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 「 しるし 」
 
     
 

 その日も浩瀚は、王に決裁を求める奏上書を抱えて王の執務室を訪れた。
 そこは金波宮内殿、積翠台と呼ばれる建物の一郭。意外とこじんまりとした室内には夏に独特のとろりとした暑気が漂っており、裏に面した窓の向こうを流れる小さな滝からわずかな涼気が流れ込んでいた。
 主と二人執務をしているときには全く気にならぬその滝の音が、今は妙に大きく響いている。
 浩瀚はその水音を聞きながら、もう一度確認するように室内を見回した。しかし、やはりそこに自分の求める姿を見つけることはできなかった。
 ―――さて、どこへお行きになったものやら。
 浩瀚はわずかに首をかしげた。
 執務に嫌気がさして奥へ引っ込んでしまう、ということはまずない主である。だが、こちらの生活や執務になれてきた昨今では、「ちょっと息抜き」が、うっかりちょっとではすまなくなることも珍しいことではなかった。
 先日などは、あまりに戻らぬ主の姿を求めてあちこち捜し回れば、なんと庭院の木陰で転寝(うたたね)をしていたのだ。目にした瞬間は、倒れているのかと寿命が縮む思いがしたものである。
 こんなところでお一人で転寝などしてはなりませぬ、と嗜めの言葉を吐いた浩瀚であるが、池の畔のその木陰は気持ちの良い風が吹き抜ける夏の午後の昼寝にはまさにうってつけの場所であり、彼女がついそこでうっつらうっつらとしてしまった気持ちもわからないではなかった。
 「なるほど、一人じゃだめなんだな」
 起きあがった彼女は、どこか挑発的に笑った。
 「では、今度からは誰かをつけることにするよ」
 その返答に浩瀚はひっそりと眉根を寄せた。自分の言いたかったことはそういうことではないし、他の誰かに愛しい少女の無防備な寝顔を見せるなど言語道断だった。
 しかし、その胸中を吐露するわけにはいかない。今はまだ、二人の関係を、王と冢宰以外のものにするわけにはいかないのだ。
 だがそれでも、瞬時沸き上がった感情は隠しきれなかったようだ。自分のわずかな表情の変化に不服の色を読みとったらしい彼女は、「冗談だよ」と笑う。それは一見、相手の思いを知りつつ翻弄するかわいらしい恋の駆け引きの言葉のようであったが、浩瀚は彼女がそんなつもりは毛頭ないことをしっかりと認識していた。
 なぜなら浩瀚は、彼女にとって自分はあくまでも臣でしかないことを自覚していたからだ。
 「今度からはあちらにするよ」
 少女はそう言うと、そばにあった路亭を指さす。
 蓮池の中にひっそりと佇むその路亭を見やって浩瀚は頷いた。
 「そうですね。地面の上に転がっているよりもよろしいかと。しかし、あのように風情ある路亭があるとは知りませんでした」
 「そう?まあ、確かにこの辺りはあまり人が入ってこないからな。今度からここに来る時は目印を置いておくよ。そうしたら浩瀚も心配じゃないだろう?」
 「目印?」
 どのような、と問いかける浩瀚に少女はただ笑った。見れば絶対にわかる印だ、と。
 浩瀚はその時の言葉を思い出し、改めて室内を見回した。
 そして、その印を見つける。
 ―――なるほど。
 浩瀚は胸中呟いてにこやかに笑うと、静かに部屋をあとにしたのだった。


◇     ◇     ◇


 まるで逢瀬のようだ、と浩瀚は思う。
 仲を秘さねばならぬ恋人達が、密かに会うために取り決めた印。その印のある時、二人は二人しか知らぬ秘密の場所でひっそりと二人だけの時を過ごすのだ。
 浩瀚は、件の路亭に向かいながらそんな錯覚を覚えた。
 いや錯覚と言うより、願望と言った方が良いだろうか。
 これが逢瀬ならどんなに良かろうか、と。
 しかし実際はそうではない。だがそれでも、誰もおらぬ執務室にその印がある時、浩瀚は浮き立つような感情が沸き上がってくるのを押さえることはできなかった。そこで交わされる会話が甘いものではなくとも、二人だけであるというのは間違いのない事実であり、他のどんな親しい者もそこには招いていない二人だけの場所であるということもまた事実であったからだ。
 人が踏みしめたことによってできたような小道を浩瀚はゆっくりと歩いていく。急く心を落ち着かせ、変な期待を抱いてしまいそうになる自分を戒める時間が浩瀚には必要だった。
 だからゆっくりと路亭へ向かう。
 しかしそれでも、目指す先に鮮やかな緋色を見つけると、浩瀚の心臓はいつもぴくりと跳ねた。
 その喜びに―――


◇     ◇     ◇


 池の上の路亭と岸とを結ぶ木道に乾いた足音を響かせて浩瀚が姿を見せると、陽子は振り返って笑った。
 「思ったより遅かったな」
 「それは申し訳ありません」
 軽く頭を下げて浩瀚は苦笑する。
 どうしてこうこの方は、期待してしまうような言葉をさらりと吐いておしまいになるのか。
 しかしそうやって少女の一挙一動に振り回されるのも、浩瀚は嫌ではなかった。
 「お前がこの間、ここで一服もよいものだろうと言っていたから、今日はわざわざ茶を用意していたんだぞ。でも来るのが遅いから、すっかり冷めてしまった」
 「このように暑い日には、冷めた茶もまた良いものです」
 「お前は本当に口がうまい」
 陽子は苦笑すると茶器を差し出す。
 「冷めた茶で良いというなら、はいどうぞ」
 「ありがとうございます」
 浩瀚は茶器を押し抱いてありがたく受け取った。
 ―――甘露なり
 茶を口に含んで舌の上で転がす。
 何もかもが贅沢だ、と浩瀚は思った。
 池の上に立つこの路亭は、ひんやりと涼しく、心地よい風が吹き抜ける。視線を少し外に向ければ、きらめく水面には睡蓮が可憐な花を咲かせていた。静かな空間に愛しい少女と二人。才国の重宝華胥華朶が見せる夢の国とは、案外このようなものかもしれないと浩瀚は密やかに思った。
 「それで、その文箱に入っている物は急ぎか?」
 茶を飲み干す頃合いを見計らって陽子はたずねる。浩瀚はわずかに首を振った。
 「さほど急ぎはしません。御璽をいただければ良い書類がふたつ。ご推考頂きたい書類がひとつ。残りは主上がお求めになっておられた報告書です」
 「見せて」
 陽子が手を差し出せば、浩瀚は文箱から書類を取り出した。
 池の上の路亭は、たちまち王の執務室へと変わる。
 二人の間で交わされる言葉は、執務室と何ら変わらない王と冢宰のものであったが、それでもやはり浩瀚は、ここには執務室とは違う独特の雰囲気があると感じていた。
 それが何かと考える時、浩瀚はいつも答えをつかみ損ねていたのだが、この日浩瀚は、ああ、と唐突に理解した。
 彼女の纏う空気が柔らかいのだ。ゆえに彼女が近い。
 そしてその距離をじゃまする者は誰も現れない。
 「ここで一服もよいものですが、一献というのもまた良いでしょうね」
 浩瀚が思わず呟けば、書面を眺めていた陽子が顔を上げて苦笑した。
 「昼間から酒か?わが冢宰は驚くことを王に進言する」
 「さすがに昼間からというのはまずいでしょうね」
 「では夜か」
 「月夜の睡蓮というのも雅でありましょう」
 浩瀚の視線に誘われるように陽子も蓮池に視線を向けた。
 夏の太陽に睡蓮の白い花はまばゆく輝いていた。吹き抜ける風に立つさざ波に陽光が反射して美しく煌めく。
 これが月明かりならどうなるのだろうか。
 それを想像して陽子はゆったりと笑った。
 「悪くなさそうだ」
 その返答に、浩瀚はにこやかに微笑んだ。


 雁の主従が突然鸞をよこしてきたのは、そんなやりとりがあって数日後のこと。
 「正午に禁門を開けるよう」
 いつものようにそれだけを言って嘴を閉じる鸞を見やって陽子は軽く苦笑すると、伝言どおり正午きっかりに禁門へと降りた。門前で待つと予告どおりに二頭の騶虞が飛来してくる。
 「毎度のことながら唐突なお越し、今度はいかがなさいました?」
 陽子が苦笑混じりに迎えると、上背のある男の方が太い笑みを見せた。
 「今回は息抜きではないぞ。ちゃんとした仕事だ」
 「王のちゃんとした他国訪問とは、まずは書面でやりとりして前もって日取りを取り決め、先触れの官が来るものではなかったですか?」
 「なに、その辺は俺とお前の間柄だ。煩雑で意味のない手続きを踏むよりも、臨機応変に迅速な対応をした方が互いのためだとおもわんか?」
 「なるほど一理あると賛同申し上げたいところではありますが、雁の方々の恨みを買いたくはありませんからね。ここはひとつ黙秘といたします」
 「やれやれ、まったくお前もかわいげというものがなくなってきたな」
 「それはきっと延王のご指導の賜物ですね」
 陽子は笑って、客人のいま一方、金の髪をした少年の方を向いた。
 「延台輔も、遠路はるばるご苦労様です」
 「ああ、すっげー苦労だったぜ。ここに来るために山のような書類を片づけてきたからな。じゃないと一歩も外には出さねぇって感じで、にっこり笑顔で怒っているやつがてさ」
 「―――それは、大変でしたね」
 お互いに、と陽子は雁のとある官の顔を思い浮かべて苦笑した。
 ちゃんとした仕事で来た、と言ってはいるが、おそらく出かけるために仕事という体裁を整えたといった方が正しいのだろう。
 そもそも王同士が直接話し合って国交間の諸問題を解決するなど、こちらでは滅多にあることではない。基本的に国の運営は官吏が行うのだ。ただ超法規的な存在である王同士が話し合えば、確かに話が早く進むということはあるが。
 そしてその、話が早く進むことの意義を持ち出されれば、雁の諸官とて王の外出を止めることはできなかったのだろう。
 というより、あきらめたと言うべきか、あるいは妥協したと言うべきか。どこぞへ勝手に出かけられるよりも、行き先がはっきりしている方が緊急時に連絡も取りやすい。
 「では、どうぞこちらへ」
 陽子は先に立って二人を王宮へと招く。
 「ついた早々仕事の話も何でしょうから、まずはお茶でも入れましょう。お酒は夜まで我慢してくださいね」
 陽子の言葉に、延王は軽く苦笑した。


◇     ◇     ◇


 延王の急な来訪は今に始まったことではない。
 公に私にと、とってつけたような理由を携えて延王はよく慶を訪れた。最初は、そのあまりに身軽な来訪に浩瀚は驚いたものだ。主上の登極を助け、後ろ盾となっているのは知ってはいたが、これほど気軽に王が他国を行き来するなど思ってもいなかったからである。
 そして、それをあまりにもすんなりと受け入れる主上の様子にも。
 しかしすぐに浩瀚は、その来訪に慣れた。むしろ、ありがたいと思うようになった。なにせ官を通せば何かと煩雑で無駄に時間ばかりがかかる事柄が、あっという間に決まってしまうのだ。それも、慶に対してかなり好意的な条件で。それは延王と景王とが個人的に親しいゆえに可能なことであった。
 これによって、慶はかなり救われたと言っていい。王朝が立ち上がっていつまでも道も橋も補修されずにいると、それだけで民は希望を失い王朝への信頼をなくすものなのだ。逆に、国の復興が目に見える形で行われると、民はそれだけで活気づく。特に、また女王か、という空気を払拭するためにも、赤王朝はとにかく目に見える形の復興をする必要があった。
 だがその必要性を認識しつつも、実際にそれは、慶だけの力では不可能だった。何せ金がなかったのだから。その金を融資してくれたのも雁だった。無利子無担保。そんなことをしてくれる国は、十二国あれども雁一国だった。ただし借金を返済するまで、雁に対する関税の税率をかなり引き下げる事が条件の通商条約が結ばれはしたが。
 そう、冢宰という立場から言わせてもらえば、延王の来訪は歓迎すべき事であったのだ。 だが、いつの間にか浩瀚は、あまりに気軽にやってくる延王を好意的に受け入れることができなくなってしまっていた。
 陽子、と当たり前に延王が口にする時、二人の間に和やかな空気が流れている時、目配せだけで笑いあう時、浩瀚の心は激しくざわついた。
 そもそも主上自ら禁門まで出迎えに行くということさえも、不満に感じるようになっていた。
 しかしそれでも、冢宰の仮面を脱ぎ捨てるわけにはいかなかった。
 心中ざわつくゆえに、より完璧に仮面をかぶる必要さえあった。
 今日も禁門前で親しげな会話が交わされる。彼女が促し、二人の客人が王宮内へと向かう。その道中も、彼らの会話は和やかに弾んだ。書房にたどり着き、彼女自ら茶を入れる。そこで続く雑談の最中も、笑い声は絶えなかった。
 「それはやはり、日頃の行いというやつではないのですか?」
 「なぁ、陽子もそう思うだろう。こいうのを、身から出た錆っていうんだよな」
 「あるいは自業自得ですかね」
 「―――お前らなぁ」
 「それにしても懲りない方ですね。何度も同じ事を繰り返すとは」
 「こいつ正真正銘の馬鹿だからな。覚えてられないんだよ」
 「馬鹿はお前の字だろうが」 
 「勝手に変な字つけんな!それに、俺はもらうと言った覚えはないし」
 「まあまあ、お二人とも」
 「ほら、お前があんまり馬鹿だから陽子があきれてんじゃん」
 「お前の餓鬼さ加減にあきれておるのだ」
 交わされる会話は本当にたわいないものだ。だがそれゆえに、一層親しげな空気が漂っていた。
 たっぷり一刻ほどは雑談が続いただろう。そして来訪の目的であるはずの仕事の話は、半刻もせぬ内に片づいた。しかしそれはいつものことであった。
 「では、浩瀚これを頼む」
 主から御璽の押された書類を受け取って浩瀚は下がった。
 これからまた親密な時間が続くのだろうが、そこに浩瀚が入ることは許されてはいなかった。


 主からの急な呼び出しを受けたのは、客人を招く宴の準備を采配している最中のこと。何事かと正寝へと向かえば、彼女は自分の顔を見るなり苦笑した。
 「浩瀚、悪いんだけれども、宴の場所を変更してくれないか?」
 「いかがなさいました?」
 問えば彼女の苦笑が深まる。
 「延王がね」
 言いさして、話の順番を考えるように彼女は一度口を閉ざした。
 「話が済んだあと、客庁でいったん休むと言うからそのまま別れてね、私は準備まで少し時間があったからあの蓮池の路亭まで散歩しに行ったんだ。そしたら、延王も気ままに散歩を楽しんでいらっしゃったようで、あの路亭ではちあってさ」
 その言葉に、浩瀚の瞳が揺れた。刹那どきりとし、胸にわずかなしこりのようなものを感じた。
 「あそこは涼しいからな。雁に比べて慶は暑いし蒸すだろう?だから、延王はいたくあそこを気に入られたようで、今日の宴もここがよいと」
 「―――さようで」
 浩瀚は胸中に渦巻く暗いものにそっと蓋をして、にこやかに笑った。
 「では、すぐに準備いたします」
 一礼して退室する。その背に小さく少女の声が響いた。
 「・・・・・・すまないな」
 その謝罪は何に対してか。ちらりとそのことを浩瀚は考えたが、深く追求するのはやめた。あそこに宴席を設けるには少々手間がかかる。路亭までの小道や池周辺の草むらの様子を脳裏の浮かべた浩瀚は、無理矢理にそちらに思考を向けたのだった。


◇     ◇     ◇


 宴は粛々と始まる。今回の延王の来訪は、一応仕事を携えてきたとはいえあくまで非公式のものなので、宴も私的なものとして設けられた。よって本来なら大勢つくはずの官吏を遠ざけ、世話をする女官らの数もかなり限った。
 しかしそれでも、いつも二人で静かに過ごしていた場所はまるで別の姿を見せ、浩瀚の目には、とても同じ場所には見えなかった。
 それは時間の問題もあったかもしれない。いつも目にするまばゆい夏の太陽に照らされた景色は今は夜の闇にひっそりと静まり、そっと灯された篝火が水面に映って揺れていた。
 いつも目にする光景を明瞭と表現するならば、今は幽玄と言うべきだろう。それくらい別の世界であった。
 とはいっても、広くはない路亭の中の様子はそうは変わらない。王の臨席する宴席にふさわしいようにと美しく整えられ、紗も掛けてはあったが、柱はいつもの柱であり椅子は椅子であった。そしていつも浩瀚が座るその場所に今は延王が悠然と座っていた。
 「陽子はまだか?」
 そう問いつつ延王は、手酌で酒を注ぎ、豪快に杯を煽る。その前にはすでに銚子が二、三本転がっていた。
 「せっかくの宴だからと女官達に着飾られておられるのでしょう」
 浩瀚が答えれば、
 「陽子も苦労しているようだ」
 再び酒を注いで延王は、太い笑みを口元に浮かべた。
 陽子、と目の前の男が口にする度に浩瀚の心が波立つ。しかしそれも軽く笑みを浮かべることでごまかした。
 その時、周囲の空気がわずかにざわめく。何事かと振り返れば、目の前には麗しき緋色の乙女。少し恥ずかしげにうつむいている姿がえも言われぬほど艶やかで、浩瀚は己が腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動をぐっとこらえた。
 その横で延王がすくっと立ち上がる。
 「これは見事だな」
 そう呟くと、ためらいもなく近づいて、浩瀚がいつも触れたくて仕方がない艶やかな緋色の髪をひと房手に取る。そしてその髪にそっと口づけを落とした。
 「え、延王!?」
 「なに、宴席での戯事よ」
 戸惑う少女をよそに、延王はゆったりと笑った。それでからかわれたのだと思ったのだろう。少女はどこかすねたように男を見返した。
 「そんな顔をするものではないぞ。せっかくの艶姿が台無しだ」
 「どうせ、馬子にも衣装と思っていらっしゃるのでしょう?」
 「そういうところは、まだまだ子どもだな」
 「どうせ子どもです」
 「こんなやつの言うことなんか真に受けるなよ。陽子すっごい綺麗だぜ!」
 「ありがとう、延麒」
 「やだなー、陽子。いつも六太で良いって言ってるじゃん。六太って呼んでくれよ」
 「いや、でも。なんかいまさら呼び方を変えるのもなんか照れくさいというか・・・・・・」
 「そんなの慣れだって。ほら、六太って呼んでみてよ」
 「じゃあ、俺のことも尚隆で良いぞ。何なら訓でも良い」
 「―――お二人とも、もう出来上がっているのですか?」
 陽子は苦笑して宴席に着く。場は終始和やかに、歓談は途切れることなく続いた。
 今日は皮肉にも満月。そっと水面に視線を落とせば、その煌々とした月影が水面に映って揺れていた。浩瀚は時折あがる笑い声を聞きながら、どこか寂しげにその幻影を見つめた。


◇     ◇     ◇


 延主従の突然の来訪から一ヶ月。金波宮は普段と変わらず、あわただしくも穏やかな時間が流れていた。しかしあれ以来浩瀚は、どこかぽっかりと胸に穴のあいてしまったような虚無感を抱えていた。
 原因はあまりにもはっきりしていた。
 ―――自分は失ってしまったのだ。愛しい少女と二人密やかに過ごした秘密の場所を。
 ―――あの場所はもう二人だけの場所ではなく、永遠に自分の手に戻ることはない。
 その思いを処理できないでいるのだ。
 でも、起きてしまった現実は、どうやっても取り消すことなどかなわない。だからあれ以来、印が置かれることもない。約束の場所がなくなってしまったのだから、約束の印ももう必要ないのだ。
 大きな喪失感を抱え、それを無理矢理に納得させ、どうにか自分の中で処理しきれたと思った矢先、浩瀚は主のおらぬ執務室で信じられないものを見る。
 浩瀚は一瞬固まって、そして確認するようにもう一度それに目をやった。
 それは間違いなく、あの印だった。


 どういう事だろうか。
 浩瀚は、あの路亭へ向かいながら考えていた。
 だが答えはあまりに簡単であるように思った。
 つまりは、彼女にとってはあくまであの路亭はあの路亭であり、自分が思っているような意味をあそこに見いだしていたわけではないと言うことだ。
 それは、あまりに当然といえば当然のこと。
 自ら導き出したその結論に、浩瀚は片を付けたと思っていたはずの感情が揺さぶれるのを感じた。
 路亭へと続く小道を行く。以前とずいぶん印象が違って見えるのは、何も季節が移ろったせいばかりではない。かつてそこは人が踏みしめてできたような本当に小さな道であったが、あの宴に客人を招くに見苦しくないよう急遽整えた。よってかつてより幅は広くなり、袖に触れるほどに茂っていた草は綺麗に刈り取られた。
 その宴の名残が、浩瀚の心をより重くする。
 ―――いっそ行くのをやめようか。
 浩瀚は不意にそう思った。
 執務室には行かなかった。あるいは行っても印を見落とした。そう言い訳してしまえば、自分が路亭に行かなかった理由が立つような気がする。
 しかしその思いは、この先に少女がいるという思いに負けた。
 気分は重く沈もうとも、喪失した場所を目にする事を恐れながらも、浩瀚は引き返すことはできなかった。
 そしてついに、形ばかりは見慣れた路亭が見える。しかし浩瀚はそこに、輝く緋色の髪を見いだすことはできなかった。
 また、転寝でもなさっておられるのか。
 浩瀚はそろそろと木道を通って路亭をのぞき込む。しかしやはりそこに、愛しい少女の姿はなかった。
 代わりに、卓の上に小さな紙切れがひとつ。
 小さな石ころを重しに、そっとそこに置かれていた。


 浩瀚は卓の上の紙切れを、しばし見つめて、小石ごとそっと手に取った。
 紙に書かれているのはなにやら図形と文字。二重丸の印に「現在地」と書かれ、そこからひょろひょろとのびた線の先に黒く塗りつぶした丸印があり「ここ」とだけ書かれていた。
 ―――「ここ」に来いということだろうか。
 浩瀚は、そのあまりに簡単すぎる地図を見やって思う。
 慎重に他の可能性も考えてみたが、どう考えてもそうとしか受け止めようがない。
 浩瀚は、小石ごとその紙切れを懐にしまうと、指定された場所へ向かうべくその場をあとにしたのだった。


◇     ◇     ◇

 「遅かったな」
 「ここ」にたどり着くと、少女がゆっくりと振り返って笑った。
 そこは、あの路亭よりもさらに奥。ひっそりとひと気のない小さな路亭だった。もう目の前には雲海が広がっていて、その眺望の他は何もないうち捨てられたような空間であった。
 「・・・・・・ここは」
 浩瀚は思わず辺りを見回して呟く。
 王宮内にこんな場所があるとは知らなかった。よく見つけたものだとどこか感心すると同時に、我が主はこんな王宮のはずれの寂しげな所までひとりふらふらと足をのばしているのかと少し心配する気持ちもわき起こる。しかし瞬時に、ひとり、という言葉に引っかかり、本当に一人なのだろうか、と思えば、唐突にちくりと胸が痛んだ。
 自分があの印に心を浮き立たせてあの路亭へと向かっていたように、誰かとここで落ち合う印ももしやあったのだろうか。
 そんな浩瀚の胸中を察したように、辺りに響く潮騒の音にのせて少女が告げる。
 「ここは私の秘密の場所だよ。雲海の眺めが綺麗で、とても気に入っているんだ」
 ほら、見て。そう言うかのように、ゆっくりと持ち上げられ雲海を示す指にいざなわれて、浩瀚もまた雲海を見やった。
 どこまでも透明な海にさざ波が立っている。それが夏と比べて随分と柔らかくなった陽光を反射して白く輝いていた。
 その下に、緑の増えた慶の国土が見える。それは、赤王朝がゆっくりだが確実に国土を復興させてきた証であり、少女と共に歩いてきた軌跡であった。
 それにしばし見とれていた浩瀚に、それにね、とひっそりとした声がかかる。
 「ほら、あそこに少し色づいている木々があるだろう?これからの季節はあそこの木々が綺麗に紅葉するんだ」
 それがすごく綺麗なんだよ。
 そう言ってにっこりと笑う少女の顔を、浩瀚は静かに見返した。
 その笑顔に、先ほどまで胸を覆っていた重く暗い固まりはあっという間にどこかへ霧散し、代わりに暖かなものがじわりと胸に広がる。浩瀚はわれ知らず笑みをこぼしていた。
 「それは楽しみですね」
 浩瀚が答えれば少女はにこやかに笑う。
 「だろう?それにね、ここは夕日も素晴らしいんだ。それに、夜になったら空にも地上にも星が煌めいてとても綺麗なんだよ」
 「―――まさか夜にお一人ということはないでしょうね?」
 問えば少女は苦笑する。
 「大丈夫だよ。今度からはお前がいるから」
 そうだろう?
 と言ってくる双眸に、浩瀚は相好が崩れるのを止めることはできなかった。
 無性に少女を抱きしめたくてたまらず、それを我慢するのに難儀した。
 そんな浩瀚に少女はさらに続ける。
 「星を肴に一献というのも乙な感じがしないか?」
 その問いかけに、そうですね、と答えれば、酒はお前が用意しろよ、と返ってくる。浩瀚はそれに、御意と答えて微笑んだ。


 あの印はきっと、これからもっともっと心揺さぶるものになるだろう。甘い甘い予感に―――


 
 
 
  2万打キリリクついに完成!
「浩瀚×陽子主上で、邪魔者延王尚隆」
というリクエストにチャレンジした作品です。いかがだったでしょうか?
珍しくちゃんと「×(かける)」になってましたよね?


リクエストくださった白麟さまありがとうございました!リクエスト者特典としまして、白麟さまのみお持ち帰りくださって結構です。煮るなり焼くなりお好きになさってくださいませ(笑)

 
 
     
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