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「 青天の霹靂 」
 

 「そういえば桓魋に聞いたのですが」
 浩瀚がふと、そう口にしたのは、午後の政務が一区切りついて共に一服しているときであった。
 茶を味わう浩瀚の作法は実に優雅で、ついつい見とれてしまっていただけに、ふと向けられた視線とかち合って、陽子は内心少しだけあわてた。
 仕事をしているときには何とも思わないのだが、こういうふと気が抜ける瞬間、浩瀚には妙な色気があると陽子は思う。
 「な、なんだ。桓魋がまた妙なことを吹き込んできたか?」
 陽子が少々身構えれば、そんな陽子の様子をどう思ったのか、浩瀚はわずかに微笑んで茶器を置いた。
 新たな臣を迎えてようやく一年が経とうとしていた。突然変った環境に、なじむのに苦労した陽子であったが、それは彼らも同じこと。日々余裕なく時間は過ぎ去り、最近になってようやく、互いに雑談を交わせるだけのゆとりが生まれてきたらしい。 
 それはそれで喜ばしいことなのだが、それによって陽子にとっては少々困ったことも起きていた。というのも桓魋が、同志として出会った和州の乱での陽子の武勇のあれこれや、あるいはストレス発散と称して練兵場に顔を出したときのあれこれなどを浩瀚にいろいろと話しているらしいのだ。別に浩瀚に話されたら困るというわけではないのだが、浩瀚がそのことをこういう場で話題にしてくると、何というか、少々居心地の悪いものを感じるのだ。あるいは、ばつが悪い、とでも言おうか。それがなぜかは自分でもよくわからなかったが。
 「妙なことなどではありませんよ。まあ、この話自体は今や慶では伝説のようなものになっているので桓魋に聞かずとも知ってはいたのですけれどもね。でも、実際に目にした者の感想というのはなかなかに興味深いものでして」
 そう言ってにっこりと笑う浩瀚とは対照的に、陽子はわずかに顔をしかめた。
 「・・・・・・悪いが、お前が何を言いたいのかがさっぱりわからない」
 そう言えば
 「主上が和州の乱にて、台輔に騎乗なされたというあのお話のことです」
 「・・・・・・・・・」
 と何でもないことのようにさらりと言われ、陽子はつい言葉を失ってしまった。
 実はあのことは、陽子にとって封印したい記憶だった。
 あの時は、ああするのが一番良いと思ったし、実際あれで事態が収まったのだからしばらくは特に気に留めることもなかったのだが、後日慶を訪れた雁の主従にその話題を出され豪快に笑われたのだ。「陽子もなかなか大胆なことをする」と。五百年生きてきて乱を収めるに台輔に騎乗して戦場を駆けた王など初めて聞いたとまで言われては、そんなに常識はずれの行動だったのかと、ゆるゆると後悔の念が沸き上がってきたのである。しかも
 「にしても、あの景麒がよく乗せてくれたなー。俺だったら絶対いやだね。こんなやつ乗せたら俺つぶれちゃうもん。あ、でも陽子だったら喜んで乗せちゃうけど」
 と言われて初めて、あの獣と仏頂面の景麒が同一人物だと陽子の中でしっかり結びつき、思わず人型景麒の背にまたがっている自分を想像してしまって羞恥心が沸き上がってきたのである。しかも、裸だ・・・・・・
 いまさら、と思われるだろうが、本当にいまさらながら、陽子は「ほかに方法がなかったのか」と頭を抱えずにはいられなかった。
 だから、できることならこの話題には触れないで欲しいというのが本音であったが、陽子のそんなささやかな願いは浩瀚には届かなかったようだ。
 「この話を聞きましたときには―――」
 と浩瀚の話は続く。陽子は居心地悪くもぞもぞしながら拝聴するしかなかった。
 「我が主上は本当に大胆なことをなさると驚くと同時に、我々の持つ常識など軽く吹き飛ばしてしまわれるのだろうという期待のようなものを感じたものです。ただ、それ以上に驚いたのが、私は台輔とは少々面識がございましたので、あの台輔がよくご承知なさったものだと」
 浩瀚はそこまで言うと、ふと笑みを浮かべた。
 「まさに青天の霹靂でございました」
 「・・・・・・・・・」
 言い返す言葉が見つからずに、陽子は指をもじもじと重ね合わせながらただ浩瀚を見返すしかなかった。
 「戦場では何を見ても驚かぬ自信があったのに、あれだけは本当に言葉を失ったと桓魋も申しておりましたね。同時に身が震え、立っているのがやっとだったと」
 「―――なるほど、あまりの常識はずれに驚愕を通り越して恐怖を感じたのだな」
 陽子の叩いた軽口に、浩瀚はただ笑った。そしてもう一口茶を含む。しばしの沈黙の後、浩瀚は静かに口を開いた。
 「そうですね。人は己の常識の範囲を超えるものを目にすれば、だいたいにおいて驚き畏怖するものです。人は変化を嫌う。それは恐れ故です。しかし人は、いつまでも同じ場所に踏みとどまっているわけにはいかないのです。恐れおののきつつも、前進するための一歩を踏み出さねばなりません」
 陽子はただじっと浩瀚言葉に耳を傾ける。
 「しかし主上は、他の人々が恐る恐る踏み出す一歩をあまりにも軽々と踏み出してしまわれる。しかも、思いもしない方向へ。私は桓魋の話を聞いたときに、そう感じたのです。そしておそらく慶には、そのくらい革新的なことが必要なのだろうと。ひょっとすると台輔も、そのことを直感なされたのではないでしょうか。なので主上のご指示に従われた。そうでも考えなければ、あの慣例にうるさい台輔があのようなことを許されるとは到底信じられません」
 褒められているのやらけなされているのやら。陽子は反応に困った。
 そんな陽子に浩瀚はちらりと視線を向けて、そして笑った。
 「そしてあの一件で、主上は出だしから毛色が違うとあまねく知れ渡ったのです。いまさらもう何をいわんやでありませんか?」
 その言葉になにやら含むものを感じて、陽子は思わず浩瀚を見つめた。そして静かな鳶色の瞳をじっとのぞき込み、陽子はそこにあるものを見つけてふと笑った。
 「なるほど。励ましてくれた訳か」
 「おや、何のお話でしょう?私はただ、桓魋に聞いた話をしただけですが」
 しれっと答えた浩瀚だったが、浮かんだ笑顔に意図は明らかだった。
 「そう言われれば確かに、もうすでにあり得ないことをやらかしているからな。いまさら前例がないというだけの反対を気に病むこともないか」
 陽子はそういって肩の力を抜いた。そして茶器に残っていた茶を一気あおる。
 「仕事に戻ろう。さっきの書類にでっかく名前を書いてやる」
 陽子が言えば、浩瀚は御意と答えて笑った。

 
     
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