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「 地動説 」
 

 「浩瀚、お前は大地が動いていると言われたら信じるか?」
 唐突な問いかけに、浩瀚は瞬いて主を見た。
 日に日に秋の訪れを感じる仲秋間近のある日の午後であった。御璽の捺された書類を確認していた視線を上げれば、自分を見やる翡翠の双眸とかちあう。政務の合間のちょっとした息抜きに他愛もない話題をたびたび振ってくることがある主ではあるが、今日は何やら雰囲気が違った。
 「今は政務にご集中ください」
 と嗜めようかとも思ったが、主の言葉につい興味がそそられたのも確かで、
 「―――それは、動くはずのないものでも主上が動いていると主張なさったらそういうことにできるか、という意味でしょうか?」
 言葉の裏を読んで返せば、主は不満げに眉を寄せた。
 「お前は何でも深読みしないと済まない性質のようだな」
 「ならば額面通りのご下問ということですか?」
 逆に意外さを感じて問い返せば、主は「そうだ」ときっぱり頷く。
 「で、どうだ。信じるか、信じないか?」
 どこか急かすように返答を求める主の表情は、何かしら浩瀚を挑発しているようにも見える。いつもらしからぬと違和感を覚えつつも、浩瀚は涼しげな顔を崩さずに問いかけた。
 「お答えする前にひとつおたずねしてもよろしいですか?」
 「なんだ」
 「主上のおっしゃる大地が動いている状態とは、例えばこの大地が浮島のように浮いていて大海をゆっくり移動しているような感じを想像すればよろしいのでしょうか?」
 問えば、彼女の表情がはっとしたように変わった。
 「あ、そうか。それもありだな。向こうの大地はプレートの動きに合わせて実際ゆっくり動いているらしいし」
 「ぷれーと?」
 聞きなれぬ言葉の響きに首を傾げれば、
 「いいや、これは今は関係ない話だ」
 と主は首を横に振った。
 「私が聞いているのはな。太陽は東から昇って西に沈む、それだけを見たら太陽のほうが動いているように思うだろう?それが実はそうじゃなくて、太陽は動かずにじっとしていて大地のほうが動いていると言われたら信じられるか、ということなんだ」
 「―――なるほど」
 思いもしなかった言葉に浩瀚は思わず感心した。
 「逆転の発想ということですね。しかしそれは不可能というものではありませんか。太陽が動かずに大地の方が動いているのだとしたら、大地はこのように回転し夜になるとひっくり返っていることになります」
 浩瀚は書類の一枚を手にしてぴらりと裏返した。
 「これでは人々は、大地に立っていることができないでしょう」
 「確かに大地が平らならな」
 主の言葉に浩瀚は再び瞬いた。
 「でも、球体ならどうだ?例えばこんな」
 主はそう言って碧双珠を掲げて見せる。慶の宝重であるその珠は、主の手の中で鈍く光った。
 「もちろんこんな小さなものではなくて、大地に立っていても球体とは認識できないほど大きなものだ。それが南北を軸にこのように回転していたら?大地の方が動いていることも可能になると思わないか?」
 「―――なるほど」
 浩瀚は再び呟いて、口をつぐんだ。そしてしばし主の言う世界の姿を想像してみる。だが浩瀚の本当の関心は、主の投げかけた世界の姿にではなく、目の前の少女がなぜ突然このようなことを言い出したのかということの方にあった。
 ばれぬようにちらりと様子を伺えば、少女は掌の中で珠をもてあそびながら、どこかしら思考が遠くへ飛んでいるように見受けられる。浩瀚はその理由を求めて考えを巡らせてみたが、手がかりを見出すことはできなかった。
 やがて少女は再び口を開く。
 「蓬莱のある国で、大地は動いていると主張した男がいた。今から四百年近く前の話だ。彼は天体を観測して当時主流だった大地が世界の中心であるという考えでは説明がつかない多くのことを発見するに至りそう主張したんだ。だがその考えは、世界は神が作ったという考えを持っている人々、いやその考えによって権威を得ている人々にとってはとても不都合な主張だった」
 その話に、浩瀚はふと先日罷免された官のことを思い出した。その男は天の存在に疑問を投げかけ、王の権威の根本に疑問を投げかけた。天とは存在不確かであり、起きているすべての事象に説明がつくように生みだされた幻影に過ぎないかもしれず、よってその天に選ばれたとする人物を王として仰ぐ理由も不確かであり、そんな人物にすべての権力を与えてすべてをほしいままにさせるのはあまりに愚かで危険ではないか。それが男の主張するところであった。
 「男は異端審問にかけられ地動説を捨てるよう強制された。だが、それでも地球は回っている、男はそう言ったと伝えられる」
 ―――それでもあなたは、自分の権威の所在を確かなものと主張なさいますか?
 秋官に取り押さえられながらも、男は堂室中に響き渡る鋭い叫びをあげていた。揺らぎもせずに主は黙ってその男を見下ろしていたが、秋官によって連れ出される間際ぽつりとひと言呟いた。
 「お前の主張する通りならどんなに良いだろうかと私自身思う」
 それは傍にいた浩瀚にようやく聞こえるほど小さなもので、浩瀚のほかに誰も気づく者はいなかった。
 「今では男の主張が正しかったとだれもが認める」
 「だからかの者の主張もいずれ正しさが証明されるかもしれないと?」
 浩瀚が問い返せば、主の瞳が揺れた。
 やはり浩瀚の推測は間違ってはいなかったらしい。一瞬視線がかちあって、少女は気まずげに顔をそむけた。
 「―――そうならない可能性はない」
 「確かにその通りですね」
 浩瀚はあっさりと頷いた。可能性の話をすれば、確かにないとは言い切れない。未来はいつだって不明瞭で、自分の想像も及ばない姿に形を変えることだって十分にあり得るのだ。
 「ただ先ほど主上のなされた蓬莱の話を聞けば、その男は地動説とやらを主張する根拠を得ております。それに引き換え先日の官は、天の存在を否定する根拠を何も提示してはおらず、ただの自分の憶測を主張したに過ぎません」
 「確かにその通りだ。だが逆に、天の存在を確かなものと主張する根拠もないといえばない。男の言うとおりすべての事象に説明がつくように生みだされた幻影かもしれないし、そもそも天とはこの世界を支配する条理そのもののことかもしれない。そしてその条理が科学で説明できれば、確かに王の権威など誰も信じなくなるだろう」
 「なくはない、と申し上げておきましょうか。すべてが説明されることが人に幸福をもたらすか、ということは別問題ではありますけどね。それに―――」
 浩瀚は主を見やって微笑んだ。
 その微笑に不思議そうに首を傾げた主に、浩瀚は優雅に一礼する。
 「世界がどんなふうに変貌しようと、私にとって主上が唯一の存在であるということは変わりはしません」
 これは理屈ではなく感情の問題にて
 「生涯あなたのお傍に」
 再びそっぽを向いた少女の横顔は、恥じらうように朱に染まっていた。

 
     
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