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 「バレンタイン2 」(パラレル)
 
     
 

 「あら、やだ!」
 突如部屋に響いた小さな声に浩瀚は軽く視線を上げた。同時に、少し離れた席でプリントに目を通していた副会長の祥瓊が、少し不服そうな顔をしてぴらりとプリントを持ち上げた。
 「次の生徒会活動日ってバレンタインの日じゃないの」
 「それが何か?」
 「何かですって?」
 浩瀚がさらりと問いかければ、祥瓊はぴくりと眉を動かしてガタリと椅子から立ち上がった。そしてそのまま、つかつかと浩瀚へ歩み寄る。
 特別教室の並ぶ一郭にある生徒会室には、今、浩瀚と祥瓊の二人きりだった。時間的には二時間目が始まったぐらいだろうか。先ほど移動教室らしい生徒のにぎやかな声がわずかに廊下から響いたが、今はしんと静まり返っている。
 一月下旬。センター試験の終わった三年生の登校は任意だ。すでに合格が決まっている生徒は来なくてもよいし、授業も受験対策一辺倒だから自分に必要な授業だけ出れば帰っていいことになっている。祥瓊はすでに推薦で進学先を決めているので、近頃はめったに学校に姿を見せない。一方の浩瀚は二月下旬に行われる国立前期一本に絞っているのでまだ受験は終わっていなかったが、塾の集中講義を優先しているため一日中学校にいることが少なかった。それで今日はわざわざ、卒業式の準備のために二人の予定を合わせて登校していた。
 「何でバレンタインの日に生徒会活動を入れるのかしら。定例活動は水曜って決まってたんじゃなかったかしら?」
 「バレンタインと活動が重なると何か不都合でも?」
 「大ありだわ」
 「君はすでに彼氏がいるじゃないか。バレンタインは告白したい相手のいる女子のお祭りだろう?」
 「あら、わかってないのね」
 祥瓊はにっこりと不敵な笑みを浮かべて腕を組んだ。
 「バレンタインは愛の確認をする日なのよ。すでに付き合っているカップルにこそ必要な日だと思わない?」
 「それはすでにクリスマスに済ませたと思ったが」
 「何回あってもいいものだわ。それにようやく受験が終わって一日フリーに使える初のイベント事なのよ。余計な予定は入れたくないわ」
 「どうしても出席できないというなら欠席してもらっても構わないが、予定を動かすことはない。すでに他の執行部員には伝えてあるからね」
 にべもなく浩瀚が言う。その返答に祥瓊は不服そうに口をとがらせた。
 「イベントで欠席するのは本意ではないわ。そこまで無責任な人間だと思わないでちょうだい」
 その返答に浩瀚は相手にわからぬ程度に苦笑した。こういう所は祥瓊らしい。意外と律義で真面目なのだ。それでなければ副会長などという責務を彼女に任せたりはしなかった。
 それでも浩瀚は試すように言う。
 「名目上は新執行部がすでに仕事を引き継いでいることになっているんだから、旧執行部の人間が欠席しても問題ないだろう」
 「名目上は、でしょう。卒業式は実質旧執行部が立案と運営を担当することになっているし、それに事務や会計の処理も今度の定例会で締めて新執行部へ引き継ぐのでしょう。その席に副会長欠席、しかもイベントで。あり得ないわ」
 「よくわかっているじゃないか」
 浩瀚は言って、いくつかの書き込みをしたプリントを祥瓊に渡した。卒業式の式次第だ。
 「定例活動が水曜にしてあるのは、水曜は職員会議があって授業が他の日よりもひとコマ少ないからだ。だけどその週は変則日課になっていて職員会議の日がずらしてある。多くの生徒にとっては早く帰れるから、ひょっとしたら先生方の思いやりなのかもしれないな」
 「いい迷惑だわ」
 「それにその日は、桓も放課後の部活に参加すると言っていた。新人戦が近いからな。後輩指導だそうだ」
 「あら、そう」
 祥瓊は不機嫌そうな顔をしたがそう言うにとどめ、渡されたプリントに目を通した。すばやく確認し頷く。
 「これでいいと思うわ。花の手配は私がするとして、BGMの選曲が面倒かしら」
 「それは新会長の夕暉に既に依頼してある」
 「オーケー。じゃあ、次の定例会で皆で細かいことを詰めれば準備万端かしら」
 「おそらく」
 「じゃ、今日はこれで。私は帰るわね」
 祥瓊はプリントをまとめると丁寧にファイルに挟んで鞄にしまう。パチンと留め具を閉めてから、ふいに悪戯っぽい笑みを浩瀚に向けた。
 「今年こそ、中嶋さんからチョコもらえたらいいわね」
 思わずぎょっとした浩瀚に祥瓊は勝ち誇った顔でふふんと笑うと、軽やかに部屋を出て行った。
 一人残された浩瀚は、祥瓊の去った戸を見やったまま深く息をつく。
 彼女への思いなど誰にも打ち明けたことがないというのに……。
 「あの勘の鋭さは、本当に侮れないな」
 だが、彼女の言う通りになったら。
 妙な期待感と自戒の狭間で揺れながら、次回の定例活動の日程表に視線を落として、浩瀚はその日付を複雑な表情で見つめたのだった。


◇     ◇     ◇


 彼女を初めて目にしたのは入学式の日だった。一年生終わりの生徒会選挙で見事会長に当選した浩瀚にとって、その入学式は初めてすべてを任された行事だった。そのため、入念に準備を行い何の抜かりもないと自負していても少々の心配を抱えていたのだろう。生徒会室から校門を見下ろして、続々と集まってくる新入生とその保護者の姿を朝早くから見守るように見つめていた。
 校門では部活動勧誘の生徒がすでに何人もチラシを手に集まっていた。
 強引な勧誘はしないこと。無理にチラシを渡そうとしないこと。渡すチラシは生徒会の許可を受けた物のみとすること。こういった決まりのもとで勧誘を認めているが、毎年何人かの保護者から苦情が寄せられる。特に男子運動部への苦情が多く、女子マネージャーとしての勧誘に対しセクハラまがいの声かけを受けた等の内容が主である。今年はそういったことがないよう事前説明会で注意をし、もし違反があった部活動にはペナルティも辞さないことを伝えているので大丈夫だとは思うが、安心はできなかった。
 保護者と共にくる生徒にはさすがに誰もが控えめに接するが、生徒ひとりの者も多い。新入生の集合時間と式が始まる時間に少し差があるために、保護者はあとから来るという生徒も多いのだ。
 見ていればそのような女子生徒に先ほどから、男子運動部員数名がわっと押し掛けている。新入生の進路をふさぐいわゆる「囲み」はしないよう注意しているが、かわいい女子マネージャー獲得合戦に高揚している彼らの頭からはそんな注意事項はすでに飛んでいるようだ。念のため、と配置した執行部員数名が何度となく注意を促しているのが遠目にもわかったが、そろそろ収拾がつかなくなっているようである。
 「やつらに退去勧告を出しに行くかな」
 浩瀚は呟いて生徒会室を出ると昇降口に回って靴に履き替え校門に向かった。
 校門付近は賑やかな喧騒に満ち、先ほどよりも多くの人でごった返している。そろそろ生徒が登校してくる時間のピークを迎えているようだ。その中でも一段と騒がしい連中が男子運動部で、もはや明らかな囲み行為を行っているようだった。
 テンションの上がりまくった彼らから発せられる言葉は、もはや部活の勧誘というよりナンパである。
 「……あいつら」
 浩瀚は小さく舌打ちすると足を速めた。雑踏の中から怒声が響いたのはその時だった。
 「お前ら、いい加減にしろ!」
 同時に囲みが緩み、中から一人の少女が飛び出してきた。
 緋色の髪が鮮やかな少女だった。真新しい制服に身を包み、まだ傷一つない革鞄を抱えた彼女は硬い表情で浩瀚の前を駆け抜けて行く。
 思わず彼女の姿を目で追ったが、すぐに建物の陰に消えた。
 一瞬の言葉にならない感情を無理やりに飲み込んで、浩瀚は改めて校門の方へ視線を戻した。囲みが緩んだ人垣の向こうに勧誘連中を説教する桓魋の姿が見えた。
 桓魋は浩瀚のクラスメイトだ。ラグビー部のエースで、気の良さと正義感から友人も多い。鞄を抱えたままの姿を見れば今登校してきたところなのだろう。彼が先ほどの場にいればあれほどのお祭り騒ぎにはなっていなかっただろうと思いつつ浩瀚が近づいていけば、ふと視線を上げた桓の視線とかちあった。
 桓魋は近づいてくる浩瀚の姿を認めると明らかにさっと顔色を変えた。その視線に周りの者たちも振り返る。浩瀚の姿を見て、誰もが一様に表情を硬くした。
 「サッカー部、バスケ部、野球部、ラグビー部だな」
 囲みを行っていた顔ぶれを確認して浩瀚が呟くと、息を飲む気配が辺りに漂った。
 「違反行為を確認した。いま言った部活にはペナルティが課せられることになるだろう。ペナルティの内容については部活動顧問会主任教師の井上先生と相談したうえで通達する」
 「あ、いや。浩瀚、ちょっと待ってくれ!」 
 慌てたように桓魋が声を上げた。
 「罰掃除とか、奉仕活動とかは喜んでする。しばらくの間の活動時間制限も甘んじて受ける。だけど補助金カットだけは絶対やめてくれ!」
 この通りだ!と両手を合わせる桓魋に浩瀚は冷ややかな視線を返した。
 場合によっては補助金カットも辞さない、とは説明会の時にした一種の脅しである。各部活動は部員から部費を集めて活動資金にしているとはいえ、遠征費などは学校から充てられる補助金によっているところが大きい。その補助金がカットされることは強く遠征が多い部活ほど痛手であった。脅しとしては最強である。
 だがこの補助金、PTAの方が管理運営しているので実を言えば生徒会には何の権限もない。だが生徒会執行部の存在が思いのほか大きいこの学校では、生徒会長の言葉は時として教師よりも威力があった。
 そんな内情などおくびにも出さず浩瀚は告げる。
 「先ほどの新入生の今後の登校に何らかの影響が出るなら、それ以上のペナルティを覚悟しておくことだな」
 「……って、部活取りつぶしもありうるってことか?」
 真っ青になった桓魋に、さて、とだけ返して、浩瀚はその場にいた全員に撤収を告げた。茫然自失としている桓をちらりと見やって、内心「いじめすぎたか」と少しかわいそうに思えたが、駆け去った少女の硬い表情を思い出して、このくらい灸をすえてやってちょうどいいくらいだと思いなおした。


◇     ◇     ◇


 二月十四日、その日浩瀚は久しぶりに朝から学校に登校した。近頃は塾の講義の方を優先させることが多く学校から足が遠のいていた。
 久しぶりに登校した学校は、普段とは違った妙な空気に包まれていた。そわそわと落ち着きのない、浮足立ったような気配とでもいおうか。昇降口までやってくれば、その気配は一層顕著になった。
 朝顔を合わせた途端にひそひそと会話を交わし始める女子に、期待と緊張を同居させたような真剣なまなざしで靴箱を厳かに開ける男子。どちらもお菓子会社の陰謀に踊らされすぎだと皮肉めいた気持がなくはなかったが、今はその中のひとりになり果てているという自覚が充分過ぎるほどにあった。
 今朝目が覚めた時からずっと、浩瀚の心は落ち着きを失くしている。感情のコントロールが効かないなど、浩瀚にとってはそうそうあることではない。その事実にほんの少しの居心地の悪さを感じてはいたが、決して不快ではなかった。
 ただ、切ないだけ―――。
 思えば、ほんの一瞬の出会いを果たしたあのおととしの入学式の日からずっと、彼女には心をかき乱されっぱなしだと浩瀚は思う。だが、それを認めるには随分時間がかかった。


 一部の男子運動部員による過剰な勧誘行動の被害者となった新入生を浩瀚はその後すぐに名簿で調べた。彼女のことを気にかけるのは運営責任者である生徒会長としての責務だと思ったし、自分からも一言謝罪をしておく必要があるだろうと考えたからだ。彼女から話を聞いた保護者から、学校に苦情の電話が来ることも十分予想できることで、対応は早いに越したことがないとの判断からだった。
 だが実際にそれが、実行されることはなかった。
 謝罪する立場にあるのに彼女を呼び出すわけにはいかないので、彼女の下校時間に合わせるなどうまくタイミングを見計らって、と思っていたら、しばらく放課後バタバタしてたり家庭訪問で下校時間が不規則だったり、なかなかタイミングが合わないうちに「いまさら生徒会長が出てきて謝罪するのもおかしいか」という時期になってしまったからだ。
 そのことがもやもやと心に残ってしまったのだろう。学校で時々に彼女を見かけるたびについその姿を目で追ってしまうのはそのせいだと、浩瀚は長いことそう思っていた。


 「あっれー、浩瀚じゃん」
 陽気な声に浩瀚はふと我に返った。振り返ればそこにいたのはクラスメイトの利広。にこにこと人懐っこそうな笑みを浮かべながら近寄ってくるその手には、すでにいくつものチョコレートが握られている。
 「君が朝から登校してくるなんて珍しいね。近頃ご無沙汰だったじゃないか」
 面倒くさいのに捕まった。浩瀚は心の中で嘆息し、半ば無視して上履きに履き替えるために靴を脱ぐ。だが利広は、そんな浩瀚の発する空気など物ともせずにぴたりと横に並んだ。
 「今日はやけに久々に顔を見かけるやつが多いんだよね。―――バレンタインだからかな?」
 「そういうお前も毎日学校へ来ているわけじゃなかったと記憶していたが?」
 浩瀚が一瞥を投げれば、利広はひょいっと肩をすくめた。
 「もちろん僕はバレンタインだから登校したんだよ。僕にチョコを渡そうとしている女の子達のことを考えれば、来てあげなきゃかわいそうでしょ」
 恥じらいもなくそう言い切る利広に浩瀚は半ばあきれた。しかし彼が女子に人気があるのは確かで、去年のバレンタインでは彼を出待ちする他校女子が校門付近にたむろし、ちょっとした騒動が起きたほどだった。その事実を思い返せば、利広の言葉はあながち厚顔不遜とも言えない。
 「フェミニストの鑑だな」
 「ありがとう。でも、君の登校を喜んでいる女子も多いよ、きっと」
 「誰かれ構わずチョコを貰い歩く趣味はない」
 利広の軽口を一刀両断に切り捨てて靴箱を開けたその時だった。きれいに包装された小さな包みが目に飛び込んできて、浩瀚の心臓は思わず跳ねた。
 「あ、さっそくか。やっぱり」
 利広が覗き込んできて呟く。その呟きにはっと我に返り、浩瀚は一瞬の動揺を隠しきれただろうかと心配した。
 ―――彼女だろうか。
 そうであるとうれしい。しかし、利広の前であることを考えれば彼女であってほしくもない。自分の中の聖域を彼に侵されたくはなかった。
 必死に冷静を装って浩瀚は小さな包みを手に取った。きれいにかけられたリボンの間に小さなカードが挟んであって、そこに送り主らしき女子の名前があった。
 「あ、蓉可ちゃんじゃないか」
 「知り合いか?」
 覚えのない名前にどこかほっとしながら浩瀚は利広を振り返る。利広はひょいっと肩をすくめた。
 「残念ながら知り合いじゃないけどね、彼女のことはよく知ってるよ。ソフトボール部のマネージャーでね、野球部のやつらがソフト部なんて軟弱な奴らにマドンナを取られたって去年しきりに悔しがっていたからね。かわいい子だよ。小柄で目がくりっとしていて性格も明るくってさ。いっつも楽しそうに洗濯しているんだよね。僕としてもあんなにかわいらしい子とはお近づきになりたいんだけど、なかなかきっかけがなくってさ」
 その話を聞きながら、浩瀚はペンを取り出してメッセージカードの裏にさらさらと何かを書きつけた。それは短い謝罪の言葉だったが断固とした受け取り拒否の意思を表すものだった。
 「彼女に返しておいてくれないか」
 「は?」
 「お近づきになれるチャンスだろう」
 「ひっどいなぁ、君は。乙女心を察してあげようって気はないのかい?」
 「受け取れば余計な誤解を与えかねないだろう。それよりもはっきりしておいた方がいいじゃないか。ま、お前が断るならこれは彼女の靴箱に返しておくだけだ」
 浩瀚がさらりと言えば、利広は浩瀚の手からひょいっと小さな包みを取り上げた。
 「君って自分が関心がないことには本当に残酷だよね。少しは自覚したほうがいいよその性格」
 「充分自覚しているから大丈夫だ」
 「やれやれだね」
 大仰に呆れて見せる利広を無視し、浩瀚は上履きに履き替えると整然と並んだ靴箱の間を抜けた。その時、視界の端を赤い髪がかすめた。浩瀚の心が再びざわめいて、吸い寄せられるように視線を向けたが、その姿はすぐに廊下の向こうに消えた。
 その消えた先を一瞬名残惜しそうに浩瀚は見つめたが、すぐに冷静な顔を繕うとゆっくりとした足取りで教室へと向かったのだった。


◇     ◇     ◇


 久々の学校の授業に熱中すれば放課後はあっという間にやってきた。執行部員らは欠席もなく皆時間通りに集まって、定例会はいつものように始まった。会計担当の彼女もいつものように熱心に会計簿と向かい合っていたが、その表情がいつもと違うような気がして浩瀚の心はざわざわと落ち着かなかった。
 彼女はすでに誰かにチョコをあげたのだろうか。それとも、これからあげようとしているのだろうか。
 もしそうであるのなら、相手は誰であるのだろう。
 会の間中浩瀚はそんなことを考えていて、終いには自分が作り上げた架空の人物に嫉妬しそうになって小さく自嘲する。そんな時に彼女が会計簿を持ってきて、浩瀚は慌てて表情を引き締めた。
 彼女がどこか硬い表情のまま会計簿を差し出す。
 「確認をお願いします」
 「ああ。お疲れ様」
 冷静なふりをして会計簿を受け取って浩瀚は中を確認した。几帳面な字で綴られた帳簿は彼女の性格そのままだ。さっと目を通し収支の数字に齟齬がないかチェックする。すると浩瀚は、いつもの彼女らしからぬ間違いを発見した。
 ちらりと陽子を見る。どこか心ここにあらずといったその横顔。その表情は、どうしたって今日のこの日に何事もないとは思えなかった。
 浩瀚の心にちらりと悋気の火が灯った。
 バレンタインだからと言って、男の方から告白してはいけないなどという決まりはどこにもないはずだとふと思う。
 今日の定例会が終われば、彼女と会う機会はほとんどなくなってしまう。ひょっとすれば次に会うのは卒業式で、そのあとはよほど運がよくない限り偶然に出会うことはないだろう。
 浩瀚は再び会計簿に視線を落とした。
 単純な計算ミス。今指摘すれば、ものの数分もしないうちに修正できてしまう程度のもの。だけれども浩瀚は、それをわざとすぐに指摘することはなかった。


 「中嶋さん」
 浩瀚が会計簿を手に陽子に声をかけたのは、予定していた活動がすべて終わり、皆が帰り支度を始めた時だった。浩瀚が声をかければ何やら考え事をしていたらしい彼女は弾かれたように顔をあげた。翠緑の双眸がまっすぐに浩瀚を見つめてきて、浩瀚は思わずどきりとする。同時に、姑息な手段で無理やり二人きりになろうとしている自分が滑稽に思えて思わず苦笑が漏れた。
 「悪いんだけど、ここ、見直してもらえないかな。どうも計算が合わないようだ」
 指摘すれば彼女ははっとしたように帳簿に視線を落とす。一瞬で硬くなった表情に罪悪感を覚えつつも、浩瀚は目的通り彼女と二人きりになるべく彼女にのみ居残りを告げた。他のメンバーは彼女に申し訳なさそうな表情で一瞬帰りにくそうな空気感が漂ったが、その空気は祥瓊の軽やかな一言で吹き飛んだ。
 「そう、じゃあよろしくね」
 そのあと意味深な視線が向けられたが、当然のごとく無視した。
 「それと、あんまり中嶋さんをいじめないように」
 「―――失礼だな」
 そのあといくつかの軽口が飛び交って、生徒会室には二人だけが残された。
 急にしんと静まり返った教室で、彼女は真剣に会計簿と向かい合っていた。ただ静かにその様子を見ていれば彼女が何回も丁寧に確認を行っているのがわかる。こちらが逸らすことなく熱い視線を送っているのにも気づかないその事実に、ほんの少しだけ嫉妬心が沸き起こる。
 だが、そんな嫉妬心さえ心地よく感じる至福のひと時だった。
 初めて過ごす二人きりの時間。しかも、校舎内にも生徒はもうほとんど残っていないだろう。
 これからどうしようか。
 浩瀚は考える。
 思いきって自分の思いを打ち明けてみようか。そんな気分になって二人きりになってはみたものの、やはり今突然にここで、となるとさすがの浩瀚だって少々尻込みする。それに、突然の告白は彼女を驚かせるだけだろう。
 何事にも、それなりの場と雰囲気というものが必要だ。
 浩瀚は怜悧な頭脳をフルに回転させると、早急にこれからの計画を練り始めた。そうこうしているうちに彼女が修正を終えて会計簿を再び浩瀚に提出した。それをすばやく確認し浩瀚が合格サインを出せば、今まで硬かった彼女の顔がようやくほころんだ。
 「お手数をおかけしました」
 「なに、これも会長の仕事だ」
 浩瀚はわずかにほほ笑んで、帰り支度をしながら次の計画を遂行するタイミングを計る。そうして浩瀚はさりげなく、かつ強引に、彼女を駅まで送ることを提案したのであった。


◇     ◇     ◇


 駅までの道を二人は無言で歩いていた。
 帰宅ラッシュの時間を迎え、辺りには家路を急ぐ人々の喧騒が満ちていた。行き交う車の騒音と交差するライトが忙しなく二人の横を駆け抜けて行く。
 歩きながら浩瀚は、これからどうしたらいいだろうかと考えていた。
 彼女に思いを告げるのはいいとして、どのように、そしてどのタイミングですべきか、事は慎重に運ばなければならないと思った。気真面目な彼女からイエスという返事を引き出すためには、ただ思いをぶつけるだけではうまくいかないだろう。そもそも自分のことをどう思っているかもわからない。
 この一年、生徒会で活動を共にしてきた中での彼女の振る舞いを見れば、少なくとも嫌われてはいないだろうと思う。しかしかといって好意を持たれているかと考えれば、そうだと言えるような材料は特には見いだせない。
 彼女は誰にだって優しい。いや、単に優しいというとは少し違い、彼女は誰に対してもとても気を使って接している。困ったような顔や気を張っているような表情はよく見かけたが、彼女が怒っていたり誰かの文句を言っていたりするところなど見たことがなかった。
 だが浩瀚は、彼女が単におとなしいだけではなく、結構頑固な性格だということも気づいていた。請け負った役目は、時には意固地に思えるほどの責任感を持って全うしようとするし、決して弱音を吐かない。自分を甘やかすことがなく、誰よりも自身のミスに厳しい。
 そんな彼女のすべてが愛らしく感じるが、自分にだけは弱音を吐いたり気追いのない素の笑顔を見せたりしてほしいと何度願ったことだろう。
 そんなことをつらつらと考えている間に、煌々と明かりをともす駅舎が視界に飛び込んでくる。
 もう、猶予がない。行動を起こすなら早くしなければ、このまま何事もなく別れてしまうことになる。
 ―――家の近くまで送ると言おうか。
 それで彼女も自分がどんな気持ちでいるか多少の想像がつくだろう。それに、その申し出に嫌そうな顔をすれば見込みがないということだ。
 しかし彼女がそういった駆け引きに疎ければ、単純に「申し訳ない」と思って断ってしまうかもしれない。そして彼女を見てきた限り、そういったことにはとても疎そうである。
 さて、どうしたものか。浩瀚がもどかしさを持て余したその時だった。背後をついてくる彼女が立ち止まったのを感じた。
 もう、ここで結構だと、そう言われたらどうしようか。少々緊張しながら浩瀚が足を止めて振り返ると、硬い表情をした彼女が何事か意を決したように視線を上げた。
 「あの、義理ならもらうと先ほど言ってましたよね」
 一瞬、何の話かわからなかった。が、すぐに浩瀚は思いだす。帰る直前、昇降口前でとある女子にチョコを差し出されたのだ。今日は何人かそういう女子がいたが、ことごとく断っていた。利広のアドバイスをもとに、なるべく相手を気遣いつつ、かつ、きっぱりとした断り文句で。
 恐らくそのことを言っているのだろう。しかし、なぜ今その話を持ち出すのか。浩瀚が不思議に思っていると、彼女はおもむろに鞄から何やら取り出して浩瀚に差し出す。
 それに視線を落とした瞬間、浩瀚は息を飲んだ。
 一瞬、期待しすぎて幻を見ているのではないかと思った。あるいは、目がおかしくなって何でもかんでもチョコの包みに見えてしまっているのではないかと疑った。だがそれは、何度目をしばたたかせても消えてなくなりもしないし、どう見たってチョコの包みに見えた。
 一気に期待感が高まったが、同時に彼女の言葉を思い出し、浩瀚は混乱した思考の中で恐る恐る問いかけた。
 「・・・・・・それは義理なの?」
 「―――お世話になったお礼です」
 微妙な彼女の答えに、浩瀚は思わず苦笑する。義理だとはっきり言われなかったことにまだ期待している自分がいる。
 と同時に、本音が漏れた。
 「義理なら受け取れないな」
 え?と彼女が驚いた顔を浩瀚に向けた。その表情に浩瀚は小さく笑う。
 「本命の子から義理チョコをもらうのは寂しすぎるだろう?」
 言えば彼女はますます驚いた顔で浩瀚をじっと凝視して、見る見る真っ赤に染まった。その表情に好感触得て、浩瀚は思い切って問いかけた。
 「で、それは義理なのかな?それとも―――」


 ……本命です
 わずかな間をおいて陽子から返ってきた返事に、浩瀚はただただ舞い上がったのだった。


 
 
 
  浩瀚視点バージョンはいかがだったでしょうか。戸惑ったり尻込みしていたりする浩瀚を書くのは新鮮でした。そしてパラレル陽子はやっぱりあり得ないくらい乙女です(笑)  
 
     
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