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 「 劉王 」
 
     
 

 「―――ほう」
 受け取った報告書を読み終えて、尚隆はわずかに片眉を上げた。
 柳で百年ぶりに殺刑が復活した。
 報告書にはその事実とともに、刑に処せられた罪人の罪状や民の反応などが仔細に綴られていた。
 「この時期に殺刑を復活させるとは。ひどいことにならないといいのですが」
 尚隆が読み終えるのを待っていたかのように、報告書を持ってきた朱衡が溜息交じりに呟く。その呟きに尚隆は軽く視線をあげて朱衡を見やった。
 この男の憂いていることはわかる。朱衡は情深いようでいて意外と現実主義者だ。他国の崩壊を心配しつつ、それと同時に自国に及ぶ損益と己に降りかかるであろう面倒な仕事について算段している。それがいいとか悪いとか言いきるつもりは毛頭ないが、ある意味官吏の鑑だと尚隆は思う。
 それにしても、柳の様子が気になって楽俊を行かせたのは今年の初めだ。その報告書は申し分なく、こちらが知りたいと思うつぼをしっかりと押さえた見事なものであり、その報告書によって尚隆は柳との国境に掌固(けいび)を置くよう命を下したのだ。しかしそれでも気になって自ら柳へと足を運んだのはわずかひと月前のことである。
 あの時柳国の首都芝草の空気を肌で感じて、もはや長くは持たないだろうとは思っていたが―――
 「あれの言ったことは正しかったようだ」
 露峰はもう玉座にいないのではないか。そう推理して見せたのは、あの街で久方ぶりに再会した奏の太子だ。実権を放り出している。まさにその通りだ。
 その証左に自らが禁じたことを官吏に許した。何の釈明もなしに。
 「ひょっとすると近い内に鳳が鳴くかもしれぬな」
 尚隆は呟いて、むしろその方が民のためだろうがな、と付け足す。病巣は早めに切り取らねば、腐敗はじわりじわりと広がりやがて手の施しようがないほど柳を蝕むことになるだろう。そうなるくらいなら、変に主君の延命を望むより、芳の例のように思い切って誰かが立ち切った方がよいのだ。
 だが歴史を振り返れば、長命な王朝ほどそういった臣がでてきにくい。殺刑を長らく禁じてきた国であればなおさら難しいことだろう。
 「義倉の確認は怠るな。それと艮海門を抜けようとする船を把握しておけ。巧が倒れた今、慶にはまだ柳からの難民まで受け入れる余力などないからな。今慶にまで倒れられたら本気で雁とて立ちゆかぬ」
 尚隆が言えば、朱衡は頷く。
 「かしこまりました。すぐに手配いたします」
 そう言って去っていく朱衡の背を見送って、
 「一難去って、また一難か。問題は尽きぬものだ」
 呟いて尚隆はわずかに虚空をにらんだのだった。 


 尚隆が手にしたのとほぼ同じ報告を陽子が受けたのは、雁に遅れること数日のちのことだった。どうやら柳が危ういという情報を楽俊からの手紙や柳で楽俊と行動を共にした祥瓊などから聞いていた陽子は、今回の柳での殺刑復活を軽く流しはしなかったが、どう受け止めていいのかわからなかった。
 「柳はずっと殺刑を禁じて来たんだったよな?」
 「さようでございます。法律上では存在しておりますが百年ばかりは執行されておりません。現劉王が大辟を用いずと定められておりますので、柳ではどんな凶悪な罪人でも無期の徒刑または終生の拘制となっております」
 「しかしその百年越しの慣例を今回ばかりは破ったというわけか」
 それほどの罪人だったということか、と陽子は狩獺という男の罪状に再び目を落とす。罪を重ねること十六件。そのすべてに殺罪を含み犠牲者は総計で二十三人にも及ぶ。綴られた罪状からは、ことを自分に都合よく運ぶためにあっさりと殺人という手段を用いる冷酷さがにじみ出ていた。
 しかし同時に、この狩獺という男には、人間としての大切な何かが大きく欠落しているように思え、それが陽子には哀れにも感じた。
 「芝草では近年、険呑な事件が続いているそうにございます。そんな時に余りにも常識を越えた罪を重ねた者が出てきて、市井では殺刑を強く望む声があったとか」
 「しかし、民が殺刑を望むことと実際に量刑を決めることは別だろう。民の声に左右されて量刑が決まるのなら、司法に民を介入させているということになる。民意に沿ってと言えば聞こえはいいが、いずれは民意に交じって作為的な者の意思が介入してくる可能性を生み出す」
 そんなことになれば司法は有名無実化し、淫らに刑が施行されることになると陽子が言えば、浩瀚はその通りですと頷いた。
 「今回の一件。問題はまさにそこにあるかと」
 「つまりは、百年ぶりに殺刑が復活したのは誰かの意図だと?」
 さて、そこまでは、とわずかに考え込んだ後、浩瀚は続けた。
 「殺刑復活が誰かの意図によるものかどうかはわかりかねますが、今回柳で百年ぶりに殺刑が復活したのは事実です。しかし復活させたのにもかかわらず、今後殺刑をどう扱っていくか、という重要な部分はなにも声明が出されていません。今回の殺刑が特別な処置であるのか、特別ならば今後特別な対応がなされる基準は何なのか。あるいは、これを機に殺刑が完全に復活したのか。しかしそれでも、殺刑となる罪の基準は何であるのかを明確にせねば、殺刑という最高刑が漠然としたまま運用されていくことになってしまいます」
 「うん、確かにその通りだな」
 「そんな状態で運用していく中で、民意によって殺刑が執行されたのだという意識が人々に広がればそれはとても危険なことです。民は今後も自分たちの意思によって殺刑が執行されることを望むことになるでしょう。しかし民意とは時に暴走するのです。そもそもが統率された意志ではありませんから、いくらでも噂に振り回されて噂が真実かどうかの追及などおざなりです。そしてそんな暴走した民意を悪用する者だって出てくるでしょう」
 陽子はしばし考え込むように黙り込んで、やがてぽつりとつぶやいた。
 「噂に聞いたことは本当なのかもしれないな」
 「噂、とは?」
 「劉王はすでに玉座にはいない、というものだ」
 「玉座に…。つまり、既に実権を投げ出していると?」
 陽子は頷けば、さもありなん、と浩瀚は会得顔をした。
 「今回の柳での殺刑復活で一番引っ掛かることが、民が強くそれを望んだ、ということです。事実芝草では、狩獺なる男の殺刑決定に民は歓喜したと聞き及んでおります」
 一体いつの間にそんな細かな情報まで得ていたのか、陽子は感心と呆れの入り混じった顔を浩瀚に向けたが、当の本人は全く気にせぬ様子で先を続けた。
 「量刑の決定に民の声を無視できなかった、という実情が見え隠れします。刑を決める司法とて、民の心情がよくわかるから無視しきれなかったのでしょう。しかし、柳ではここ百年もの間どんな重罪を犯しても殺刑を用いなかった。王がそれを禁じて来たのだから、官としてはその一線を越えることは絶対にできなかったからです」
 「しかし今回は、王の禁じたものを破って殺刑を執行した」
 「官の心が、王の言葉よりも民の声を重んじたのだ、ということができるでしょう」
 「―――つまり」
 「おそらく王への忠信を誓っていると信じている官本人らも、無意識のうちに王から心を離しているのです。じわりじわりと無意識の内での王への離反はひろがって、これからますます広がっていくでしょう」
 予言にも似た浩瀚の言葉を聞きながら、陽子は深く息を吐き出した。
 「祥瓊が柳を旅した時に、地方の官吏に賄賂を要求されたといっていた。その時同行していた楽俊から、体制が腐敗している、と言われたというんだ。柳は法治国家で名高い国。法が機能しているなら賄賂など要求するはずがない。しかしそれをしてきたということは、法はすでに事実上効力を失っているんだと」
 「確かに、その通りですね」
 「地方の官は、中央から遠いだけに早々と腐敗が明確になった。しかし、まだ中央ではそれほど顕著ではないんだろう。王とも距離が近いだけに、王に忠誠を誓っている者も多いはずだ。しかし実は無意識のうちに離反が進んでいるとはね」
 陽子は国の終わりがどのように進んでいくのか垣間見たような気になった。気分のいいものではない。言い得ぬ苦さが胸に広がった。
 「劉王は何を考えておいでなのだろうか」
 自分の禁じたものが破られたというのに、何の反応も示さないのはなぜなのだろうか。
 例えば、自分は初勅にて伏礼を拝した。まだ日が浅い故、時々に思わず伏礼する者たちがまだまだいるが、それでも以前よりは伏礼を目にする機会は格段に減った。何より、身分が上だからという理由で下の者に伏礼を強要する場面を見かけることはなくなった。ひょっとしたら自分の目の届かない所では、まだまだ行われているのかもしれないが、少なくとも陽子は自分がその場面を目にすれば黙って見過ごすことだけはないだろう。
 それを考えれば、劉王はなぜ沈黙を守っているのか。司法の決定に否やを唱えないのか。
大辟だけはならぬと、言わないのか。
 民がどれほど強く望もうとも、王がひと言それを言えば、官らは殺刑を執行できない。そして、司法は民に対して言い訳の言葉ができる。
 ―――そなたらの言い分はわかる。しかし、主上のお決めになったことを破ることはできない、と。
 それでもし暴動でも起きるなら、それを鎮めるのもまた王の使命のはずだ。
 民意を汲むのは必要だが、民に迎合しても国は治まらない。
 特に人を捌く罪の量刑は、常に平等でなければならない。例えばいかなる罪にも大辟を用いず、と決めたのなら、王を殺した者に対してもそれがいかなる理由で行われたものであっても殺刑としてはいけないのである。
 それが法治国家としての大原則のはずなのだ。
 「劉王は、もう終わりにしようと思っているのかもしれない」
 ゆっくりとした自殺。くしの歯が抜けるように少しずつ自分の作った体制を壊して行きながら、天がどうするかを見ているのかもしれない。
 いずれ柳の麒麟が失道するだろう。そうなれば、国の終焉ははっきりとしたものとなる。そうなった時に、劉王は、あるいは柳に仕える者たちはいかなる選択をするのだろうか。
 予王は、国の終わりを悟って自ら命を天に返した。
 塙王は、自分の限界を悟って隣国を巻き添えにしようとした。
 峯王は、国の行く先を憂えた臣らによって弑虐された。
 どの終わりも、悲しみと苦しみが付きまとう。
 できれば永遠に来てほしくない日であった。
 「雁では、すでに年の初めに柳との国境に掌固(けいび)を置いていると聞く。延王は、柳が倒れるのは間近だと考えておいでなのだろう」
 「国が倒れるのが人々の目にも明らかになれば、王が崩御する前に国を離れようとする者達もいますから」
 「また、荒民がでるな」
 「我国でも何らかの対策を立てておく必要がございます。柳は雁と恭という安定した国と隣接していますから、そちらを頼る者が多いとは予想されますが、安定した国というのはなにぶんにも物価も高いですからね。それを厭って慶に流れてくる者もいないことはないでしょう」
 「巧からの荒民も増えているからな。―――とはいえ、巧の荒民は奏や雁が積極的に保護してくれているから、数で言えば大分少ないんだが」
 本心を言えば、国が倒れないような援助が、あるいは国が倒れても国を逃げ出さなくて済むような手立てがあれば、とはおもうが、慶はまだ自国のこともままならない状態なのだ。したいと思ってもできないことばかりだった。
 「ない物ねだりしてもしょうがないな。できることから始めなければ」
 陽子が呟いて、浩瀚、と声をかける。
 「雁とも連絡を取り合って、柳の様子をもう少し詳しく調べてくれ。それから、今後予想されることを検討し、対策を練ろう」
 「御意」
 浩瀚は拱手すると、では早速に、と言い置いて部屋を出ていく。
 その後ろ姿を見送って、陽子は今一度、会ったことのない劉王の心境に思いを馳せたのだった。


 
 
     
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