◎初咲き
蒼穹にうす紅色の花弁がわずかにほころびを見せていた。見やればこちらに一輪、こちらにも一輪。可憐な花がいつの間にか花開いている。
―――ああ。
浩瀚は相好を崩して吐息を吐いた。
初咲きだ。
主上がどんなにかお喜びになるだろうか。
それを想像するだけで、浩瀚の口元が自然とゆるむ。
地上では、今年の初咲きはどこの地になるのかと競っているものらしかったが、地上よりも気候穏やかな雲上では、当然一足先にほころぶ。つまりは主上に喜びの報告をできるのも当然一番乗りというわけで、
―――そんなところに優越感を感じてしまうのは、まだまだ青くさいか。
浩瀚はわずかに苦笑したが、改める気は毛頭なかった。
桜が開花しましたよ。
そう告げるのは自分の特権。浩瀚は今のところ、その栄誉を誰にも譲る気はなかった。
◎春到来
「ああ、本当だ」
陽子は口元に笑みを浮かべると、花のほころんだ枝先にそっと手を伸ばした。
その時、吹き抜けたそよ風がそのうす紅の花弁をわずかに揺らし、のばした指先を心地よくくすぐる。
桜にほおずりされたようなその感覚に、陽子の笑みは一層深まった。
「お花見の準備をしなくっちゃね」
陽子が振り返ると、傍に控えていた浩瀚がゆったりと笑う。
「見頃は、いつ頃かな?」
問えば「この陽気ですと、来週の中頃でしょうね」とすかさず答えが返ってきて、陽子は思わず声をあげて笑った。
「浩瀚はすっかり桜博士だな」
その柔らかな笑い声に、浩瀚もまた笑う。
「主上にお喜び頂くためには、私はどんな努力も惜しまぬ男ですよ?」
「お前の冗談も春の風物詩だな」
「主上のその朗らかな笑声は、春の到来を告げるものでございますね」
しれっと返された答えに、陽子はさらに笑った。
―――ああ、春が来た。
浩瀚はその笑顔にそっと双眸を細めると、いつまでもまぶしく見つめた。
◎花冷え
朝目が覚めた時、陽子は思いもしない寒さに驚いた。
あわててそろそろ不要かと思っていた厚手の上着を羽織って部屋の窓を開ければ、目が覚めるような冷気が一気に室内に流れ込んでくる。
近頃は日一日と暖かくなり、そろそろ桜が見ごろを迎えようとしている時期だ。そんな時にこれほど寒くなるとは思いもせず、陽子は冷気に身をさらしたまま茫然と立ちすくんだ。
―――ひょっとして天意が傾いているのだろうか。
そんな不安がちらりと脳裏をよぎれば、その不安は陽子の中でどんどんと膨らんだ。
そういえば近頃は、花見花見と浮かれて少々政務がおろそかだった。書き間違いや思い違いなどの失敗も多く、皆は呆れつつも「この時期は仕方ないわね」と苦笑していたが、景麒のため息の数は明らかに倍増し眉間の皺もいつも以上に深かった気がする。
―――王なのに浮かれている場合じゃなかったんだ。
自分の行いはすべて天候を左右し、民の生活に影響する。それを忘れて自分の楽しみに浮かれていた己を恥じるように陽子はそっと視線を伏せると、きゅっと唇をかみしめたのだった。
ぶり返した寒さは幾日も続いた。
桜は五分ほど咲いたところからなかなか咲き進まず、地上では咲いた桜に雪が積もるという現象が見られたという。
陽子はますます不安になった。
突然寒くなったあの日から、桜のことは頭から一切追いやって執務に励んでいるというのに、気候が戻る気配がないのだ。桜の咲いた後に雪が降るなどもう異常としか言いようがなく、陽子はこのままどんどん天意が傾いていくのかと思うと恐ろしくて仕方なかった。
何とかしたい。でもその方法がわからない。こんな時こそ自分を支えてくれている面々に相談して助言を仰ぐべきなのだろうが、自分の浮かれ気分が招いた事態と思えば相談することすら恥ずかしく、陽子は一人不安を抱えて悶々とするしかなかった。
「近頃寒い日が続きますね」
浩瀚がふとそう告げてきたのは、執務が一段落ついた時だった。お茶を入れましょう、と茶器に手を伸ばし、変わらず優雅な手つきで茶を用意する浩瀚を見やりながら、陽子は唐突に掛けられた言葉にどきりと身を固くしていた。
―――ひょっとして浩瀚は何か勘づいたのだろうか。
この寒さは異常だと。そしてそれが何を意味するのかと・・・・・・。
それをはっきりと言葉にして指摘されるのが恐ろしく、陽子が戦々恐々として浩瀚の様子をうかがっていると、茶を入れ終わった浩瀚は、にっこりと笑って陽子に茶器を差し出した。
「天帝も心憎いことをなさるものです」
ふと呟かれた浩瀚の言葉の意味がわからずに陽子が首をかしげれば、浩瀚の笑みは一層深まった。
「この寒さのおかげで例年になく桜の持ちが良うございます。いつもならぱっと咲いてぱっと散ってしまうというのに」
それは確かにそうだった。咲いてから寒くなったせいか、ぽつぽつとゆっくりと花が咲いていき随分と長いこと桜が咲いているのだ。
「きっと桜のお好きな主上のために、少しでも長く桜が愛でられるようにとの天帝のおはからないのですよ。いつもがんばっている主上へのご褒美でございますね」
浩瀚の言葉にきょとんとすれば、浩瀚は少しいたずらっぽく笑った。
「それ以外にこの寒さをどう理解できましょうか」
思いもしなかった解釈に陽子が戸惑っていると、浩瀚は笑顔のままに言葉を続けた。
「さて、寒い日が続くとは言え、それでもそろそろ桜も見ごろを迎えます。祥瓊が、主上よりなかなかお花見の日取りを決めてもらえぬゆえ準備がはかどらぬと不満を申しておりましたが、いつにいたしましょうか?まあ、もっとも、これ以上ぐずぐずするようなら勝手に日取りを決めると申しておりましたがね。ちなみにその際の拒否権は主上にはないとのことですよ。そのくらい、みな楽しみにしているのです」
もちろん私もですが、と続ける浩瀚に、陽子はぱちぱちっと二回ほどまばたきをすると、やっと目元を緩めたのであった。
◎春の終わり
花の時期は過ぎ去り、桜はすっかり新緑に包まれていた。
辺りは一面萌葱色に染められ、梢から射す陽の光が時折吹くそよ風に踊る。
その静謐な空間にその緋色は静かにとけ込みつつも、やはりはっとするほど鮮やかにそして確固として存在していた。
「主上」
声を掛ければ少女がゆっくりと振り返る。
振り返れば新緑よりも鮮やかな翠の双眸が、男を見やって柔らかく細められた。
「浩瀚」
「すっかり葉桜になりましたね」
「もう、桜の時期は終わりだ」
大樹を見上げるその視線を辿って浩瀚もまた上を見上げる。
この桜の下で花見をしたのはつい先日のことだ。ささやかながら宴席を設け、皆で酒を酌み交わして大いに盛り上がった。
「花見はね、にぎやかじゃなくっちゃいけないんだ」
そう言って主催者自ら羽目を外した。
その時の様子を思いだすにつけ浩瀚の口元はついゆるむ。
「へぇ、それは何か理由があるんですか?」
皆を代表してそう問うたのは桓魋だ。それに対する少女の答えは浩瀚にはとても興味深いものだった。
「もちろん。だって、桜の神様はね、にぎやかなのがお好きなんだ」
「桜の神様?」
「そう、そして桜の神様をご機嫌にしてあげるとね、豊作を恵んでくださるんだよ。桜の神様は稲の守り神だからね」
「へぇ、では民のためにもここで大いに盛り上がって桜の神様をご機嫌にしないといけませんね!」
「そうだ桓魋。飲め飲め!今日は無礼講だ」
「だそうだ、虎嘯。今日は遠慮はなしだぞ」
「おう!」
こんな二人につきあって翌日ひとり二日酔いに悩まされた主はひどく後悔していたが、そんな少女に浩瀚はそっとささやいたのだ。
「これで今年の慶の豊作は約束されたも同然なのでしょう?二日酔いもお役目のうちですね」
その言葉に少女はただ苦く笑った。
あの宴の余韻が皐の空にそよ風と共に消えていく。
浩瀚は再び少女を見やった。
その視線を感じたように少女も再び浩瀚を見やった。
「さて、仕事だな。桜が終わればすぐに雨期だ。やることは山積みだな」
「御意」
背筋をしゃんと伸ばして少女がきびすを返す。執務室へと向かっていくその後に、浩瀚はゆっくりと続いた。
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