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 「 日食 」
 
     
 

 急な違和感に陽子は顔を上げた。
 なんだ?と不思議に思って辺りを見回すが別段変わったところなど何もない。そこはいつもの執務室。ひとり政務に励む陽子の周囲には、真夏のとろりとした暑気のみが静かに漂っていた。
 気のせいか、と陽子は再び筆を取ろうとしてはたと気づく。
 ―――蝉の声だ。
 陽子は違和感の正体をつかんで再び顔を上げた。
 先ほどまでうるさいほどに響いた蝉の声が、今はぴたりとやんでいるのだ。
 この季節、雲上のここにどうやってやってくるのかは知らないが、辺りは蝉の声に包まれる。蝉時雨―――それは季節を感じさせるものではあるが、時には辟易するほどで、ままならぬ難問に心苛立たせてその怒りの矛先をそちらに向けたのはつい先日のことだ。
 「蝉の声にお腹立ちならば、すぐさま庭師に命じて一匹残らず処分させましょう」
 八つ当たりと知りながら涼しげな顔をしてそう進言したのはほかならぬ冢宰の浩瀚で、遠回しの叱責と取った陽子は思い切りふてくされた。
 わかっているのだ。蝉にあたっても仕方ないということくらい。それに儚い蝉の命。無碍に奪ってはかわいそうだということも十分承知している。でもその時は、素直に八つ当たりだったと認めるのも腹立たしくて、浩瀚の言葉を聞き流した陽子である。
 「蝉の声がなくなることで主上が政務に集中できるのならば、必要な犠牲でございましょう」
 あの時の浩瀚の言葉を思い出し、陽子ははっとした。
 まさか本当に実行したとか……。
 あの男は本気と冗談の境がわかりにくい時がある。否と言われなかったから是と受け取ったのだと、真顔で言ってきてもおかしくないと陽子は思った。
 陽子は筆を置いて立ち上がる。
 まさかと思いつつも確認せずにはいられなかった。

 

 執務室から出れば、そこには夏の太陽に照らされて眩しく輝く庭院が広がっていた。
 陽子は眩しさに一瞬目を細める。室内から出てきたばかりの目に外の光は強すぎて、陽子は手をかざして光をさえぎり、目を慣らすためにしばしそこに佇んだ。
 庭院はいつもと変わらぬ姿でそこに広がっていた。
 石畳は美しく磨きあげられ、芝生は奇麗に刈りそろえられている。その先に広がる池には今が盛りと睡蓮が咲き誇り、池の脇では笹と柳がわずかの風に揺れて梢のさざめきを響かせていた。池の上に架かる石橋は幾重も折れ曲がりながら水上の小さな路亭へと続いており、その路亭は、庭院を一幅の絵画と見るならばまさに絶妙な位置に朱を添えていた。
 目の慣れた陽子は、庭園へと降りて辺りを一望した。庭師の姿を探したが、それらしき人影はない。
 では別のところに原因が?
 陽子は蝉が突然鳴きやんだ理由を探すようにもう一度庭を見回して、はっとあることに気づく。
 地面に落ちた木漏れ日が、欠けた月のような形になっているのだ。
 ―――あ!
 陽子は小さく息をのんだ。
 蓬莱で得た知識が不意に脳裏をよぎった。
 あれは小学校の何年生のころだったか。日本で日食が起きた。部分日食だったが、一生に何度も起きることではないその天体ショーに周囲はお祭りのような騒ぎになった。学校でも観察会が設けられ、陽子も専用グラスで欠けた太陽を観察したのだが、あの時、太陽が欠けたことそのものよりも陽子を驚かせたのは、木漏れ日の形が欠けた太陽そのままの形になっていたことだった。
 そもそもいろんな形の梢のから射す日の光が地面に丸く落ちるのは太陽の形が丸いからだというが、どんな説明を受けても木漏れ日が欠けたお月さまのような形になるのは不思議でしょうがなく陽子はよく覚えていたのだ。
 ―――日食だ。
 日食が起きると動物や昆虫が不思議な行動をとることがある、と聞いたことがある。なるほどそれでかと陽子がひとり納得したその時、回廊からあわただしい足音が響いてきたのだった。

 

 慌ただしい足音を耳にとらえて、陽子はわずかに身構えた。
 王宮の深奥で、このような足音を聞くのは非常に珍しいことだ。典雅なことを良しとする王宮の、特に王の身辺においては足音ひとつにも厳しく、ゆえにこんなふうに慌ただしい足音が響いてきた時には何事か起きた時だと決まっていた。
 一体何事か。そう思って視線を上げた陽子は、足音の主を捉えて目を見張った。
 血相を変えてこちらへと駆け走ってくるのはいつも冷静沈着な六官の長、冢宰の浩瀚だったのである。
 浩瀚のその様子に陽子はあ然とした。一体何事か、というよりも、あの天上人を絵にかいたような浩瀚が、との驚きが強かったのだ。そんな、ただぽかんと固まった陽子に
 「主上!」
 浩瀚は悲鳴とも怒声ともとれるような声を上げると、否やを言わさずに陽子の腕をつかんで引っ張った。
 「何をしておいでです!」
 「え?」
 言われている意味が全く分からなかった。
 ただただあっけにとられて浩瀚を見上げれば、浩瀚は険しい表情のまま陽子を室内へと引っ張り込む。
 もしや執務を放り出して油を売っていたから怒っているのかと、一瞬そう思った陽子だったが、その予想はどうやら外れていたようで、浩瀚は陽子を執務室ではなくその奥にある部屋に押し込んで、なぜか素早く戸や窓をすべて閉め切ったのである。
 もう何が何だか理解不能だった。
 全く状況が飲み込めぬ中、陽子はぽつんと闇に包まれた室内に立ち尽くした。
 一体何なんだ。
 「浩瀚」
 説明を求めるように声をかければ、見えぬ闇の中でも男が振り返るのがわかった。

 

 「主上。御無事ですか?」
 闇の中に浩瀚の声が響く。その問いかけに陽子はわずかに眉をひそめた。
 「―――って言われても、最初から何にもないんだけど」
 自分はいつものように執務をしていただけだ。蝉の声が気になってちょっと庭院をうろついてはいたけれど、ただそれだけ。浩瀚が来るまで誰も来なかったし、別に何かを口に含んだということもない。
 血相変えて飛んできて、心配されるような理由がまるで見当たらない。
 陽子が首を傾げれば、浩瀚は闇の中ぽつりとつぶやいた。
 「……お気づきになられませんでしたか?」 
 「何が」
 「―――太陽です」
 「太陽?」
 陽子はきょとんとして、ああ、と頷いた。
 「日食か」
 そうだそうだ、と陽子は呟く。
 「お前がものすごく血相変えて飛んできたものだからびっくりして忘れていたが、いま日食が起きているぞ」
 「……お気づきでしたか?」
 「蝉の声が突然やんでね。不思議に思ったから外へ出てみたんだ。そしたら……」
 陽子はそこまで言ったところで言葉を飲み込んだ。
 突然浩瀚に抱きしめられていたのだ。
 な!という驚きの声を陽子が上げるよりも早く、浩瀚の悲痛が鼓膜を震わせた。
 「ああ、何という。御身に不吉なる太陽の光を浴びるとは」
 一体全体何がどうなっているんだと、ただただ戸惑う陽子をよそに、浩瀚はさらにきつく陽子を抱きしめた。
 「私がお傍についてさえいれば、かような事態に陥らせたりはしなかったものを」
 浩瀚のその様子はどこまでも本気だったが、陽子はどうにもいまいち状況が飲み込めない。
 「―――なぁ」
 と小さく声をかけ、陽子はわずかに身じろいで顔を上げた。
 「……もしかして日食って、こちらでは不吉なものなのか?」
 陽子のささやかな問いかけに、闇の中でも浩瀚が驚きに目を見開くのがわかった。
 その様子に陽子は、ようやく事態を納得した気がした。
 こちらとあちらの違いについて日頃よく理解を示してくれる浩瀚がこれだけ驚くのなら、こちらで日食は、よほど不吉なのだろう。
 「でも、あちらで日食なんてただの自然現象だし、むしろ、めったに見られないものとしてお祭り騒ぎをするんだぞ。学校でもわざわざ観察会を行ったりして、積極的に日食を見せようとするくらいだ」
 だから、日食の光を浴びて不幸になるなんて迷信だ。そんなに心配しなくてもいい。陽子はそう続けようとしたのだが、わずかに闇に慣れた目が険しい浩瀚の視線を捉えて思わず言葉を飲み込んだ。
 「蓬莱でどうかは知りませんが」
 浩瀚は静かに声を這わせながら、そっと陽子のほほをなでた。
 ぞわり、と陽子の肌が泡立った。
 「こちらでは太陽は王の力の象徴。それが欠ける日食は、王の身に不幸を呼び寄せると古来より言い伝えられております。蓬莱でお育ちになった主上には迷信のように聞こえるかもしれませんが、人なる身では何事もなくとも、天の理に縛られた神なる身においては笑いごとでは済まない事態が起きる可能性がありましょう?遵帝の故事はすでにご存じのはず。こちらに只人しかおらぬなら、あのような故事はただの神話にしかならぬこと。でも、主上にとっては自身の命にもかかわる過去の教え。ならば日食の謂れもただの迷信と一笑に付すことは出来ぬはずです」
 「……そう言われたら、そうかもしれない」
 「本来なら、天文官が常に太陽を観察して日食の期日を予想し、主上にはひと月前より邪を払う潔斎に入っていただかねばならぬところ。それなのに務めを怠って今回のような事態に……。太陽が欠け始めていると聞いた時には、御身に何か起こるのではと生きた心地がいたしませんでした」
 浩瀚はほほをなでていた手を頭に回し、陽子を再び腕の中に閉じ込めた。
 浩瀚の胸にほほを寄せる形になった陽子は、袍に炊きしめられた香がいつもより強く香って、途端に羞恥がこみ上げた。
 考えてみれば、暗闇の密室で男に抱きしめられているなど、まるで恋人同士のようではないか。異性と付き合ったらそんなことがあったりもするのかと、遠い昔に漠然と考えたこともあるが、王になってからは女の部分を意識して除外してきた陽子である。
 つまり、このような事態に全く免疫がなかった。
 「あ、あの。浩瀚」
 「まだ何か?御理解できぬところがおありですか?」
 「いや、日食のことは理解できたんだけど……」
 「では、太陽が元に戻るまでこのままに。私も仙のはしくれ。邪気払いくらいにはなりましょう。日食の光を浴びて御身についた穢れを私にお移しくださいますよう」
 言って浩瀚は、「ああ、そうだ」と呟く。
 「邪気を移すに最も良い方法がありました」
 浩瀚がそう言うやいなや、陽子は深い深い口付けをされていたのだった。


 
 
 
 

みなさまのおかげで一周年。私の感謝の気持ちが伝わったでしょうか(笑)
・・・まあ、現実には本当に単に自分が書きたかっただけなんですけどね。

ところで、このあと浩瀚はどうするでしょうか(笑)
@とりあえずちゅーで満足。
A色々葛藤するが、 理性が本能を抑え込む。
B いやいや、このまま暴走するに違いない。
Cその他。
ちなみに、聞いたからって先は書きませんのであしからず。てか、Bを書こうとして挫折したのです。どこまで書いていいものやら、わからなくなってしまいまして……(苦笑)
どなたかが続きを書いてくださるなら喜んで受け取ります。

では、今後も恋々歌をよろしくお願いします。

 
 
     
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