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「 愛すべき存在 」
 

  「ねえ、浩瀚」
 政務の合間の、仕事が一区切りついたその瞬間。少女が少し甘えるような声で己を呼んだ。
 朝議で見せる覇気のある視線と違い、少々上目づかいのその視線は実に愛くるしく、浩瀚は思わず目元を緩ませる。
 「はい、何でしょう?」
 そう応えながらも浩瀚は、少女が次に紡ぐであろう言葉が容易に想像できた。
 こういう声で、こういう視線で、少女が己に呼びかけるとき、それはちょっとしたわがままを言うときだと相場が決まっているからだ。
 ―――そういえば、もう三月ばかり下に降りられていなかったか。
 浩瀚は応えながら、ふとそう思う。
 真面目で何事にも真摯に取り組む彼女であるが、蓬莱生まれの少女は、少々こちらの王という概念に納まりきれぬところがある。時々下界に降りて市井に混じるのもそのひとつであったが、浩瀚は、それも胎果の女王にとってはこちらを理解するための勉強の一環、と都合がつく限り承諾するようにしていた。
 その女王のささやかなわがままは、大体一月に一度、案件が立て込んで忙しい時期でもふた月と空けずに実行されるのが慣例となっていた。
 それが今回は三月。確かに、人口が増加したことによって生じた新しい開墾地の選定とそれに伴う治水や道路整備などただでさえ忙しいところに、近頃隣国から流れてくる荒民が急増し治安や環境の悪化を招いているということで、それに対する対処方法も早急に決めねばならなくなったこともあって出かける暇などなかった。
 それでもわがままを通そうと思えばできぬこともなかったであろうが、真面目な性格の彼女がそれをするはずもなかった。
 ―――すぐならば半日。2、3日待っていただくなら1日お休みを差し上げられるか。
 浩瀚が今挙がってきている案件と、これからの女王の予定を瞬時に組み立ててそう思った時、少女がおずおずと切り出した。
 「……実は、欲しいものがあるんだけど」
 その言葉に浩瀚は軽く目を見張った。
 予想にまったく反する言葉であったこともそうであるが、この少女がこういったおねだりをしたことが未だかつてなかったからである。
 目の前の少女はこの国の至高の存在。望めばどんな贅沢も手にできる身にある。いやそれは、課せられたものの大きさからいえばごく当然の権利とさえ言えるものであったが、この少女がその権利を行使した事は今まで一度としてなかった。
 それこそ周囲の者達が、もっと贅沢をしてよいのだと進言するほどに。
 ―――これはお珍しいことだ。
 浩瀚がそう思ったのと同じことを、そばにいた女史も思ったのだろう。傍らで黙々と書類を整理していた手を止めて、はっと目を見開いていた。そしてその視線はすぐに、欲しいのは着物か玉か、といった期待を込めたものに変わる。
 女王を着飾らせることに執念を燃やしているこの女史は、少女がそういったものを「贅沢だ」といって一切買わぬのに普段から不満を隠しもしないのだから期待しようというものか。
 「その…、ちょっと贅沢かなって思うんだけど。前々から、いつか欲しいなーって思ってたんだ。でも、慶は貧しくって、そんな余裕はないかと我慢してたんだけど」
 ずいぶん復興してきたし、そろそろいいかなって思うんだけど……、と少女は遠慮がちに続ける。
 「ええ、そうですね。主上のおかげで国庫もずいぶん潤ってまいりました。今日までがんばってきたご自分に、ご褒美を差し上げてもよろしいかと思います」
 「そう!」
 浩瀚の言葉に少女の表情がぱっと明るくなった。
 「で、何をご所望なのでしょう?」
 浩瀚が問うと、少女は喜々としながら声を張り上げた。

 「夏休み!」

 予想だにしなかった言葉に、一瞬思考を停止させた浩瀚だったが、次の瞬間思わずにっこりと微笑んだ。
 この少女は、どこまでも少女らしい。
 視界の端に女史ががっかりとうなだれる姿が映ったが、浩瀚はそれをむしろ小気味よく感じたのだった。


 
     
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