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「 名 」
 

 「その者姓を陶、名を白、字を流泉と申すとか。ただ今は別字の愚狂と名乗ることの方が多く近所の者たちは誰も流泉と愚狂が同一人物だとは思わなかったようでございます」
 金波宮内殿積翠台の割とこじんまりとした一室に淡々とした声が響いていた。声の主は冢宰の浩瀚で、先日城下をにぎわせたとある事件の報告をしていた。それは王が首を突っ込むほどの重大事件ではなかったが、忍びで市井に降りた陽子が偶然とはいえ巻き込まれる形となったため顛末の報告を浩瀚にお願いしていたものだった。
 淡々と続く説明に陽子は真剣に耳を傾ける。そうしてひと通りの説明を聞き終えて陽子は頷いた。
 「なるほど、そういうことだったか」
 「当人も悪気があったわけではないようです」
 「そのようだな」
 「士師が少し灸をすえて、すでに帰したと」
 「それでいい」
 どうやら丸く収まったらしいことに安堵して陽子はわずかに顔をほころばせた。
 「忙しいのにわざわざすまなかったな」
 言いながら陽子は席を立つ。超多忙な冢宰に報告を頼むようなことじゃなかったと今更ながらに少し反省をして、わずかばかりの謝罪を込めて浩瀚のために茶を入れる。
 「些少ながら私からのねぎらいだ」
 陽子が茶杯を差し出せば浩瀚は表情を緩めて杯を押し頂いた。
 「主上のご下命とあればどんなことでも最善を尽くすのが当然なれど、お気持ちはありがたく」
 「ご下命じゃなくてお願いだったんだが」
 「ならば尚のこと優先事項にございますね」
 にっこりと笑う浩瀚に陽子は苦笑する。
 「そう言われると余計良心が痛む。お前を煩わせないためにもしばらくは大人しくしておくよ」
 「それは重畳」
 澄ました顔でさらりと言う。そんな浩瀚の様子に陽子は思わず苦笑を深め、手にしていた茶器を置いた。
 「―――それにしてもこちらには名がたくさんあって本当にややこしいな」
 「蓬莱には姓や氏の区別や、字がないのでしたね」
 「少なくとも私のいた時代にはなかったな」
 陽子が呟けば浩瀚は頷いた。
 「こちらでも、今市井では字をつけぬ者も多いと聞いておりますから、そういったのも時代の流れなのでしょうね」
 それから一口茶を味わって浩瀚は続けた。
 「姓名と氏字の違いを申せば、姓名と言うのは親から与えられるもので、氏字と言うのは自分でつけることができるということでしょう。主上もすでにご存じのとおり、姓名は戸籍に記載され一生変わることはありません」
 浩瀚の説明に陽子は頷く。
 「それは蓬莱でも一緒だな。苗字を親から受け継ぎ名を親から与えられる。ただ結婚しても女性の姓が戸籍上も変わらないという所が違うかな」
 「姓は、天が天命を革めるに当たり、同姓の者が天命を受けることはないという理がある以上、こちらでは個人を識別する以上の意味がございますからね。簡単に変えられるようでは困ります」
 「確かにそうだな」
 陽子は納得顔で頷いたが、すぐに小首を傾げた。
 「でもわざわざ氏をつけるのはなんでだ?姓を名乗っても不都合はないだろう」
 「そうですね。ただ姓と言うのは数がそう多くなく同姓の者というのは意外と多いのです。ちなみに主上は、この慶で一番多い姓は何かご存知ですか?」
 問われて思わずきょとんと動きを止める。慶で一番多い姓。改めて聞かれれば、何だろうと考え込む。
 「―――よくよく考えれば、実はこちらの姓ってあまり知らないんだよな。桂桂が蘇だろう。祥瓊が孫。楽俊は張だけど……あ、祥瓊や楽俊は慶出身じゃなかったな」
 陽子が唸ると浩瀚が小さく苦笑した。
 「李でございます。約三十万人が李姓と言われておりますから、慶の民の一割は李姓ということになりますね」
 「え!そんなにいるのか」
 浩瀚の説明に陽子は驚いて目を見開いた。
 「十人に一人は李さんということじゃないか。そんなにたくさん李さんがいたら同姓同名の者も少なくないだろう。それでちゃんと戸籍の管理ができているのか?」
 陽子の驚きように浩瀚は思わず小さく笑う。いの一番にそれを心配したのは己が立場をよくわかっていると褒めてやりたいところか。慶の民三百万の戸籍を最終的にあずかるのは景王としての責任だ。
 「戸籍には出身の里名が必ず記載されますし、それと合わせて生年月日で同姓同名でも個人を特定できます。ただ生活していく中では不便が生じることもあるでしょう。氏はそのために発生したとも言われています」
 「ああ、なるほど。姓を変えるわけにはいかなけど、同姓同名が多くっちゃ困るから氏をつけるんだな」
 「それに氏は成人したらつけることができるもの。親から独立したという証や己の自負にもなります」
 「確かにそうかもなぁ」
 「字については、以前は親しくない者に名を呼ばれるのは不快だと思う者が多ございましたからね。また名は個人を縛る呪であるという考えもございまして」
 「名が呪?」
 陽子が首を傾げれば浩瀚は、ええと頷いた。
 「例えば桓の名は辛。彼は辛と名付けられたことで辛という存在になったのです。清でも真でもなく」
 「ああ、それはなんとなくわかるかな」
 「それはつまり彼が辛という名に縛られているということになります。そして誰かが彼のことを辛と呼ぶことで呪は強まり益々彼は辛という名に縛られていくのです」
 「―――名を呼ぶことで縛る」
 陽子が思案顔で小さく繰り返すと、浩瀚はゆったりと頷いた。
 「そうです。そして望まぬ相手に縛られるということは決して愉快とは言い難いこと。ゆえにまことの名は伏せ、字を用いて自分が不用意に他人に縛られるのを防ぐという考えが生まれたのです」
 「はぁぁ、字って結構奥が深いんだな」
 陽子が深くため息をつけば浩瀚はわずかに笑った。
 「ただ逆に言えば、より強い結びつきを望む相手には名を呼んで欲しいということでもあります。かつて男女の間で名を明かすことは愛の告白だったのですよ」
 「そうなのか!」
 陽子が驚いて浩瀚を見返せば、浩瀚はわずかにほほ笑んだ。
 「自分から名を呼んで欲しいと頼むということは、相手に束縛されたいと言っているも同然ですからね。究極の愛の告白です。近頃は字を持たずに名を呼びあうことが普通になってきていると、そう分かっていましても私のような古い人間にしてみれば、突然本名を明かされればどうしたってどきりとしてしまうものなのです」
 言って真っすぐに陽子を見る。その視線に含むものを感じて、陽子ははっとした。
 「……それって、ひょっとして」
 「ひょっとせずとも主上のことを申し上げております。突然本名を明かされた時には、どうしてよいものかと本気で悩んだものです」
 「そりゃ、悪かったな!」
 思わぬ告白に陽子はわずかに気を動転させて語気を強めた。まったくそんなつもりはなくても、相手にそんな風に思われていたなんて、考えただけで羞恥心が湧いてくる。陽子はその恥ずかしさをごまかすように顔をしかめたが、そんな心の内さえ読んでいるかのように、目の前の男は腹が立つほど冷静に穏やかな笑みを浮かべた。
 「しかし、ただの男の立場で申せば、この上ない僥倖にございます。主上がそのおつもりで名を呼んで欲しいとおっしゃるのならば、私はいつでも御名をお呼びいたします」
 その言葉に陽子は耳まで真っ赤に染めたが、どうしたって世間知らずの自分をからかっているようにしか聞こえず、陽子は頬を膨らませてそっぽを向いたのであった。

 
     
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