「―――あ」
金波宮内殿、積翠台と呼ばれる建物の一郭で、吐息にも似た密やかな声が上がった。耳をそばだてねば聞こえぬほどのその小さな響きは、開け放たれた窓から届く細い滝の音にたちまちの内に溶けて消え、あとにはもとの静寂だけが残る。
しんと静まりかえった室内で、部屋の主はひとり顔をしかめた。
「また、やってしまった」
そう呟く視線の先には、墨でつぶれて全く読めなくなってしまった文字があった。
玉座について数年。たいていのことには馴染んできた陽子であるが、どうにもこうにも難儀していたのが文字である。読むのも書くのも難しい、ということもその要因のひとつではあったが、何よりその文字を書く道具が最大の難点であった。
つまりは筆。今まで使い慣れた鉛筆やペンとは全く違った力加減や筆運びを必要とするその筆記具が、陽子の執筆意欲を往々にして著しく阻害するのだ。
陽子は、あと数行で完成するはずだった書状を眺めて顔をしかめた。
まだ、たどたどしい字体は我慢できる。字がへたくそだろうが何だろうが、それでも一応は正式書類として成立するからだ。しかし、力加減を間違えて読めぬほどに字をつぶしてしまえば、それはもう書き直すしかない。何と書いてあるかわからない不明瞭な文章を、国の正式文書にするわけにはいかないのだ。
つまりは、この書類も書き直さねばならないわけで・・・・・・
「あー、もう!ペンさえあれば」
陽子は低く唸って、手に握る筆を睨んだ。
とにかく、これしか筆記具が存在しないという事実が憎い。
なにせ三回目なのだ。この書状を書き直すのが。すでに陽子のやる気は、地を這うほどに低い。
「ボールペンよこせなんて贅沢言わないから、せめて万年筆!」
その位開発されていても良いはずだ!とひとり叫んで、陽子ははたと我に返る。そして、あー!と声を上げるや、ひとりにんまり―――否、にっこりと微笑んだ。
「すっごい、いいこと思いついた!」
叫ぶや陽子はしばし思案し、自分の思いつきが実行できそうな場所を探す。そして思い当たる場所を見つけて、軽やかに立ち上がった。
もし彼女の半身がこの場にいれば、絶対に
「余計なことをお考えにならずに、さっさと書き直してください」
とつっこみを入れたであろうが、幸か不幸か、ここにはいま陽子しかいなかった。
◇ ◇ ◇
浩瀚は、その日のことを一生忘れないだろう。否、忘れることができないだろう。それ程に衝撃的で、浩瀚はこの時ほど自失したことはなく、世界が暗転するとはこのようなことを言うのかと身をもって知った瞬間であった。
それは、慶の国歴で赤楽四年のこと。来年の予算案の審議がようやく終わり、宮殿内がほんの一瞬ほっとしたような空気に包まれた日のことである。浩瀚は冢宰府にて王に奏上する書類を取り纏めていた。
いつも通りの日常。何の違和感も予兆もなかった。それなのに、そこに何の前触れもなく、二声氏が飛び込んできたのである。
「冢宰、主上が!」
二声氏はそう叫ぶなり浩瀚の前に額ずいた。伏礼がとうに廃されたなどという事実に気をやる余裕もない様子で、顔は血の気が引いて真っ青、ただ事でないのは一目瞭然だった。
浩瀚は、ただならぬ二声氏を見やって息を呑んだ。
二声氏は白雉に仕える官だ。白雉とは一生に二度だけ人語を以ってなく霊鳥で、一度目は「即位」を、二度目は「崩御」を鳴く。ゆえに白雉を二声ともいい、白雉に仕える官を二声氏という。彼らの仕事は、主に白雉の世話をすることであるが、白雉が鳴けば朝にそれを伝えるのも彼らの役目であった。
つまり彼らが冢宰たる自分に伝えることは二つしかない。即位か崩御。そして現在王の立っているこの国にあっては、もはやひとつしかないはずだった。
「・・・・・・まさか」
浩瀚は、震えの来た右手を押さえるように左手でおおったが、留められるどころか震えは左手にも伝播した。
なぜ。どうして。あり得ない。そんな馬鹿な。
瞬時に色んな感情が駆け抜けて浩瀚は一瞬自失した。混乱した思考の中で浩瀚は己の足もとに額ずく二声氏を見やる。
「―――主上は」
「梧桐宮においでです。どうかすぐにおいでくださいませ」
浩瀚にすがるような二声氏の声は、わずかに震えてうわずっていた。
なぜ梧桐宮においでなのか。
浩瀚は二声氏を引き連れて西宮へと向かいながら、そのことを考えていた。主上の身に変事が起きたゆえに梧桐宮へ向かわれたのか。あるいは、梧桐宮で変事が起きたのか。ならばなにゆえ内殿で執務をしているはずの時間に梧桐宮へ行くことになったのか。今ここで考えても埒があかないとは重々承知しながら、浩瀚は考えずにはいられなかった。
謀反なのか、事故なのか。あるいは、主上自身によることなのか。
わからない。
情報のないことにいら立ちながら、浩瀚はとにかく梧桐宮へと急いだ。
「二声氏」
道行を急ぎながら浩瀚が声をかければ、二声氏は、青い顔をわずかに向けた。
「主上はいつ梧桐宮へいらっしゃったのだ」
「午過ぎでございました」
「お一人でいらっしゃったのか」
「はい。……急なご来訪で」
「なぜいらっしゃったのか、理由を知っているのか?」
「―――なぜ?」
浩瀚の問いを二声氏はゆっくりと繰り返した。
真っ青だった顔色は、さらに色を失くした。浩瀚の問いは、二声氏をさらに動揺させたようだった。
「それがわかるのならば、我々はこのように狼狽したりは致しません!」
悲痛な叫びをあげながら、二声氏自身誰か理由を教えてくれと心の底から願っていた。
◇ ◇ ◇
その日の午すぎ、梧桐宮は、思わぬ来訪者を迎えて急に浮き足立った。突如何の前触れもなく、王が現われたのである。
梧桐宮は、霊鳥の住まう後宮の一郭。その霊鳥の一種、人語を運ぶ鸞と呼ばれる鳥を現景王が頻繁に使うということは、梧桐宮に務める官なら知らぬ者はなかったが、こうした突然の来訪を受けるのは初めてのことだった。自分達の対応に何やら不備があったのやも知れぬと少々青ざめながらも、官らはとにかく王を迎えた。
陽子の破天荒にいつもつき合わされている彼女の側近達ならいざ知らず、これが普通の官の普通の反応なのである。
「あー、急に邪魔して悪いな」
陽子は、さっと跪礼して居並んだ官らに鷹揚に言葉を掛けると、努めて穏やかに問いかけた。
「大したことじゃないんだけど。ちょっと、ここにいる鳥を見せてもらってもいいかな?」
「―――はあ」
梧桐宮を取り纏める大卜は、その言葉をそのまま受け取ってもいいものか迷いつつ、とにかく女王を宮に招きいれた。
「へー、ずいぶん気持ちがいいところだなここは」
陽子は、梧桐宮の各宮にぐるりと囲まれた庭院を見渡して呟いた。その名にふさわしく庭院には梧桐の木々が青々と茂り、さんさんと照りつける日の光をその葉に受け止めて、地上には柔らかな木漏れ日を落としていた。
その庭を望む堂屋(たてもの)は一風変わっており、庭側の壁はすべて床から天井まで届く大きな玻璃がはめ込まれ、燦燦とした陽光を余すところなく室内に取り込んでいた。中に入ればさらに驚く。陽子が使う部屋と変わらぬほど細やかな手入れが行き届いたそこは、しかし堂室の主は確かに鳥なのだろうと思わせる作りになっていた。
「なんとも豪華な巣箱だな」
陽子は興味津々で室内を見回しながら思わず感嘆する。
「私より扱いがいいんじゃないか」
その時、室内を自由に飛び回っていた鳥が陽子のそばに飛来して止まった。鳥は、陽子につぶらな瞳を向けてのどを鳴らす。
その姿を見て、陽子はくすりと笑った。
「ごめんね。今日は仕事じゃないんだ」
飛来した鳥の名は鸞。人語を覚えて相手に届ける。王を発信元にするか、受取人にするかでしか使えないその鳥は、自分たちの主人が誰であるかしっかりと認識しているのだろう。それでなくとも、陽子は頻繁に鸞に言葉を託す。鸞とは馴染みが深かった。
今日はどこへ言葉を届けるのか。陽子を見つめる鸞の瞳がそんな期待を含んでいるように見えて陽子は謝る。鳥はわずかに首をかしげるような仕草を見せたあと、不満を表すかのようにもう一度のどを鳴らした。
「それにお前じゃ、ちょっと小さい」
不思議な王の呟きに、今度首をかしげたのはそばに控えていた大卜だった。
呟きの真意はわかりかねるが、どうやら無目的ではなさそうなのは察する。では、と大卜は鳳凰の住まいへと王を案内した。
鳳凰の住まいでの王の挙動は、明らかに不審だった。
室内をうろうろと歩き回り、なにかを探すように辺りをきょろきょろと見回していた。務めに怠りがないか抜き打ちで見に来たのかも知れない。王の行動は大卜にはそうとしか映らず、なにか抜かりがなかったかとあれこれ思いやりながら大卜はひやひやしていた。
「・・・・・・ずいぶん綺麗にしているんだな」
その声が少々残念がっているのが気になるところであったが、大卜はひとまずほっと胸をなで下ろす。王の不快を買うような手落ちはなかったと確信したからだ。
「それはもう、大切な霊鳥を預かるお役目にございますれば、下官らにもゆめゆめ手抜かりなどないようにと日々言い聞かせております」
「仕事熱心で良いことだ」
「―――白雉も見て行かれますか?」
大卜は気をよくして王に問いかけた。ほっとしてみればこれはまたとない機会だ。自分たちが日々どれほど役目を忠実に果たしているか、主上に知ってもらう良い機会である。王にお褒めの言葉を頂いたとなると、官としてこれほどの誉れはない。それに、と部下思いの大卜は思う。
白雉に仕える二声氏は、気の抜けぬ役目でありながら日々の仕事ぶりはいたって地味だ。なにせ、白雉は生涯に二度しか鳴かぬ。それが、王が登極する時と崩御する時なのだが、どちらもいつ鳴くかわからない。しかしどちらも聞き漏らすわけにはいかない重大事。ゆえに二声氏とは始終気が抜けず、白雉の身の回りの世話が済んでしまえば、あとは耳を澄ましていつ鳴くとも知れないその声をただじっと待っているだけなのである。そんな彼らの元に主上がお渡りになったとしたら、彼らにとっても励みになろう。
「ああ、白雉か」
陽子は大卜をふり返った。
「そういえばまだ一度も見たことがなかった。せっかくだから見ていくか」
王の呟きに、大卜はにっこりと微笑んだ。
◇ ◇ ◇
これからどうしなければいけないのだろうか。
浩瀚は正気を保つために無理やりに冷静に思考していた。
王が崩御したのなら、すぐに仮朝を立ち上げねばならない。六官の長らと今後を合議し、白雉の足を御璽の代わりとして書面を作成せねばならない。
白雉は今、その足を切りおとされるのを待っているだろう。
その場面を想像し、胸に痛みが走る。詰まりそうになる息を、浩瀚は必死に取り込んだ。
これから慶はどうなるのか。
冷静に思考しようとしても、胸は苦しくなるばかりだった。
台輔が残されれば、次王の選定はすぐに始まる。しかし、二王を短命で失った麒麟に三王目を選ぶことを望まない者達が出てくることは必至だった。
すぐさま朝は二つに割れるだろう。
それに、誼にしていた隣王が亡くなれば、雁はさっと掌を返して慶から手を引くに違いない。
慶は間違いなく混乱する。
そして、彼女のいない混乱した慶を自分が治めていくのだという気概など浩瀚は持てそうになかった。
「こちらです」
二声氏の声に浩瀚は我に返る。白雉のいるという堂屋がすでに目の前に迫っていた。
飛び込むように部屋に駆け込む。
浩瀚は、目に飛び込んできた光景に言葉を失った。
「主上!どうかお静まりを」
「主上!落ち着いてくださいませ」
浩瀚の飛び込んだ部屋の中には、官らの悲痛な叫び声が響いていた。
部屋の中を大きな白い鳥がバサバサと飛び回る。そしてそれを元気よく追いかけまわしているのは、なんとこの国の女王ではないか。
「しゅ、主上!?」
浩瀚は己の目が信じられないとばかりに目を見張った。
しかしどう見ても、目の前に広がっている光景は女王が元気に白雉を追い回しているのである。
女王は、
「飛んで逃げるなんて卑怯だ!」
「一枚くらいいいじゃないか、ケチ!」
「大人しくしていればすぐ済む!」
などとわけのわからないことを叫んでいる。
とても正気の沙汰とは思えなかった。
「一体、主上はどうなさったのだ」
「それがわからないから、こうして冢宰をお呼びしたのではないですか!」
鋭く叫んだのは二声氏。身分の上下などもはやすっぽり抜け落ちているのか、そんなことに構っている場合ではないと思ったのか、人臣最高位にある浩瀚に向かって二声氏は肩を怒らせていた。
「早く、主上をどうにかしてくださいませ!これでは白雉が余りに不憫」
目に涙を浮かべた二声氏の肩は小刻みに震えていた。
◇ ◇ ◇
「主上、わけをお話し下さいませ」
突如梧桐宮に現れた浩瀚に「何事ですか」と一喝され、「官らの仕事の邪魔をするとはいかなること」と即刻退去命令を出された陽子は、連行されるように積翠台へと戻された。
そして現在、恐ろしい気配を放つ浩瀚を目の前に、ちょこんと椅子に座らされていた。
「黙っていてもわかりません。白雉を追い回すという、到底正気とは思えない所業に至った理由を説明してくださいませ」
陽子は、びくっと肩を震わせてうなだれる。
事ここに至って、陽子は多いに後悔していた。これほどにも周囲を騒動に巻き込むつもりなど毛頭なかったのである。
「―――羽ペンに使えそうな羽が欲しかったんだ」
ごにょごにょとつぶやいた言葉に、「聞こえません!」とぴしゃりと言われて、陽子は思わず背筋を伸ばした。
「その…。羽ペンが欲しかったんだ」
「羽ペン?」
首を傾げた浩瀚に陽子は説明する。筆が使いづらくて書面を三回も失敗したこと。ペンという筆記具があれば、字が書きやすくなると思ったこと。こちらでペンを手に入れるには羽を使った羽ペンが手っ取り早いと思ったこと、などなど。
陽子が一通り説明すると、浩瀚は盛大に息を吐きだした。
「つまり主上は、その羽ペンなる物を作ってみるために羽を手に入れようとなされたというわけですね」
「そうなんだ!」
陽子は勢い良く頷いた。
「梧桐宮に行けば鳥が一杯いるから、羽の一枚くらい簡単に手に入るって思ったんだ。その辺に落ちているやつを拾えばいいと」
でも、と陽子は続けた。
梧桐宮は陽子が想像していた以上に手入れが行き届いていたのだ。塵ひとつ、羽の一枚も落ちてはいなかった。
「しかし、それで白雉から一枚羽をとろうなど」
「―――わるかった」
でも、白雉を見た途端陽子はその美しさに心惹かれたのだ。穢れのない真っ白な羽。そして何より、王と運命を共にする鳥なのだということが陽子の何かに触れた。半身と言われる麒麟さえ、王が先に死ねば共に死ぬことはない。それを思えば白雉は麒麟よりずっと王と運命を共にしている言える存在だった。
その鳥の羽根でぜひともペンを作りたい。
そう思った途端、陽子はそれしか考えられなくなってしまったのである。
「―――もうしない。大卜や二声氏にもあとで謝る」
うなだれたままそういう主を見やりながら、浩瀚は溜息と共に苦笑を浮かべる。驚きが過ぎれば後はもうただただ、主が無事であったことが何よりであった。
「大卜や二声氏には私から話をしておきましょう。再び主上が赴けば、彼らをびっくりさせるだけです」
「……そうだな。そうしてくれ」
ぼそぼそと呟く主を見やりながら、浩瀚が考えていたことは大卜や二声氏への謝罪ではなく硬い口止めであったが、そんなことを陽子に言うつもりはさらさらなかった。
浩瀚は大きく息を吸い込んで言葉を続けた。
「それと今後はこのような無茶はなさらないと御約束くださいませ」
「それは、当然だ。二度としない」
「二声氏が駆け込んできた時、私がどれほど驚いたか分かりますか?」
浩瀚はうなだれた陽子の前に膝をつくと、下から陽子を覗き込んだ。
「二声氏は白雉の声を知らせる者。即位を伝えた後は、崩御を伝えるしかありません。その二声氏が青ざめた顔で私のもとへとやってきたのですよ。私は最悪の事態を想像いたしました」
「……あ」
陽子はようやく騒動の芯の部分を悟って顔をしかめた。
「私は、本当にとんでもないことをしたんだな」
「未来へと進んでいると信じていたはずの身が、突然奈落の底につきとされた気分でした。このような思いは二度とごめんです。ですから―――」
二度と私に、このような思いをさせないでくださいませ。浩瀚の真剣なまなざしに、陽子は誠意努力することを約束した。
そして、約束をしながら陽子は、浩瀚がこれほどに真剣なまなざしを向けてくれることがなぜだかうれしく感じていたのだった。
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