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「 風のいたずら 」
 

 辺りには、とろんとした夏特有の気配が漂っていた。 
 雲海上は下界よりも季節の変化が緩やかとはいえ、それなりの変化は訪れる。季節は大暑を迎え、金波宮も夏真っ盛りであった。
 蓬莱生まれの胎果の女王は、夏を大層苦手にしている。なんでも向こうには、室内の温度を下げることが出来る装置なるものがあり、夏でも快適な温度で過ごすことが出来るのだという。そういった環境に慣れてしまうのを、「現代病」とか言うらしく、「現代っ子」には、夏の暑さは耐えられぬものらしいのだ。
 そのせいだろうか。少女は近頃、ふと目を離した隙に執務室から姿を消すことが多くなった。行き先は宮城内のどこかで、大抵、池のほとりの東屋など、涼しい風が吹くところであった。

 今日も今日とて浩瀚は、もぬけの殻となった執務室を見回して、ふうっとひとつ息をつく。抱えてきた文箱をそっと机に置いて、そこに広げられたまま置かれている書簡に目を向けると、随分と上達した御名の上に押された朱印。それがまだ乾ききらずに濡れた色をしていて、よって少女が広げたままにしていったのだろうと想像する。
 渡していた最後の書類だ。ゆえに、一区切りついたと出かけてしまったのだろう。

 「――――少し遅かったか」

 近頃は政務に慣れてきて、随分と処理する時間が早くなった。ゆえに浩瀚もそれにあわせて書簡を届けるようにしていたのだが、どうやら今日は読み誤ったようだ。
 さてさて、今日はどこへお行きになったものやら……。
 浩瀚は、頭の中に宮城内の地図を広げて主の後を追う。

 浩瀚は石畳の小道を抜け、園林の木立を進む。吹き抜ける風に木々がそよぎ、梢から降ってくる光が足元でくるくると踊る。静謐でゆったりとした時間が流れる空間。忙しげに回廊を行き交う足音も、大量の書類に殺気立つ官吏達の気配も、ここまでは届かない。
 浩瀚は主の姿を求めて歩き回りながら、いつしかこの静かな空間を散歩するこのちょっとしたひと時を満喫している自分に気づく。

 ―――主上をお捜しするという大義名分を掲げた、いい気分転換だな。

 そう思って苦笑する。なにせ、未だ人手の足りない金波宮だ。仕事に忙殺され、ちょっとの時間すら惜しい。自らこんな時間を作ろうなど、思いもせぬのが正直なところだ。いや、そうしようとしても下官が離してくれぬか。そう思うとまた苦笑が漏れる。
 木立を抜けると目指していた東屋が見えた。ここに来るまで二カ所巡ってはずれだったので、ここにいる可能性が高い。というより、ここにいなければそれはもはや台輔の力を借りねば見つけ出せぬ所にいるということであり、それは主が「ちょっと涼みに」というのとは違う精神状態であることを意味している。
 ゆえに浩瀚は、視界の先に鮮やかな緋色の髪を捉えてほっと息をついた。しかしその直後、浩瀚ははっとして足を止める。
 東屋に座る少女が、うっつらうっつらと気持ちよさそうに揺れているのを認めたからだ。

 ―――お眠りになっておられるのか……。

 これ以上進めば気配に聡い少女は目を覚ますだろう。浩瀚は、今までの経験から、その距離を正確に割り出していた。
 その距離、近づく気配に気づいて水禺刀を抜き、相手の攻撃をかわせるに足る距離。
 そう思うと浩瀚の胸がちくりと痛んだ。
 少女があまり話したくなそうにするので詳しく知るわけではないが、巧を彷徨っている時に身についてしまった習慣だという。海客として役人に追われ、よって街道を行くことならず、山中を彷徨って多くの妖魔に襲われたようだ。いつ襲ってくるかわからぬモノ達に気配を研ぎ澄まし、例え寝ている間でもどこか気を張っていなければならなかったという。
 「冗祐と水禺刀がなければとっくに妖魔に喰われてたな。で、楽俊に拾ってもらわなかったら、のたれ死んでた」
 そう言って笑った少女の笑顔が胸に痛かった。
 決して誰を責めるでもない、苦難の中で出会った幸運だけにただただ感謝を表す彼女の心根が、尊いと思うと同時に痛く胸に突き刺さるのだ。
 玉座に就かせるために、天は少女に試練を課した。その試練をかいくぐって掴み取った玉座もまた、彼女にとっては安息ではありえず、より苛烈な試練となって彼女にのしかかる。
 ゆえに、今ひと時の安息を彼女が得ているのだとするなら、浩瀚はそれを邪魔したくはなかった。ただ惜しむらくは、おろされた御髪に隠れて、その安らかな尊顔を拝せぬことか。
 そう思った時、一陣の風が吹き抜けた。
 緋色の髪が巻き上がり、隠れていた少女の顔があらわになる。
 時間にしてほんの一瞬。しかし、浩瀚の目にはしっかりと焼きついた。

 ―――なんとあどけないお顔をなさっておいでか。

 いつもどことなく気を張っている普段の少女の表情との違いに驚き、そしてその常ならぬ表情を思いがけずも拝せた僥倖に、浩瀚は日頃の疲れも吹き飛ぶ思いであった。


 
     
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