「まあ!」
祥瓊は部屋に入るなり目に飛び込んできた物の見事さに、思わず感嘆の声を上げた。
慶国は金波宮。最奥、王の御座所。その部屋の大卓に乗せられていたのは、それは見事な玉の原石であった。
「どうしたの、これ?」
あまりの見事さに、つい伺候の挨拶も忘れて祥瓊は玉に歩み寄る。玉は澄んだ美しい翠色をしていて、覗き込めば吸い込まれそうな艶やかさを湛えていた。芳の王宮で三十年、贅沢な暮しをしてきた祥瓊も初めて目にするような逸品だった。
「さっき浩瀚が持ってきた」
「冢宰が?」
祥瓊が視線を向ければ、玉の前に座っていた少女はどことなく困惑顔で頷いた。どうやらこの見事すぎる玉を目の前にして、単純に喜べる心境ではないようだ。
そもそも日頃から華美なることを好まぬ少女のこと。この玉も、望んで手に入れたというわけではないらしい。
「ああ、前々から即位十五年の記念になるものを作ってはどうかと言ってきていたんだ。特に必要ないって答えてたんだけど、見事な玉が手に入ったからこれで歩揺でも作ったらどうかって」
「あら、そうなのね。それにしてもこれほど見事な玉、私でも初めて見るわ。よく手に入れられたわね」
「どうやら私に内緒で泰王にお願いしていたらしい。泰王の書簡もついてた。ぜひとも十五年の記念に使ってほしいってさ。そこまでされたら受け取らないわけにもいかなくって」
困り顔でそう答える陽子の様子に、祥瓊は思わず苦笑する。
どうやら冢宰は、贅沢を好まず、日頃身を飾るものをほとんどつけぬこの主に、飾りのひとつもつけさせようと一計を案じたようだ。歩揺を作ればどうしたって衣装もそれに合うものを纏わねばならない。艶姿を拝むのが目的なのか。冢宰の怜悧な頭脳はいろんな面で抜かりなく発揮されるらしい。
「じゃあ、これで歩揺を作るのね。素敵だわ。きっと後世まで残る逸品が出来るわよ」
祥瓊は微笑んで、この玉で作られた歩揺をさした女王の姿を想像する。鮮やかな赤い髪に飾られた意匠の凝った歩揺。澄んだ翠の玉は磨き抜かれて輝き、動くたびに心地よい音を響かせるに違いない。
―――そんな歩揺には、どんな衣装が合うだろうか。
祥瓊が思わず考え込めば、それを見た陽子は思わず苦笑した。
「なんか怖いこと考えてるな」
「あら、そんなことないわ」
陽子の言葉に我に返り、祥瓊は意地悪く笑む。
「私はただ、女王にふさわしい衣装について考えていただけよ」
「それが怖いんだよなぁ。やっぱり歩揺はやめておこうか」
「まぁ!飾るのがいやだっていう理由だけでそんなこと考えているなら許さないわよ」
「そういうわけじゃないんだけどね」
陽子は苦笑しながら答える。
「でも、歩揺にするのは正直考え中なんだ」
「あら、どうして?」
「私は玉には詳しくないんだけどさ。これだけ大きな物って珍しいんだろう?」
「ええ、そうね」
「だからさ。せっかくこれだけの大きさのものだから、細かく砕いてしまうのはもったいないような気がして」
「でもこのままにしておく方がもったいないわ。玉は磨かれてこそ真の美しさを発揮するんだもの」
「まあ、泰王からの書簡もあるから何かに加工しなくちゃとは思うんだけど」
「じゃあ、歩揺以外のものにするつもりなの?」
祥瓊が問えば、陽子は「うーん」と悩むように唸る。
「大きさを生かせるものでもいいんじゃないかって思うんだ。例えばオブジェとかさ」
「おぶじぇ?」
「あ、うまく翻訳されなかったか。ええっと、なんて言うかな。意匠の凝った置物?」
「置物?」
祥瓊はどこかあきれたような視線を陽子に向けた。
「せっかくの大きさを生かしたいって言うのは納得するけど、置物はちょっとねぇ。だって、即位十五年の記念で作るんでしょ?やっぱり身につける物の方がいいと思うわ」
「そうかな?」
「そうよ。だって考えてごらんなさいよ。後々泰王からあの玉で何を作られたんですか、とか聞かれたときに『熊の置物にしました』なんて答えられると思う?」
「え、何でそこで熊の置物?」
「例えばの話よ!」
「―――置物って言っても、そういう民芸品みたいな物のつもりで言ったんじゃないんだけど」
陽子は小さく肩をすくめたが、祥瓊の表情は緩まなかった。
「それでも置物はなしよ。泰王だって女王の身を飾るものを作るんだろうと思ってこれだけ立派な玉を送ってくださったのよ。第一ね、この玉がどれだけすばらしいかわかってる?私だって初めて見るような逸品よ。本来なら戴国の王や宰輔の冠に使用し、国外には出さないものだわ」
「え、そうなのか?」
「そうよ。だから置物なんかにしたら、戴国に対して失礼なのよ。やはり王の身を飾るものにしなくちゃ」
息まく祥瓊に陽子は苦笑する。
「わかったよ。でも、やっぱり小さく砕くのはもったいないなぁ」
「あのね、陽子」
「わかってるって」
「もう、本当かしら。さっきから小さく砕くのがもったいないって言うけど、見る人が見たら、大きな玉のいい部分だけを使って作ってあるっていうのは一目瞭然なのよ。景王の即位十五年を記念して作るのなら、それくらいのことは当たり前だわ」
―――それに、置物を作るのに賛成なんかして、あの冢宰の恨みを買いたくないしね。
祥瓊は胸中密かに思う。
その傍ら、陽子はひとり首をかしげていた。
「でもなんであいつは十五年の記念にこだわるのかな。即位十年の時に結構大々的に式典を開いたんだから、十五年なんか別に何もしなくていいと思うんだけど」
「それで結局特別な式典はなしになったんでしょ。せめて記念になるものを作ってはどうかという冢宰の提案はもっともだと思うわ」
「いや、ほら。それなら二十年の時でもいいじゃないか。なんかさ、二十年までもつかわからないから今の内にって暗に言われているような気がしなくもなくって」
「陽子、それ本気で言っているの?」
「え、いや。……なんか、十五って中途半端な数字じゃないか。なのに何でわざわざ」
祥瓊の意外な剣幕に陽子がしどろもどろに答えれば、呆れた、とばかりに祥瓊は腰に手を当ててため息をついた。
「こちらに来て十五年も経つのに陽子は知らないのね。こちらで十五は縁起がいい数字なのよ。だから冢宰がわざわざ記念になるものをどうかって言っているの」
「え、そうなのか?」
「そうよ。十五は吉数の三、五、七の和だし、月も十五で満ちるでしょ?それにこちらでは十五になれば結婚が認められるの。成人するまでは親の承諾が必要だけどね。だからこちらでは子が十五になると宴会を開いたりするのよ。そしてその祝いの席で、親から子に贈り物をするが普通ね。男の子には色々あるけど、女の子は襦裙や簪や化粧品なんかが多いみたい。いつお嫁に行ってもいいようにっていう意味が込められているって聞いたことがあるわ。まあ、いつまでも子供気分を引きずってないで、五年後の成人に目を向けて徐々に準備をしていきなさいっていうことらしいわ」
祥瓊の説明に、陽子は「そうだったのか」と呟きながら、気落ちしたように嘆息した。
「十五年経っても知らないことって多いなぁ」
「まぁ、こういうのは陽子が知らなくてもしょうがないかもしれないけど」
「いや、勉強になったよ。それに浩瀚が気を使ってくれたんだってことも良くわかった」
「反省したところで、冢宰の好意を無碍にしないことね」
「わかったよ」
陽子はわずかに苦笑して頷く。
「気を使ってもらったお礼に、なんかお返しをした方がいいかな?」
「別に必要ないと思うわよ。玉の手配をしたお礼ならね。でも、これまでの労をねぎらうっていう意味なら冢宰は喜ぶかもしれないわ」
「ああ、なるほど」
祥瓊の提案に陽子は大きく頷いた。
「そういえば、あいつになんか下賜したことってなかったなぁ。あいつには苦労させっぱなしなのにさ」
「まあ、褒美が欲しくて頑張っているわけじゃないから、本人は気にしてないと思うけど」
「そうそう。あいつはもっと大きなものを私に要求しているからな。たまに本気で私の方が褒美をもらうべきなんじゃないかと思う時がある」
真顔で陽子がいえば、祥瓊が声を立てて笑った。
「じゃあ、そう言ってみたら?陽子がいえば、冢宰は喜んでありとあらゆるものを用意すると思うわ」
「やめとく。後が怖い」
本気で頭を振る陽子に、祥瓊は「あら、残念」と肩をすくめた。
◇ ◇ ◇
主上からの呼び出しを受けて、その日浩瀚は内殿へとやってきた。
「忙しいところ済まないな」
と開口一番述べる主に、浩瀚は「いいえ」と頭を振って微笑む。
「主上のお召しよりも優先すべきことなどございません」
「相変わらずだな。租税が上がってくる頃で忙しいだろうに」
「毎年のことです。もう慣れました」
「私はちっとも慣れない」
陽子が冗談交じりに言えば、浩瀚ははっきりと相好を崩した。
「愚痴を言うために私をお召しになりましたか?」
「いや、お前に見せたいものがあってね。まあ、座ってくれ」
陽子が椅子を勧めれば、浩瀚は「では失礼して」と言って陽子の向かいに座る。その浩瀚の前に陽子は箱をひとつ差し出した。そしてその上に、袱紗に包まれたものをそっと置く。
「お前が手配してくれた玉で作ったものだ」
そう言って袱紗を開く。中から出てきたのは、一本の簪であった。
「お前は歩揺はどうかと言っていたけど、申し訳ないがこちらにした。歩揺はめったに使わないからな。どうせなら普段も使える物の方がいいと思ったんだ」
そう言って見せられた簪には、さりげない玉の飾りがひとつ。一見なんてことない簪ではあるが、それでも玉の輝きはさすが見事なものであった。
それを見て浩瀚は頷く
「よろしいかと。主上のお気に召す物が一番と思います」
「そうか。そう言ってもらえてほっとした」
「私に気を使う必要などございませんよ」
「いや、でもお前が気を利かせて手配してくれたものだからさ」
「―――周りの者が何か言いましたか?」
「いいや。ちょっと勉強させてもらっただけさ」
陽子は少々悪戯っぽく笑う。そして簪を袱紗ごと取り上げてその下の箱を指さした。
「箱の中も見てくれ」
促されて浩瀚は箱を開く。漆塗りの見事な箱をそっと開いて、浩瀚は目を見張った。中に納められていたのは見事な玉璧。美しく磨きあげられ艶やかに光るその面には、意匠の凝った五本爪の龍が見事に彫り込まれていた。
「―――これは素晴らしい」
浩瀚は溜息と共に呟く。事実、浩瀚はこれほど見事な玉璧など見たことがなかった。
「どうだ、すごいだろう?細工は範国物がいいと定評だが、うちの冬官らもなかなかどうして。負けずとも劣らないと感心したよ」
「さようですね」
主の言葉に頷きつつ、浩瀚は改めて玉璧を眺めた。
玉の良い部分だけをうまく掘りだしている。色味といい艶やかさといい、一点の欠点もない。それをうまく磨きあげるだけでも相当な職人技を必要とすることは、見る者が見れば一目瞭然だが、その玉の美しさを損なうことなく彫られた細工も文句のつけ所なく素晴らしかった。
まさに王が身につけるにふさわしい玉璧だ。慶を代表する御物になるだろうと浩瀚は思った。
「お前の手配してくれた玉を見たときから、細かく砕くのはもったいないとどうしても思ってね。せっかくの大きさを生かせるものをと思ったんだ」
「そのお考えが正しかったようにございます。これほど見事な玉璧、拝見させて頂けただけで眼福にございます」
「気に入ってくれたようでよかった」
陽子は笑った。
「これは、お前に下賜する」
突然の言葉に、浩瀚は驚いて主を見やった。さしもの浩瀚もわが耳を疑った。
「―――いま、なんと?」
「お前にその玉璧を下賜する。この十五年よく働いてくれたし、これからも当てにしている」
「主上、お言葉ではありますが、冢宰という位を拝命している以上、当然の働きにございます。慰労してくださるお心は大変ありがたいと思いますが、この玉璧だけは頂くわけにはまいりません。そもそも龍の彫られた玉璧は、王のみが身につけることを許されているもの。私ごときが頂いても、箪笥の肥やしにするしかないではありませんか。それではこの見事な玉璧が、あまりにかわいそうというものです。日の目を見ないままでは、これを手がけました冬官らもどれほど残念に思うことか」
「浩瀚、悪いが何を言われても私の心は変わらないぞ」
陽子は、真っすぐな視線で浩瀚を制止した。
「この玉をもらって何に加工しようかと悩んでいた時に、祥瓊にこちらの風習について教えてもらったんだ。こちらでは子が十五歳になると祝いの席を設けるとか」
浩瀚が何か言いたげに口を開く。それを手を挙げて制止して、陽子は言葉をつづけた。
「それでふと思い出したことがあってね。蓬莱では十五歳になると法的に遺言を残すことが認められるんだ」
陽子は指を組み合わせ、真っすぐに浩瀚を見つめた。
「実際に十五で遺言を残そうなんて考える人は少ないと思うし、遺言なんて言葉を持ち出したからといって後ろ向きに捉えてほしくはないんだけど、このことをふと思い出した時に、十五歳なんてまだまだ子供かもしれないけど、意志をしっかり主張する権利が与えられていたんだな、って思ったんだ。―――あちらにいたままなら、そんなこと思いもしなかっただろうけど」
陽子は言って軽く息をついた。
「私はよい王になりたいと思っている。まだまだやらなければならないことはあるし、やってみたいこともある。たかだが十五年かそこらで倒れるつもりもない。けど、真摯に物事に取り組んでいたからといってすべてがうまくいくとは限らない。倒れるつもりで倒れる王の方が少ないと思う。だから、私だって何が起きるかわからないってことは常々考えるんだ。本当に頭の隅っこの方に、ほんの少しだけだけれども」
陽子は卓上に置かれた玉璧を見た。何度見てもため息が出るような見事さだ。彫られた龍の細工は繊細にして今にも動き出しそうな力強さもあわせもつ。
「これは確かに王のみが身につけることを許されるものだろう。だからこそ、お前に下賜するんだ。もし私が倒れた後は、冢宰が仮王として立つのが習わし。だから私がこんな意志を示さなくても今もし私に何かあればお前が仮王として立つのは必然だ。だがそれでもあえて私は、私の意思を示したいと思う。もし私が倒れたら、お前はこれを身につけ即座に仮王として慶の玉座を埋めるんだ」
「―――主上」
浩瀚は陽子のまっすぐな視線に息を飲む。身震いがした。有無を言わせぬ覇気が部屋中に満ちていた。
ぴりぴりと空気が肌を刺激する。その静寂の中、浩瀚はやがて静かに椅子から立ち上がった。
「主命、確かに承りました」
浩瀚は椅子から立ち上がると、一歩身を引いてその場に深々と跪礼した。
ありがとう、と頭上に小さくいらえが返る。その密やかな響きに、この主はどこまでも主らしいと浩瀚の相好が緩んだ。
「しかし主上。これを頂く代わりとしまして拙からひとつお願いがございます」
浩瀚が顔をあげて主を見やれば、なんだ?と少女がかわいらしく小首をかしげる。その様子を密かに愛でながら浩瀚はゆったりと告げた。
「できますならば、拙がこれを身につけなくてよいように、最大限の努力をなさってくださいませ」
頂戴はしても簡単に身につける気はございません。そんな意志のこもった視線を返されて陽子は空気を緩めて苦笑した。
「もちろん。わかっているよ」
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