息を潜めて、陽子は人の気配が遠ざかるのを待った。
楽しげな会話を交しながら、女官たちの声が遠ざかっていく。それが回廊の向こうに消えるのを確認し、陽子は人知れずほっと息をついた。
隠れていた物陰からそっと顔を出して辺りをうかがえば、期待したとおりにそこには誰の気配もない。それでも注意深く身を伏せて、陽子は広い庭院をさっと横切った。
―――この先が難関だな。
庭院の隅に身を縮め、陽子は胸中ひとりごちる。
宮城内には数多の宮があり、それは基本隔壁に囲まれていた。出入りするためには必ず門を通らねばならないが、当然ながらそこには門兵が立っており人の出入りを厳しく監視している。それは王を守るため、許可なき者の侵入を阻止するためであるのだが、こっそり中から出ようとしている者にとっても障害であることは間違いない。
それにしても今日は何やら手こずることが多い、と陽子は思う。いつもならひと気がなく、難なく通れる小道に兵士が二人、世間話をして立ち止まっていた。あそこを通れると格段に近道だったのだが無駄話は終わる気配がなく、陽子は諦めて迂回したのである。
他にも二三、同じような場面に遭遇した。
―――強行突破か、門兵の目をごまかすか。
後者の妙案があるわけではなかったが、強行突破は危険が多いように思った。禁門まではまだ遠い。駆け抜けて逃げ切るのは少々困難だろう。
―――あるいは、壁を越えるか。
陽子は、ぴたりと身を寄せた隔壁を見上げた。とてもよじ登れる高さには見えないが、足場になるものがあれば可能かもしれない。そう考えて辺りを見回せば、塀の脇にゆうゆうと枝を張り出した松がある。
それを見て陽子は、口の端にゆったりと笑みを乗せた。
―――いける。
思惑通り陽子は難なく壁を越えた。すたっと身軽に地に降り立ち、さて、この後はどの道筋を辿るか、と宮城の地図を頭の中に広げながら思案した。その時、
「このような場所で、何をなさっておいででしょうか?」
不意にかけられた低い声に、陽子ははじかれたように振り返った。
◇ ◇ ◇
目の前に立つ男を見やって、陽子はびくりと身を震わせた。
そこに立っていたのは冢宰浩瀚。確か今、六官長及び三公を集めて有司議を開いているはずの男だった。
そもそも、だからこそこの時間を狙ったのだ。というのに―――
「このような場所で、何をなさっておいででしょうか?」
驚きにただ口をパクパクさせる陽子をよそに、浩瀚は静かに同じ台詞を繰り返す。
その冷淡な口調に陽子の背筋に冷たい汗が流れた。口元ににっこりと笑みが浮かんでいるだけに余計恐ろしい。
―――お前こそこんな所で何をしている。
と問えればどんなにいいか、と思ったが、どう考えてもそんなことを問える空気ではない。いままでの経験上、こういう雰囲気を発している時の浩瀚に逆らうのは怖い。
「あー、それはだな・・・・・・」
陽子はそろそろと立ちあがると、その場を取り繕うように言葉を探した。だが、まさかここで浩瀚に捕まると思ってもいなかったせいか、うまい言い訳などちっとも浮かんでこない。いたずらに思考を空転させて、それでようやく出てきた言葉が、
「散歩だ」
という、いかにもべたな言い訳だった。
「さようで」
にっこりと微笑んだ浩瀚の笑顔が痛い。陽子は本気で、その場の気温が一気に下がったのではないかと頬を引きつらせた。
ばればれなのは明白。なれど、ばれていようが何だろうがここは押し通すしかない、と陽子は思う。散歩するのを咎められるいわれはないが、出奔しようとしていたなどと認めればどんな叱責があるかわかったものじゃない。
―――こいつも説教魔だからな。
という心の呟きは、絶対に口に出してはいけない。
これまでの教訓を思い返して陽子は思う。
「あー、でも、そろそろ戻ろうかと思っていたところだ。何か急用でもあったか?」
あくまで平静を保って問いかける。問えば浩瀚は、
「見ていただきたい書類が二三ございます」
と慇懃に頭を下げた。
こちらも強者(つわもの)。腹芸など陽子は足下にも及ばない。
「そうか、では戻るか」
「そうしていただけると助かります」
浩瀚の言葉にうなずいて、陽子はきびすを返した。まさか、再び壁を越えることは出来ないので、今度は宮を囲む壁をぐるりと回って戻らねばならない。
正直、かなりの遠回りだ。人知れずため息を漏らすと、その背に声が掛かった。
「ところで主上」
「―――なんだ」
身構えて振り返れば、浩瀚がまっすぐに陽子を見つめていた。その視線の強さにどきりとすると、浩瀚は陽子の内心を読んだかのようにくすりと笑った。
「王宮の塀を乗り越えることは懲罰の対象であるとご存じでしょうか?」
それはあまりに思いもしない言葉であった。
「え?うそ。そんな決まりがあるのか?」
陽子が驚いて目を見開けば、浩瀚は、ええ、と頷いて至極真面目な顔で続けた。
「官ならば免職。奚(げじょ)や奄(げなん)なら笞杖(ひゃくたたき)。悪くすれば大逆を疑われますので、そうなれば死罪ですね」
淡々と述べる浩瀚の顔を陽子は思わず凝視した。
「……そんなに重い罪なのか」
「当然でございましょう?やましいことがなければ、そもそも塀を乗り越える必要などございませんからね」
その言葉に、陽子はうっと詰まる。
たしかに、その通りだ。
そしてそんな話を持ち出す以上、浩瀚の意図は明白である。
「……つまり私は、とんでもないところをお前に見られたって事なのかな?」
「さようですね。恐れながら申し上げれば、主上が塀を越えられるところをこの目でしかと目撃させていただきました」
「―――み、見逃すわけには?」
「主上が勅命とおっしゃられるのであれば、臣としては従うしかないのですが、ただ、主上自らが則を乱せば、百官に示しがつきません。それはひいては、主上ご自身のためにならぬかと。知らなかったこととはいえ、真摯に反省の態度をお見せになるのがよろしかろうと思います」
その回りくどい言い方に陽子は眉根を寄せながらも、相手を伺うような上目遣いで浩瀚を見やった。
「……つまり、私も罰を受けろってことだな?」
「そのような恐れ多い。ただ反省の態度をお見せになってはいかがでしょうかと申し上げただけですよ」
「――――――」
微妙に言い回しは違っても本質は同じだろう、と陽子は心の中でつっこみを入れたが、賢明にも口に出すのはやめておいた。
「・・・・・・で、お前は、私がどんな態度を見せるのが適当だと思うんだ?」
「そうですねぇ。まさか主上を罷免するわけにはいきませんし、恐れ多くて笞杖(ひゃくたたき)など論外。よって―――」
浩瀚はそう言うと、にっこりと微笑んだ。
「一ヶ月の謹慎ではいかがでしょうか?」
「ひと月も!」
陽子が抗議の声を上げれば、さも当然だといわんばかりの冷たい視線が陽子に突き刺さった。
その視線に、うっと唸り、陽子は渋々うなずく。
「では、ただ今よりひと月。朝議及び公務で内殿にお出ましになる以外は、正寝からお出になりませんように。大僕には、主上の警護に加えて監視の役目も与えておきます。もしお約束をお破りになった場合は、大僕及び小臣を職務怠慢の罪に問いますので、そのおつもりでいらっしゃいますように」
仕方ない、とうなだれてすごすごと内殿へと戻る陽子を見つめつつ、浩瀚は一人ほくそ笑む。
陽子は知らない。この一連の事態が、いかに巧妙に仕組まれた結果であるかということに。
しかし全ては王を守るため。
―――今、主上を王宮からお出しするわけにはいかない。
何やら水面下で画策している者たちの気配がする今は……
浩瀚は心の中でそう呟いて表情を引き締めると、陽子の後を追ったのだった。
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