「私はかつて愚かにも、奢侈におぼれた薄王や、権におぼれた比王を愚かだと思っておりました。玉座を得た者は自らを律し、与えられた使命を全うする必要があるはずだと。――――――しかし、そうやって何かに執着せねば王としてあれぬのだと今になって思います。ただ、いき過ぎねばよいだけのこと。それをうまく引き戻すのが官吏の役目だったのでしょう。そして、贅にも権にも興味を持たなかった予王でさえ、自らの幸せにはあれほど執着しました。たとえそれが、幾万もの民の命を奪うことになった原因だとしても、それが彼女を最後まで玉座にしがみつかせたものだったのです」
秋風吹き抜ける庭院に、浩瀚の言葉が静かに響く。
白い髭をなでながら、遠甫はただ黙って耳を傾けていた。
「では、贅にも権にも己の幸せにさえも執着のない主上を、最後に引き留めるものは何なのでしょう?」
浩瀚の固く握られた両の手が微かに震えた。
これから己が口にしようとしていることに、これほど恐怖を感じたことなど、浩瀚は未だかつてなかった。
「主上を今玉座にとどめさせているのは、国と民には王が必要だというその思いだけ。けれどもその王とは、自分でなくともよいのです。だからあれほど簡単に、必要ないといわれれば命を差しだそうとしてしまうのです。私は、主上の執着のなさが怖くてたまらない!」
浩瀚は、思わず語気が強くなったのを恥じるように視線をそらした。
「―――――主上は名君におなりですよ。ただそのためには、玉座に執着していただかねばならない」
そして、そのための名案が浮かぶならどれほど楽か、と浩瀚は思う。
王は高潔であるべきだと多くの者が思うだろう。高潔さこそが名君たるに必要な資質だと。
しかし高潔さは、王が己の身を守ることにはつながらない。今回の天官らの謀反は、それを知らしめた事件だといっていいだろう。
こちらの世界では、長く玉座にあることが名君の証。高潔であるがゆえに己の命にさえ頓着しないのなら、高潔さは決して名君の資質たりえないのだ。
彼女の清らかな魂をいとおしいと思う。誠実でまっすぐで、何事にも真摯に取り組む彼女の姿勢を誇らしく思う。しかし、それこそが彼女を玉座からひきおろす災禍になるのなら、いっそ欲にまみれてくれればよいのにとさえ思ってしまう。
「………さて、それはどうかの」
長い長い沈黙の末、遠甫が静かに口を開いた。
「確かに王は、玉座を捨てれば命はない。王は王としてしか生きられぬ。しかし、玉座に執着することと、己が命に執着することは似て非なること。王とて元は人。命など惜しくないと思ったそなたが今生きてここにあるのはなぜか。陽子の生きる道も案外そのようなところにあるかもしれん」
「――――――王と私の生き方を比べるわけには参りません」
浩瀚はどこか自嘲するように口の端をゆがめた。
「何故そう思う。体は神になろうとも心は人じゃ。人としての生き方に何の違いがあろうか」
「老師のおっしゃることはまさに正論。しかし、正論が必ずしも正しいとは限りません」
「確かにそれもまた真理。じゃがな、陽子はまだ若い。あらゆることが経験で、あらゆることが糧になるのじゃ」
遠甫はゆっくりと浩瀚を振り返った。
「ゆえに、時には傷つくとわかっていながらあえて経験させねばならぬこともある。すべきことを間違えるな。そなたが気を回しすぎていろんなものを遠ざければ、陽子は真の強さを手に入れ損なうじゃろう」
「―――――」
「人は、生きる理由の半分を自分のために、もう半分を他人のために。その均衡がちょうど良くして真に生きる力を得る。そなたが生きて今ここにあるのは、陽子のそばにいたいと思う己が心半分、陽子のために朝を整えようと思う心半分。わしはそう見ておったがどうじゃ?」
どこか人の悪い笑みを見せられて、浩瀚は僅かに顔をしかめた。
「今の陽子のもろさは、他人のためにという生き方しかないからじゃ。これは、自分ためばかりに生きておる者よりよほど高潔だと思われ尊ばれるかも知れぬが、要は右に傾いているか左に傾いているか程度の違いしかない。贅で真に心が満たされるというならそれも良かろう。じゃが―――――」
「主上はそれをお望みにはならない」
「あせることはない。今回のことは陽子も十分反省しておるし、心配する者が多くいることも実感したことじゃろう。その心配が、しばらくは陽子を引きとどめよう」
老師の言葉が静かに響く。それを心の中で反芻しながら「ああ、そうか」と浩瀚は思う。
予王は自分のためだけに生きた。それを周囲は糾弾した。よって主上は逆に振れた。他人のためであることが、きっと正しいと思い込んでいるに違いない。しかしそれでは、いずれ予王と同じ末路を辿るだろう。傾きすぎた釣合人形は、必ず支柱から落ちるのだ。
王として生きようとする少女に、人としての幸せを。たとえそれを与えられるのが自分ではないとしても、それが彼女の生きる糧になるのなら、自分はどんなことでもしてみせよう。
浩瀚はゆっくりと息を吐いて、握り締めていたこぶしをひらく。
二人たたずむ庭院に風が吹いて、梢のざわめきが静かに響いた。
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