それは夏のうだるような暑さがようやく去りゆき、心地よい秋風が吹き始めた頃のこと。その日陽子は、幾日も同じ議題で紛糾し堂々巡りを続ける朝議に少々のいらだちを覚え、もはやこれ以上の話し合いは無駄であると、半ば強引に閉会を申し渡して朝議を終えた。
よって陽子は、確かにその日少々機嫌が悪かったし、ぴりぴりとした空気を発していたかもしれない。廊下に響く足音も、いつもより若干大きめだったのも認めよう。
しかし、
―――そんなに怯えることないだろう!
王のためにさっと道をあけ恭しく頭を下げる官らの態度は、まるで、目があったらとって喰われるか、石にされるかといわんばかり。浩瀚のように、王の勘気もどこ吹く風とばかりにいつも涼しげな表情を崩さないのもどうかと思うが、こうもあからさまに反応するのもどうか。
そんなことを考えていたその時、陽子の視界がひとりの男を捕らえた。思わず視線がいったのは、その男の動きが他の者たちよりもほんの少しゆっくりだったためだろう。多くの者が同じ動きをする中では、少しの差異が目立つもの。陽子が何となくその男を見たのも無意識的な反射といえるものであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。ゆえに、すぐに忘れ去る些細な出来事に過ぎないはずであったのだが――――
ゆっくりと下げられるその男の顔を見た瞬間、陽子は思わず驚きに目を見開いた。
―――お父さん!
あまりにも瓜二つのその容貌に、陽子の全身が粟だった。
「主上?」
訝しげな声にはっと我に返り、陽子は後ろに控える二人を振り返ろうとしてやめた。
内心の動揺を見透かされるのが、なぜか怖かった。
◇ ◇ ◇
朝議を終え、いつものように彼(か)の女王に従い内殿へと向かう回廊を行きながら、浩瀚は人知れず難しい顔をして前を歩く少女の背を眺めていた。
あの日以来、少女の様子がおかしい。浩瀚はそれをはっきりと認識しながら、それが如何なる理由によるものなのか量りかねていた。
起因するものが容易にわかるがゆえに、浩瀚を惑わせていると言ってもいい。少女の変化は、回廊にてひとりの男とすれ違った時から起きていた。
男は名を李振、字を興器といった。昨年の謀反で天官ら数名が抜けた穴を補うために採用した者のひとりで、年の頃は四十路も半ばを過ぎたくらいだと思われる。身元のしっかりした男で、仕事ぶりも極真面目。男に不審な点などどこにもなく、少女が男の何にあれほど驚いたのか、浩瀚にはまるでわからない。
はじめは、私的に面識がある者だったのかと思った。しかしどんなに調べてみても、知り合いうるはずがなく、それは間違いなく確かなことであった。
前を行く少女の肩がぴくりと震える。
脇に控える官らに目を遣れば、列の中に例の男。少女の纏う空気がわずかに緊張を孕み、浩瀚はいつもの如く少女の様子をさりげなくも丁寧に観察した。
今日こそは何か変化があるか。不安とも期待ともつかない思いを抱えて浩瀚が見つめる中、少女は今日も男には目もくれずに素通りする。しかし、意識しているのは明らか。なのになぜ無視を続けるのか。
男の何かを嫌悪しているのかもしれない。そう推論してみたこともあるが、男の姿が見えない日には、どこかほっとしながらも姿を捜すように視線が彷徨うのを見て、その考えを捨てた。
少女の態度をずばり言い表すとするなら、それは戸惑い。男を意識しながら、どう接して良いかわからずにいる戸惑いだ。そして、そんな少女の様子を表現するぴったりの言葉があることに、浩瀚はとっくに気づいていた。
何度も何度も何度も否定し、それでも捨てきれないひとつの答え。―――――片思い。
苦いものがなぜ胸にこみ上げるのか。浩瀚はその理由もよくわかっていた。
◇ ◇ ◇
父似のあの官吏を見かけて以来、陽子は頻繁に蓬莱の夢を見るようになった。場所も時間もばらばらで、それらには脈絡がないように思えたが、必ず父が出てくるのだけは同じだった。
ある日の夢で、陽子はまだ幼稚園児だった。買ってもらったばかりのかわいらしい洋服に、幼い陽子は大はしゃぎしていた。
(ねぇ、明日の遠足に着ていってもいい?)
幼い陽子は、母の様子を伺うようにたずねる。幼稚園に入園して初めての遠足。幼い陽子は興奮しきりで、母は困ったように苦笑した。
(でも陽子。買ったばかりのお洋服を汚したりしたらいやでしょう?)
(汚さないよ。だったらいいでしょう)
(・・・・・・でも、ねぇ)
(律子、いいじゃないか。そのために買ってやったんだ)
(でも、あなた。遠足なのよ)
(だからなんだ)
(遠足にこんなスカートはいてくる子なんて、きっといないわ)
(女の子なんだから、スカートをはくのが普通だ)
(・・・・・・でも)
(それに遠足といっても、少し離れた公園に行くだけじゃないか。山登りする訳じゃない)
父はそれで話を打ち切る。新しい洋服を着ていけることになった陽子は、ただ無邪気に喜んでいた。
しかし翌朝、状況は無惨にも一変する。
それは、他愛もない一言だった。園児の間で流行っている言葉を、陽子がぽろりと吐いたのだ。まだ幼い陽子にとって、それは意味のある言葉ではなく、ただ音として認識されているに過ぎない言葉だった。
しかし、父はそれを聞くなり見る見る表情を変えた。
(女の子がそんな言葉を使うな!)
父はそう一喝すると、壁にかけてあった真新しい陽子の服を引っつかみ、ただ唖然とするばかりの二人の前でその服をゴミ箱に押し込んだ。
(いま陽子が使った言葉がどれほど悪いことだったか、これでわかったか)
父の恫喝が恐ろしくて、陽子はただただうなずいた。父が出勤した後、目に一杯涙をためて陽子がごみ箱を覗き込むと、真っ白だったワンピースは、生ごみにまみれて見るも無残になっていた。
また、ある日の夢では、陽子は小学生だった。テストで百点を取って、素直に喜ぶ父と母がいた。
(今日は陽子が百点を取ったお祝いだ)
父はそう言って、普段はあまり飲まないビールを開けた。
(いまの時代、女の子だって少しは勉強できなきゃ恥ずかしいからな。あまり物知らずじゃ、お嫁にいけない)
そんな父の言葉に母が苦笑する。
(あなたったら。もう陽子の結婚の心配をしているの?陽子はまだ十歳よ)
(何を言っているんだ。俺はな、陽子の先々のことまでちゃあんと考えているんだ。短大まで行かせようって思っているからこそ、こうして仕事もがんばってしっかり稼いでいるんじゃないか)
(頼もしい父親ね)
母は満足そうに笑う。何となく和やかなその雰囲気に、陽子も小さく笑った。父の言う人生プランは、まだ十歳の陽子にとって実感を伴う話ではなく、どこか他人事だった。
また、ある日の夢では、陽子は高校生だった。入学式、わざわざ父は仕事を休んで式に参加した。参加を終えた父はひたすら上機嫌で、やはり俺の目に狂いは無かった、俺の選んだ学校に入れて正解だっただろうと、父はひたすら母に語っていた。特に混乱無く式を終えたことや、派手な格好をした生徒を見かけなかったことがその理由のようだった。
その日の夢はただそれだけだったが、目覚めた時の陽子の胸には、なんとも言い表せぬ不快感が漂っていた。
そんな夢を、半月ほどは見ただろうか。その頃から夢は、急に様子を変えた。
最初の夢は、巧を彷徨っている時に水禺刀に見た、あの父と母だった。激しく言い争う二人を、陽子はただ傍観する。その夢は状況を変えながら何度も繰り返され、そのたびに父と母の口論は激しさを増した。そんな中、夢はさらに進展する。いつの間にか二人は、陽子の王の資質について口論を始めていたのだ。
女である陽子に王など務まるはずが無いと言い切る父と、なぜ娘を信じてやれないのだと叫ぶ母。なぜ二人がそんなことを言い合うのだと驚くばかりの陽子の前で、二人の口論はいままでに陽子がした取り組みや発布した法にまでおよびだす。
目を覚ました時、陽子はとにかく疲労感に襲われるようになった。
◇ ◇ ◇
女王の様子がおかしい。
それは彼女の側近ならば、誰もが気づくところまで来ていた。女王の顔には疲労の色が濃く、上の空であることが多くなった。
彼女は必死に隠し通しているつもりでいるようだったが、側近らにしてみれば、その行為すら懸念の対象にしかならなかった。
「一体、主上はどうなさったんでしょうね」
桓魋がたまりかねて浩瀚にそう言ってきたのは、事の始まりからひと月あまり経ってからのことだ。
「浩瀚さまは、何かご存じないのですか?」
その言葉に浩瀚は小さく息をつく。
「お前は、妙齢な娘が、ある男を意識しているのが明らかなのにもかかわらず無視を続け、しかし姿が見えぬと無意識で姿を捜し、遠くに姿があればしばし見つめている姿を見たらどう思う」
「はぁ?」
突然の質問に、桓魋は思わず間の抜けた声を上げた。
こちらは真面目な話をしに来たのですよ、と言いかけたが、浩瀚の目が少しも笑っていないことに気づいて言葉を飲み込んだ。
こういう時の浩瀚は、尋ねていることに答えない限りその他のことは一切しゃべってはくれないのだ。そのことを長年の付き合いで悟っている桓魋は、そうですねぇ、と呟いて腕を組み、中空を仰いでしばし考えた。
「そりゃあ、やっぱり恋しているんでしょう。その男に」
「さらにその娘は、何やら寝付けぬ様子で、よく物思いにふけっている」
「はあぁ、恋煩いですか・・・・・・って、まさか浩瀚さま?」
桓魋は思わず浩瀚の顔をのぞき込み、その険しい表情を見て目を見開いた。
「まさか、本当ですか!?」
あの主上が……と、思わず呟けば、浩瀚の鋭い視線が桓魋に突き刺さった。それであわてて視線をそらし、その場を取り繕うように姿勢を正して咳払いをする。
「なるほど。主上も女性でいらっしゃったんですね」
「―――桓魋」
「すいません。口が滑りました。しかし、俺は主上の勇ましいお姿ばかり見てますから、どうしたって意外な気がしてしまうんですよ。―――でも、それはちょっと厄介ですね。この慶では、いまだ女王の恋は禁忌に近い」
「それをご承知だから、主上も一人耐えていらっしゃるのだろう」
「ああ、そうか。だから祥瓊にも言えないわけか。この間、何を聞いても何でもないとしか言ってくれないと愚痴っていましたよ」
「祥瓊に言わぬとなれば我らには言うまい」
「そうですねぇ。それにしても相手は誰なんです?」
「字(あざな)を興器という天官の者だ」
「天官……。ということは、いつも主上の近くに勤めているわけですね。興器といえば、確か例の謀反の後雇い入れた―――」
そこまで呟いて、桓魋はある事実に気づいてわずかに眉をひそめた。
興器といえば、確か年の頃は四十も半ばを過ぎたくらいの中年の男だ。十六、七の少女が恋の相手に選ぶには、あまりに意外と言えば意外。
「……ひょっとして蓬莱では普通なのかな」
「―――なにがだ」
「いや、だって浩瀚さま。主上と興器では、並べばまるで親子ですよ。長く仙でいる者には、外見上の年齢なんてさほど意味のあるものではなくなってしまいますけど、普通の若い娘であれば、あれほど年の離れた男性を恋の対象とはあまり見ないものです。まあ、一般的に言って少ないというだけで、絶対無いというわけはありませんが」
「主上のご趣味についてここで語ったところで、答えが出ようはずがない」
「ま、そりゃそうですね」
桓魋は軽く肩をすくめた。
「それで。浩瀚さまは静観なさるおつもりで?」
「主上の憔悴の深さは見ていて明らか。何か打開策が無いものかとは思うが、あれほど必死に隠そうとなさっていることだ。下手にこちらが働きかければ、主上はますます頑なにおなりだろう」
このまま放っておいて良いものだろうか。そんなことはこのひと月散々悩んだ。だが、打つべき有効な手を見いだせなかったのだ。いっそ男を少女の目に触れぬところへ移動させるかと、それを何度も考えたが、それで問題の根本が解決するとも限らず、かえって事態の深刻化を招く恐れもあると思えば軽率に打てる手ではなかった。今だって、事態を打開する方法をあれこれと考えるが、名案と呼べるものは未だ浮かばない。
「つまり、手をこまねいて見ているしかないってことですね」
「お前はさらりと嫌味だな」
「前の主の影響ですね。気をつけます」
「――――」
浩瀚の表情に険しさが増したが、それはすぐに溜息と共に消えた。
「・・・・・・主上が素直に胸中を吐露できる、そんな状況が生まれればよいのだが」
◇ ◇ ◇
その頃陽子は、慢性的な寝不足に悩まされていた。どんなに寝ても寝た気がせず、疲労感は蓄積するばかり。だが、寝ればあの夢を見る。そう思えば眠ることに恐怖さえ抱くようになり、ならば夢を見る暇もないほど疲れ果ててしまえばよいと昼間無理を重ねるようになった。
しかしそれは何の問題の解決にもならず、陽子を精神的にも肉体的にも追い詰める。
そしてついに、陽子は倒れた。
陽子が意識を取り戻した時、そこは見慣れた内殿の房間の一室だった。どうやらとにかく近くにあった部屋に運び込まれ、そこの榻に寝かされたようだ。時間にして極わずかのことで、瘍医が到着する間もないほどのことだった。
「ご気分は?」
問われて陽子は相手を見た。いつも涼しげな顔を崩さぬ浩瀚が、いつにない表情を浮かべて陽子をのぞき込んでいる。どんな時にも冷静さを失わぬ鳶色の瞳に不安の影がちらついているのを見て、陽子は自分が倒れたことよりも、そのことのほうに驚きを感じた。
しかしそれは一瞬のこと。陽子の視線が定まったのを見るや、不安は瞬時にその瞳から影を消す。後に残るは、いつもと変わらぬ怜悧な冢宰。
その顔を見て、陽子は条件反射のように王の顔を整えた。
「もう大丈夫だ」
努めて平常に答えたつもりだったが、浩瀚の顔には微かな苦笑が浮かんだ。その中にわずかな憂いを見る。その意味を量りかねて、陽子が怪訝な顔をしつつ起き上がろうとすると、浩瀚はやんわりとその肩を押しとどめた。
「しばらくそのままで」
直後、瘍医の到着を告げる声が響く。瘍医は陽子の前に進み出て、恭しく一礼してから脈を取り、いくつかの経穴を丹念に診た。その間、陽子を取り巻く側近らは、硬い表情でその診断の結果を見守っていた。
「過労でございます。しばらくご静養なさることをおすすめします。胃腸の働きも少々落ちているようですので、食事は消化の良いものを」
診察を終えた瘍医が、静かに結果を告げる。
「これから薬を調合して参りますが、ご静養こそが何よりの薬にございます。ご自重くださいませ」
瘍医はそう告げると再び恭しく頭を下げて退室した。後に残るは、少女の異変を聞きつけて駆けつけた側近ら数名。その面々を見回して、陽子は小さく息をついた。
「すまない。心配をかけたようだ」
その言葉に祥瓊が片眉を跳ね上げて口を開きかけたが、それを浩瀚が遮った。
「王の大事はすなわち国の大事。主上には、もっと御身を大切にしていただかねばなりません」
「―――肝に銘じる」
「臣の言を素直にお聞き入れくださって誠に重畳。ならば拙からもう一つお話が」
「なんだ」
なにやら常ならぬ雰囲気に陽子が少々身構えて問えば、浩瀚は「人払いを」と短く告げた。よほど重要な案件がある場合にしか聞かぬその単語に、陽子は思わず浩瀚を凝視する。ここにいるのは陽子の信頼している者たちのみ。その者たちをこの場から下げてまでしようとしている話とは一体。そう訝しく思いながらも、人払いせねばてこでも動かぬその様子に、陽子は仕方なくうなずいた。
「みんなはしばらく下がっていてくれ」
陽子がそう告げれば、皆はしぶしぶながらも退室した。その背を見送り、きちんと戸が閉じられるのを見届けてから、陽子は改めて浩瀚を見る。
「で、話とは何だ」
「そのお話の前に、先ほどの瘍医の進言にございますが」
「ん?静養しろという話か?」
「はい。瘍医は静養こそが何よりの薬と申し上げておりましたが、それは主上のお心が安らかなればの話。お心に引っかかるものがあっては、休まるものも休まりますまい」
「何が言いたい?」
多分に言外に含むものを感じて、陽子は少々険しい表情で浩瀚を見た。
「主上の過労の根本についてお話がございます」
「……自分の能力もわきまえず、がむしゃらにしすぎだとでも言いたいのだろう?説教なら手短にな。と言いたいところだが、人払いをしてまでする説教だ。相当覚悟が必要なようだ」
陽子がそう言って苦笑すると、浩瀚は小さく嘆息した。
「―――主上。はぐらかすのはおやめください。人払いをお願いした真意を本当はおわかりでございましょう?」
「……悪いがまるでわからない」
陽子は浮かべた苦笑を引っ込めて、ついっと視線をそらした。
触れて欲しくはない話になりそうな気配に、陽子の心にふつふつと恐怖がわき起こる。そして、どうして自分がこれほど動揺するのかということに動揺し、その心の内を隠すのに必死であった。できればごまかして話を終わらせてしまいたい。陽子はそんなことをちらりと願ったが、その願いもむなしく浩瀚はあまりにも直球に言葉をつないだ。
「主上の気鬱の根本原因は、ある男性官吏と拝察いたします」
「―――」
「ひと月ほど前に回廊にて件の官吏をご覧になったときからご様子に変化が起きてございます」
言われて陽子は唇をかんだ。
必死に隠しているつもりであったのに、丸わかりだったというわけだ。そのことに言いえぬ羞恥が沸いてくる。
自分はもう成人している。独り立ちすべき大人の年齢を迎えているのだ。それなのに、いつまでも親のことを考え思慕する自分は、周囲の者達にはさぞ子供じみて見えるだろう。
そう思うがゆえに、陽子は自分の心の内を知られたくはなかった。
それに、自分は王だ。民に、不羈の民になれと言った慶の王だ。なのに、そんな王自身が未だ父から解放されずに縛られている。それを知られたくはない。そんな姿をさらしたくはない。それはなけなしの虚勢。王としてあるための薄っぺらの鎧。剥がされ丸裸にされれば、後に残るのは非力なただの小娘。
だから―――
―――それ以上言わないで!
陽子は祈るようにぎゅっと目をつぶったが、浩瀚の言葉は容赦なく続けられた。
「その後もその官吏のことを随分と気にされているご様子。姿を捜しているお姿を何度も目撃いたしました」
「―――」
「近頃あまりお休みになれないのも、その者のせいでございましょうか?」
「―――」
「お答え無きは肯定とみなしますが?」
それでも陽子が沈黙を守っていると、浩瀚は小さく息をついた。
「では、あの者は近いうちに処罰いたしましょう」
「!」
陽子が驚いて浩瀚を見ると、浩瀚はさも当然だという顔をした。
「主上にこれほどまでのご心痛を与える者です。当然でございましょう」
「だが、あの官が別に私に何かしたわけじゃない。私が勝手に、色々思ってしまっただけで」
「本人の意思など関係ありません。あの者の持つ何かが主上にそこまでご心痛を与えているとなれば、それだけで罪なのです。本人に自覚がないというのは、確かに彼にしてみれば不幸なことですが、罪の自覚がなければ罰しなくてよいなどという法はございません」
「―――お前、気は確かか?自分の言っていることがわかっているのか?」
「もちろん。ご理解いただけないところがあったらもう一度説明いたしますが?」
「ではお前は、私が誰かを見て不快そうにしていると判断したら、誰も彼も罰していくつもりか?」
「これは異なこと。いまこうしてちゃんと主上に確認を取っているではありませんか。近頃よくお休みになれず、こうしてお倒れになるほど、かの者が不快なのでありましょう?」
問いかけるような口調と視線。だが、浩瀚の言葉はどこか鋭い。
「……………ちがう」
陽子は搾り出すように呟いた。
「―――不快というのとは、違うんだ」
「では、その官吏に何か特別な感情をお持ちだった?」
その言葉に、陽子は唇をかみ締めた。
―――特別な感情?そんなのは当たり前だ。
陽子は心の中ではき捨てる。
無視しようとしたってできるはずがない。己の心をいまだこれほど縛り付けている者だ。十六まで自分のすべてを支配し、あらゆることに影響を与えてきた相手。
解放されたと思っていたのに、あの官吏を見た瞬間、解放されたのではなく、ただ考えないようにしていただけだったと思い知らされた。あの男を見るたびに父を思い出し、胸が締め付けられるように苦しかった。距離の計り方がわからずに戸惑い、夢を見るようになってからは益々どうしていいかわからなくなった。そのうち、あの男は本当は父で、ただ素知らぬ顔をしているだけではないのかという妄執に囚われるようにさえなった。
父の支配から脱却したい。言いえぬ息苦しさから逃れたい。心のどこかでそう願い続けてきた。しかし、実際に二度と会えないとなるとやはり偲ばれ、自分がどんな感情を抱こうとも、間違いなく自分は父の支える家庭に守られていたのだと思えば、父を嫌悪する自分は、恩を仇で返すような親不孝者だと責めるもう一人の自分がいた。
解放を願いながら思慕し、反発しながら義理にとらわれる。その狭間で揺れながら、陽子は夜な夜な自分を否定し続ける父の姿に涙した。
ひと言。たったひと言でいいのだ。
陽子は夢の中で毎夜願い、父似の官吏の姿を見るたびに恐れながらも期待した。
肯定の言葉が欲しい。お前はよくやっている、よくがんばっていると、その言葉が欲しいのだ。
―――お願いだから、私を認めて!ありのままの私を受け入れて!
あの官の前で、何度そう叫んでしまいそうになったことか。
たまらず陽子の目から涙が溢れた。隠すように顔を背けて両手で顔を覆ったが、震える肩は隠しようが無かった。
浩瀚は、そんな陽子の様子をただ静かに見つめていた。
どれほどの時間が流れただろうか。無言で泣き続ける陽子の耳に、浩瀚の声が静かに降り注いだ。
「責めているわけではないのです」
その声は聞いたことが無いほど柔らかで、不思議なくらい心地よかった。その静かな響きに、陽子の高ぶっていた感情がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
「ただ、どうにもならぬ感情を抱えているご様子に心配していたのです」
陽子は小さく身じろぎをして、頬を濡らした涙をそっとぬぐった。
「私が望むのは主上のお心が安らかであること、ただそれだけ。主上がそれほどまでに辛い思いを抱えているのであれば、その原因を取り除いて差し上げたいのです。どうなさりたいのか、そのお心の内をお示しくださいませ。この浩瀚、どんなことでも、例え時間がかかろうとも、必ず主上の願いをかなえて差し上げます」
浩瀚の言葉に、陽子はそっと視線を向けた。もう涙は止まっていたが、泣き腫らした目は真っ赤だった。二人は言葉もなくしばし見詰め合って、やがて陽子がぽつりと口を開いた。
「どうしていいかわからないんだ。でも、きっとどうかしたいわけじゃないと思う。これは私の心のありようの問題で、誰かにどうにかしてもらってもきっと解決なんてしないだろう」
「しかし人に話すことで、気持ちがすっきりすることもあれば、複雑に絡まっていた思考に整理がつくこともございましょう?」
「―――そうだね」
陽子は呟いたが、それからまたしばらく静寂が室内に満ちた。
「……私ではお話しする気になりませんか?」
「そんなことはない。ただ、何から話してよいか。―――それに、考えてみるとちょっと子どもじみているような気がしなくも無いから……」
「大人だろうと子どもだろうと、本人が悩んでいることに優劣や深浅などありましょうか」
「ここだけの話にしてくれる?」
「もちろん」
陽子はその言葉に安心したかのように、ぽつりぽつりと話し出す。浩瀚はその言葉に、ただ黙って耳を傾けていた。その中で浩瀚は、自分の勘違いに気づいたり、蓬莱との文化の違いに驚いたりしていたが、そんなことはどちらかといえば些細なことであった。
少女がひとり抱え込んでいた思いを自分だけに語って聞かせる。その事実こそが、浩瀚にとっては重要なことであった。
胸中を吐露する少女は、再び感情が揺さぶられて涙する。
「ああ、辛い思いを抱えておいでだったのですね」
浩瀚は少女の華奢な肩を抱き寄せて、己の腕の中にやさしく包んだ。
初めて胸に抱く愛しい少女は、あまりに細く儚げだった。
「主上はよくやっていらっしゃいますとも。しかし、男とはいずれの世界でも愚かな者。愛しい者は、自分の手の届くところに置いておきたくてしょうがないのです。それが愛しい者の成長や幸せを妨げるのだとわかっていても、どうしようもない男の性(さが)なのです」
浩瀚は囁いて、目じりに浮かぶ涙にそっと唇を寄せた。
少女が微かにぴくりと肩を震わせたが、浩瀚は少女が何かを紡ぐ前にその唇を耳元へ移す。
「泣きたくなったら、我慢せずにお泣きくださいませ。そのときはまた、胸をお貸ししましょう。あなたのために、いつでも空けておきますから」
密やかな思いを乗せたその囁きの真意を、果たして少女は気づいたのかどうか。それでも浩瀚は、腕の中で陽子が小さくうなずくのを感じて微笑んだ。
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