「ああ、浩瀚。ちょうど良かった」
聞きたいことがあるんだ、と言って顔を上げた主は、浩瀚が伺候の挨拶をする間もなく一冊の本を差し出した。
「これ。この言葉って何か別の意味があるのか?」
そう問われて浩瀚は、ほっそりとした指で指されたその単語をのぞき込む。しかし示された先にあったものは、そんな無邪気に問いかけられてもどう答えるべきか迷うようなもので、浩瀚は思わず言葉に詰まった。しかし主は、己の疑問を解消することに気の全てがいっているようで、はたと困っているそんな浩瀚の様子に気づく様子もなく、少々渋面をしつつ口をとがらせた。
「これってさぁ、用意された料理って意味だよな?だけどそうすると、何となく意味がつながってない気がするんだよね」
いや、むしろ無邪気だからこそ質が悪いのか。浩瀚はそんなことを思いつつ、
「―――それにお答えする前に、ひとつ伺いたいことがあるのですが?」
と問いかければ、主は「なに?」と首をかしげて己を見た。
「この本は、どちらからお持ちになった物です?」
王宮の図書府にある物ではないようにお見受けしますが?と続ければ、主はあっさりと答えを返す。
「ああ、遠甫にお借りしたんだ」
「―――は?」
意外な答えに浩瀚はまたたいた。
「遠甫が、文字を覚えるにもこちらの世情を知るにも、こういった世俗の本の方が役に立つものだっておっしゃってな。初心者向けにはこれがよいと貸してくださったんだ」
「・・・・・・さようで」
浩瀚は事の次第を知って、思わず額を抑えた。
初心者とは何の初心者か。遠甫の言わんとしたことが浩瀚には手に取るようにわかった。
そしてそこではたと気づく。
遠甫は、この少女にこんな本を貸しても色々と意味のわからぬ言葉があるだろう事はわかっていたはずだ。そして、こういう本で使われるような、いわゆる言葉に裏の意味を持たせた俗語など正攻法で調べようとしても無理だということも重々承知しているはず。こういった言葉は俗世の中、特に若者同士の戯れの中で耳にし、いつの間にか意味を知り得ている性質のものだからだ。
そうして、正当な言葉の使い方で解読しようとしても意味が通じぬと気づいた少女がどうするか。遠甫はそこまで考えたはずである。
当然、誰かに聞くだろう。そしてそれは、自分である可能性が最も高い。
ということは・・・・・・
「―――なるほど」
遠甫の意図が読めたような気がして思わず呟けば、少女が不思議そうに首をかしげた。
「いえ、何でもございません。さすが太師。一見意外ながらも考えてみれば理に叶ったご助言なさるものだと感心したしだいで」
内心では、とんでもない悪戯を仕掛けるものだと思いつつも柔らく微笑んでそういえば、少女はあっさりと納得する。その様子を眺めながら、浩瀚はさてどうしたものかと考えた。
遠甫がにやにやと笑いながら自分がどう答えるのか待っている姿が少女の後ろに見えるようだ。
しかし浩瀚も然る者。次の瞬間にはふと妙案が浮かんで、少女に悟られぬ程度に、にやりと口の端に笑みを浮かべた。
「確かにその言葉は、用意された料理という意味でございます。ですが、ただ用意された料理ではないのです」
浩瀚が改まってそう言えば、少女がわずかに身を乗り出した。
「やっぱり?」
「はい。食す者にとって、とても魅力的でなければなりません」
「つまりご馳走ってことだね?」
「はい。しかもただのご馳走でもないのですよ」
「というと?」
「思いもかけず目の前に差し出された上に、料理の方も自分に食べてもらいたがっていると思ってしまうほどの料理なのです」
「―――え?」
どういうこと?とかわいらしく首をかしげる主を見やりながら、浩瀚はすっと双眸を細めると耳元に口を寄せて囁いた。
「つまり、食べてしまわないわけにはいかない料理と言うことです」
艶を含ませてそういえば、主は途端にそわそわっと落ち着きをなくした。
思いのほか効果があったことに気をよくして、浩瀚は思わず微笑む。
「あ、ああ!だから、食さねば男の恥なのか」
で、でも何で男だけ?と未だ真意をつかみ切れていない様子ではあったが、浩瀚はくすくすと笑いを残して陽子から離れた。
「男は往々にして自分の都合の良いように解釈したがる生き物ですゆえ、主上も重々お気をつけくださいませ」
「え?それって、私の食事を誰かが狙っていると言うことか?」
相変わらずちんぷんかんな質問を口にしていたが、浩瀚は笑みを浮かべるだけにとどめた。
その日の夜、陽子は目の前に並べられた料理を眺めながら考える。
質素倹約を旨にしている陽子の食事は、王の料理にしてはかなり質素である。横取りしてまで食べたいと思うほどでもないと思うが、確かに素材は選び抜かれた一品だし、王しか食せぬといわれている食材が用いられていることもある。
「王様の料理ってそんなに魅力的なのかな?」
―――うーん、虎嘯や桓堆にも聞いてみるか。
この鈍さぶりが愛らしいと浩瀚が思っているなど、露ほども気づいていない陽子であった。
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