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 「 塙王
 
     
 

 がらんどうとした薄暗い室内に男は静かにたたずんでいた。
 開け放った窓から差し込むわずかな明かりだけが辺りをうっすらと照らしており、その光を照り返す磨きこまれた床の輝きを男は何となしに見つめていた。
 床は落差なく露台へと続き、広い露台の先にはどこか陰鬱な色をした雲海が広がっていた。その下には巧の国土。五十年男が守り育ててきた首都傲霜の街並みが、そこに広がっているはずであった。
 だが、男の目はそれを見てはいない。たたじっと床に注がれている。しかし、その床の輝きさえ男の視界を捉えているわけではなかった。
 男はしばしそうやってただじっと佇んでいたが、やがて何かの気配を感じたかのようにふいに顔を上げた。
 「―――台輔か」
 その呟きは独り言のようであったが、すぐさま密やかな衣擦れの音が届き、やがて人型をした金の獣が現れた。
 「主上、ただ今戻りました」
 現れた女は、言って男の前に跪く。頭(こうべ)を垂れれば、薄い金の色をした髪がさらりと肩を流れた。
 「慶はどうであった?」
 男はわずかに振り返って女を一瞥する。それは、愛情などというものの欠片も感じない、ぞんざいな問いかけであった。その言葉が内に持つ冷ややかな芯に触れたかのように、女はわずかに身を震わせた。
 「慶は混乱しております。舒栄を新王と仰ぐ者と偽王だと主張するもので完全に二分しているようです」
 「結構なことだ」
 男は笑むように口元をゆがめた。それと対比して、女の顔は一層険しくなった。
 「で、舒栄の陣はどのような様子だ。武器や軍糧は足りているのか?」
 「―――今のところは。ただ、舒栄を偽王として対抗している州や舒栄の入城を拒否した国府からも舒栄の陣へと馳せ参じる官が多くいるとか。このまま舒栄の陣が膨らめば早々に軍糧に欠くことになるでしょう」
 「なるほど。では、軍糧を運んでやるとしよう。物資不足で戦を止められてはかなわんからな」
 男はにやりと笑うと、近くにあった椅子に腰を下ろした。そうして、足元に跪く人型をした金の獣を静かに見やる。
 「慶の混乱を早急に納めるべく、新王をひそかに援助する。台輔たっての懇願でもあるし、慶が落ち着いてくれれば荒民の数も減って巧としてもありがたい。そういえば冢宰はなんの不審も示さぬであろう」
 「!」
 女の表情が驚愕にゆがみ、今にも叫びださんばかりの勢いで顔を上げて男を見た。
 その紫の双眸は悲哀に満ちていた。
 「何ゆえ主上はこのようなことをなさるのです。舒栄が偽王であるのは明らか。天命を受けていない者を王として援助するなど、その禍は必ずや巧にも及びましょう」
 「では聞くが。なぜ舒栄が新王でないと言い切れる」
 「同じ姓の者が続けて王に立たないのは、古来よりの習わしでございます」
 「さて、たまたま今までそうであっただけかもしれぬぞ。何も天網にそのようなことが記してあるわけでもなし」
 「いいえ!」
 塙麟は激しく頭を振った。
 「そればかりではございません。舒栄が新王であるならなぜ景台輔のお姿が傍にないのか。真実舒栄が新王であるなら景台輔が蓬山にお連れし、天勅を頂いて玄武にて金波宮へ入れば誰も入城を拒否することはかないません」
 「景台輔は先の主を失ったばかりだからな。まだ体調がすぐれぬのかもしれぬ」
 「それでも、王のそばに台輔の姿なくば、いずれ誰もが不審に思いましょう」
 「では、景台輔を舒栄のもとへ遣わしてやればよい」
 言って男はにやりと笑みを浮かべた。
 「なるほど、これはいい案だ」
 その呟きは、ぞっとするほど恐ろしい響きを帯びていた。
 「塙麟よ、すぐさま景台輔の行方を捜すのだ。麒麟であるそなたになら、同じ麒麟を捜すのはさほど難しいことではあるまい」
 「主上!」
 塙麟は悲鳴に似た声を上げると、弱々しく頭を振ってうなだれた。
 「―――もう、おやめ下さいませ。慶にはいずれ新王がお立ちになります」
 「そうだな。いずれは立つだろう。だが、その日が一日でも一年でも遅くなることをわしは願ってやまん」
 「いいえ。そう遠くないうちに必ず。景台輔は昨夜呉剛の門を開き蓬莱にお渡りになりました。間違いなく蓬莱に王気をお感じになったのです」
 塙麟の言葉に男は瞑目した。
 顔からさっと血の気が引くのが自分でもわかった。
 「―――では、慶の新王は胎果だというのか」
 何ということだ!
 瞬時男の脳裏をよぎったのは、世界でも屈指の大国として知られる雁を治める胎果王の存在であった。一度は滅んだとまで言われた国を見事復活させたばかりでなく、世界有数の大国にまで押し上げ五百年の治世を誇る男。
 その男が胎果である以上、どうして恐れずにいられようか。
 滅した国を復活させた胎果。
 ―――もしかすると、慶はあっという間に蘇ってしまうかもしれない。
 王によって乱され、そのあとすぐに偽王によって荒らされれば、新王が登極しても慶の復興は簡単にはいかぬだろう。そう思っていた。
 もはや自分の天命がつきかけていることなど、とうに気づいている。それはいい。いずれその日が来ることを自分は最初から覚悟していた気がする。でも、愚王と呼ばれるのだけは我慢ならない。この五十年、自分なりに努力したのだ。華美を好まず、奢侈に溺れず、身を律して誠実に巧のために尽くしてきたのだ。
 だが、民はそんなことに興味はない。民の基準はいつだって他と比べてどうかということばかり。奏より貧しい、雁より貧しい。でも慶よりはまし。
 それだけが己のすがる矜持なのに……。
 荒れ果てた慶があっという間に復興してしまったら、今自分がしていることのすべてが無駄になる。
 これから巧は荒れる。ならば慶も道連れ。奏と雁にはさまれた二国の中で巧はまだましな国としてあらねばならないというのに!
 「景台輔を追え!」
 気づけば男は叫んでいた。
 「追って、新王を亡きものにせよ。汚らわしき胎果の王など巧の隣国に立たせてはならぬ!」
 「主上!」
 塙麟はすがるように男の足元に身を投げ出したが、もはや男の瞳は現実の何をも映してはいなかった。

 
 
     
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