| TOP | 小説 | イラスト | 雑記 | リンク | 拍手

     
 
「 楼 」 〜2〜
 

 夕暮れ時に賑わう堯天の大通りは、陽子のお気に入りの光景のひとつだった。
 傾いていく太陽の光はよく練った飴色に粘って、石畳や屋台や軒をつらねた店の看板、金の房飾りのついた朱色の雪洞にと、どれこれ選ばず遠慮なくからみついてくる。通りを行きかう人々の頬や背、背を覆う籠、手に持った布地の包みにも、煩雑な音とともに陽の照りがからんでいる。
 夕暮れの陽光はなぜにこうもとろりとやわらかく滲むのだろう。
 陽子はたわむれに口を開け、桃色の柔らかな舌にねばる陽の雫を受けた。こころなしか甘い気がするのが不思議だ。
 斜陽にあぶられて、街は甘く香ばしい色彩に染まっている。
 虹色のねじり飴と、蒸かしたての月餅がやまほど入った袋を手に、陽子はいたくごきげんだった。袋の口からはまだぽっぽっと湯気が出ていて、甘い香りが鼻先をくすぐる。両手で包んだ布ごしに、ちょっと湿った温もりがほどよく伝わってくる。持とうか、と虎嘯が言ってくれたけど、持ちたいからいいんだ、と断った。温かくて甘いものは抱いているだけで心地良い。
 さきほどの浩瀚の報告はどうにも気になる内容で、夕暮れどきのこの陽光のように脳裏にからみついてとれてくれないけれども、それでもこうして甘いものを抱えていると、少しだけ幸せな気分になれる。役得とばかりにひとつだけ失敬した飴を口に放りこむと、口中いっぱいに薄荷の香りが広がった。微風を受けると、すーすーとして気持ちが良かった。虎嘯にもひとつ差し出してみたけれども、俺はいらん、苦手だからなと笑われた。賄賂作戦は失敗である。
 「なんだ。まだどこか寄り道したいところでもあるのか」
 思わず舌を出すと、足元で、勝手についてきた班渠がくつくつ笑った。
 「バレたか」
 「そりゃな。おまえはわかりやすいから」
 「あはは。まいった」
 で、どこなんだ、少しだけなら付き合ってもいいぜと片目をつぶった物分りの良い大僕に、正直に枕屋さんか布屋さん、と答えた。
 「虎嘯、ここらへんでそんな店、知ってる?」
 「さて枕屋、なぁ・・」
 顎をなでながら大男はしばし考えこんだ。
 「高い枕か?それとも安物専門か」
 「安いほう。四角くて固い木のやつがいいんだ」
 「なら、大通りじゃなくて路地裏とかの方がいいだろうな。もう少し行った横手に寝具通りって細い通りがあるから、行ってみるか。布屋のほうは・・すまんな、ちょっと俺もわからん。でもおまえが布を見たいなんて珍しいな」
 「う・・・その、私は刺繍をはじめただろう。それで、ちょっとな」
 「ふぅん。明日は雨だな」
 「うるさい。とりあえず枕屋だけでいいや」
 「よし行くか」
 点心ばかりを売っている気の良いおやじの屋台を横目で見つつ、挨拶だけして通り過ぎる。中で茶が飲めるようになっている量り売りの総菜屋の角を曲がると、炊きたての米の良い匂いが胃の腑をくすぐった。蒸している最中の点心のせいろから、白くたなびく水蒸気がもくもくとあがっている。小型の入道雲のようなそれがふと途切れたむこう側に、壁と壁にはさまれたほのぐらく狭い空間がのぞく。両脇にはぽつんと太い柱がそびえているのが見えた。柱には素人らしい手で「寝具通り」といういびつな文字が彫ってあった。
 虎嘯に手をとられ、大通りから中に折れると、急に日が翳ったように感じた。両脇を高い木塀で仕切られた細い通りからは左右から一足はやい濃い夜の気配がした。空が川のように細長く切り取られて見えている。さきほどの大通りの喧騒がざわざわと背を追ってはくるものの、通りそのものは音も少なく、ざわめきの火照りも冷めていた。石畳がひかれていない道は土がむきだしで、先日降った雨の名残だろうか、すでにからからに乾燥してはいるものの、狭いのを無理やり通ったのだろう、車の轍にえぐられた溝が幾本も刻まれていて、足裏にぼこぼことあたって歩きにくかった。
 復興しつつあるといっても堯天は良くも悪くも大きな街だ。今はまだごくほんの一部、街の中心部周辺だけが整備もされ、人がようやく集まり出したところで、ちょっと奥まった場所だともう、かつての荒廃の残滓が薄紙を透かすように垣間見えるものなのだ、と陽子は左右の板壁の眺めながら思った。
 道はくねくねとしだいに細くなり、ゆるい勾配を描いて徐々に登りになっていった。ところどころ、板塀の隙間に埋もれるように小さな店があらわれた。錆びた釘に手書きの看板、無地の布地を巻いた吊り下げ灯篭が、ぬるい風を受けてたよりなく揺れている。すでに灯りが灯されたところもぽつぽつと見受けられるが、それらは煤けた店先のわびしさを照らしだしはしても、華やかさとは程遠い。
 寝具通りの名のとおり、売り物はいちように寝間に置く日常雑貨が多いようだ。薄い綿布団、茣蓙、箱枕・・・どぎつい色彩で塗り分けられた化粧道具があるいっぽう、すっかり色褪せて古ぼけているもの、綿が飛び出しているもの、一見して海草か何かかと間違えそうな透けた女物の衣類なども積んである。
 やがて、薄汚れた茶屋が右手に姿をあらわした。
 入り口には無造作に衝立が立てかけられ、間口は狭いが中は細長くてずいぶんと奥行きがある。欠けた螺鈿の装飾が彩っている古い座卓に、あまり人相の良くない初老の男一人腰掛けていた。向かい合わせに座った黄色い犬歯ののぞく老人相手にどろりと濁った湯飲みの中身を口に運んでいる。茶なのか酒なのかはわからなかった。座卓の横にある籠には、安っぽい箱枕が山のように積んであった。店の奥には店員だろうか、地味な服装の若い男がひとり床の上に胡坐をかいて、さびが浮いた鉋で四角い木片を平らに削っていた。店員の足元には小汚い木のたらいが置いてあり、中で白い猫が丸まっていた。
 陽子は足を止め、いちばん上にある箱枕を手に取った。埃のついた、ざらりとした木の感触は、どことなくぬるりと生温かった。
 黄色い犬歯の男は値踏みするように陽子を見やる。初老の男が変な色の湯飲みを、ことりと卓に置いた。
 声をかけてきたのは犬歯の男の方だった。
 「坊主。いや嬢ちゃんか。枕がいるのかい」
 どうだ、見繕ってやろうかい、と男は笑った。
 「ああ、いや。見ているだけだ。ありがとう」
 「見てるだけじゃ、枕の使い心地はわからんぞ。ほれ使いなよ」
 にたり、と嫌な笑いを浮かべて立ち上がる気配に、虎嘯がずいっと一歩前に出た。太い腕でかばうように陽子の肩を押す。
 「なんだい兄さん。この綺麗な嬢ちゃんは、あんたのコレかい」
 「そういうわけじゃねぇがな」
 「用心棒かい。色気がないねぇ。男だろ?モノにしなよ、こっちを使ってさ」
 露骨に品のない仕草をするとまたにやにや笑い、ねぶるように陽子の反応をうかがう。翠の目がいささかの頓着もなくまっすぐに向けられると、やや毒気を抜かれたように、にやにや笑いをひっこめた。まあ確かに、こんな上玉ひとりで裏通りを歩かせちゃ危ないのはわかるがなぁ、とブツブツ言った。
 「おまえさん達。枕をお探しなら、とびきりのやつを教えてやろうか。ちょっとは手持ちの金があるかい」
 いつの間にか初老の男が、側で腕組みをしていた。背の高い男である。仁王立ちしている体躯をこうして真正面から見ると、瞳の虹彩に色らしい色がなく全体がのっぺりとした黄金色で、硝子球のように表面が凪いでいた。もしかしたら義眼なのかもしれない。
 「せっかくだが特別なのはいらない。いちばんよく使われてる箱枕がどんなものか見たいだけだ。・・・うちでは普段あんまり箱枕を使わないから」
 「ほう?箱枕をよく知らんとはね。これはこれは」
 「よほどいいお家の生まれかね」
 と犬歯の男も口をはさむ。
 服装からしちゃあんまりそうは見えんがなあ、いやいや、意外に高級な下着を着てるかもしれんぞと、陽子の質素すぎる袍を透かして見るように、男達は口の端を曲げて笑い合った。
 「まあ心配いらん、さっき金があるかとは聞いたがな、実は銭はそんなにはいらんのよ。すぐそこの店でな・・ほれ、そこ。あるだろ、そこのくねった坂をもうちょっと上がったところの二階家だ。そこでとびきりの枕っちゅうもんを扱ってる」
 どうだお二人さんよ、枕の使い心地をためしてみんか、と犬歯をむき出しにして言う。なーお、とたらいの中の白猫が鳴く声がした。
 「あんたたちはその店の者か。この茶屋で客引きをしてるのか?」
 虎嘯はだいたいどういう種類の店の話をしているのかピンときた。そこはやはり男性ゆえということなのだろう、まだいぶかしげな陽子の耳元に小声で、緑の柱だよ、とぼそっと囁いた。
 犬歯の男は耳ざとくその声を拾った。
 「兄さん、たしかに店の入り口には緑の柱が立ってるがね、ほんとにただの枕屋でな、残念ながら中に娘っこはいねぇのよ」
 へぇ、と虎嘯は眉を寄せる。
 「ただの枕屋が、なんで客引きをしてるんだか、理由を教えてもらいたいもんだな」
 「よしよし。興味が出てきたな?」
 やれやれと首を振ると、虎嘯は陽子の手を引っ張って、もう帰ろうと促した。潮時だ。これ以上絡まれてもおそらく面倒なことになるだけだろう。陽子はしかし、犬歯の男の風体をじっと眺めたままその場から動こうとしなかった。粗末な着物、素足にわらじ。突き出た歯以外に特にとらえどころない茫洋とした顔立ち。それと・・たくさんの、薄汚れた箱枕。
 (枕・・・まさかね)
 たしか浩瀚の報告にあった箱枕売りの行商人が立ち寄ったという足跡は、まだ麦州と征州と境にある山脈の麓で止まっていたはずだ。堯天に入っていたなら、あの耳ざとい浩瀚にその情報が流れていないはずはない。
 (しかし)
 あまりに目の前の男の人相風体と、先の報告の怪しい主が重なる気がしてくる。思い込みだろうとは思うのだけれど。
 「―――ひとつ聞きたい。おまえはもともと堯天の者か?それとも行商人か」
 「なんでそんなことを聞く?」
 男たちは同時に、そっくりの仕草で目を細めた。別に、と陽子は軽く流す。聞いてみたかっただけだよ。
 「特別の枕っていうのは、どこが特別なんだ?」
 「店ではな、お客さんに気に入りの枕を見つけて寝てもらうだけさ。ところがこいつが、・・・・いろんな夢を見られる」
 「夢?どんな」
 「だから、どんな夢でもさ。お好みのとおりの夢が見られる枕さ。ご希望を言ってくれれば、望みの夢をなんだってお見せすることができる」
 「・・・よくわからんな」
 無造作に積んである箱枕をひとつ掴み上げ、じゃあこれを買おう、と陽子は言った。おい、と虎嘯がとめた。
 「陽子、ボラれるぞ。枕なら別のとこだって売ってる。こいつらから買うのはやめとけ」
 「駄目だな、お嬢ちゃん」
 店の男たちはそろって首を振った。
 「そいつはまだ売り物じゃない。その箱枕を買ったって、望んだ夢は見られない。まだ、ただの箱枕だからな」
 「まだ、と言ったな。じゃあ、これに何か加工をしてから店に出すわけか」
 「さて、と・・・それ以上は答えられん。あんたらも聞かん方がいい。特別な枕がどう特別かは、実際に見てみる方がはやい。まあ、興味を持ったのも運ってことだ。いいから、ついてきな」
 犬歯の男はくるりと背をむけると、もう一度、さあついてきな嬢ちゃんと言ってのそのそと坂をのぼりだした。初老の顔の男は急に興味をなくした顔で、もとの椅子に戻り、卓上の湯飲みに入った得体の知れぬどろどろしたものを、またすすりだした。
 陽子は先の男の後を追って歩き出した。あわてて虎嘯が立ちふさがる。
 「お、おい陽子」
 「すまないな、虎嘯。ただすこしだけ気になることがある・・行って、確認したいんだ。もうちょっとの間付き合ってくれないか」
 「あいつらは堅気じゃないぞ。店だってああ言っちゃいるが、おそらく妓楼だ」
 「だろうな。けど、どんな枕か見たい」
 「あーもうまったく!言い出したら聞かないんだからな、おまえって奴は」
 宮の連中にあとで絞られても知らんからな、と釘をさすと、腰の剣の柄に手を置き油断無く目を光らせながら、虎嘯は陽子のすぐ後ろにぴたりとつくと、華奢な背中を柄でつっついた。
 「いいよ、行けよ。ただし口止めの賄賂はちゃんともらうからな」
 「飴じゃダメか」
 「却下」
 「火酒でどうだ?」
 「とびきり上等の奴。3本な。2本以下は駄目だ」
 「了解」
 少し先で、犬歯の男が後ろを振り返って二人が歩き出すのを待っている。追いつくと片眉だけを器用に上げてみせ、再び坂を上りだした。やがて、道は二本の柱がかしいで立っている古い二階建ての家屋へと至った。雨風にさらされて禿てはいても、柱が緑色をしている。
 「ほら言ったとおり。妓楼だ」
 虎嘯がささやくのに、陽子はうなづいた。犬歯の男は、迷いのない足取りで柱の間をくぐって奥へと向かっている。くすんだ木製の扉がキィと軽い音をたてて開いた。室内には全く明かりが灯っていなかった。真っ暗な細い回廊が先へと伸びているのが、わずかな輪郭とともに見て取れた。
 「さあ、入れってくれや。おっと」
 先に足を踏み入れようとすると陽子の肩を、男は手で止めた。
 「あんたじゃない。まずは兄さんが先だ」
 「あ?」
 ほら来いよ、とぐいっと手を引っ張られて虎嘯が玄関に片足を突っ込んだ。突然、丸く黄金色に輝く小さな円がみるみると広がって足元を照らし出した。いつの間に取り出したものか、男の腕には手燭が握られていた。入ったすぐの床の上には古いじゅうたんらしき半端な布が一枚、無造作に敷かれている。そのすぐ横から、二階に上がる急な階段があぶなっかしく生えていた。
 「枕は二階だ」
 手燭をかざして、男は先に階段を登り始めた。虎嘯は一度振り返って、後ろの陽子を目で制すると、ぎしぎしと派手に踏み板を軋ませながら、同じようにボロボロの段を上がっていった。丸く踊る灯りの円が、壁に濃い影をゆらゆらと映し出し、だんだん視界から遠ざかって上方へ消えていく。
 陽子は何気なく、じゅうたんの上に足を下ろした。ぱっと埃が立ち上る。薄明かりでよく見えないが、じゅうたんには円形の複雑な幾何学模様が織り込まれているようだった。ずいぶんと変わった模様だ。もっと良く見ようとかがみこんだとき、何かがちかっと光ったような気がした。
 とたん、ふわっと竜巻状の空気の波が猛烈な勢いでこちらに押し寄せてきた。どこかカビ臭い湿った空気の渦だ。ざぶんと頭から飲みこまれると、もう周囲はぐるぐる回る空気の真っただ中だった。足元がなんだか柔らかい。踏ん張るが、床が溶けていくような感覚に襲わる。身体がやけに軽く、ぐらりと揺らぐ。反射的に手すりをつかもうと両手を出したが、指先は空を切った。そこには何もなかった。
 「虎嘯・・・!」
 叫んだ声はどっと吹いた風に吹き散らかされて消えた。キリキリと身体が旋回する。目が回る。手足がバラバラになる。視野が闇に閉ざされる前、陽子は大僕ではない誰かの名前を力いっぱいに呼んだ。自分でも、誰の名だったのか、よくわからなかった。

 「お客さんはお帰りになったのかい」
 いつもの皴だらけの老婆が、薄い紗の天幕を持ち上げて枕元を覗き込んできた。青蘭は返事をするのも気だるかった。さっき帰った客で今日はもう四人目だったし、しかも二人目の大男はまだ若い体力自慢の船乗りだった。さんざんに攻め抜かれ、叫びに叫んだために声がほとんど嗄れてしまった気がする。全身が泥に沈んだように疲れていたので、首だけ軽く上下に振った。老婆はほっほっと笑って、茶色い枯れ木のように見える瘤だらけの長い指をすりすりと掏り合わせた。
 「商売繁盛で、よろしいことじゃな」
 紗ごしに霞んでいく婆の背を横目で見ながら、青蘭は胸元に布をかき寄せた。
 さっきの四人目の客は愛想だけは良かったが、体毛が薄い割には体臭が濃い、ちょっと貧弱な顔つきの中年男だった。嫌な客ではないが、良い客でもない。ただの仕事、それだけだった。冷えた汗とともに男の臭いが身体の隅々までべったりと染み付いているような居心地の悪さに、青蘭は眉根を寄せた。はやいところさっぱりと身体を洗い流したかった。しかし、身体を洗い終えてしまえば、老婆はまたさっそくに次の客を連れてくるだろう。それが嫌さに青蘭はぐずぐずと布団に埋もれている。今日はあとこれから何人の男と寝なければならないのだろう。正直、足腰が痛くて、ちょっと休憩したかった。
 風船玉みたいな顔をした下女が湯をはった盥と清潔な布を運んできて、ここに置いときますから、と言い捨ててさっさと行ってしまった。湯気がゆらゆらと天井に昇っていくのを、見るともなしに眺める。
 ここに連れてこられたときは正直少々驚いた。人買いに連れられ、細い路地を登って古びた建物に足を踏み入れたとたん、身体がくるくる舞う感じがして、青蘭は目を閉じてしまった。ふと麝香の香りに気づいておそるおそる目を開けると、自分は豪奢な部屋にぽつんと一人で立っていた。大理石のモザイク模様で覆われた美しい床上に中央でかなりの面積を占めているのは、カゲロウの羽のような薄い天幕を幾重にも垂らした牀榻だった。びっくりするぐらいに広々としていて、全体がやわらかな色彩の敷布に埋もれているばかりでなく、その木枠には百花の咲き誇る園や舞い飛ぶ鳥たちの彫刻が緻密に美しく彩っている。ぐるりをとりまくように、鶴のように細く優美な榻が絶妙の配置で散っていた。見上げると、高い天井にはいくつもの香炉と灯篭とが吊り下げられていた。香りは、どうもその香炉から流れてくるもののようだ。そこらで売っている安物ではない、めったに嗅ぐことのできない逸品の奥ゆかしい匂いである。
 ―――おや、なかなかのべっぴんじゃないか。
 聞こえた声にびくっとして振り向くと、そこには青蘭の背丈の半分ぐらいしかない皺くちゃな老婆が一人、樫の杖をついて立っていた。腰が極端に曲がっているため、亀のように見えた。
 ―――ここが、これからおまえさんの仕事部屋さね。お客さんはあたしがここに連れてくるから、相手をおし。そこの牀榻でな、と老婆は部屋の中央を指差した。
 ―――男を十分に満足させることじゃ。なら客はまた来てくれる。来てくれりゃ、金がたまる。たまればいずれ年季も明けるぞな。
 ほっほっほ、と老婆は笑ったが、青蘭の耳にはその笑いが細い棘を無数にふくんでいるように思えた。まるで幼児を騙す繰言のような口調も、心の表をざらりと逆なでする心地がする。
 ついといで、と言われるままに老婆の後を追うと、老婆は部屋のひとすみの重厚な金襴緞子の壁掛けをめくった。そこに小さな扉があった。開けると、うってかわって質素な小部屋につながっていた。簡易の寝袋の置かれた細長い台と、大きな鏡、水差しに大きな盥、用足しに使う壺だけが置いてある。小部屋の一方の壁には派手な衣装がずらりと、むき出しのままつるしてあった。
 ―――昼の間はここで休みな。といってもここには窓がないから、いつが昼かわからんだろうがな。
 たしかに、先ほどの大部屋にもこの小部屋にも窓らしいものが見当たらない。暗くはないが、かといって灯火なしでいられるほどに明るくもない。どこからか柔らかいぼんやりした光が漏れてくるが、光源はわからなかった。
 ―――客を連れてくるときは、あたしは鈴を鳴らしてとなりの大部屋に入る。それを合図に、ここから出ておいで。
 はい、と青蘭は返事をした。とりあえず自分は売られたのだから、買い手ののぞむ仕事はしなければならない。健康的な汗を捨てる覚悟はできていた。
 気負いも落胆もない良い返事じゃないか、と老婆はまた笑った。棘の数がさらに増えたような気がした。
 じゃあしっかりおやり。ああこっちは下女の風毛だよ、と指差す先を見て青蘭は目を見開いた。老婆の隣には、なんの気配もなく忽然と、団子のように丸い顔をした小娘が現れていた。無表情に目礼する。よろしくお願いします、と青蘭は深々と、二人に向かって頭を下げた。あいよ、という返事に頭を上げると、もうそこには誰もいなかった。消えてしまったのである。青蘭は吐息をついた。
 楼だ。
 ここがどこだか、すでに青蘭は正確にわかっていた。緑の柱の古びた建物に入ったとたん目の裏に走ったちかっとした光、つづくぐるぐると失墜するような闇。そして窓のない部屋と、気配も無く消えたり現れたりする人間たち。何度も経験したことである。間違いなく誰かの作った楼のひとつに自分は飛ばされ、監禁されたのだろう。ここに来たときちょっと驚いたのは、いきなり変な場所に飛ばされたからではない。自分以外に箱渡りの術が使える人間がまだいたのだ、ということに対してであった。箱渡りの術は一族の秘術とされ、代々限られた者にしか伝承されなかったはずである。この春、青蘭の兄が病をえて死に、そうして青蘭は一族の最後のひとりとなった。まだ未成年だった青蘭は生活する糧を得るために自らの身体を人買いに売った。
自分と共に術が絶えることになるだろうし、それで良いと青蘭は淡々と思っている。悲しくも苦しくもないし、後悔もしていない。術の伝承にも、兄を失った自分の人生にももはや何の興味が無かったからだ。家を出るとき、使っていた無数の楼はすべて地下の蔵に置いてきた。ひとつでも楼を持って出れば、楼から楼へと渡ることで簡単に故郷に帰ることができてしまう。青蘭は潔癖な娘で、そんな甘えを許す気になれなかったのだ。
 しかし、と大部屋に戻りながらつらつら考える。こうしてここに、術を使う者がいる。一族の末裔がまだどこかに残っていたのだろうか。ならば、一度、会って話をしてみたい。会って、故郷のことを憶えているか聞いて見たい。会って・・兄のことを知っているか、尋ねてみたい。
 りんりん、とどこからか鈴の音が聞こえてきた。ざわりとした人の気配が焔のように上がった。待つほどもなく、さきほどの老婆が手の鈴を振りながら現れた。背後には、身なりの良い商人風の男が惚けた様子で立ちすくみ、こちらを見ている。
 ―――さっそくのお客だよ。旦那さん、さあ、どうぞどうぞ。遠慮なさらずに。ええとね、この娘の名前は、さて、と。
 老婆が何か言う前に、気づけば青蘭はとっさに答えていた。
 ―――飛雀です。
 とたん、よく慣れた感触の、目に見えぬ輪がするりと手首にはまったのを感じる。ほのかに熱く感じる輪は、青蘭の血脈にあわせてすぐにどくどくと脈動し始めた。
 これは呪だった。「飛」や「翔」、「穿」「掘」「渡」などの漢字と、空を飛んだり穴をうがったりすることのできる生き物の名を組み合わせた偽名を名乗ることで、楼から楼へと渡りやすくする腕輪・・鍵を作ることが出来る。一族に伝わる、ごく基礎的な技のひとつである。
 飛雀と名乗っても、老婆はそうかい、じゃあそう呼ぶよと言ったきりで、何も気づかぬ様子だった。ということは、この老婆はさしたる力も知識もない下っ端なのだ。主は別にいるはずだ。
 ―――飛雀か。よく見ると、そこそこ可愛い顔をしておるな。
 商人風の男はいきなり青蘭をその場に押し倒すと、身なりの良さに反して野卑な仕草で馬乗りになった。老婆がふっと消える。鈴が床に落ちた音がする。視野が回転して、香炉の煙が細い蛇のようにくねくねと渦巻いている天井が見えた。人形のように男のなすがままにもてあそばれながら、青蘭は声を殺して、天井を隈なく観察することに意識を集中させた。
 どこかに穴があるはずだ。別の楼へと飛ぶことのできる穴が。
 穴があったからといってどうということもないのだけれど。飛んでどうするかということもわからなかったけれど。
寝台が揺れ、視界がぶれる。男がうめき声をあげ、青蘭は見知らぬ波に翻弄されるままにのけぞって、それでも瞼は閉じなかった。結局、穴は見つからなかった。
 商品風の男が、やはり野卑な仕草で部屋をあとにした後も、幾たび、幾人の男に抱かれただろうか。いくつもの夜が過ぎ、いくつもの昼が過ぎた。最初は小部屋の壁に印を刻んでいた青蘭は、いつごろからか、そうして日付を数えるのをやめてしまった。鈴が鳴れば夜、ならなければ昼。それだけの生活だった。日付などわからなくても何も困らない。
 下女の風毛の置いていった盥の湯がそろそろ冷めてきたのか、湯気ののぼりが薄くなった。のろのろと青蘭は起き上がる。ぬるくなった湯で、できるだけゆっくり身体を洗った。そうして次の客が来るのをできるだけ遅らせることだけを考える。手首の輪が今日もどくどくと脈打っては、まだ飛べる、と青蘭の心に小さな漣を作っている。自分で自分の身体を売ったときに、もう種族が受け継いできた飛ぶ技のことは忘れようと思ったのだし、飛んで今更どうしようというわけでもなかったはずなのだが、いざ身体が汚れた今になってみると、なぜだかもう一度飛んでみたくなっていた。飛んで、この楼を作った主と対面すること、里の話をきいてみることだけが心のよりどころとなっている。
 おかしなことだ、と青蘭は自嘲した。こんな自分でもまだ、生に希望を持とうとする芽が残っていたらしい。兄が死んだとき、すべてが終わったように思えたのに・・自分は自分の生に、まだ固執しているのか。しかし、この楼を作った人間はよほど巧妙な術を持っているのか、いまだに外へ出る穴が見つからないでいた。なかなかの凄腕のようだ。
 身体を拭いて、ようやく清潔な新しい衣装に着替えた頃、また鈴が鳴った。青蘭は手首の輪に軽くさわってから、牀榻に座って客を待った。
 ふと、床が揺れた。
 軽い振動はすぐにやんだが、身震いにも似たわずかな揺れは床から壁につたわり、かけられた金襴の織物の房をゆらゆらと左右に振った。
 ―――あ。これは・・・この揺れは。
 ―――楼の接合だ。
 箱ごとにひとつの世界をつくる楼だが、穴と穴を接することによって複数の楼をひとつにつなぐことができる。ここに来てから、楼の接合がおこったのははじめてだった。
 りんりん、という聞きなれた音とともに、老婆が鈴を手にあらわれた。向かいの壁に今までなかった扉が忽然と出現し、四角く切り取られて口を開いている。あそこが接合場所・・・つまり、穴のあった場所かと青蘭は目を見開いた。すでに幾度も調べた壁面だった。しかし、それらしい穴など見当たらないと思っていた。
 老婆は背後に、赤い髪の娘を連れていた。
 年のころは16〜7歳ぐらいだろうか、青蘭より少しばかり年下に見える。茶色くくすんだ粗末な袍に身を包んでいて、腰には体躯に不相応な立派で大きな剣を下げている。小作りな顔は中性的で、吸い込まれるような不思議な魅力がある。何より、琥珀色のなめらかな肌にひときわ光芒を放つ翡翠の瞳と、秋に燃え立つ紅葉の森林ほどに見事な真紅の髪とが、周囲の目を奪う綺羅の光を放っていた。
 「飛雀。新しい見習いが来たのだがね。ほれ、この子さ」
 何度名前を聞いても名乗ろうとしないのさ、と老婆はため息をついて投げやりに後ろの娘を見やった。よほどこの新入りに手を焼いたのだろうか、いつもよりいっそう腰が曲がって老いて見えた。
 「とりあえず、ここに来たからにはもう外に戻れやせんってことはさんざん言ったんだがね。これっぽっちも納得しやせんのさ。帰るの一点張りでな、客をとったらいつかは出られるとは言ってみたが、売られたわけでもないからこれも却下なんじゃと。なだめてもすかしても、どうにもこれがうんと言わんのよ」
 なかなか頑固な娘らしい。ちょっと感心して老婆の背後の姿を見やると、娘の方も翠玉の瞳をまっすぐに返してよこした。その澄んだ色合いは、里の近くにあった泉の清冽で冷たい湧き水を青蘭に思い起こさせた。
 わしはもうすっかり疲れてしもうた、とぶつぶつ言う愚痴に、老婆に目を戻した。
 「でな。考えて、おまえの見習いとして、しばらくためしにつけてみようかと思う。おまえから何とか言って、説得しておくれな。これだけの上玉なんじゃから、稼ぎはええはずなんじゃ。棟黄さまも、店の前で見かけたこの娘がずいぶん稼ぎそうな玉だっていうんで、店までおびき寄せてこっちに飛ばしたらしいんだが。この性根では、なかなか言うことを聞きゃせんし、売り物になるのにどれだけかかるかもわかりゃせん」
 どうやらこの娘は人買いに転売されたわけではなく、うっかり誘拐されてしまったらしい。それは、さあ身体を売れといわれたって頑固にもなるだろう。いきなり箱渡りを体験したわりには、娘に怯えた様子が微塵もみられないことが青蘭の気に入った。あのぐるぐるした回旋と一瞬の閃光の後に来る突き落とすような暗黒は、慣れぬ者には嘔吐や恐慌状態を引き起こすこともままあるのだ。
 「わかりました」
 青蘭はしおらしく頭を下げてみせる。老婆が愚痴ついでにうっかり漏らした棟黄という名前を頭の奥の戸棚にしまいこむ。その者がこの楼の親玉か、あるいは親玉に次ぐ部下であるはずだ。名前は呪、たとえ偽名でもそれなりに一定の効能があるものだ。
 「あら!あなたは、誰かによく似てると思ったら・・・!やっぱり間違いないわ」
 青蘭はわざと大きく目をみはってみせると、つと立ち上がり、娘のすらりとした腕をとって細い手首をぎゅっと握った。滑らかでほんのりと温かく、絹のような肌触りだった。
 「覚えてないかしら、翔鷹。ほらあたしよ、飛雀よ。懐かしいわ、よく一緒に遊んだじゃない?」
 初対面の相手から妙な名前で呼ばれて、娘は一、二度、ちょっと瞬きをした。しかし手首をつかむ迷いのない力と、のぞきこんでくる青蘭の目に何を認めたのか、一瞬間を置いて、
 「ああ。久しぶりだ」
 と言った。握りしめる手の下で、なめらかな娘の手首が発火したかのようにぼっと熱くなった。娘はこれで翔鷹となった。ほのかな光とともに、無事に手首に輪がはまった。
 「なんじゃ。知り合いか?おまえさんたち」
 老婆がいぶかしげに二人を覗き込んできたが、嬉しそうに、はい、と返事をした青蘭の顔を見て、そんなこともあるもんかねと、ぶつぶつ呟いた。
 「なんでもいいが、知り合いじゃあ、なお説得しやすいだろう。いいかい、みっちり仕込んでおくれよ」
 頼んだよ、とだけ言い置いて、老婆は最後に鈴の音をしゃんと一度だけ響かせてから、現れた時と同じようにふっと消えた。
 「やれやれ、行っちゃったわね。さて、と」
 青蘭は広い牀榻にぽすんと腰を落とすと、ぽんぽんと隣を叩いて娘にも座るように誘った。
 「鈴が鳴ったから、また新しい客かと思ってちょっとうんざりしてたのよ。あなたで良かったわ」
 娘はそっと隣に腰掛けた。油断の無い敏捷な獣のような身のこなしだった。
 「飛雀、というのがあなたの名前か。ここで・・働いているのか?」
 そうよ、と青蘭はうなづきながら、脇の螺鈿細工の小卓から客用の器を取って、熱い甘茶を注ぎ入れて渡してやった。
 「まずはどうぞ。甘いものをいただくと、ちょっとは気が和むでしょ」
 大人しく器を受け取ると、用心深く一口すすってから、ほ、と吐息をついた。やはり気を張っていたのだろう。それから甘茶をちょっと持ち上げて、ありがとう、と律儀に礼を言った。
 「私はあなたに会ったことは無いと思うが」
 「ええ。あたしもあなたに会ったことはないわ」
 はじめまして、と青蘭はくすくす笑った。
 「じゃあ、さっきの嘘は?翔鷹とは、なにか意味があるのだろうか」
 「偽名をつける儀式よ。とっても大事なの。見て」
 青蘭は自分の手首を差し出した。
 「これから、この楼の中ではあなたは翔鷹という名前になったのよ。いいこと、翔鷹と呼ばれたら、忘れずにちゃんと返事をしてね。決して本名を明かしては駄目。ほら、私の手首をさわって御覧なさい。輪がはまっているのがわかる?」
 「ああ・・あるな」
 「あなたの手首も触ってみて。同じのがあるでしょ」
 娘は、なにもないように見える己の手首を、言われるままにそっとなでてみる。
 「ほんとだ。何かがはまってる。熱いな。これは何?」
 「輪っか・・鍵よ。ここから抜け出すときに、これがあると簡単に抜け出せるようになる物なの」
 ―――ここはね、現実世界ではないのよ。ぐるりを見渡しながら青蘭は言った。
 「ここはね、楼よ。楼の中なの」
 「楼?」
 娘はびっくりしたように目を見開いた。驚いた顔は、年よりも幾分か幼く見える。
 「楼って、あの、女官とかが作る緻世楼ってやつか。木箱のなかに小さな世界を再現するっていう細工物じゃなかったか?」
 「そうよ。あらま、あなたって宮中の人?」
 あんまりそうは見えないけどねぇ、と娘の粗末な衣類をつくづくと眺めやる。
 「もしかして、あなたって仙?」
 「え、いや・・えっと。その、下女、というか。宮中に住んで、雑用・・・みたいなことを、をやってる」
 「ああ、なるほどね。下女か。じゃあ仙じゃないのね。街に用事で下りてきたところを誘拐されちゃったのね?」
 青蘭は納得して頷いた。気の毒に、とそっと手を伸ばして娘の赤い髪をなでてみる。柔らかくて弾力のある豊かな髪だった。
 「女官のたしなみとして流行しているあの緻世楼はね、もとは箱渡りとして使われたものの一種よ。ええと、箱渡りって言ってわかるかなぁ・・」
 目をぐるりと回して考えこんだ。娘は首を振っている。わからないということだろう。もう一族はいない。たとえこうして秘密を口に出したところで、誰が困ることもないし、誰に罰せられることも、もう決してないのだった。
そう思うことは、開放感と同時に、何故だかちょっぴりの寂しさをもたらした。一時はあんなに嫌悪していた一族であるというのに。今更ながら、不思議な心地がした。
 「隠密っていうのかしら。かつて、各地の情報を収集して、雲の上の王宮に届ける役目をする一族があったのよ。もう絶えてしまったんだけれどね」
 箱渡りの一族、と娘は繰り返した。
 「うん。山間の邑に隠れ住んでいてね。でも山間って平らな土地が少ないでしょう?少ない面積の中で住民全員が好きなだけ大きなお屋敷を建てようと思っても無理なのよ。そうして考え出されたのが、箱の中に緻密な世界を構築しては、その中にひきこもる技だったの。いつのころからか、彼らは箱から箱へと『飛ぶ技』を習得して、一瞬で遠隔地に情報を伝達することができるようになった。彼らは箱渡りの一族って呼ばれたわ」
 呪術の一種なんだろうけど、飛ぶ理論はいまだに誰もよくわかってないのよ、と青蘭は笑った。
 「箱は楼と呼ばれたわ。楼を置いてある場所なら、楼から楼をつたってどこへでも飛べるの、便利でしょ。そりゃあ、生きている鳥を使ったりするのとはかかる時間が違うもの。敏速な情報収集が可能だというので、一族は王と契約を結んで、専属となったわ。よく各州を飛び回っては宮へ情報を流したんだそうよ」
 「その一族は、今はもういないのか?」
 「言ったでしょう。絶えたのよ」
 まあ、正確にいうと絶えつつあるというか、と小声で呟いたのを、娘は耳ざとく拾った。
 「絶えつつある?」
 「ええ、まあ。あたしが一族の最後の生き残りなの。あたしが死ねば、正式に絶えたことになるってこと」
 青蘭はちょっとだけ身震いした。兄のことを思い出しだしたためだった。ふりきるように、手首を出して輪をなでると、娘の手首にもはまっている輪にそっと重ね合わせた。
 「この輪もね、一族の秘技よ。飛びやすい偽名をつけることで、手首に輪がはまる。楼から楼へ移動しやすくするものなの」
 「へえ。すごいな」
 さっきはびっくりした、と娘はここに来てはじめてちょっとだけ微笑んだ。笑うと頬に薄日が差すようで、ずいぶんと印象が変わる。
 あたしもびっくりしたわ、と青蘭も笑った。
 「この楼の仕掛けは一族が作ったものじゃないわ。見覚えがないもの。まだ楼の術を使う人間がいるんだとわかって、ここに飛ばされて来たときは、そりゃもうびっくり仰天よ。邑の人間がまだ生き残っていたのかと思うと・・だとしたら、会ってみたいわ。あるいはまったく別の、邑とは関係ない人間なのかもしれないけどもね。わからないことだらけよ」
 甘茶はちょっと苦味があるが、総じて甘すぎるほどに甘い。娘はちょっとすすっては眉をしかめてため息をつき、卓の上に器を戻した。
 「甘いものは苦手?」
 「いや、そうじゃない。その・・聞いて良ければ、だが。なぜあなたはこんなところで働いている?誘拐されたのか」
 「ううん。他に食べていく方法がわからなかっただけよ。だから身売りしたの。給田はまだ受けられる年じゃないし。ただ、・・・そうね、ちょっと投げやりにもなってたのかな。何もかもどうでもいいというか」
 娘は黙って聞いている。
 「兄が死んでしまってね、あたしは邑に一人だけになった。兄はあたしのすべてだったから、なんだか急に何もかもどうでもよくなってしまった。だからね、楼を全部捨てて、邑を出たのよ」
 しかし。こうして閉じ込められて、飛ぶことを封じられて暮らしてみると、外で自由に歩いたり、楼から楼へ自由に飛びまわっていた頃の自分が急に懐かしく、色鮮やかな画像となって心のうちに蘇ってくるようになった。押さえつけても、ふと気を抜いた拍子に、手は知らず知らず輪を探ってしまうし、目は穴を探してしまう。
一人きりで生きていくことに怯えて自由を売ったつもりだったが、自由を失うということがどういうことなのか、その本当の意味をよくわかっていなかっただけのような気がする。
 「変ねぇ。今はなんだか、帰りたいような気もするわ」
 鈴が鳴って、客が来て、ただ仰向けになってその時間が過ぎてくれるのを待つだけの生活。決して健康的な汗をかけなくなってしまった今の生活。
 「というか、帰らなくてもいいんだけども、とりあえずもう一度お日様の下で、汗をかいてみたいのよ」
 娘は何も言わずにただうなづいた。淡々とした様子が、青蘭にはかえって嬉しかった。
 「あたしは兄を好きだったの。・・・愛していたのよ」
 「そうか。いい兄上だったんだな」
 そういう意味じゃないのだけれどね、と内心で苦笑する。この清廉な娘は男女の機微には疎いらしい。
 「あなたは?好きな人はいないの」
 「いないと思う」
 「思う?ふふ、じゃあ。いるってことね」
 娘は憮然として、いいやいないんだと言い張ったが、やや心もとない口調だった。
 「私は箱枕を見に、寝具通りを歩いていたんだ。ほんの散歩のつもりで、すぐ宮に帰るつもりだった。・・・連れもいたんだ。彼がどうなったのかも心配でならない」
 「お連れさんは男の人?なら、たぶん無事よ。客としてどこかの楼に連れていかれたのじゃないかしら、で、女を買えとすすめられてるはず。・・・大丈夫、ここが楼だというのなら、あなたもあたしも逃げる手段はある」
 青蘭が娘の手首を再び握ると、今度は、娘も軽く握り返してきた。
 「こう見えてあたしも箱渡りのはしくれだからね。飛ぶ術が使えるわ。大丈夫、そのお連れさんを途中で拾って、一緒にここから逃がしてあげられると思う」
 「あなたも出るのだろう?」
 「もちろんよ。もう一度、あたしも自分のことを考え直してみるわ」
 「それがいい。今の堯天には、未成年が保護される施設もちゃんとある。身体なんて売らなくても大丈夫、いくらでも暮らしていく手段はある」
 「そうなの?今の王さまには会ったことないのよ。どんなかたかしら。前の予王にはお会いしたことがあるけど」
 「予王に?」
 澄んでいた娘の目がかるく揺らいだような気がして、やや首をかしげながらも、青蘭は指で自分の両目を左右にひっぱった。大きなくりくりとした瞳が切れ長の一重に変わる。
 「こんな感じの綺麗な細い目をなさったお方。まつ毛がびっくりするぐらい長くてらしたわ。長い碧のお髪を玉でいっぱい飾られて、それはお美しい青いお衣装で。でもちょっと寂しそうな表情なの」
 呼ばれたのよ、と青蘭は言う。女王が政務に倦んで隠れ里にこもったときのこと、楼の一族の出先の館が、谷川を一つ越えたそのひとつ隣の邑にあったのだという。女王は、隠れ里の随所に飾ってあった昔の古い緻世楼を見て、どんな人間が作ったものか会ってみたくなったらしい。
 「台輔の住まわれる仁重殿も作れるのかしらと何度も尋ねておられたわ」
 一度本物を拝することがかないますならば、細部に至るまで瓜二つのものを、主上のお望み通りの楼をこしらえてみせまする。額を床にすりつけながら、そう声をふりしぼっていた父の尻の丸い部分をよく覚えている。青蘭と兄も、子供ながらも良い腕を持つ後継者として同行して、父の後ろに平伏していた。頭を低く下げた位置からは鼻につく土間の湿った香りがし、わずかに目を上げると、前方には父の尻が青蘭の視野をふさいでいた。その尻は小刻みに震えていた。
 「父には出世の野望がまだあったのよ。かつては王の密偵まで務めた名誉ある職人の一族という矜持が捨てきれなかったのね。もう持ち直すのが到底無理なぐらいには邑の人数が減ってしまったというのに、なんとか一族の再興をのぞんでいたのだと思う」
 落ちぶれていく邑の中で、父は唯一、まだまだ生臭かった。王と面会がかなったあの日を、唯一無二の機会と賭けていたのだ。しかし、面会してからわずか数カ月もたたないうちに、予王は狂気へと落ちた。山中には妖魔があふれ、里や邑にも頻繁に姿を見せては村人を襲うようになった。殺伐とした日々に父の望みは泡と消えた。ついに、女をすべて追放するというあのふれが回ってきたとき、青蘭は父の意向で館の地下室へ隠ぺいされた。以後しばらく箱だらけの闇の座敷で、一日一度差し入れられる粥をすすって過ごした。
 「愛情からじゃなくて、術の継承者という保険として隠されたのよ」
 このときすでに、邑に残っていた者たちは父と兄と青蘭の三人だけとなっていた。ほどなく予王が身罷り、父と兄も相次いで亡くなった。地下室からは解放されたが、青蘭は一人となった。
 「今の王様はどんな方かしらね。会ってみたいなぁ」
 あ、出世としてじゃなくってよ、と青蘭は明るく笑った。あたしにはもう、そんな生臭さはないの。
 「ここに連れてこられたときにちらっと見ただけなんだけど、堯天がとてもいい感じの街になっていたから。賑やかで活気があって、街の人の顔も生き生きしていたわ。楼をつくるのも同じなんだけど、やっぱりああいう街をつくれる王様って、どうしても興味を持っちゃう」
 娘はなにやら落ちつかぬ様子で服の裾のほつれた部分を引っ張ってみたり、頬をかいてみたり、室内のあちらこちらの装飾をに視線をさまよわせたりしている。大人びた雰囲気があったり、妙な肝の据わり方をしていると思うとまた、突然このような少女めいた仕草もする。どこかとらえどころのない散漫な印象、それでいて身体の中にしっかりした確固たる芯の存在を感じさせる不思議な娘だ、と青蘭は思う。
 もう一度くすっと笑うと、はい、と熱く入れなおした甘茶をもう一杯、器にそそいで手に握らせてやった。
 「ほら、お飲みなさいな。飲んで、まずは着替えをしましょう。逃げ出す算段はそれからね。・・ここにはあたしの着ているようなぴらぴらした衣装しかないけれど、あなたのその襤褸よりマシだと思うわ。女の子にはあんまりよ、その服。せっかく可愛いお顔してるのが台無し」
 「可愛い?」
 「そうよ、あなたがよ。鏡見ないの?」
 「あんまり・・好きじゃないんだ」
 「あらまあ。年頃だっていうのに・・・いいわ、いらっしゃい。おめかししてあげる」
 「いや、いい」
 「いいから来て。さあ、こっち」
 青蘭は娘の手をひいて、緞帳の奥の私室へと連れて行った。いつも昼間、青蘭が休むところだ。垂れた布をくぐると、おや、と目を見張った。部屋はやや大きくなっていた。寝袋ののった榻が二台に増えていて、隅に小さなひきだしが三段ついた黄色い箪笥が置かれていた。術者の手回しの良さに舌を巻きながら、青蘭は考え込んだ。ものを増やしたり、部屋を広げたりするときには通常、室内になんらかに意匠の傷をつけなければならない。楼の中にいる人間にとっては、その際に多少の違和感や振動を感じるのが普通だったが、青蘭をしてまったくその気配が感じられなかった。これはかなりの使い手と思わなくてはならないようだ。
娘に合いそうな色合いの服を次々にとりだして広げながら(娘はつぶれたカエルのようなうめき声をあげた)、これからどうやって箱渡りをしようかとあれこれ策を練り始めた。彼女の頬は薄桃色に上気し、湯でぬぐったばかりの額にはわずかに汗をかいていた。その雫はかつて陽光のもとでかいた汗に似ていた。
ここにきてからはじめて、青蘭は、楼の中にひろびろとした青空が広がったような気がした。

 
 
 
inserted by FC2 system