静かな室内に筆の滑る音だけが響いていた。
すっかり夜も更けた金波宮の一室。その音はやむ気配なく、たっぷりと墨を含んだ筆は、流麗な文字をつづりながら白い紙の上をよどみなく滑っていく。聞く者がいれば、いつまで続けるつもりか、と思わず呟くに違いない。それほどの時間が静かに過ぎ去ってのち、ようやく筆は止まった。
一心に文字をつづっていた男は筆置きにそっと筆を置くと、書き上げたばかりの書面を見返して小さく息を吐いた。今夜中に用意すべき書類はこれが最後。後は墨が乾くのを待って印を押せば完成だった。
その間に墨を片付けようと、男は硯に目を移す。表面に浮き出た羅紋が美しいその硯は、慶国より産する文渓産の硯だった。
硯は一般に彰明産が良い、とは言われるが、慶の者に言わせれば文渓産の硯は決して彰明産の硯に劣る物ではない。ただ、細かい彫刻に向く彰明産の石に比べて石質が硬く細工には不向きで、男性的な重厚さを持つのが特徴であった。摺り味は彰明の滑らかさと違って鋭く豪快で、墨を黒々と摺り上げられる良さがある。
男は、この硯を長らく愛用していた。松塾で学んだ折、老師のひとりより贈られたもので、もともとはその老師が愛用していた硯である。
贈った真意を老師が語ることはなかったが、男は何となく察していた。
硯の形は宇宙を表す。文人に愛される典型的な形ではあるが、宇とは天地四方、宙とは古往今来のことで、この硯を使って表される文字にはそれに匹敵するほどの力が宿るとの意味を持つ。
「ペンは剣より強し、という言葉が蓬莱にある」
何の時だったか、主が不意にそう告げたことがある。
ペンとは筆のこと。言論が人々の心に訴える力は武力よりも強い、ということを言っている言葉なのだと説明してくれたが、次に紡がれた呟きは、男の心に鋭く突き刺さった。
「今こうして国の重要事項を決める書面を見ると、その言葉の重みをつくづく考えさせられる。本来の意味はさておき、私が剣を振って殺せる数などたかが知れているが、御璽ひとつ押すことで簡単に幾万もの民を殺すことができるのだからな」
ぞくりと身が震えたのは何に対してか。
それは複雑な感情が入り交じった結果で、とても言葉にして説明できるものではなかったが、ただ男はひとえに、こちらのことを何も知らず、文字にも疎いことをあげつらってこの主に未だ不審を抱く者達の愚かさを哀れに思った。
「ねぇ、浩瀚。私たちは、この書類ひとつで民を救うことも出来るかわりに、殺すことも出来るんだ。それはなんて怖いことだろう。相手の肉を断つ感覚がないだけに、きっとそれは無自覚に行われるのだろうな」
文字の持つ重みを忘れるな。男に硯を贈った老師は、無言にそう告げた。それをわかっているはずだったのに、いつの間にか自分は、硯をただの道具にしてしまっていた。
そんな己を、少女の言葉を聞いて恥じた。
以来男は、重要文書を書くときはこの硯以外使わない。それは自身に課した戒めであった。
残った墨を片付け、硯を丁寧に洗い上げる。硯が綺麗になったのを確認してそっと硯箱にしまうと、墨の乾いた書面に男は冢宰の印を押した。
「さて、今夜は久しぶりに官邸に戻るか」
窓の外を眺めれば空には冴え冴えとした月が昇っている。月の位置はわずかに西。夜明けまでまだ当分時間があることを伝えていた。
「寝る前に、月を愛でながら一献といくか」
男はそう呟くと、書房の灯を消し静かにその場を後にした。
(おまけ)
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