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 「湖睡−こすい−」
 
     
 

 「どうでしょうか、冢宰。朝もずいぶんと整い、人材も充実してきた今、元より定めある官職をずっと空けたままにしておくというのもおかしな話だと思うのですが」
 天官長大宰が、赤王朝開闢以来、ずっと空席になっていた侍人(じじん)にそろそろ人を配したいとの話を持ち出してきたのは、冢宰他六官長が集まって来年の人事について話し合う有司議の場であった。
 その場にいた全員が思わず意外な顔をして大宰を見たのは、彼がこの場で何らかの提案をしたのが初めてだったからである。
 浩瀚も同じ思いで大宰を見やり、次には一体何の思惑あっての提案かとうがった。
 侍人は、浩瀚があえて空席のまま放置してきた官職であり、大宰も、ここの人事には慎重にならざるを得ないはずだと思っていたからだ。
 それは侍人が、王や台輔の世話をするという天官の大きな役目を果たすために設けられた様々な職務の中でも、少々特殊だからである。
 侍人は、正寝において王の私生活を支えるのを役目とする。同じ内宮勤めの内小臣との違いは、内小臣が言わば衣食住といった点の身辺を整えるのを役目とするのに対し、侍人は王の話し相手になったり、趣味につきあったりする、いわば気晴らし相手として仕える点にある。位で言えば下大夫に過ぎない侍人であるが、王が内心を吐露したり、心の支えとしたりする可能性が高い存在であることを考えれば、特別な寵を賜りやすい官職であるといえた。
 それゆえに、侍人の人事には色々な思惑が絡みやすいのだ。
 例えば、自分の息のかかった者を侍人に据える。その者がめでたく王の寵を賜れば、その者を使って、政治的に自分に有利な状況を生み出したり、金品が自分の懐に流れ込んでくる仕組みを作り上げたりすることも可能になる。事実、過去にそういうことを画策した者は数多いた。
 しかしその一方で、利己的な画策を逆手に取られて身を滅ぼした者も少なくない。
 つまり、侍人の人事は諸刃の剣。妙な憶測を恐れる者なら、ここの人事には慎重にならざるを得ないし、あえて手を出していらぬ波紋を呼びたいとは考えない。
 だからこそ浩瀚は、大宰にとって侍人は、空席でも構わない官職であるはずだと考えていたのである。つまり浩瀚は大宰のことを、そんなつまらないことを画策するような者ではない、と評価し信頼していたのだ。
 一方的な思い込みとはいえ、裏切られた気持ちが浩瀚に湧いた。
 「空席では何か不都合でも?」
 「それは、不都合だと答えれば、すぐに人を配してもらえるということですか?」
 質問に質問で返されて、浩瀚は思わず大宰を凝視した。口調こそ穏やかだったが、大宰のこんな態度は初めてで、やはり何の思惑もなくこの話を持ち出したわけではないと浩瀚に確信させるに十分だった。
 「確かに、大宰のおっしゃる通りですね」
 思わず黙り込んでしまった浩瀚をよそに、すかさず賛同の意を示したのは大司冦だった。
 「朝の黎明期はとっくに過ぎたと考えてよい時期に来ています。人材の不足していた頃ならいざ知らず、これからは積極的に空席を埋めて行くべきでしょう。現在空席で不都合があるかないか、というのは議論の対象にはなりません。定めある官職ならば、空席を埋めていく方向で考えるのが筋だと私は考えます」
 浩瀚は一瞬、二人の間で事前の根回しでもあったのかとうがったが、大司冦はなにより法と理を遵守することを良しとする人物だったと思いだす。「定めある官職ならば埋めていくべき」と主張するのは、まったくもって彼らしい主張だ。
 「しかし侍人は、本来王がご寵愛の者を傍に置くための方便的な官職でしょう?積極的に人を配する必要がありますか」
 「大宗伯、それは違います。確かに過去そういった人事がなされたことがあるのは事実ですが、侍人はあくまで定めある天官の職のひとつ。主上のお世話を万全にするために必要な役目でございます」
 「では、今現在、主上のお世話は万全ではないということなのでしょうか」
 「そういうことになりますね」
 大宰は、あくまでも穏やかな口調で春官長大宗伯の言葉を肯定した。
 「こういう言い方をしてはなんですが、いままでは侍人がおらずともあまり問題はなかったのです。なぜなら、侍人の役目は、主上のご趣味や気晴らしにつきあうことですが、胎果であらせられる主上は、こちらの生活に慣れることと、政務をこなすことに精一杯で、趣味や気晴らしに費やす時間などお持ちにならなかったからです。しかし、近頃では主上もこちらの生活に馴染まれ、ご政務もゆとりを持って行えるようになられた。主上は、かねてより、時間ができたら書画や胡琴などを学んでみたいともおっしゃっておられますし、そろそろ侍人を配する頃かと思っている次第です」
 「しかし主上はすでに、息抜き相手をお持ちではないですか。女史や女御や大僕は、主上のご友人ということで特別に任官が許された者たちでしょう?それなのに、わざわざ侍人を配する必要がありますか」
 「ええ、彼らは公私に渡ってよく主上を支えております。しかし、彼らには彼らの務めがあって、常に主上のお相手ができるわけではありませんし、特に芸事を学ばれるときのお相手となると、それなりの素地と教養が必要にございます。私は、書画や楽に嗜みある者を侍人につけ、半分教師的側面を持って主上のお相手をすると良いのではないかと考えております」
 この言いぶんには、黙って聞いていた大司馬や大司空も納得顔でうなずく。確かに大宰の言うことは最もで、浩瀚も理解できない話ではなかったが、それでも素直に了承はできなかった。
 だが、定めある官職をいつまでも理由なく空席のままにしておくことはできないという主張は最もで、例え今回人事を見送ったとしても、いずれまたどこかで芽を出してくる問題には違いない。それに何より侍人配属に反対であったような大宗伯も、大宰がそこまで考えているなら話を進めればいいではないか、と言わんばかり顔つきになっている。大宰はうまいこと、自分以外の六官長らから無言の賛同を得たも同然の状況を作り出していた。
 「どうでしょうか、冢宰。此度の人事で侍人の席を埋めること、一考してはくださらないでしょうか」
 大宰の視線が再び浩瀚に向けられた。その視線はいつもと変わらず穏やかで、とても何か陰謀めいた思惑を持って発言しているようには見えない。しかし彼とて六官長にまで上り詰めた男。その穏やかなまなざしの裏に何かを隠していたとしてもおかしくはない。
 だが浩瀚は、自分が最も懸念していることをこの場で口にして大宰を問い詰めるわけにはいかなかった。
 浩瀚の心に引っかかっていること。それは、侍人とは、主上が望めば、どんなことにもつきあうのが役目であるということ。つきつめて言えば、閨の中さえ、主上が付き合えと命じれば、つきあうのが侍人である。つまり、侍人がつきあう趣味や気晴らしとは、夜伽さえも含むのだ。そうであるからには当然、侍人を傍に置けば、侍人と閨で戯れていてもおかしくない、と周囲に思われる可能性をふんだんに含むことになる。侍人を傍においていれば、そのうち、あることないこと噂を広げて、主上の権威を貶めようとする輩が出てこないとは限らない。
 慶には、先王の苦い記憶がある。
 ―――その懸念に対し、大宰はどう考えておられるのか。
 ―――それは、考え過ぎというものです。主上が予王とは全く違うお方であることは、もはや誰もが知るところですし、そもそも主上の閨事を吹聴して回るなど、仮に本当の話であったとしても不敬罪で死罪となります。それに、もしそのような事態が起こっても主上の御威光がかげることなどございません。それは冢宰が良くご存じでありましょう。
 頭の中で交わされた空想の会話でも、大宰の表情はあくまでも穏やかでそつなく、それが何故か浩瀚を非常にいらだたせた。
 それで、と浩瀚は一呼吸おいて大宰に問いかける。
 「大宰には、誰か適任者の心当たりでもあるのでしょうか」
 「ええ、実は侍人に推挙したい者がいるのです。容姿、気性、教養、どれを取っても申し分ございません」
 浩瀚の眉がぴくりと動いた。
 やはりそうきたか、という思いが、わけのわからない苛立ちをすっと鎮めた。
 大宰は、自分の息のかかった者を主上のそば近くに置きたい何らかの理由があるのだ。
 「なるほど。大宰は、そこまで具体的なお考えがすでにあるのですね」
 相手の思惑さえ読み取れれば、打つ手はいくらでもある。わずかな微笑みでもって大宰を見やれば、大宰は初めてその穏やかな表情を曇らせたかに見えた。
 「―――冢宰。あなたは何か勘違いなさってはおられませんか」
 「はて。何をでしょうか。ところで、あなたが推挙するという人物は、どのような者か教えては頂けないでしょうか」
 「e雪(しゅうせつ)という、いま私が下官として使っている男です。なので、身元は私が保証いたします」
 なるほど、と浩瀚は再度呟く。その声は、隠しようもないほどの冷やかさをおびた。
 「それなら、あなたの期待に応える働きを見せるのでしょうね」


◇     ◇     ◇


 少女が息をつめるようにして最後の一画を書き終えるのを、浩瀚はじっと見守っていた。黒々とした墨がつづる文字は、流麗でありながら力強く、それでもどことなく気真面目さをのぞかせて、書き手の性分をよく表している。手習いを始めたころからすれば、比べものにならないほど上達したその文字を感慨深く見つめていれば、よどみなく動いていた筆先はついに止まった。
 「よし、できた」
 ふう、とひとつ息をついて、筆を置く。顔をあげた陽子に浩瀚はうなずいた。それで大丈夫だ、ということを示す無言の合図だ。浩瀚のうなずきを見て、陽子はにこりと笑った。
 「今日はこれで終わりだったよな」
 「はい。急を要するものが生じない限りは」
 できることなら、もう二三、必要な書類があると言って彼女を引き留めたかったが、毎日同じ手を使うわけにはいかない。そんな心の内がのぞいてしまないように、できるだけさらりと言って、浩瀚はできたばかりの書類を受け取った。
 「じゃあ、私は正寝に戻るから」
 「今日も、二胡の練習ですか?」
 立ち上がったところですかさず声をかけたのが、せめてもの悪あがきだった。
 「いや。―――今日は、笛って言ってたかな?」
 「笛にもご興味が?」
 「自分で演奏してみたいか、という点で言えば、正直言うと、あんまりないんだけどね」
 陽子はそう言ってから、わずかに苦笑する。
 「何でもやってみなきゃ分からないことがあるらしい」
 「それはそうでしょうが、二胡も練習を始めたばかり。あれこれ手を出すより、まずはひとつにじっくり取り組んだ方がよいのでは?」
 「私もそう思うんだけどねぇ。まあ、e雪がやっていて損はないと言うし」
 e雪、という名前が出たところで浩瀚の心にはっきりと不快感が広がった。表情に出てしまいそうになるのを必死にこらえたせいで、「じゃあ、あとはよろしく」という言葉を残してあっさりと去っていく陽子に、浩瀚は不覚にも何の返事もすることができなかった。
 ひとり残された浩瀚の胸を鈍い痛みが襲う。
 ―――興味がなくても、かの者に言われれば、素直にやってみようと思うわけですね。
 心の中で独白し、思わず笑ってしまう。わかっている、これは嫉妬だ。醜い男の嫉妬心以外の何ものでもない。
 ついこの間まで、日中のほとんどをこの部屋で過ごしていた陽子の生活は一変した。気真面目な彼女のこと。執務がおろそかになることはなかったが、必ず今日すべきことをまず確認すると、それをかなりの集中力でもって効率的に片付け、早々に正寝へ戻ってしまう。すべては、侍人との時を多く過ごすためだ。
 陽子のそんな様子からも、言葉の端々からも、陽子がずいぶんと侍人を気に入っているのは明らかだった。その事実が、どうしようもなく浩瀚の心をかき乱す。
 大宰から、侍人配属の要望を受けたあの日、浩瀚はその話をひとまず先延ばしするつもりだった。大宰が、候補者の推挙を行ったことで、大宰には何らかの思惑があると確信したからだ。そのまま思惑にのってやるほど親切ではない。その後のことについては、少し時間をかけて対策を練ればいい。そう、考えていた。
 しかし、事は浩瀚の予想を越えたところで決着した。
 「冢宰、お待ちください」
 有司議を終えたあと、冢宰府に戻る回廊で、大宰が足早に追いかけてきたのである。
 「冢宰。先ほどの話、実は主上からのお達しなのです」
 「は?」
 一瞬、何の話かつかめなかった。
 「侍人に、かの者を、という話です。勅での断行もいとわないご様子だったのを、私が止めたのです。きちんとした手続きを取るのでお待ちくださいと。―――なぜ私が主上にこう申し上げたのかは、冢宰ならお分かりになるでしょう?」
 その後は何と答え、どうやって冢宰府に戻ったのか、記憶があいまいだった。
 主上が侍人にと、自ら望まれた?
 その衝撃があまりにも大きすぎて、浩瀚は暗い谷底へ突き落された心地がした。
 e雪なる者を侍人にと?
 主上は、侍人がどんな存在であるか、はっきりとわかった上でそうおっしゃったのか?
 そして、なぜそれを自分には一言も相談されなかったのか?
 疑問ばかりが渦巻いて、答えはひとつとして出なかった。
 ただひとつわかったこと。それは、e雪なる者が、若い女王が傍にはべらせたいと思っても何ら不思議ではない、すらりとした体格と整った容姿を持っていたということである。
 e雪のことは、たちまち女官たちの噂になった。
 あんな素敵な男性になら、主上だってそりゃときめかないはずがない。
 さすが主上、お目が高い。
 主上のお傍付きじゃなかったら絶対自分が手を出すのに。
 というか、主上が飽きた後でいいから回してほしい。
 などなど、毎度のことながら女官というのは好き勝手なことを言う者達ではあるが、e雪を侍人にしたことを悪く言う噂はひとつもなかったし、また、e雪は女官たちにも異様に人気が高かった。
 不安に思っていたことが外れたのだから、安堵していいはずなのに、浩瀚の心はちっとも晴れなかった。それどころか、浩瀚の苦しみは増していく一方だった。
 それが何故かも、浩瀚はよくわかっていた。
 乱れた心を整えるのに、わずかばかり時間が必要だった。できたばかりの書簡を意識的にゆっくりと文箱に納めてから、浩瀚は堂室を出た。
 ―――いっそのこと、一大事でも起きてくれればいのに。
 つまらないこととは思いながら、そんなことを考えてしまう。そうすれば、陽子は侍人と時を過ごしている場合ではなくなる。以前のように、いつ行っても積翠台にその姿を見ることができるようになるはずだ。
 そんなことを考えていれば、回廊の向こうから桓がやってくる。行きあったところで桓が軽く会釈した。
 「主上はまだおいでですか?」
 「今しがた正寝へ戻られた」
 答えれば、「一足遅かったか」と桓は天を仰ぐ。
 「急用か?」
 「いえ、急用というほどではないんですが。主上が気にしておられた堯天の夜間警備の件について、決定しだい報告するとお伝えしていたんです」
 桓の言葉に浩瀚はうなずく。近頃堯天で不審火が相次いでいて、夜間の見回りを強化しようという話が出ていた。恐らくその話だろう。
 「それで、どうすることになった?」
 「地上は瑛州師の兵卒で対応することになりました。まだ、禁軍まで出すほどの話じゃないだろうってことで。ただ、しばらくは空行師が夜間訓練をすることになりました」
 「なるほど」
 浩瀚はわずかに笑った。州師の顔をたてたいい折衷案だろう。
 「しかし、実質的に禁軍が動くなら、早めに主上のお耳に入れておいた方がいいだろう」
 「やっぱり、そうですよね」
 「私も今日中に主上にお見せしておいた方がよい書類があったのを忘れていた。冢宰府に取りに戻ってから、二人で主上をお訪ねしよう」
 それなら、正寝までおしかける言い訳としては悪くないだろう。そんな計算が、浩瀚の頭の中で瞬時に働いた。桓は疑いもせずにうなずく。むしろ、ひとりで行かなくていいことに安堵したような表情だ。寵臣とはいえ、よほどの急用なら別にしても、やはり正寝にまで押し掛けていくのは気が引けるのだ。
 一度冢宰府に戻った浩瀚は、適当に書類をみつくろって桓と正寝へ向かった。その途中、桓はとうとつに侍人の話題を口にした。
 「話に聞くところによると、主上はずいぶんと侍人をお気に入りだとか?」
 「どこでそんな話を?」
 「祥瓊からです。近頃では、早めに正寝にお戻りになって侍人と過ごしていると言っていました」
 浩瀚はちらりと桓を見てから視線を戻した。
 「熱心に二胡の練習に励まれておられるようだ」
 桓がうなずく気配がした。そのことも祥瓊から聞いているのだろう。
 「へたくそな音が周りに漏れるのが恥ずかしいと言って、閉め切った部屋で練習しているらしいですね。それでも結構音が漏れているそうなんですが、主上には黙っているんだそうです。最初は、楽器を弾いているのかと疑いたくなるような音がしていたそうですから」
 桓は笑ったが、浩瀚は笑えなかった。侍人と二人部屋にこもって練習しているというのが引っ掛かったのだ。嫌な想像がどうしても脳裏をよぎる。
 「……それで、実際のところはどうなんでしょうか?」
 急に桓が声をひそめたので、浩瀚は思わず桓を振り返った。何を言っているのか瞬時にはつかめなかった。
 「侍人が後宮に移る日も遠くないんじゃないか、という話を聞きました」
 「誰がそんな話を?」
 思わず口調が硬くなる。桓はわずかに首をかしげた。
 「誰、というか、誰もがそれが当り前だという感じで話しています。私は知らなかったんですが、侍人というのはそういう存在なんですってね。最初から愛妾候補であるとか?」
 のんきな桓の口ぶりが、無性に腹立たしかった。
 「侍人は、主上の気晴らし相手を務めるはするが、決して愛妾候補ではない」
 「そうなんですか?」
 「過去の歴史の中ではそういったこともあったから、勘違いしている者達がいるのだろう」
 「はぁ、そうなんですかねぇ」
 それでは何か不満なのか。桓の顔を見て、浩瀚は思わずそう言いたくなった。桓の表情は、浩瀚にはそう見えた。
 「じゃあ、まだ、後宮の準備を考えなくてもいいんですかね」
 「何?」
 「ほら、いま後宮は全部閉め切っているでしょう?当然、警備だって置いていません。なので後宮を使う可能性があるなら、早めに準備していた方がいいかと思っていたんです。なにしろ今まで後宮の警護をやったことがないんで、後宮警護の心得を兵卒らに仕込まなきゃいけませんし」
 確かに桓の言い分は最もだ。実際後宮を開けるとなると、かなりの準備をしなければならない。今はすべて閉め切っているのだから、一室準備して、そちらへどうぞ、という単純な話ではないのだ。しかし浩瀚の頭は、それを具体的に考えることに激しい拒否反応を示した。
 「必要があれば私から連絡する。それまで、先走る必要はない」
 思わず語気が強くなって、桓が驚いたような視線を向けた。それで浩瀚は、自分の反応が大げさすぎたことに気がついて、とりつくろうように声をひそめた。
 「……禁軍が動けば、噂は真だと言いだす者達が必ずでる。そうなれば一番驚かれるのは主上であろう。主上の意にそぐわない噂を助長するようなことは、してはならない」
 桓はやっと心得たようにうなずいた。
 それを最後に二人は口をつぐみ、無言のまま正寝の門をくぐった。


◇     ◇     ◇


 「まあ、浩瀚様に桓
 長楽殿で二人を迎えたのは鈴だった。鈴は明らかに二人の来訪を驚き、そして何故か戸惑う様子を見せた。
 正寝は本来臣下は入れず、重臣であっても無断で立ち入ることはできないが、二人は正寝に入れる特免を賜っている。それをよく知る鈴が、こうして先導もなく入ってきたことを驚くはずがないのだが、
 「お二人でいらっしゃるなんて、何か緊急事態ですか?」
 「今日中にお耳に入れておいた方がいいだろうという案件がある。主上とお会いすることは可能か?」
 「ええっと、その……」
 鈴は困ったように奥の部屋に視線を向けた。恐らくそちらに主上がいるのだろうが、近づくことを禁じられでもしているのか、呼びに行こうというそぶりは見せない。
 「どうしたの、鈴」
 隣の部屋から声がして、祥瓊が顔をのぞかせた。鈴は、祥瓊の登場に明らかにほっとした顔を見せた。
 「その、陽子に会いたいみたいなんだけど」
 祥瓊の視線が浩瀚に向く。来訪者の姿を確認して、祥瓊の方は優雅に拱手した。
 「緊急事態ですか?」
 「緊急事態ではないが、今日中にお耳に入れていた方がいい話だ。―――主上にはお会いできないのか?」
 「さて、どうでしょうか。練習中は、よほどのことがない限り部屋には近づくなと言われていますから」
 祥瓊はとりすました顔でそう言うと、鈴に視線を向けた。
 「取りあえず様子を見て来るから、鈴はお二人にお茶を出してあげて」
 「それはいいけど、―――大丈夫かしら?」
 「様子を見て、間が悪そうだったらやめておくわ」
 「そうよね。それがいいわよね。陽子だって、最中にのぞかれたと思ったら嫌だろうし」
 二人でうなずきあって、祥瓊がちらりと視線を向ける。
 「陽子ったら、絶対に練習中の音を聞かれたくないみたいなんです。だから、練習中のようだったら、しばらくお待ちいただくか、時を改めていただくことになるかもしれません」
 添えられた笑顔が、何とはなしに意味深に見える。浩瀚は、うなずくことで了承を伝えた。緊急事態ではない以上、譲歩すべきはこちらにある。
 浩瀚は桓と共に、鈴に出された茶で喉をうるおしながら、祥瓊の戻ってくるのを待った。
 しかし、すぐに戻ってくるものと思った祥瓊は、なかなか戻って来ない。鈴もお茶を出したきり奥へ引っ込んでしまった。控えの間で待たされている間、浩瀚はじっと耳を澄ませたが、楽器を演奏している音など少しも聞こえてこない。練習中でないなら、祥瓊はなぜすぐに返事を持って帰らないのか。
 先ほどから考えまいとしていた、嫌な想像がどうしても膨らむ。
 「やっぱり、出なおした方がいいですかね」
 唐突に桓がつぶやいた。
 「祥瓊たちが戻って来ないってことは、主上はその……、取り込み中だということでしょう?」
 浩瀚が視線を向けると、桓は、はっとしたように首をすくめた。
 「……いえ、その」
 「だったら、会えないという返答くらい持ってくるだろう」
 「……そう、ですよね」
 「だが、確かに、ここでいたずらに時を過ごしてももったいない」
 「―――出なおしますか?」
 「かといって、何も言わずに去るわけにはいかないだろう。祥瓊にその旨、伝えて来よう。お前は、ここで待っていろ」
 浩瀚はそう言って立ち上がると、意を決して、祥瓊の消えた奥の部屋へと向かった。
 開いた戸をくぐり抜け奥へと進んでみるが祥瓊の姿はない。やがて戸の閉じられた最奥の部屋までたどり着く。恐らくこの戸の向こうが主上の部屋なのだろう。
 ―――さて、これより先はさすがに無断ではまずかろう。
 そうは思うが、辺りにひと気がないのでしょうがない。浩瀚は、ほんの少し開いた戸の隙間から、中の様子をうかがった。
 露台に面した部屋は、広く開放されて外の光をふんだんに取り込んでいる。小卓をはさむように椅子が置かれていたが、そこに人の姿は見えない。しかし部屋には、確かに誰かがいる気配がする。浩瀚が中の様子にさらに神経を集中させると、密やかな話声が聞こえてきた。
 「ねぇ、ちょっと。どうするのよ」
 「どうって。―――そもそも鈴、どうしてあの二人にくっついておかないのよ。世間話とかして、場を持たせてほしかったのに」
 「そんなの私には無理よ。祥瓊の言ってた、思わせぶりな態度だって、うまくできたかあやしいのに」
 「それは、なかなか上手だったわよ。……まあ、今の状況では、意味なかったけど」
 祥瓊と鈴の声だ。浩瀚は耳をすませた。
 「いつまでも待たせておくわけにはいかないんじゃない?」
 「それはわかってるけど、なんて言うのよ」
 「主上は、お休み中だとでも言えばいいのではないですか?」
 二人とは違う若い男の声がした。侍人、e雪に違いない。
 「馬鹿なこと言わないで。侍人と二人部屋にこもってお休み中って、どんな想像されると思っているのよ」
 「でも、それが私の役目でしょう?」
 「漠然と想像することと、具体的に想像することは、まったく違うのよ」
 「じゃあ、私が言いに行きましょうか?そうすれば、少なくとも今現在二人きりなわけじゃないことはわかる」
 「―――あなた、たぶん視線で殺されるわよ」
 「怖いなぁ」
 くすくすと笑いが漏れる。言葉とは裏腹に、男はこの状況を楽しんでいるようだ。
 浩瀚は冷静になって状況の整理を試みる。
 どうやら、この奥の部屋に自分の求める主の姿はないようだ。そしてそれは、祥瓊や鈴にとっても予想外の出来事だと考えられる。侍人をこの部屋に残して、ひとりどこかへ出かけてしまっているようだ。
 「陽子、すぐ戻ってくるって言って出ていったのよね?」
 「そうは言いましたが、夕餉の時間を越えられることもしばしばですから」
 「え、ちょっと待って。陽子がこっそり抜け出したのって今日が初めてじゃないの?」
 「―――まあ、そういうことになりますね」
 「じゃあ、あのひどい二胡の音はなんだったのよ!」
 「いるように見せかけておくよう言われましたので、私が左手で。でも、少しひどすぎましたかね。主上には申し訳ないことをしました」
 男がまた、くすくすと笑った。
 「ああ、でも。時々は本当に練習されているんですよ。随分と上達なさいました」
 「で、陽子がしょっちゅう抜け出して行っている先を知っているの?」
 「存じません」
 「って、ちょっとe雪。それで万が一陽子に何かあったらどうするつもりよ!」
 「そうは言われても、主上が望まれるようにふるまうのが侍人の役目ですからねぇ」
 「あんたに目をつけた私が間違いだったわ!」
 ぴくり、と浩瀚の眉が動いた。
 ――― 一体、どういうことだ。
 そもそもe雪に目をつけたのは祥瓊ということらしい。女王第一の彼女は、気真面目すぎるきらいのある女王には、気晴らし相手が必要だとでも考えたのだろうか。そしてe雪に目をつけた。彼女も天官に属するから、大宰の下官だったe雪を知る機会があってもおかしくはない。祥瓊の思った通り、主上はe雪を気に入り、大宰に侍人にするよう命じた。しかし、侍人を傍に置いた主上は、侍人と時を過ごしているふりをして、その実、誰にも知られないようにこっそり抜け出していた、ということになる。
 いや、それとも主上の思惑が先にあって、祥瓊に侍人によさそうな者を捜させたのだろうか。侍人をすえるのに勅での断行もいとわない様子だったという大宰の言葉から考えると、それもありそうな話だ。ようするに主上は、早く自分の留守を装える状況を手に入れたかったのではなかろうか。
 では、一体何をするために抜け出しているのだろう。
 自分ばかりでなく、祥瓊や鈴さえもあざむいてまで、というのが浩瀚には気にかかった。
 ―――調べるか。
 浩瀚はそっとその場を離れると、女官を捕まえて伝言を頼み、正殿を辞去したのだった。


◇     ◇     ◇

 抜け出していることさえ分かれば、陽子の逃走経路を見つけ出すのはさほど時間のかかることではなかった。雲上から下界へ出るためには、道がいくつもあるわけではない。禁門を通るか、路門を通るかしかないのだ。そして当然、禁門を通れば、すぐさまばれる。使える人間が限られている以上、こっそりというわけにも変装してというわけにもいかないからだ。
 路門の通行記録を調べたら、すぐさま疑わしいものが発見された。e雪の旌券で、何度も出入りしている者がいる。ついでに言えばその者は、御璽のついた通行許可証を所持している。
 本物の旌券と御璽のついた通行許可証を提示されれば、門卒は疑いようがない。侍人であるe雪が御璽のついた通行許可証を持っていることは不思議ではないし、主上に頼まれて城下に降りているとでも言えば、頻繁に出入りしていることを不審がられることもない。e雪の顔を知っている者がいれば別人であることがばれる恐れがあるが、ついこの間まで下官でしかなかった者の顔など路門の門卒が知っているとは考えにくいし、万が一疑問に思っても御璽のついた通行許可証がある以上、同姓同名の別人なんだろうと思うのがおちである。
 「なるほど」
 どうやら今回の事態は、周到に計画された上での出来事のようだ。ということは、ちょっと息抜きに出かけたかった、という程度のことではないだろう。
 浩瀚は、次の機会をねらって後をつけるつもりだったが、陽子の秘密の外出はその日を境にぴたりとやんだ。
 ―――あの二人に説教されたか。
 しかしあの二人とて、陽子が望んだ大抵のことには手を貸す方である。過去には何度も、陽子が王宮を抜け出すのを手助けしている。だから今回のことも、誰にも知らせずに出かけたことは怒っただろうが、外出じたいを二人が阻止しているとは考えにくかった。
 ということは、抜け出している目的を知られたくないために、二人にばれた時点で出かけるのをあきらめた、ということなのだろうか。それとも、外出の目的はすでに果たされたのだろうか。
 浩瀚は考え込んで、すべては自分の想像でしかないことを思い知る。
 確かなことは、e雪の旅券での出入りがぱたりとやんだことと、陽子の生活は相変わらずで、仕事をさっさと切り上げて正寝へ戻ってしまうという二点だけ。そして、そのことがさらに浩瀚を悩ませた。
 ―――抜け出している様子がないのに、どうして今もまだ侍人と多くの時を過ごしているのか。
 ―――侍人のことは、やはり気に入られているということなのか。
 さんざん悩んだ末に、浩瀚は祥瓊に話を聞くことに決めた。現状が何もわからないままにいくら推論を重ねても、嫌な想像が膨らむばかりだったからだ。
 「主上が密かに外出されていた理由をお聞きしたか?」
 内殿で見かけた折に時を見計らって問うと、祥瓊は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐさま息を吐き出して納得したような顔をした。
 「……やはりあの日、お気づきでいらっしゃったのですね」
 「そなた達にとっても予想外の出来事だったようだな」
 「―――まさかe雪が加担しているとは思いもしませんでした」
 「そのe雪を、というより、侍人を置こうというのは誰が言い出したことだったのだ?」
 「私です。陽子は、あのようにしていますが、内面はとても乙女なんです。女の子の格好をしてみたいと本当は思っているし、恋だってしたいんです。でも陽子が女の面を見せれば、必ず女王という立場がついてくる。それが嫌だから、ああ振舞うしかないんです。でも、いつまでもそんなことにおびえていては、陽子の女としての幸せは手に入りません。だから少し、どうあがいたって女性だということを意識させようとしたんです。陽子を女として扱う者は、彼女の周りには案外いないですから」
 「それで、そなたの考えでは、e雪は適任者だったわけか」
 「容姿や立ち居振る舞いから候補のひとりにしました。一番は、陽子の好みの問題ですから、実際に会った上で陽子が決めました」
 「主上も憎からず思われたわけだ」
 「―――浩瀚さまにちょっと似てるな、って言ったんです。どことなくだけど雰囲気が似てると」
 浩瀚は返答に窮した。それをどう受け取っていいのか、すぐには判断できなかった。
 「最初侍人を置くことに乗り気じゃなかった陽子が、急に乗り気になったのはそれが理由だと私は思っていました」
 そこで祥瓊は大きく息をついた。
 「でも今は、ひょっとして自分の陰謀に加担してくれそうだと思ったからなのかな、とも思います」
 「主上は最初から抜け出すことが目的で侍人を置いたと思うか?」
 「最初に侍人のことを言い出したのは私ですから、陽子がいつから侍人を利用することを考えていたのかはわかりません。ひょっとすると、こっそり抜け出すいい案はないかと考えているところに私が侍人のことを言い出したんで、使えると思ったのかもしれません。なにしろ陽子は最初から、e雪と練習する時は二人で奥の部屋に引きこもって、よほどのことがない限り部屋には近づかないよう言ってましたから」
 「そして人を近づけさせないのは、へたくそな演奏を人に聞かれたくないからだ、と思わせていたというわけだな」
 「その通りです」
 浩瀚はうなずいた。これでいくぶんかは様子がつかめてきた。
 「あの日、主上がお戻りになってからはどうだ。話を聞いたか?」
 「当然、陽子を問い詰めました。でも、陽子はいずればれるのは見こしていたみたいで、あっけらかんとしたものでした。どこに出かけていたのか聞いても、ただ堯天に降りていただけとしかいいません。不審火が相次いでいると聞いたから、ちょっと気になって様子を見に行っていたんだ、と。それなら、私達にまで秘密にして出かけることはない、といいましたら、こっそり出かけるスリルも味わいたかったんだ、と。もうしないから許してくれって言っていました」
 「それで、それ以降は外出している様子はないのか?」
 「それからは、練習中でもちょくちょく部屋をのぞくことにしたんです。陽子も了承しました。いつのぞいても、一生懸命二胡の練習をしていて、外出している気配は全くありません」
 「外出していた理由は、主上の言った通りだと思うか?」
 「さあ」
 祥瓊はわずかに首をかしげた。
 「すんなり納得できない感じもしますけど、あれ以来ぴたりと外出しなくなっていますし、様子が落ち着かないということもありません」
 「そうか」
 今祥瓊に聞いておくことはこれぐらいだろう。
 「わかっていると思うが、主上には余計なことをお耳に入れる必要はない」
 最後にそう言うと、祥瓊は心得ているとばかりに頷いてから去っていった。浩瀚の心もいくぶんかは軽くなっていた。
 その後も浩瀚は、何とか陽子の外出の真の目的がつかめないものかと奔走してみたが、路門から先の足取りはまったくつかむことはできなかった。恐らく変装して出かけていたと思われるので、外見を手がかりにすることができなかったことが敗因といえた。不審火を理由にしたということだったので、一応今までの現場付近も調べてみたが、手がかりとなるものはなにも拾えなかった。そもそもこの不審火じたい、気にするほど大層な事件でもない。放置してあったごみが焼けたとか、障壁が少し焦げていた、という程度の話だ。最近素行の悪い若者集団が深夜によく騒いでいるらしく、その連中が酔った勢いなどでやっているのだろうというのがもっぱらの見方だ。ただ、ぼやから大火になりでもしたら一大事なので、放ってはおけないと夏官が少々息まいているのだ。
 「気にする程のことではないのかもしれないな」
 大きな事件に巻き込まれている様子はないし、変なことに首を突っ込んだ感じでもない。案外本当に、誰にもばれずにこっそり抜け出せる状況ができることに気がついて、試したくなっただけなのかもしれない。
 ただ今後は、こういうふうに抜け出される可能性がある、ということだけは用心しておかなければいけないだろう。
 今もまだ侍人と多くの時を過ごしていることが気になっていたが、それもどうやら本当に、二胡の練習に熱心に取り組んでいるだけのようだから、気をもむことはないのだろう。
 そのうち時を見計らって、練習の腕前を見せてほしいと、さりげなく誘えばいいのだ。
 その時は、場所はどこがいいだろうか。
 主上お気に入りの、雲海を望む路亭がいいだろうか。それとも、蓮池のほとりに毛氈を敷こうか。月明かりの下というのも捨てがたい。
 そんな事を考え出すと、久しぶりに心が浮き立った。
 下官が黒塗りの箱を持ってきたのはその時だった。
 「主上からでございます」
 「主上から?」
 「下賜すると、伝言を賜っております」
 思わぬ下官の言葉に浩瀚は驚く。もったいないことと恐縮しつつも、一体突然どうなされたのか、と思わずにはいられなかった。
 「閣下のために用意なされたものだそうです」
 「そなた、中身を知っているのか?」
 「とんでもございません。伝言を賜っただけにございます」
 下官は気真面目に答えると、箱を置いてさがっていった。
 ―――さて、一体何が入っているのか。
 陽子はわりと気軽に色々なものを臣らに下賜するが、それは手ずからの茶だったり、忍びで出掛けた折に堯天で求めた日用品や菓子だったりと、ささやかなものがほとんどだ。こういう形でものを下賜することはとても珍しい。
 浩瀚は箱に掛けられた組みひもをそっとほどいて箱のふたを開ける。中に納められていたものを確認し、目を見張った。
 「……なんと」
 中におさめられていたのは、長さ一尺五寸ばかりの一本の竹であった。
 恐る恐る手にとって眺めると、黒く艶やかに光る竹の表面には、美しいまだら模様が浮かんでいる。祥雲竹と呼ばれる班竹だ。竹の中には、表面にまだらの模様が浮かび上がる種類のものがあり、中でも特に模様が雲に見える物を祥雲竹と呼ぶのである。祥雲、つまりはめでたいしるしの雲だ。班竹の中にまれに現れる、非常に珍しい竹である。
 しかし、箱の中に納められている竹は、浩瀚の知る祥雲竹よりはるかに深く艶めいている。浩瀚は、これほど深い艶めきをおびたものは見たことがなかった。
 「まさか、湖睡竹(こすいちく)か」
 それは幻の竹。もともとは祥雲竹なのだが、それがどういったわけかで湖の泥の中に埋まり、腐らずに何百年と封印されると深い艶をおびると聞いている。
 ―――これが真に湖睡竹ならば……
 浩瀚の心は、ざわざわとさざ波立った。
 湖睡竹には、有名な話がある。
 ある笛の得意な男に惚れてしまった、水に住む妖(あやかし)の話だ。


 ある山中の池に、一匹の妖が住みついていた。水の中でしか生きられないその妖は、水辺に近づいてきたものを水中に引きずり込んでは喰らっていた。妖はその池に長いこと住みついていたが、近頃大気を包む陽の気が、日に日に濃くなっていくのを感じていた。
 陽の気が濃くなるごとに、自分の力が削がれていくのを感じる。
 ―――もっと、餌がいる。
 山中ゆえ、野山を駆け回る獣をとらえることは難しくなかったが、獣はいくら喰っても大した力を生まない。
 ―――人が喰いたい。
 力の衰えを感じる日々の中、妖は切にそう願っていた。
 かつて妖は、何度か人と呼ばれる生き物を喰ったことがあったのだが、その人の中には時々、とんでもない力を与えてくれるものが交っていたのだ。そのものは、手足を喰っただけでは死なず、頭と胴だけになっても数日生きることができた。そんな生命力にあふれる人を、妖は必要としていた。
 ある日、その思いが通じたのか、池にひとりの男が近づいてきた。一目見るなり妖は、この男が生命力にあふれている奴の方だと気がついた。願い続けた好機。しかし、男がおもむろに笛を吹き始めたとき、妖の気持ちに変化が生じたのである。
 ―――この音をもう少し聞いていたい。
 そしてこの男が、湖睡竹という湖の泥の中に埋まる珍しい竹を探していると知ったとき、妖は一計を案じて男に取引を持ちかけたのである。男が探しているものに心当たりがあるふりをして、「百晩ここに通って私のために笛を吹いてくれるなら、お前が探しているものをやろう」と。
 男は逡巡するでもなく了承したが、妖にとってこれは方便だった。初めて聞く、よい心持になるこの笛の音を、思う存分楽しんでから男を喰う方が、すぐに喰ってしまうよりいいと思ったのだ。男の言う湖睡竹のことなど、はなから探す気はなかった。
 男は、妖の言葉を信じ切っているのか、毎晩真面目に池にやって来ては、一晩中笛を吹いた。妖は最初こそ自分の企みがうまくいっていることに満足していたが、約束の日が近づいてくると、約束をきちんと守っている男に対し自分が約束を守らないのは卑怯な気がしてきた。それで妖は、湖睡竹を探し始めるのである。最初はもちろん、自分の住む池を隅々まで探した。ないとわかると、別の池まで探しに行った。しかし水中を住処とする妖にとって、陸上移動はとても力を消費する。しかも夜は男が来るから、陽の気が降り注ぐ昼間の移動となる。早朝と夕刻を選んで移動しても、そもそも力が付きかけている妖にとって、それは命を縮める行為以外の何ものでもなかった。
 そして、約束の百日目がやってくる。やっとの思いで湖睡竹を見つけ出していた妖は、満足した気分でその晩を迎えた。もはや、自分の命が風前のともしびであることに妖は気がついていたが、男との約束を守って死ねる自分は幸せだとさえ感じていた。命の尽きる最後に、心地の良い笛の音を存分に聞かせてもらった。それは単調な時間しか流れることがなかった妖の長い人生の中で、心の充実を感じる貴重なひと時となったのだ。
 男が最後の晩の笛を吹く。いつにもまして、男の奏でる笛の音は、夜のしじまによく響きながらも静けさを壊さず、ふわふわとよい心持にさせもしたが、しんみりとした気分にもさせた。
 「ああ、月とはこんなにも美しいものだったのか」
 妖は、そう呟いて男の奏でる笛の音を聞きながら死んでいくのである。
 だらりと力を失った妖の手の中から、湖睡竹が転がり落ちる。男はそれ見て笛を吹くのをやめると、驚きに目をみはり、やがて嗚咽を漏らした。実は男は、妖が約束など守るはずがない、という疑惑をぬぐい切れずに、懐に常に妖の動きを封じ込めることができる呪符を忍ばせていたのである。そのくせ、本当の話なら幻の湖睡竹をついに手に入れることができる、という誘惑を捨て去ることもできないからこそ、百晩通い続けていたのだ。
 疑惑と誘惑。両方の思いを抱えたまま過ごした百晩。約束を守ってくれた妖に対し、自分はなんて不誠実だったのかと、男は恥じる思いだった。
 男はその後、妖の遺体を丁寧に埋葬し、湖睡竹で笛を作った。その笛は「妖湖」と命名され、他国に聞こえるほどの名笛と言われるようになるが、その男以外の誰が吹いてもまったく音が出ないという不思議な笛だったという。


 この話は、魯石という人物の書いた創作小説であるが、達王よりずっと前に存在したと言われる筍王(じゅんおう)の逸話をもとにしていると言われる。筍王は、即位二十年辺りから治世に迷い始め、毎日笛を吹いては気を紛らわせていたという。しかしそんなごまかしもついにはきかなくなり、やがて王宮を飛び出していってしまう。妖魔と出会って湖睡竹を手にしたという話は、事実かどうかはわからない。少なくとも現在慶の御庫には、「妖湖」という名のつけられた笛も、湖睡竹で作られた笛も存在しない。だが、筍王の治世をしらべると二十年頃に大改革があったのは事実で、何らかの心境の変化があったと見ることは十分にできる。
 それに、と浩瀚は思う。
 ―――笛に仕立てられたものではなく、竹そのものをくだされたということは、主上はあの話を意識しているに違いない。
 ならば、自分がすることはひとつ。
 浩瀚はすぐさま、行動に移した。


◇     ◇     ◇


 月がさんさんと輝いていた。その月明かりに照らされた園林の小路を、浩瀚はひとりゆったりと歩いていく。蓮池のほとりまでたどり着くと、傍に立つ路亭に浩瀚は約束の人物を見つけた。
 「お待たせしてしまいましたか」
 「今来たところだ」
 「御髪が少し冷たくなっているように思いますが?」
 「では、月に見とれて時を忘れていたかな」
 水面(みなも)に浮かぶ月を眺めていた陽子が、振り返って笑う。浩瀚も小さく微笑みを返して、対峙するように腰を下ろした。
 「で、例のものは?」
 「ここに」
 浩瀚は懐から笛を取り出す。もちろん、湖睡竹で作った笛である。
 「それ、お前が作ったのか?」
 「それでなければ意味がないのでしょう?」
 「上手に作るものだな。正直、竹だけ渡してもお前は困るだろうと思っていたんだけど」
 「もちろん、冬匠などに作らせた方が、よほど見事に作ると思いますが」
 「たぶんその笛は、どれだけ上手に作られたかが問題じゃない」
 「私もそう思います」
 「音を聞かせてくれ」
 「御意」
 浩瀚は、笛を口にあてた。笛はしっとりと唇によく馴染み、少し息を吹きかけただけで高く澄んだ音を響かせる。吹いてみて浩瀚が驚いたことは、笛が自ら音を出しているのではないかと思うほど、するすると音が紡ぎだされていくことだ。吹いていればふわふわと良い心持になって、体が宙へと舞いがっていくような気もちになる。時には、水の中をゆったりと漂うような感じもする。身体も心もすべてが大気の中に溶け込んで、森羅と一体になっていくような心持ちになる。
 「……すごいな」
 曲が終わったところで陽子がぽつりとつぶやく。陶然としたような表情が、浩瀚の男の部分を刺激した。
 「お吹きになってみますか?」
 「興味はあるが、やめておく」
 「真偽を確かめずとも良いので?」
 「そもそも笛が吹けない」
 陽子は苦笑した。
 「一度練習してみたんだけど、あきらめた。息の吹き込み方が難しいんだ。リコーダーならいけるんだけど」
 「りこーだー?」
 「縦笛の一種。あちらの学校では、必ず子どもたちに学ばせるんだ。ま、そんな話は置いといて、もう一回聴かせてほしいな」
 「主上の二胡の練習の成果は、ご披露頂けないのですか?」
 「その笛の音を聞いた後では、とてもとても聞かせられる音じゃない。……ま、そのうち」
 「では、この笛を吹くのもその時に致しましょう」
 「え!?」
 「楽しみがあった方が、練習にも張り合いが出るでしょう?」
 浩瀚がいうと、陽子は背もたれに預けていた身を起こした。
 「ちょっと、待て。それは私がかなり苦労して見つけてきたんだぞ。そんなにもったいぶらずに聞かせてくれてもいいじゃないか」
 「そもそも、そこに疑問があるのです。主上は、湖睡竹を見つけに行くために侍人を傍に置かれたのですか?―――黙秘権は認めておりませんので、あしからず」
 浩瀚は、ぷいっと横を向いた陽子の隣りに座りなおすと、強引に視線を自分の方に向けさせた。
 「e雪の旅券を使ってこっそり路門から外に出るために、e雪を傍に置いたのですか?」
 問いなおすと、陽子は驚いたように目を見開く。
 「知っていたのか」
 「どうやら抜け出しておられるようだと気がついて、路門の通行記録を調べてみたのです。ただ、主上が抜け出されるのをやめた後でしたが」
 「ああ、そういえばあの日、昼間、桓と二人で正寝まで来ていたと言っていたな。あの時、お前にもばれていたのか」
 「誰にも知らせずに出て行くなど、何かあったらどうなさるおつもりだったのですか」
 「―――ひと気のない山中に行くんだから、街に降りるよりよほど危険はないと思ったんだ。班渠もついてるし」
 陽子の答えに、浩瀚はわざとらしくため息をついた。
 「それにしても、よく見つけられたものですね」
 「……何か、きっかけが欲しかったんだ」
 浩瀚が目で問うと、陽子は小さく息をついた。
 「自分が心の中で漠然とながらも思っていることを、これから具体的に考えて行くべきなのかどうか、決意するきっかけだ。―――きっと筍王も、そんな思いだったなんじゃないかと思ったんだ。百晩続けて妖に笛を吹いて聞かせて、本当に湖睡竹が手に入ったなら、改革を断行しようと」
 浩瀚は軽く目を見張った。
 「やってうまくいく保証なんてない。でも、やらなきゃという思いもある。自分ひとりで考えていても踏ん切りがつかないから、決意するきっかけが欲しかったんだと思うんだ」
 言って陽子はにこりと笑う。その視線には、毅然たる決意が浮かんでいた。王者の微笑みに、浩瀚は見とれた。
 何をするにでも王はまず、自分の覚悟を固めなければならない。迷いは足元をすくう。王が足元をすくわれれば、朝が乱れ、国が傾く。王にとって最も重要な資質は、この覚悟を固める力であるとも言えた。
 覚悟を決めた時の翡翠の双眸は、いつにもまして美しく輝く、と浩瀚は思った。この瞳でまっすぐに見つめられれば、どんなことを言われても自分は拒むことができないと浩瀚は承知していた。
 「それで主上は、決意なされたわけですね」
 真っすぐに見つめて来る双眸を、浩瀚は愛おしく見つめ返した。
 「何なりとご命令を。主上の願いは、すべてこの浩瀚が叶えて差し上げます」
 「私が何を決意したのか、聞かなくてもいいのか?」
 「聞くまでもないこと。どんなことであっても、私に拒む気はないのですから」
 「では、お前の決意を確かめてみよう」
 陽子は悪戯っぽく笑うと、浩瀚の唇に自分の唇を重ねた。触れるだけの軽い口づけ。それだけで離れてしまった陽子に、浩瀚は不服の色を表した。
 「主上のなさった決意は、この程度なのですか?」
 そういうと、今度は自ら唇を重ねる。むさぼるようなその口づけに、陽子はやがて甘いと息を吐き出す。陽子が、先ほどの笛の調べよりも高らかな響きを紡ぎだすのに、さほどの時間はかからなかった。
 王宮の片隅で行われた二人の甘い交わりを、天上の月だけが静かに見守っていた。

 

 
 
 
  葵さまより頂いた20万打キリリクです。恋愛、水辺、嫉妬のリクエストに答えられたでしょうか。浩瀚にいかに嫉妬させるかが意外と難しくて、嫉妬させる相手に苦労しました。そんじょそこらの人物では、浩瀚ってそんなに嫉妬しなさそうで(笑)皆様に、楽しんでいただけたら幸いです。リクエストいただいた葵さまは、自由にお持ち帰りくださいませ!  
 
     
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