずかに肩をすくめた。
 「夕暉は、少しは遊び心というやつを学ぶべきだな」
 「そこが夕暉のいいところだろう?」
 「英q師兄は、心を遊ばせすぎです」
 「それは言えてる」
 夕暉の言葉に明徳が声を立てて笑った。
 こうして無駄話は尽きることなく、いつものように世は更けていくのである。

 
 
 
  拙宅初登場夕暉でした。
・・・う〜ん、なんというか。おちのない話ですみません。
 
 
     
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