大陸東部、慶東国の首都、堯天。そこに聳える凌雲山の頂にある金波宮は、泰麒捜索に奔走した慌しい日々が過ぎ去って、普段の落ち着きを取り戻していた。
辺りを見回せば季節はもう秋。庭院の木々もすっかり色づき、吹く風は涼しく心地いい。
陽子は執務室の窓から見えるその景色を、見るとはなしに見つめ、遠くに思いをはせていた。心にあるのは、先日別れたばかりの故郷を同じにする同年代の少年。その本性は獣にして、十二国に十二しかおらぬ神獣―――麒麟。しかも彼は、よにも珍しい黒麒麟であった。
角を失ったがために麒としての本性を失い、ゆえに獣の姿に転変することかなわなかったが、聞くところによると、それはもう見事としか言いようのない美しき姿をしているという。鋼の鬣に、漆黒の体。その背には銀と雲母が散り、額の一角は真珠の輝きを纏う。
―――信じられないな。
陽子は、病床に臥せっていた彼のやつれた顔を思い出しながら呟く。特に彼の姿が、陽子にとって馴染みある姿とさほど変わらなかったせいもあるだろう。確かに髪の色は、黒というには少し違う色であったが、それでも自分の髪が真っ赤に変わっていたときよりも違和感はなかった。
異郷に生まれ、しかも自分が人ではないと知った時の感覚というのは、どういうものなのであろうか。
―――もし私が、人ではなく麒麟なのだと言われたら……
そう思って陽子はくすりと笑った。
―――王だと言われたときよりも、信じられないだろうな。
その時、視線の先を、禁軍左軍将軍が横切っていくのを捕らえる。その姿を見て、ふと陽子はあることを思い立ち、窓辺に駆け寄って男を呼び止めた。
「桓魋!時間があるならちょっと来てくれ!」
文箱を抱えた浩瀚は、内殿の長い廊下を渡っていく。
文箱に入っているのは、王に決裁を求める奏上書。もはや十分話し合われ、後は御名御璽をもらえば済むだけに調えられた書類は、わざわざ冢宰である浩瀚自らが運ばずとも事足りるのであったが、宮ではつい先日謀反が起きたばかり。もともと内殿への出入りは厳しく管理していたが、今はより一層警戒を厳重にし、ゆえに些細な書類も下官に任せず、浩瀚自らが運んでいた。一時的な措置とはいえ、念には念をというわけだ。
浩瀚は、涼しげな顔をして廊下を渡っていきながらも、さりげなく周囲に視線を飛ばしていく。密かに配置されている護衛に抜かりがないか、確認するためである。主が大げさなことを嫌うことを十分承知しているため、視界に入らないように工夫しているのだ。どんなに必要ないと言われても、こればかりは譲れない。王に何かあってからでは、遅いのだ。
―――さすが禁軍の兵だけある。
浩瀚は配備した兵の優秀さに満足し、微かに口元に笑みを乗せた。しかしその時、執務室から漏れてきた主の声を耳に拾って一気に緊張を走らせる。
外に漏れるほどの大声など、めったなことでは上がらないものだ。
―――何事か!
兵もざわりと動く気配があった。浩瀚は、もう目の前まで迫った執務室へ、駆けるように向かった。
「ちょっとぐらいいじゃないか。桓魋のけち!」
「けちとか、そういう問題じゃありません!」
「減るもんじゃないだろう!」
「減りますよ!」
「何がだ!」
「主上の慎みがです」
「そんなもの、とっくにない!」
「………威張らないでくださいよ」
飛び込むように執務室に駆け込んだ浩瀚は、そこで目にしたものに一瞬顔をしかめた。
すわ、賊か!と、慌ててきてみれば、執務室には王と将軍。他に人のいる気配もなく、また、自分の登場に気づく様子もなく、二人は舌戦を繰り広げている。
「どうしてだめなんだ。理由を言ってみろ、理由を!」
「理由なら、何度も申し上げたじゃないですか」
「あんな理由じゃ、納得できない」
「ほら、そういう……」
「あ、呆れたな。お前、今呆れただろう!」
「最初っから、呆れてますよ。どうしてそう聞き分けのない」
「聞き分けがないのはお前だろう。あきらめてさっさと言うことを聞け」
「お断りします!」
「勅命を使うぞ!」
「こんなことで勅命を使わないでください!」
「―――――――― 一体、何事ですか?」
「「あ、浩瀚」さま!」
二人が同時に振り返った。
「外まで声が漏れておりますよ。一体、どうなされたのです?」
問うと少女が、浩瀚にすがるように声を上げた。
「聞いてよ、浩瀚。桓魋が私の言うことが聞けないって言うんだ!」
その言葉に、浩瀚は眉をひそめて桓魋を見た。桓魋は、禁軍の将軍。禁軍といえば王の私兵だ。その者が王の命を拒むとは由々しき事態といっていい。
「あ!主上。その言い方はちょっと卑怯ですよ」
浩瀚の視線に鋭いものを感じて、桓魋が抗議の声を上げた。
「それじゃあまるで、王としての下命に楯突いているみたいじゃないですか」
「―――――ま、まぁ。似たり寄ったりなものだろう?」
そういいつつも視線をそらすのは、ちょっぴり後ろめたさがあるからだ。
「どこがですか!どうして、目の前で熊になれって言うのが、王としての下命になるんです!」
「―――――――熊?」
桓魋の言葉に、浩瀚は一瞬止まった。
要は、主上が桓魋に獣の姿になれと迫り、桓魋がそれを拒んでいるということか。
浩瀚は状況を把握すると、なるほど、と呟く。
「外に漏れるほどの大声を上げ、悪戯に警護の者たちを驚かせたのには、何やら深い理由があるようでございますねぇ」
その声に陽子が視線を上げれば、いつもの涼しげな顔に笑みが浮かんでいる。その様子を見て陽子は、思わずほほを引きつらせた。
「も、もしかして。怒ってる?」
「怒ってなどおりませんとも。しかし、理由をお伺いしてもよろしいですか?」
あくまで質問口調だったのに、陽子の耳に命令形に聞こえたのは、きっと気のせいではない。
「だ〜か〜ら〜」
と陽子は、茶を一口飲んでから口を尖らせた。
ゆっくりお聞きしますから、と言って浩瀚が用意させたのだ。同じ卓を囲んで茶を飲む三人は、一見、茶話に花を咲かせながらひと時の休憩を楽しんでいるように見えるが、本人達にしてみれば、それはどちらかといえば取調べに近いものだった。
「可能性の話をしていたんだ」
「可能性……ですか」
「そう」
陽子は大真面目な顔をして頷く。
「して、桓魋が熊の姿になることにどんな可能性があるんです?」
「桓魋がっていうより、私の」
「というと?」
「だって私も半獣かもしれないだろう?」
「…………………は?」
さすかの浩瀚も、聞き違いかと自分の耳を疑った。
「すみません。もう一度おっしゃっていただけますか?」
「だから、私も半獣かもしれないだろう」
「………どうしてそう思われるのか、理由をお伺いしても?」
なぜか頭痛がしてくる。しかし浩瀚は軽く頭を振って、気のせいだと思い込むことにした。
「だって、高里君が言ってたんだ」
高里君……と、その聞きなれぬ音を口の中で呟いて、それが先日大騒ぎして捜索していた戴の麒麟の蓬莱名であると思い至る。
「泰台輔のことですね。泰台輔がなんと?」
「始めて自分が麒麟だって言われた時、全然実感がなくてびっくりしたって。使令の下し方もわからなかったし、ましてや自分がどうやったら麒麟の姿になるのか想像もつかなかったらしい」
「…………なるほど」
浩瀚は、主が言いたいことが理解でき始めていた。
つまりは、麒麟だって長らく異郷の姿で育てば、二形を持つ実感がなかなかもてない。ならば、自分も自覚がないだけで、もしかしたら二形を持つのかもしれない、と考えたのだろう。――おそらく。
「で、それでなぜ、桓魋が熊の姿になる必要があるんですか?」
浩瀚が問えば、「そうそう、それなんだけどさ」と少女は、良くぞ聞いてくれましたといわんばかりに表情を輝かせて身を乗り出した。
「自分が麒麟だって実感が持てない高里君にさ、景麒が目の前で転変して見せてくれたんだって。その時すぐに転変できるようになったわけじゃないらしいけど、後々考えたら、その時に直感的に麒麟を理解したような気がするって」
「つまり主上は、目の前で半獣が姿を変えるところを見れば、自分にも同じようなことが起きるかもしれないとお思いなのですね?」
「そう、その通り。さすが浩瀚。理解が早い!」
「お褒めいただき光栄です」
浩瀚は、何とか涼しい顔を保って殊勝に頭を下げた。
「それにしても主上。主上は、自分が半獣だったらいいなとお思いなのですか?」
「う〜ん。というか、もしそうならさ、そのことに長いこと気づかないで、ずーっとずーーーっと後になってそのことに気づいたらさ、もったいないだろう?」
「もったいない?」
「そう。だって二つも姿を持ってるなんて素敵なことじゃないか。なのに、それに気づかずにいるなんて、もったいない!」
「……なるほど」
こちらの人間では思いもしないだろうその考え方に、ゆえに少女は王なのだという片鱗を見た気がして、浩瀚はにっこりと微笑んだ。そして桓魋を見る。
「というわけだ。主上にご協力しろ」
「な、浩瀚さま!」
「なに、減るものじゃあるまい」
くしくも少女と同じことを言われて、桓魋は絶句するしかなかった。
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