「浩瀚。茶でも飲んでいかないか」
拱手し御前を辞そうとしていた浩瀚に頓着ない声がかかる。
ここは、金波宮内殿最奧、積翠台と呼ばれる建物に設けられた書房の一郭。浩瀚は掛けられた声に顔を上げ、眼前に座す主を見やった。しかし、その時にはすでに目の前の少女は立ち上がり、傍らに用意された茶器へと手が伸びている。
その姿を見て、浩瀚は小さく苦笑した。
十二国広しといえど、臣のために手ずから茶を入れる王などそうそうはいるまい。慣例にうるさい自国の宰輔が知れば顔をしかめるに違いなかったが、浩瀚はこの主のこういう頓着のなさが心地よかった。
「ひょっとして忙しい?」
いつまでも返事がないのをいぶかしんでか、少女がふり返って首をかしげる。その姿を見やって浩瀚は柔らかく笑みを刷いた。
「いいえ。お茶のご相伴をお断りするほど忙しくはありませんよ」
そう、と少女は笑って二人分の茶を用意する。その手つきは慣れたものだ。
「浩瀚にはいつも苦労をかけるな」
「何をおっしゃいますやら」
今度こそ浩瀚は、隠しもせずに苦笑した。
「この慶で、主上ほど重責を負い苦労している者などおりますまい」
「その負うべき苦労をずいぶん分担させている、と思っているんだが」
「それこそ何をおっしゃいますやら、と申し上げておきましょうか。わずかばかりでも主上のお役に立てるというのは官としてこの上ない誉れにございます。逆に言えば、何もかも主上お一人でお出来になるなら、私などすぐさまお役ご免になってしまうではありませんか」
その方が困りものです、といえば少女は小さく苦笑して、浩瀚をのぞき込む翡翠の双眸を細めた。
「もしそうなれば、お前は毎日をどう過ごすのだろうな」
その質問にまたたいて、
「さて」
と浩瀚はしばし考える。
読みたい本がたまっている。時間があれば調べてみたいと思っているささやかな疑問がいくつかある。近頃疎遠ぎみの知己とのんびり語らいたいとも思う。しかしそのいずれも、毎日特にすることがなければたちまちの内に片付いてしまうだろう。
その時になればどうするか。
浩瀚がちらりと少女を見やれば、どんな答えを出すものかと期待をこめて見つめる視線と出会う。その無邪気な視線を受け止めて、浩瀚は微笑む。
―――それでもきっと、この少女のそばを離れることはないだろう。
冢宰としての役目が終わったというなら、今度はただひとりの男として。毎日をただ穏やかに、少女に寄り添って生きるのだ。
「その時になればお教えしましょう。どうしても叶えたいことがあるのですよ」
言えば少女は、少し不服そうな顔をしたが、すぐにふっと表情をゆるめて笑った。
「気になるけど仕方ない。今は聞かないことにしよう。でも、その時になったらちゃんと教えてくれよ」
「それはもちろん」
「では、浩瀚のためにも少しでも早く一人前の王様にならないといけないな」
はいどうぞ、と渡された茶器を浩瀚は押し頂く。
そんな日が来たらどんなにか幸せだろうか。そう思いつつも浩瀚は、今この瞬間のささやかな幸せも悪くないと思う。
「急がなくともよろしゅうございますよ。長く玉座にあれば、きっといずれそんな日がやってくるでしょうから」
今はこの茶を頂けるだけで十分。浩瀚はそう思いつつ、玉より勝る一服を味わった。
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