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「 楼 」 〜1〜
 


 険しい峠を汗だくになって登っているときはまだ迷いがあった。
 粗末な衣をかさねた襟元から、自らの甘酸っぱい汗の臭いが鼻腔をくすぐるのにつけ、我ながら、まるで陽光が溶けたようだと思った。
 陽に光る汗、びっしょりと衣をぬらすこの同じ汗が、建物の中ではとってかわった様子で淫靡に流されることになるのだと思うと、幸せな人生などとうにあきらめていたはずであったのに、それでもなにか途方もなく取り返しのつかないことを、愚かなことをしているような気になった。
 しかし、仲介の男にかかえられるようにして(逃げぬように)堯天の門をくぐった時点ではもう、七割がた気持ちは落ち着いていた。陽がかげって、崩れたひさしにさえぎられた夕靄さえ筋のようにしか見えぬ空のありさまに、にごった川のように気持ちが沈んだ。
 やがて、待ち合わせの路地裏の茶屋で、ずいぶんと険しい顔をした初老の男が現れたが、さしたる感慨もなくただ座って、目の前で金銭のやりとりがされるのを黙って眺めていた。ずた袋につつまれたあのわずかばかりの金が、太陽の下で香る汗をかくことのできた自分の、最後の代価だ。これからはもう昼日中に汗をかくことはないだろう。
 初老の男は、ついて来い、と合図をよこすと、もう振り返りもせずに、くねくねと曲がりくねる細い道を迷いのない足取りで登っていった。石畳さえしいていないむき出しの土の道は、昨夜降った雨のなごりをとどめて、あちらこちらがぬかるんでいた。すぐに布靴に泥が沁みてぐずぐずになった。
 半刻も歩いたろうか、やがて二人はずいぶんと古い2階建ての建物に着いた。入り口には2本の柱がややかしいで立っている。雨ざらしにあちこち剥げ落ちてはいても、それはまちがえようもなく緑色をしていた。
ここが、これから、自分の暮らす家となる。
 汗はもうとうに引いていた。ぬれた泥靴の足跡を残しながら柱の奥へと踏み込むと、背後で下男が扉を閉めた。門とは思えぬほどずいぶんと軽い、木がきしむ音だけがした。その最後の響きが消える間際、目の裏がちかっと光った気がした。
 ―――楼を。
 わずかな後悔に似た思考の残滓が、風に揺れる煙のようにたわんで、ふっと消えた。
 楼を持ってくればよかった。
 視界が闇に包まれた。

 

 「さあ、できた」
 祥瓊は満足そうにちょっと後ろにさがって、己の作品を眺めた。
 正寝の庭の隅にこぢんまりと建っている、瀟洒なつくりの堂内である。八方の窓は開け放たれ、そこからみずみずしい芝生、縫うように蛇行する石畳、スイカズラやアオイなどが咲き乱れる様が切り取った絵のように輝いて見える。
 堂の真ん中にはかなり大きな円卓が置かれていて、そのぐるりを形・色ともにさまざまな華椅子が花弁のようにとり囲んでいた。
 鈴はくすっと笑って濡れた手をぬぐうと、ぽんと雑巾を籠に放り込んだ。友人が嬉しそうに見ているものにちょっと視線をおくって、さてお茶にしましょうか腰をあげた。なんだか喉が乾いちゃったわと喉元をさする。
 「お茶を飲みながら、それをあたしにもじっくり見せてちょうだい」
 待っててね、とたちまち軽い、ぱたぱたという足音が厨のほうへと小さく消えていった。
 祥瓊は、うーんと伸びをする。ひさしぶりに根をつめて、肩が凝っていた。
 吐息をつくと、ふと風にのって伸びざかりの青草がたてる湿った気配や、咲いたばかりの甘い花の香りが堂内に流れ込んでくるのに気づく。気持ちのよい初夏の午後だった。
 古くは王の散策の折のちょっとした休息所として使われていたらしいこの小堂が、今上の景王、陽子によって女官たちに払い下げられたのはつい数日前のことである。すでにいろいろ部屋があって使いきれないぐらいだから、よかったら正寝つきの女官たちの休憩所にでも使ってほしいとあてがってくれたのだった。
 「その方が堂も喜ぶだろう」
 陽子は彼女らしい闊達な笑顔で、皆でかこむ円卓や椅子など、適当な調度品まで整えてくれた。もったいなくもありがたい申し出にすっかり喜んだ女官たちは、さっそく堂の大掃除を敢行したあげく、さらに室内をさまざまな小物で飾り付けることに熱中した。なかでも、たったいま祥瓊が仕上げたばかりのものは、女官たち渾身の作品のひとつだった。いにしえより宮廷に仕えた女官のたしなみとして流行し、現在も根強い人気を誇っている、伝統の「緻世楼」である。両手で軽く持ち上がる程度の小さな木枠の中に、貴族の部屋やら寝殿やら、宮の大広間、庭などをミニチュアサイズで再現したものを「緻世楼」とよぶ。いかに精密にいかに本物そっくりに作り上げるか、また全体の構造や配置、バランスなどの品のよしあしを競って、かつてはひっきりなしに品評会も行われていたらしい。
 波乱の時代が長かった慶の宮殿では久しく途絶えていたものの、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻し始めた国政とともに、こういう官の間での流行や手遊びのたぐいが最近、雨後の筍のようににょきにょきと頭をもたげてきていた。
 男性の官吏の間では盤上遊戯、蹴鞠などの人気があり、同好の士を集っては、休廷日にあわせて小さな会合を開くことが多かった。一方の女官たちも大人しくしているわけがなく、このたびの堂の払い下げを契機に「緻世楼」を再開しようじゃないかと燃え立った。腕におぼえのある女官たちがそれぞれに一箱ずつ、思い思いの世界を箱に閉じ込めてつくり上げる。それを賜った堂内に展示し、こういう遊びはおそらく初めてであるだろう女王にご覧になっていただこうという趣向だ。
 祥瓊は、もとより何度か造った経験があること、手先が器用なこと、さらには範王に見込まれたその趣味のよさでもって是非にと請われて、部署違いながらも参戦することになった。
 鈴は、今回は見るだけだけれど次回からは面白そうだったらやってみようかな、だそうである。

 祥瓊の選んだ箱の主題は、「大学寮の一室」だった。
 手紙のやりとりは互いにしょっちゅうあるものの、立場上頻繁に会えるとはいいがたい陽子の親友の居室を、たまたま先日ふらりと遊びに来た延麒を問答無用にひっ捕まえて聞き出してきた。仔細にあわせて、できるだけそっくりに再現したものだ。陽子が見て、楽俊を思って和んでくれたらいい、と思っている。
 ちなみに、お菓子のひとつも与えられぬまま根掘り葉掘りと数刻にわたって尋問された延麒はというと「祥瓊怖い」と涙目で、挨拶もそこそこに玄英宮へと帰ってしまった。慈悲の麒麟もいい災難である。

 

 

 「おまちどう。今日はいい甘味が残ってたわ。さ、いただきましょ」
 鈴が茶道具一式に茶菓をそえた盆をささげて戻ってきた。
 女3人がよると姦しいというが、女2人だって顔ぶれによっては十二分にやかましい。たちまち茶を注いだり、俵に積まれた饅頭を物色したりと、ひとしきりさえずり合う声が堂内に響いた。
 「どう、これ」
 祥瓊が鈴に箱の感想を尋ねると、よくできてるわ、と感心したふうで鈴はうなづいた。
 間近に覗き込んでみると、棚に置かれた巻物や書物にきちんと砂粒ほどの字が書いてある。指先でつついみると、古紙の手触りのざらざらした感じまでが本物とそっくりで、思わず、まぁ、と吐息をついた。
 「いまにも楽俊がヒゲをそよそよしながら勉強に励んでいそうよ」
 「でしょ」
 得たりと祥瓊は得意げに微笑んで、豊かな胸をそらせた。この友人は大人びているようで意外なところで可愛らしい。こういうところが某禁軍将軍の心をいたくくすぐるのであろうと、またもくすっと笑いながら、鈴はほかの箱たちにも目をやった。
 全部で7個の箱が、互いにかぶらないようにうまい具合に並べてある。
 「他の皆さんの箱も、力作ぞろいねぇ」
 「ええ」
 箱の中にはとりどりな光景がちんまりと、生き生きと、あたかもそこに別の世界があるかのように広がっていた。
 例えば、役人の若妻の華やかな寝室があった。
 若い女が好みそうな暖色系の壁紙には、一面に葡萄の蔓の模様が描かれている。なよなよとした絹の帳、夫との夜の生活を想像させる大きめの榻。脱ぎ散らかした夜着は淡い桜色で、可愛らしい沓には小さな硝子玉がふんだんに刺しゅうされている。
 例えば、にぎやかな夏祭りの屋台があった。
 赤い雪洞が樹木の葉をぬって降るほどに飾られ、ほんのりと暖かい柔らかな光を放っている。箱の中はすでに薄く宵闇が訪れていた。小さな天蓋をはりめぐらせた露店の数々は、子供用の粘飴、串刺しの魚介を網の上に並べたもの、若い恋人たちがそろって眺めるのに程良い廉価な装身具、綿飴、お面、柑橘水など、実にさまざまだった。
 また、いったいどういった手法でか、箱内にしとしとと雨がふりそそいでいるものまであった。
 ツタが芸術的に這った生垣には星のような黄花をしとどに実らせた低木の茂みがあった。柔らかな下草に清楚な白い飛び石が置かれ、翡翠色の池には潤んだ水が漲っている。ところどころの波紋は雨だけではなく、虫か、あるいは魚がたてたものか。
 「これ、呪術?」
 すごいわ、と覗き込んで鈴が言う。
 「そうよ。なんだったかな、なんとかいう名前の石を使うの。雨の中にじゅうぶん放置して濡らしたその石を拾ってきて、小さく砕いて箱に入れるのよ。簡単な呪らしいけれど、私もよくは知らないわ」
 ふぅん、とまた覗き込んだところで、二人は「ん?」と同時に顔をあげて、窓の外を見やった。堂のすぐ表で、葉を揺らすような音がした。それにかぶさるように、けたたましく子供の悲鳴があがる。桂桂の声だった。
 「桂桂?」
 何事がおこったのかと、すぐさま外へと二人は飛び出した。初夏の日差しが目に刺さるようだ。
 堂へといたる石畳の脇に生えているクヌギの根元で、爪先立ちになりやっきになってとび跳ねている少年の姿があった。思い切り首をのけぞらして一心に木の上方を見上げている。
 「いったいどうしたの?まさか曲者?」
 「違う、陽子だよ、陽子」
 「・・・陽子がなんですって?」
 この国の最高権力者の御名に、少女二人は思わず梢を見上げた。三人が一様におんなじ角度で首をそらして目を凝らす。初夏の木は、隙間無くみっしりと青葉が生い茂っていて、地上からではそれらしい赤い物体などまったく見えない。少年は妖獣を捕獲しようとしている剛氏のような顔つきをしていた。
 「陽子がね、鳥の巣箱をかけるっていって木にのぼっていっちゃったんだ。僕、枝も細いしヤバいかなって、いちおう止めたんだ。・・けどね・・」
 「その先は言わなくていいわ。聞かなかったんでしょ、女王様は」
 うん、そう、とあっさり桂桂はうなづいた。鈴と祥瓊はそろってうなだれた。やっぱり。
 「さっきバキッって大きな音がしたの」
 「枝が折れたの?」
 「みたい。でもどこにぶらさがってるか、ここからじゃわかんない。どうしよう」
 「ああ大丈夫よ、陽子は落っこちたぐらいじゃ平気よ。折ってたたんで緻世楼につめこんだってまだ生きてるわよ・・たぶんだけど。こんな木に登るほうが悪いんだから」
 景の麒麟がきいたら卒倒しそうなことをさらりと言い放ち、祥瓊は上に向かって叫んだ。
 「陽子!さっさと落ちていらっしゃい!」
 一瞬の間をおいて、どこかかなり上の方角からひとこと、どいて!と怒鳴る女王様のやんごとなき御声が響いた。次いで、ざざざざと枝葉の鳴るものすごい音とともに、紐につかまった赤い生き物が空からつぶてのごとく降ってきた。
 「あいて!」
 落下の勢いあまって派手にしりもちをついた陽子は、そのままごろんと地面に転がって腰をおさえている。腰紐がほどけて、衣の前がこれ以上ないぐらいにはだけている。
 腰紐をどこぞの枝にくくりつけて、それを握って飛び降りたということらしいが、思っていたよりもやや長すぎたらしい。地面に足がついても手の中の紐にはまだ若干の余裕があり、勢いをとめる役にはたたなかったようだ。
 「陽子ったら!大丈夫?!」
 「すまん」
 鈴の手が慌しく全身に触れ、骨折や出血などないかをざっと確認しているのを、陽子は転がったまま大人しく待った。
 「骨は大丈夫そうだけど。足は?」
 「痛い」
 「そりゃあね。痒くはないでしょうよ」
 祥瓊は手厳しい。首をすくめて陽子は、すみませんと小声であやまった。桂桂が顔中に心配という文字を浮かべてのぞきこんでくるのに、片目をつぶってみせる。
 「巣箱はちゃんと設置できたよ。いつでも鳥さんが入って使えるぞ」
 「やったね」
 「うん。水と餌も置いておいた」
 鈴が陽子に手を貸して座らせた。姿勢をかえると左足に疼痛がはしり、いたたたと口の中でうめく。
 どうやら足首をひねったようで、膨らんで発赤し始めている。鈴は、陽子のはだけた上衣の前を「あなたね、一応女の子でしょ」とかきあわせてやりながら首をふった。
 「何の鳥なのよ?餌ぐらい地面に撒いておけばいいでしょうに」
 「宮庭にくずなんて撒いたら間違いなく庭師に抹殺されるよ。瑠璃色でちっちゃくて可愛い鳥がよく来るんだ」
 な、桂桂、と言いながら、陽子は口に入りこんだ葉っぱを漢前にぺっと吐き出した。鈴と祥瓊は口をへの字に曲げる。
 「それと鸞のためにも。ほら、ここのところ雁に飛ばしたり範に飛ばしたりで、けっこう酷使したじゃないか。こないだ梧桐宮に返却するときに苦情を言われちゃって・・ここまで疲れきるほど使われるのなら、どこかでせめて休憩させてあげてください、って」
 「あらまあ」
 普段は穏やかで忠実な梧桐宮の官吏も、こと鸞のことになると、貴人を前にして歯に衣をきせずに言いたいことを言う。陽子が王になってからというもの、今までの御代の数倍の勢いで怒涛のごとく鳥を飛ばすので、大切に預かって飼育してきた官吏たちは恐れをなして、くたくたになった鳥たちの世話に日々奔走している。
 「あちこちの州城にも巣箱を設置してもらうよう、これから頼もうかと思うんだけど。手始めにまず自分の宮の庭からつけてみようかと思ってさ。どこがいいかなって桂桂と相談して、この木にしたんだ」
 「ああそう。だからって陽子が自分でつけることはないでしょうに。だれぞにやらせたら・・」
 ぷりぷりと怒る友人たちに、悪かった、と女王様が舌を出す。明らかにあまり悪いと思ってない御様子である。
 「だいたい陽子、あなた刺繍の練習をしていたんじゃないの?」
 「うっ・・うん。でもさ、難しいんだ、あれ」
 「飽きたのね」
 「いやまあ、なんていうかな、その」
 女官たちが緻世楼に凝っているという噂を聞いた陽子はつい、自分も貴婦人のたしなみとやらを何かやってみたいような気になった。確実に一時の気の迷いであったが、うっかり口に出して呟いてしまったために大事になった。たまたまその場にいあわせたのは間が悪いことに春官長であったため、この機会を逃すまじ、どうぞぜひ主上におかれては刺繍なんぞやってみられてはいかがかと、道具一式をすでに準備万端整えた上で進言してきたのが、つい一昨日のことである。
 いやいや刺繍みたいな椅子にずっと座っている作業は自分にはちょっと・・とすでに逃げ腰の陽子に、日ごろから主を深く敬愛してはいるものの、女性らしさという点に関してだけは甚大な不満を持つ春官長は、頑として一歩もひかなかった。
 やってみられるとなかなか面白うございますよ、さあさあ、そんな部屋の隅にお逃げにならずこちらにお座りくださいませ主上、ああ本棚の上に登っても無駄でもございますよ、ほら、ここにもうちゃんと手本もございますから・・と強引に言い放つと、さっさと教師まで連れてきて素早く出口をふさいだ。そうして陽子を監禁するという一大事業に成功したのだった。
 執務の空き時間を見つけては、教師に監視されつつ慣れぬ針と糸相手に格闘していた陽子だが、部屋で大人しく座っているはずの尊いお体がいつの間にやら木から落っこちてくる事態をかんがみるに、はやくも限界の垣根をお越えになった、ということのようである。
 木の下の二人の少女と一人の少年はそろってため息をついた。
 「・・とにかく。その足じゃ歩けないでしょ。虎嘯か誰か呼んでくるわ」
 鈴が駆けだそうとしたとき、それには及ばぬ、と落ち着きはらった低い声が聞こえた。
 さして強い語調でもないのに、その場の空気が瞬時にぴんと張り詰める。
 石畳の先のうっそうと茂った紫陽花のひとむらが揺れ、その影から濃い紫色の官服姿のすらりとした男が現れた。
 「―――げ。浩瀚」
 己の腹心の臣下の登場に、女王様はあたかも青汁薬草湯を口に含んだような顔をなさった。浩瀚の背後には付き従う禁軍左将軍の姿もある。冢宰はいかにも温厚に微笑んでいるが、目が全然笑っていなかった。この男のこういう優しい笑顔は非常に曲者であることを、この場に居る誰もがよく知っていた。
 「これは主上、お探し申し上げておりました」
 「すまんな、ちょっと休憩を・・」
 「おやおや。お怪我をなさったご様子ですが・・はて、この石畳めに御足を取られなさったのでしょうか。まさか、木に登ったなど、そんなとんでもないことはいくら主上でもなさいませんでしょうからね」
 「ははは」
 笑うしかない。
 歩みを速めるでもなく淡々と近づいてきた浩瀚は、相変わらずその怜悧な顔ににこにこと微笑みを浮かべながら柔らかな口調で言った。
 「ご報告したい大事なことがございましたので。これ、ここに書簡が」
 ひらひらと優雅に手元の巻物を振ってみせる。
 「部下よりの報告書にございます。午後の政務にはこの木の下でなさるおつもりだったのですか。そういえば、たいそう心地よい風も吹いておりますね」
 「なんの報告だっけ」
 「例の件でございます」
 「ああ!待ってたぞ。大儀だったな」
 「ここでご報告させていただいてもかまいませんが、そうなさいますか」
 「いや、正寝に戻る。大事な話だし、足も痛い」
 「御足が痛い、と。それは大変でございます。では僭越ながら失礼をば」
 いきなり有無を言わさず女王の玉体を両の腕に抱えあげた。
 祥瓊がぎょっと目をみはり、鈴はあらまぁと口に手をあてた。桂桂は、浩瀚さま、あんがい力持ちだなぁと思った。陽子はひっと息を呑んだまま固まっている。力仕事こそ専門分野の桓魋はあらぬ方向を見あげたままで、自分がかわりましょうなどとはこれっぽちも言おうとしない。
 「拙めが正寝までお連れ申しましょう。詳しい経緯については道中にてお聞かせ願います」
 氷のような声音で宣言すると、陽子は観念して両手をあげた。
 「りょ、了解・・」
 無念だ、桂桂またな、と小さく手を振り、無駄だと知りつつも友人二人に助けを求める懇願の視線をあきらめ悪ってみたが、友人二人は急に部屋の掃除がしたくなった様子で、ハタキはどこだったかしらなどと言いながら空を見上げている。
 女王と冢宰は回廊へと去っていった。将軍はひょいと肩をすくめてみせると、祥瓊には軽くウインクを送り、鈴と桂桂には手を振って、見事な身のこなしで貴人たちの後を追った。
 お姫様だっこね、と鈴が言った。お姫様だっこよ、と祥瓊も言う。
 「浩瀚さまったら、宮中でなかなか大胆なことをなさるわね」
 「なさるわね」
 下官に見られてへんな噂にならなきゃいいけどね。祥瓊は内心でちょっと呟いた。将軍のウインク効果のせいだろうか、軽く頬が紅潮している。
 「まぁ、陽子は自業自得よ」
 かの冢宰と女王の間柄が君主と臣下というだけではない、あいまいで微妙な空気と距離感をはらみ出したのはいったいいつの頃だったか。敏感な祥瓊はいちはやくそれに気づいたが、肝心の陽子はさっぱり自覚がないようだった。さらに、そういうことにあまり関心のない鈴にいたってはまるきり桂桂なみだ。
 「あの鈍感娘、ちっとはしぼられたらいいわ。ねぇ、鈴。・・・ちょっと鈴ったら。何してるの?」
 鈴は、芝生の上に蛇のようにくたくたとしおれている陽子の帯紐を拾い上げてしげしげと眺めていた。片端を手に巻きつけ、木の上を見上げて長さを測っている。
 「いや、帯紐って案外長いものなんだなぁと思って。あたしたちの帯って、こんなに長かったかしら。ねぇ?」
 「帯?知らないわよ」
 なんだか自分だけが気を揉んでいるようで、馬鹿馬鹿しくなった。
 「それ、新調したやつじゃなくて御庫の衣装の使い回しでしょ?なら、何代か前の景王が巨体だったんじゃない」
 「祥瓊ったら」
 「なによ」
 「巨体はないわ。せめて豊満とか」
 「豊満だって意味は同じでしょ。・・でもそうね・・」
 祥瓊と鈴は端をぶらぶらさせながら、うーんと唸った。
 「たしかにこの帯紐は長いわねぇ・・」
 ぶらぶらさせるたびに、頭上に消えているもう一方の端が葉を揺すってさわさわと音を立てる。桂桂は困ったように、紐と、葉っぱと、隠れて見えない巣箱と、陽子と冢宰の去っていった石畳とをきょろきょろ交互に見つめていた。

 陽子は皺を寄せていた。眉と眉の間、鼻の付け根のちょっと上のところ。おかげで可愛い顔がすっかりくしゃくしゃになっている。腰には、さきほどといてしまった帯紐のかわりに、真新しい緋色の帯がきちんと巻かれていて、榻に横向きに延べられた片足には白い包帯がぐるぐると巻いてある。卓上に白磁のすり鉢と湯が置かれ、部屋中につんと薬草の臭いがたちこめていた。
 優秀な冢宰は瘍医が退出するまでにもたいそう穏やかだったものの、手当てが済んで女官も下がり、二人だけになったとたんにさらに気味が悪いほど愛想が良くなった。そのほがらかな言葉遣いと完璧な角度で上がっている綺麗な口角に、女王様の目鼻立ちはすっかりくしゃくしゃする羽目になった。
 「そのエグい笑いをひっこめてくれ。悪かった。巣箱を設置していただけだ。落ちたのは予想外だ」
 さようでしょうとも、と浩瀚は莞爾と笑った。白い歯が眩しい。それからふと真顔に戻ると、手にした書類をばさりと振った。陽子はびくっと身をすくませた。
 「先日の件で、至急にご報告さしあげるための書類をお持ちしたところが、お姿がお部屋に皆目見当たらないことも、拙めが心配してそこら中をお探し申し上げたことも、主上におかれては瑣末の雑事であられることでしょう。木から落ちるのにお忙しかったことも、鳥と戯れておいでたったのも、拙めの愚考の及ばぬ深遠なお考えがあってのご行動であることは十分承知しております」
 「・・・おまえのその口の悪さは、いったい誰に似たのだろうな。母御前か?」
 「師でございます」
 「えっ。遠甫か?」
 「誰とははっきり申しておりませんよ」
 「・・・。仕事をさぼって悪かった。謝るからさ、だからその書類」
 これからは遠甫も要注意だと内心メモをとりながら、書類とやらを見せてくれ、と手をのべたが、浩瀚は取り澄ました顔で書類を持った腕ごと天井に高く上げた。
 「浩瀚!」
 「拙が怒っておりますのは別のことです。まあそれもあるにありますが、サボりはいつものことであらせられる」
「だろう。いつものことじゃないか」
 「胸をはっておっしゃらないでいただきたい。拙めの怒りは、御身を無為に傷められた軽挙についてでございますよ、ほら」
 「いっ」
 包帯を巻かれた女王の足を指先で軽くはじく。痛い、と陽子がわめく。
 「このような御足でいかになさるおつもりか。たしか本日はこれから、夕の一刻だけ、堯天に降りて鈴たちに期間限定の饅頭を買ってくると仰せだったのではなかったですか」
 「そんなことよくおぼえているな、おまえ」
 化け物か、とまじまじと傍らのすらりとした男を見上げる。確かにそんなことを言っていた気もするが、本人もすっかり忘れていた。なぜといってそれはもう数週間も前のこと、執務の間の休憩時間に、お茶をすすりながらたわむれに呟いた戯言だったからだ。さらに本日、木から落ちた時点で綺麗さっぱり頭から抜けてしまった。
 私の記憶力を侮っていただいてはこまります、と傍らの椅子を勝手にひっぱってきて、失礼しましてと腰をかけると、ようやく浩瀚は女王に書類を手渡した。
 破天荒な主にお仕えして数年、絵に描いたような宮廷官吏である浩瀚をしてすでに、堅苦しい儀礼やら優美な所作やらをこの女王の前ではすっ飛ばす癖がついている。
 「せっかく今から息抜きのご予定が、この御足ではすぐには歩けませんでしょう。長くはかからぬでしょうが、腫れがひくまでにはあと半刻ほどは必要かと。残念でございましたね」
 「うん」
 「自業自得でいらっしゃる」
 「まったくだ」
 「では主上。御足の腫れがひくまで例の件の御報告をさせていただいてよろしゅうございますか」
 「うん。・・その、すまなかったな」
 わずかに皺をゆるめ、おそるおそる見上げてくる女王の眉間にむかって、浩瀚はこの上なく慇懃に一礼してから姿勢を改め・・ふっと力を抜いた。
 「もう怒ってないな?そうこなくちゃ。さあ残念で自業自得な女と執務をしよう」
 浩瀚はこめかみを押さえつつ、書類を指差した。
 「結論から申しますと、情勢は灰色です」
 「黒とも白ともつかぬと言うか」
 「御意」
 「難儀だな」
 陽子は浩瀚と額を突き合わせるようにして、熱心に書類を覗き込んだ。やわらかい低音の楽器にも似た声音が、室内に流れる。浩瀚の声は男にしてはやや柔らかすぎるほどに滑らかである。蓬莱のチェロに似た深みを帯びたその音が、陽子は好きだった。
 午後の日差しが先ほどよりもすこしばかり斜めにかしいで、窓辺の木枠の隙間からゆるりと差し込んでくる。滝の水を含んだ薫風がひとかたまりに吹きこんで、黒と赤の髪を揺らした。床の上で木漏れ日の丸が波紋のように重なり合って騒いでいる。浩瀚のやわらかな声は、声とは正反対に、物騒な内容をさらさらと紡いでいく。


 村人が突如、生ける屍のごとくに成り果てる―――
 それは最初、揚州の青海に面した港町でおこった。
 次いで揚州から麦州へと抜けていく山道沿いの邑、麦州の青海沿いの漁村、征州へいたる山脈の麓を迂回するその山間の邑などが続いたという。季節ごとに各州をめぐって訪ねて歩く行商人達が、今年も同じ邑へ行ってみたところが、門を入ったというのに通りには誰もいない。畑や水田はほったらかし、家畜はいるにはいるけれども、逃げ出して勝手にそこらへんをうろうろしていたり、とうにどこかへ去って藁と柵だけ残っていたりする。はて、と思って家の中をのぞいてみると、村人はいる。
 「家族全員ちゃんとそろって堂内にいるんだそうでございます」
 二月程前、はじめてその事由を主に奏上した際、浩瀚は苦い茶でも含んだような顔つきで訥々とそう述べた。
 「ひょっとして疫病とか?」
 「いえ、たしかに最初は商人も疫病を疑ったようですが。・・それにしては死んだ者が見当たらないし、家畜は元気そうだし、室内に空気がよどんだりもしていない。熱もなければ肌に斑点もなく、毛がぬけたり吐血したりした様子がないのでございます」
 ただ、ひたすら痩せこけていて無動、目は開いてはいるものの、虚ろで焦点があっておらず、声をかけるとけだるげに振り向く者も数名いたそうで、だから耳は聞こえているらしい。わかったのはそれだけだった、と浩瀚は言った。書類には略式の地図ものっていた。何箇所か朱色で×印がつけてあるのは、その邑の位置だ。
 ×印は青海よりの港からはじまって、主だった街道はなぜか通らずに、細い山道ばかりを選んで徐々に北上し、麦州へといたっている。このまま行くと、次は山脈を迂回して建州へ入るのか、あるいは堯天のある瑛州へと至るのかもしれない。大きな街にはまだ×印がついていないのが、なにやら判然としなかった。
 「行商人は気味が悪くなってすぐに近隣の役所に届け出たそうですが、役所にしたところで当初は何がなにやらさっぱり原因がわからず困惑したそうです。一応、役人を派遣して里人たちを敷地の一角に保護し、薬師を集めて手当てをさせてはいるそうですが・・」
 身体は衰弱以外に特に異常は見当たらず、ただ覇気というか、生気がまるごと抜けていて枯木のようだというのが共通の症状である。そして、その一週間ほどのちには相次いで同じような報告がそのほかの邑からも多数寄せられた。邑がひとつまるごと―――まるで生きながら眠っているような状態でいくつも発見されている、という。その時点で、各地に潜伏している浩瀚の手の者たちによって仔細な情報がまとめられ、文に託されて堯天へと上がってきた。
 ―――とにかく原因の確定を急げ。
 浩瀚の指示は簡潔だった。
 まだほんの小さないくつかの邑だけのことで人命が失われてもいないし、大きな被害にこそいたっていないが、これ以上拡大すると荒れた土地が増えるのはもちろん、秋の収穫にも影響が出る恐れもある。病気でなければ何らかの呪術が介在している可能性あり、だとしたら誰が何の目的でやっていることなのか、今のうちに突き止める必要があった。
 さらに、ごく些細ではあるが、わずかに手がかりらしき追情報が寄せられたのが、つい今朝のことだった。早急に、浩瀚がわかりやすく清書しなおしたものが、いま陽子がのぞきこんでいるこの書類である。
 「邑がそんな状態になる前には、必ず一人の見慣れない男が邑に訪れ、数日間逗留している・・・って。うーん。これってどうなんだろう」
 陽子は唸った。あまりに小さな情報だ。浩瀚は横に添えてある似顔絵を指差した。
 茶色い髪のどこといって特徴のない中年のさえない男で、粗末な着衣に素足にわらじ、そして。
 「背に、大量の箱枕をかかえているのだとか」
 「箱枕ってなんだ」
 「宮中の絹張りの枕とは違って、庶民が旅館などで使うものです。固くて四角い、木で枠を組んでつくった枕ですよ」
 「ああ、あれね」
 陽子も、登極前の旅において何度かその枕で眠ったことがあった。固いので、たたんだ手ぬぐいを置いたり、毛布の端でくるんだりしてから頭をのせるが、のせてしまえば意外に寝心地はさほど悪くはない。
 「その男は箱枕売りの行商人ってこと?」
 「さて、そうなりますかどうか・・だいたいが箱枕というのは行商で扱うにしてはいささか妙な品ではあるのです。別に地域ごとに寝心地の違う枕があるというわけでもございませんしね」
 「そうなの?」
 「はい。なにより、街ではともかく、山間の邑などでは裏山から木を切り出してきて自分達で作る方が、年に一度来るか来ないかの行商人からわざわざ買うよりもよほど手っ取り早いのです。行商人というのは、普段手に入らないようなものを持ってくるからこそ、ありがたがられるし、商売も成り立つわけですので」
 「なるほど。そりゃそうか」
 「ええ。ですから、」
 妙なのです・・と浩瀚は呟いた。
 門番もおや、変わった荷物だ・・と思ったために覚えていたそうだ。旅人の中にはもちろん行商人は多々いるわけなので、大荷物を背負っている者はめずらしくない。しかし、むきだしの箱枕をただ紐でつなげただけのものを亀の甲羅のようにかかえ、わらじひとつで難儀な山道を辿る酔狂者はあまりいない。
特徴のない地味な容姿にもかかわらず、背の荷物が目をひいて男はたいてい、門番や村の近くの峠の茶屋の主人などの目にとまっていた。
 「売るのではないとしたら、その箱枕は、何のために持ち歩いているんだろう」
 「御意」
 浩瀚は軽く頭を下げた。
 「問題は、邑のひとたちが廃人になってしまうのと、その必ず現れるという男との間に因果関係があるかどうかです。もしも男の訪問が必然であるならば、箱枕もおそらくは何かの用途に使われているのでしょう」
 「病気になることと箱枕の共通点って何かある?・・寝ることとかかな。それぐらいしか思いつかないけど」
 さようでございますね、と浩瀚は書類をめくった。寝ること、たしかに。
 「ただ各州で目撃されたその男は同一人物なのか、あるいは似ているだけで別の者たちなのかも現時点では不明。確定はできておりません」
 そこが白とも黒ともつかないとこなんだな、と陽子は浩瀚を見上げた。
 「別の者たちとなると、同じ目的を持った者たちの集団がいるということになるのか」
 「そうですね」
 「肝心の目的がさっぱりわからんな。邑を眠らせて、里人を廃人みたいにしてしまって、いったい何の得があるんだろう」
 「得かどうかはわかりませんが、とりあえず民衆の不安は煽りますね」
 浩瀚はうなづいた。陽子はそんな彼の表情をすばやく読んだ。
 「州候の反乱?」
 「・・男はいまのところ、一箇所にとどまらず州から州へ移動しておりますからね」
 「州から州へ、か。もしかしたら州候たちが互いにつるんでる?それは・・どうだろうなあ」
 掌をそのまますべらせ、すべすべした手触りの絹の覆い布をなでる。しばし考え込んでいたが、やがて陽子はきっぱりと言った。
 「一昨年、去年と慶は豊作だった。河川の敷設も現在進行形ですすんでる。雁との貿易も順調。客観的に見て風はどっちかというと赤楽朝肯定の色合いに吹いていると思う。あえてそれに逆らって州侯が動くには、あまり適切な時期とは思えない」
 「はい。それに、動くとしたら州侯はそもそも単独でことをなすでしょう。王朝をひっくり返す目的でもないかぎり、連携をとる利点はございませんから」
 「うん。乱にしてはおかしい。実際に男がしている行動といったら小さな邑をぽつぽつ眠らせるだけ、民意の撹乱にしても即効性がない。乱はある意味、速さと勢いと、あとは明確な目標が必要だから」
 「ちぐはぐですか」
 「そう。意図も不明だが、とってる方法も違和感がないか」
 「はい」
 「私が思ったようなことは、とうにおまえも考えたはずだ。何かほかに何かあるのだろう?」
 あるいは、と浩瀚は軽く頭を下げた。陽子が目線で続きを促すと、あるいは、ともう一度言った。これは拙めの考えでしかありませんが・・
 「が?」
 男は、ただ単に移動しやすい道を通っているだけかもしれませんね、と浩瀚は言った。
 「どういうこと?」
 「さて。拙にも、今のところはなにがなにやらさっぱり、でございます」
 「わかったよ。まだ私に話す段階ではないんだな。無理に言わなくていい」
 浩瀚は一瞬だけ目を閉じてから、うなづいた。陽子はおや、と視線を送ったが、右足の包帯の端がほどけているのをみつけて、すぐにそっちを結ぶほうに気を取られた。
 「まかせるよ。ただ、新しい情報がわかったら、またすぐに教えてほしい」
 「もちろんでございます」
 「それとおまえのことだから手抜かりはないと思うけど、里人の手当てをする薬師の手がたりないようだったら、景麒に言って瑛州の瘍医と・・あと、そうだな、念のために呪具や呪術に詳しい冬官を回すよう、頼んでくれないか」
 「かしこまりまして」
 陽子はおそるおそる、包帯の巻かれた足を下に下ろした。わずかに力を入れてみる。先ほどよりはだいぶマシなようだった。じんと痺れた気持ちの悪さはまだあるが、痛みそのものは減っている。ゆっくりと両足を踏みしめ、榻から立ち上がる。手すりから手を離して万歳をすると、嬉しそうに笑った。
 「お。立てたぞ」
 「さすがは主上。もう少しかかるかと思いましたが。まるで馬なみの回復力でいらっしゃる」
 馬はないだろう、とせっかく笑ったばかりのお顔が再びくしゃくしゃに戻る。困ったことに、このくるくるとよく動く見飽きない万華鏡を間近で覗き込むことに中毒し始めている自分を、浩瀚はすでにうすうす自覚していた。
 「続報が入り次第、またご報告させていただきます」
 「ああ。死者が出ないうちになんとかできるといいんだけど」
 拙めを誰だとお思いです、と鋭利でならした男は不敵に笑った。邑から死者など出させはしませんとも。ならいい、まかせる、と陽子も笑う。
 「ところで主上。今日は無理かと思っておりましたが、どうやらまだ店の閉店時間に間に合うのではありませんか?その馬なみの・・失礼、小鹿なみの脚力をお生かしになって、やはり堯天へ降りられてはいかがです。鈴や祥瓊に団子を買いに」
 「へっ?」
 世にも珍しい楽の音を耳にした気がした。丸々と目を見開くが、有能な冢宰はただ穏やかに微笑んでいるだけだ。大きな翠の目を数度瞬かせて、おそるおそるたずねてみる。
 「なんと言った。もう一度言ってくれ」
 「堯天へ行ってらっしゃいませ」
 「ど、どうした浩瀚。熱でもあるのか。落ちたものでも食ったのか。いきなり気持ち悪いじゃないか」
 新種の毛虫でも見つけたような女王の様子に、しかし浩瀚はさわやかな目元を崩さなかった。
 「はて妙なことをおっしゃる。本日はもう、主上の裁可をいただくものにはすべて御璽をいただいております―――さきほどの件については、新しい情報が入らない限り、今できることは特にございませんよ」
 「まあそうだけどさ」
 再度どうぞと強くうながされて、まだ納得のいかぬままに首をかしげつつ、おぼつかない足取りで数歩床を踏みしめてみる。短い距離ならなんとか歩けそうではあった。
 陽子はちらりと浩瀚に盗み見た。にこやかなだけで何を考えているのかさっぱりわからない、いつものすました男の顔だ。
 そういえば、とふと思い出したように浩瀚は何気なく続けた。
 「ここ最近、女官たちは緻世楼作りに熱中しているそうでございますね。主上はもうご覧になられましたか」
 「そうそう、みなが力作を用意してくれているみたいだよ。もうどれもほとんど完成したらしい。残念ながら私はまだ見ていないんだが・・」
 「青い小鳥のための巣箱設置の方にお忙しかったのですよね。ええ、わかります」
 「嫌味な奴だな」
 「恐悦至極」
 「褒めてないぞ」
 それはそれは、と浩瀚は目を細め、ここでまた意外なことを言った。では、先に拙めが拝見させていただいてもよろしゅうございますか。
 「えっ。そりゃあ、よろしゅうござるけど」
 陽子は心底驚いた。よりによって、この男には一番興味のなさそうな分野だと思っていたのだが。
 いや案外、こういうのがお人形遊びとかが好きなタイプなのかもしれない、と女王様はこっそりと失礼なことを思った。
 禁苑の小堂に置いてあるからよかったら見ておいで、と言うと、浩瀚は黙って静かに拱手した。
 「さあ、団子屋が閉まらないうちにお急ぎください。それといつものことですが、忘れずに夕餉までには必ずお戻りくださいますよう」
 「団子屋じゃなくて月餅屋だよ」
 「どちらでもよろしい。そういえば主上。今日はもう瑠璃色の小鳥は禁苑に姿を見せたのでしょうか」
 「ああもう小鳥小鳥しつこいな、おまえも!今日はまだ見てないよ。巣箱には来てるかもしれないが」
 「さようで。ではいってらっしゃいませ。拙めはこれにてお先に下がらせていただきます」
 この上なく優雅に腰をかがめると礼をとり、水の上を流れ下るようにするりと部屋を出ていく濃紫の背中を、陽子は何故か目が離せずじっと見送った。男の腰に巻かれた飾り帯の先端で揺れている玉。残照をはじいて円満に青く澄んだそれが戸口の衝立にかすめ、しゃん、と澄んだ残響をうんだ。
 団子じゃなくて月餅だ、と呟いてみるが声はもう相手には届かない。
 細身だけれど、思ったよりも広いがっしりとした背中だった。いつもは彼の表情や声にばかり気を取られて、無防備な背中をしげしげと眺めるなどということは、実は初めてであることに陽子は気がついた。初めて見る端正な背中はみるみる小さい紫の点になり、回廊の角を曲がってふっと消えた。とたん、なぜだかわからぬままに、突然陽子はさみしくなった。
 「なんなんだ」
 妙な寂寥感を振り払おうと、己のほっぺたを勢いよく数度はたく。よし、と気合を入れる。腰に手を当てて、お得意の仁王立ちのポーズをとってみると、あいまいな揺らぎはかすみと消えいく。もういつもの陽子に戻っていた。扉の向こうに首をつきだし、相棒の居所を探る。
 「虎嘯、いる?」
 「おう」
 「ついてきてくれないか。堯天に行くんだ」
 「そりゃいい。退屈してたんだ」
 室外にじっとたたずんでいた大男が、屈託のない笑顔をひょいとのぞかせ、にっと笑った。
 回廊の遠くの方で、方々、まもなく夕灯の先触れ火が参ります、と府内にふれて回る女官の声が、明度をわずかに下げはじめた窓の向こうから、衣擦れと共にと聞こえてきた。


 
 
つづく
 
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