| TOP | 小説 | イラスト | 雑記 | リンク | 拍手

     
 
「 楼 」 〜9〜
 

 楼が消えかかっている。木々が消え、橋が消えた。
 落ちて積もっていた夜空の欠片もぐずぐずに崩れてすでに土になっている。包みこむ浩瀚の腕の隙間から必死に首を伸ばして娘の残骸を見ていたが、その姿もまた白く粘っこい靄につつまれて霞み始めていた。涙のせいなのか、靄のせいなのか、陽子にはもうよくわからなかった。
 ぼろぼろになった翼をひきずって、瑠璃色の小鳥がちょんちょんと飛んでくると班渠の耳と耳の間にとまった。ちゅるり、と一声鳴いたが明らかに弱弱しい。片足は折れ、腹には傷があった。班渠が言った。
 「この瑠璃鳥が楼を出る案内をしてくれるそうです。主上、急ぎ私の背にお乗りください。もうこの楼はあまりもちません」
 問答無用に陽子を抱きあげた浩瀚が班渠の背にまたがると、すかさず妖魔は空へ舞いあがった。少し前方をよたよたと危なっかしくよろめきながらも、瑠璃鳥が飛んでいく。
陽子は遠ざかっていく下界を涙に曇った目で見下ろした。大地は掛け布に白い乳をひっくりかえしたようだった。ゆるやかな丸みを帯びた水平線、白く霞む草地、夜の冷たさをかかえていた大気は、今は湿気を含んで曖昧にぬるんでいる。
 地に伏した娘の髪は青く、濡れた毛先が風に揺れている。派手な衣装の裾に縫い取りされた硝子玉がちかりとかすかに光ったような気がしたが、すぐに靄で隠されて見えなくなった。
 知らず、喉から嗚咽が漏れていた。手に浩瀚の乾いた手のひらが重なって、ぎゅっと強く握りしめられるのを感じた。陽子は黙って握り返した。
 干菓子のようにはらはら崩れていく草原を飛び越え、靄の白がひときわ濃くふきだまっているように思われる断崖の上空で、小鳥はいったん班渠の毛皮に舞い降りて羽を休めると、その耳元にまたちゅるちゅると囀った。
 「主上。金波宮で、目印になるものを強くお念じくださるように、と」
 「目印」
 「はい。光となるもの、いちばん身近なもの、愛しいもの。そこへ向かって飛ぶそうです―――それから穿龍」
 「なんだ」
 「あなたは主上を何があっても離さぬように、と。主上は、今は飛ぶための名前をお持ちではない。少しでも離すと楼の隙間に落ちる危険があるそうだ」
 「もとより道理」
 珍しくちょっとむっとした返答に、こんな時ながらも班渠は笑った。
 光となるもの。身近なもの……自分にとって、それは何だろう。あの宮の中にあって、愛しいもの。
 陽子は目をつぶって一心に心の中を探った。やがて念はゆるゆると一方向に流れてゆき、まとまって、この上なく優美な一頭の獣の姿となった。馬よりも華奢で、炎のように揺れる鬣の色は金、鹿のように額に一本の角のある十二国に十二頭しかいない神獣―――麒麟。
景麒、と小さく呟くと、小鳥が再び飛び立った。班渠が後を追う。向かう先に、ぽつんと小さな点があらわれ、みるみるうちに大きくなった。黒々としたトンネル。もうすっかり見慣れた、楼の穴だった。
 抜ける衝撃はいつもよりひどく腹に堪えた。背筋が揺さぶられ、感電したようにびくびくと跳ねる。班渠の背から思わずずり落ちそうになるのを浩瀚がしっかりと支えてくれた。これが名を持たずに飛ぶということなのだと、改めて陽子は飛雀のほどこしてくれた輪のことを思った。
 めまいがする―――背が熱かった。浩瀚がぴったりと重なっているせいだ。耳元で彼の落ちついた呼吸が聞こえる。ゆるく、はやく、まるで眠っているときのようなそれは、ひどく陽子の心を鎮めてくれた。こんな状況でもさほど恐れも感じず、落ちついていられる理由から、もう彼女は目をそらさなかった。
 ひときわ大きな雷鳴がとどろいた。ぎざぎざの稲妻は輪を持たない無防備な陽子の横腹を直撃した。あっという間もなく、陽子は班渠の背から放りだされ、不穏にざわめく渦の嵐の真っただ中に放り込まれた。
 「主上!」
 空を蹴って班渠がものすごい勢いで急降下してくる。雷鳴の中に、自分を呼ぶ浩瀚の声が混じる。
 手を伸ばすと、わずかに指先が彼の指に触れた。いくどか離れて、また触れ……離れる。もう一歩でとどく指先と指先の隙間がもどかしい。
 「主上!」
 また浩瀚が呼んだ。
 ―――そうだ、自分も呼んでいた。楼から楼へ飛ぶたびに、誰かの名前をずっと呼んでいた。その名前が誰であるかということも、逃げずに受け入れよう。
 景麒ではない、さっきまで、この背を覆っていた男の名前。それは、宮に帰ってから改めて呼んでみたいと思う。できるなら、ありったけの想いをこめて。
 「お離しして差し上げません!」
 風が唸っている。浩瀚がなにか叫んでいる―――よろしいか。
 手首が痛いほどに掴まれ、陽子は体が浮くのを感じた。滑らかな毛皮の感触が裳裾のまくれあがったむきだしの脚を撫でる。引っ張り上げられて使令の背にのったとたん、背後から男が噛みつくようにして叫ぶ声が、錐をねじこむようにして鼓膜に飛びこんできた。
 「私から離れることなど、絶対にお許しいたしません!肝に銘じておいでなさいませ!」
 旋回する視界に、いかづちが賑やかに閃く。やがて前方に何か別のものが流れ込んできた。夜明けを思わせる白々とした新鮮な光だった。小さな穴からゆるやかに差し込んで、先頭をゆく青い鳥の翼をほのかに照らしだす。
 かぐわしい初夏の草木の香り、咲き始めたばかりの蓮のぽん、と花弁を開く音がする。金波宮の禁苑の早朝の気配だ。
 唐突に、抜けた。
 外気に包まれる。
 トンネルから出た衝撃は、飛びこんだときよりもまだ一段と激しかった。
 空気の壁に肺の下あたりをひどく殴りつけられた圧力に、冗談でなく一瞬本当に息が詰まった。呼吸を求めて身をよじったとたん、体がふわりと頼りなく浮いた。慌てて手を伸ばすと、何か布のような紐のようなものに指先が触れ、反射的に握りしめた。陽子の腰を抱いた男もまた頭越しに手を伸ばして、この紐をしっかりと掴んだ。
 ばん、と爆発音が響いて、妖魔に騎乗した二人は手入れのゆきとどいた梢の真っただ中に文字通り飛びだした。
 こなごなになった木箱の破片が飛び散った。班渠は飛びだした勢いが余って止まれず、紐につかまってぶらさがる主と浩瀚をそのままに、ひとり梢の中を突っ走っていく。
 握りしめた紐が手の中でするっと滑った。それは見覚えのある艶やかな絹製のものだった。道理で滑るはずだ、と思う間もなく、枝の紐の結び目がはらりとほどけた。陽子は男にくるまれたまま、紐をつかんでまっさかさまに落ちて行った。
 ―――うっと低く呻く声。
 自分の声ではない。
 目を開けると、頭上には緑の天蓋が宝石のように輝きながら広がっていた。早朝の陽光と、新緑の木の葉が織りなす繊細な敷布だ。
 背の下に程良い肉の弾力があり、見るまでもなく浩瀚がクッションの役割をしてくれたのだとわかった。
 「―――おい。無事か」
 「は」
 「重いか」
 「非常に」
 「……軽いと言え」
 ゆっくりと身を起こすと、男はまた小さくうっと呻いた。乱れた髪に、眉根を寄せた目。冷静沈着な男が台無しだ。慰撫をこめて手で頬を覆うと、少しばかり温かく、また濡れていた。
 「汗をかいている」
 「それはもう。よく動きましたから」
 「おまえが汗なんて珍しいな」
 「たまにはよろしいでしょう」
 陽子は微笑んだ。たしかに、悪くない。
 柔らかな下草の生えた地面に、さっき掴んだ絹紐がとぐろを巻いていた。頭上をもう一度見上げ、見下ろしてからなるほど、とうなづいた。
 「ここは、瑠璃鳥用に作った巣箱をかけた木の下だ。ってことは、私達はあの巣箱の中に箱渡りしたんだな。で、おさまりきらずに壊してしまったんだ―――連れてきてくれたあの小鳥はどうなったんだろう」
 ここに、と地中から声が聞こえて班渠が顔をだした。耳と耳の間に、すでに事切れてくしゃくしゃになった瑠璃鳥の死骸が横たわっていた。
 「少し先の地面で見つけました」
 「そうか」
 そっと両手で鳥をすくいとると、もう冷たくなっていた。それでも閉じた目の小さな顔が穏やかであることに少しだけ安堵した。父と妹たちを葬る役を果たし、自分もまたようやく安らかに蒿里に旅立つことができたのだろう。静かに瞑目し、死を悼んだ。
 浩瀚に手を貸して起き上がらせていると、飛び石の並んだ道の向こうからばたばたとあわただしい複数の足音が響いてきた。石の道の尽きた先には例の女官の小堂がある。
 「主上!」
 「陽子!」
 景麒と祥瓊が徹夜明けのはれぼったい瞼で駆け寄ってきた。また、道の反対方向、正寝のある方角からも誰かが走り寄ってくる気配がする。
 まっさきに陽子の側に膝をついた景麒の顔はこわばってひどく青ざめて見えた。主人を眺めまわし、疲れてはいてもぴんぴんした様子を確認したところで、ようやく長々とお決まりの吐息をついて、ほんのりと頬に色をのぼらせた。
 「まったく―――あなたというお方は。どれほど周りの者に心配させれば気がおすみになるのです」
 わずかばかり微笑んだ麒麟の、さらりと長い金髪がひと房、上質の衣に流れていた。木漏れ日をはじく金の滝は、陽子の位置からは逆光のために、まるで雪の燈籠のようにうすく柔らかく白々としていた。
 楼から金波宮へ向かって飛ぶときに、この麒麟はゆるぎない灯台の役目を果たしてくれた。どっちに向けて飛んだらよいかと思い迷った時、まっさきに脳裏に浮かんだのがこの美しい生き物だった。陽子は手を伸ばした。
 「おまえも腐っても麒麟なんだな。目印をありがとう。助かったよ」
 「腐っても……とは聞き捨てなりません」
 とたんに仏頂面になった麒麟のたてがみは、同じ金色でも虫の放つ毒々しいまでのきつい黄金色と違って、優しく控えめな艶を帯びている。そっと撫でてやると憮然としたままそれでも心地よさそうに目を閉じた。
 「陽子!」
 向こうから鈴と桂桂と桓?も駆けてくる。桓魋は浩瀚をみとめると、拱手したのち何事か耳打ちした。浩瀚は黙ってうなづいた。
 「陽子ったら。なんなのよいったい、……・なんてまあ下品な格好してるの。まともに心配してたこっちが馬鹿みたいじゃないの」
 祥瓊は陽子をひっぱり立たせて、容赦なく小言をまくしたてながら胸元をたくしあげ、けばけばしい衣装をくまなく検分する。
 「いったいどこで着こんだ衣装なのよ?白状なさい。どうせ碌な事をしなかったんでしょう」
 ふいに桂桂が頓狂な声をあげた。
 「あれっ?」
 「なんなの」
 「ううん、鈴。みて、その紐」
 木の根元にとぐろを巻いて落ちている絹紐を桂桂から受け取って、鈴は思案気に首をかしげた。
 「ああ、陽子の帯でしょう。木箱の巣の枝にくくりつけておいた、妙に長すぎるって言ってたアレ。まだ結んだままはずしてなかったのね」
 「長い理由がわかったわ。ほら、二本を結んであったのよ」
 見ると、途中までは確かに陽子の腰に巻かれていた女物の帯、結び目を経てそれは、白無地の細幅な絹地にかわっていた。
 「これって……もしかして」
 急に鈴の手が小刻みに震え出した。祥瓊も突然に気付いて、きゃっと叫び声をあげた。
 「何事だ?」
 桓魋も何気なく鈴の手元をのぞきこんだ。
 「なんだ。これは男物の下履きじゃないか、お嬢さん方。下世話に言うと、フンドシだな」
 「えっ」
 陽子はとっさに振りむいた。
 「フンドシ?嘘だ、襟巻じゃないのか?」
 思わず口を挟んだ陽子は、いっせいにキッとむけられた人々の目線の異様な迫力に押されて口をつぐんだ。
 「―――陽子」
 地をはうような声音で祥瓊が呼んだ。愛らしい笑顔なのが恐ろしい。
 「はい」
 「これはどなたの下履きなの。どこで、どうやって手に入れたの」
 「えーっと……それは、だな」
 おそるおそる人型の神獣を指差す。せっかく頬に血の色がもどった景麒は再び、音がする勢いで青ざめた。
 「ほら、私はここのところ刺繍の練習をしていただろう。どうせなら、景麒の襟巻に刺繍をしてやったら、喜ぶんじゃないかって思ったんだ。誰かのための方が私もやる気が出るし。で、こっそり仁重殿から一枚失敬した―――その、襟巻を」
 確かに襟巻だと思ったんだ、と後ずさりしながら陽子はかろうじて言った。襟巻って細長い布だろう?
 そうです、細長い布ですね、と返す景麒は一歩前へ進んだ。陽子は浩瀚にすがるような目を向けたが、ただ綺麗に微笑まれただけだった。この裏切り者、と心中で叫ぶ。
 「―――主上」
 無表情な麒麟の紫色の目が恐ろしいほど吊りあがって見えるのは、おそらく気のせいではないだろう。
 「まったく。あなたというお方は……!!」
 ―――その朝。金波宮では、世にも珍しい、慈悲の具現である麒麟の怒声が正寝中に響き渡った。
 外殿にあっても、内殿のすぐ近くにある回廊あたりでは、ゆきかう多数の者にその声が聞こえたという。

 「堯天の寝具通りにあった例の妓楼ですが、主上」
 「うん?」
 「聞いておいでですか」
 「うんうん。聞いてる……」
 陽子は正寝の一室で、小卓を前に横椅子に座り込んでいた。座面には心地よい小枕がいくつか載せてあり、そのひとつを腹に抱え込んだまま顎をのせ、行儀悪くも立膝で丸まっている。小卓の上には、安物の耳飾りが一対と瑠璃色の小さな尾羽が一本、並んで置かれていた。
 「さようですか。では続けさせていただきますが、桓?の報告では無事に虎嘯を発見して保護したそうです。虎嘯は円陣で飛んだときにうっかり左脚の一部が円の外に出てしまったようで、左ふくらはぎと大腿部にかなり深手の裂傷を負っておりました。しかし命に別条はありません。本人によると、舐めときゃ治る、とのことですが」
 あの時、と浩瀚は続けた。
 「あの円陣を作った時、飛雀の体内の血液にはだいぶ虫の青い血が混じっていたようです。それで呪文が一部効かなかったんでしょう。虎嘯は楼にいた記憶が消えていませんでした。一部始終をちゃんと覚えているそうです」
 そうか、と陽子は小枕をさらに深く抱え込んだ。
 「本人が何を言おうと、ちゃんと手当てしてよく休ませてあげてくれ。夕暉が心配するだろうから。……それと、火酒を3本差し入れてやってくれないか」
 「薬ではなく火酒ですか」
 「約束したんだ。3本だぞ。火酒がいいって」
 「わかりました。また、坂の下の箱枕屋にひそませていた夏官の者と共に、同妓楼から四名および一匹の遺体を回収したそうです」
 「一匹はあの白猫だろう?四名は」
 「老婆と初老の男、犬歯の男、あとは下働きの娘のようです」
 「ああ……死んでいたのか」
 「棟黄という男は楼の棟木に差し貫かれた姿で見つかりました。どうも棟という名前に引きずられて、楼が崩壊したときに脱出し損ねたようです。もう一人の男は体内に巣喰っていた虫と一緒にからからに干からびた木乃伊になっていました。文献によると、楼が壊れたときに中に残るとこのような死に方をすることもあるそうです。老婆と下女は虫とは無関係の雇い人だったようですが」
 「そうか。楼の世界は奥が深くて謎だらけだな。わかっていないこともいっぱいあるんだろうな」
 「はい。この箱渡り族についても、まだ全容が解明されたわけではありませんし」
 陽子は耳飾りのひとつをとりあげると、窓にむかってかざした。質の悪い硝子玉が輪の先でちらちらと揺れ、薄青の澄んだ光を透かせている。
 「虫と番うって。そんなことを……天が許すのかな。なぜ里木には卵果が実ったのだろう」
 「わかりませぬ」
 浩瀚は明るく言った。
 「天のお考えを察するなど、恐れ多いことでございます」
 「なあ浩瀚。おまえは―――いや、やっぱりいい」
 「何でございますか?」
 「なんでもない」
 卓上に耳飾りを戻しながら陽子はため息をついた。浩瀚はこちらの人間だ。蓬莱生まれの自分とは考え方の根本から違う。浩瀚でさえやはり天は天なのだろう。疑問をさしはさむ余地のない、ただそこにあって崇めるべきもの。
 しかし、と陽子は思う。自分は良くも悪くもよそ者だった。この世では自明の事柄を、どうしても一歩下がって離れたところから見てしまう。
 奇妙な虫が人と混血するような規則を無視した異常なことが行われる。やがて虫はどんどん増殖し、伝染して広まり、のっとって制御してやろうとその国の首都の頭脳をめざす。これに似た現象を、かつて住んでいたあちらの世界で見たことがあった。
 (ウイルス)
 (それも、コンピュータの)
 似ている、と思う。
 一度そう考えると、打ち払っても否定しても、どこか類似点があるような気がしてしまうのだ。天という存在の人工的なあり方については、泰麒の帰還の折にすでに一度、自分は疑念を抱いている。
 ―――この十二国の世界は、いったい何なのだろう。
 これもまた、誰かが作った楼ではないのか。そうではないと、完全に言い切れるものか。
 天とは何だ。王とは何だ。
 「主上」
 思考の海から引き戻すように、そっと浩瀚が声をかける。
 陽子は瞬きをした。陽がすでに高くのぼっていて目に眩しい。夏の到来を予感させる、白く屈託のない陽にあぶられて、窓の向こうの緑はしたたるように葉を伸ばしている。もうすぐ昼餉の頃合いだろう。休憩をつげる半鐘もそろそろ鳴る刻だ。
 夏の前の陽が熱気を孕んでどこか楽しげなのも。
 地面の土がほどよく焼けるのも。
 回廊を吹きすぎる風に夏柑子の香りが混ざるのも。
 湿気を含んだ群雲も、急に降りだす気まぐれな夕立も。
 薄い紗の水色、娘の衣の赤色、寺社にかざられた貴色の黄色も。
 この世界が何で、誰が作ったものだろうと、中に生きている生き物は、植物も、獣も、もちろん人も、それぞれに懸命に生きて、命をつないでいる。それだけは、作りものではないのだ。
 そして自分は王で、それらを守る義務があるのだ。
 ―――疑念を抱くのはかまわないが、迷うことだけはしてはならない。
 浩瀚は数枚の書状を陽子の前に差しだした。
 「眠り人を収容している施設からの報告も翼伝えに早速上がってまいりました。眠っていた男達はみな無事に目覚めた由にございます……娘御たちも忽然と派手な衣装で次々あらわれたのだとか。先の追放令のせいでもともと数は少なかったので、娘の場合は失踪があまり表沙汰になっていなかったようです」
  そうか、と陽子はちょっと笑った。―――そうか、本当に、よかった。
 「あの白とも黒ともつかなかったやっかいな懸案もこれでようやく解決だな。飛雀や棟黄たちのように虫にのっとられた者は亡くしてしまったが……邑の住民に死者が出なくて、これ以上ないぐらい嬉しい」
 「拙めを誰だとお思いです。邑から死者は出さないと最初からお約束申しあげたでしょう」
 「確かにそうだった。褒美をとらそうか?」
 「結構でございます。もういただいておりますゆえ」
 ほらここに、と大事そうに胸元をおさえる浩瀚に陽子は首をかしげた。
 「いったい何がしまってあるんだ?」
 「これでございますよ」
 取り出された茶器を思い出すまで、数秒かかった。いつだったか屋根の上で一緒に茶を楽しんだときに下賜したものだとようやく気づくと、今度は呆れた。
 「欲のない男だな。そんな茶器一個で良いのか?」
 「おわかりになりませんか。これのおかげで、拙はあなた様の居場所にむけてまっすぐ飛ぶことができたのですよ」
 その人に関係の深いものを持っていれば、その人の居場所を目指して飛びやすくなる―――陽子はふいに喉につっかえていたものがとれた気がした。楼を飛ぶたび、なぜこの男は行く先々で的確に自分を探し出すことができたのか、ずっと疑問だったのだ。
 最初の楼で、寝室にいきなり自分を探しに来てくれたこと。三つの円陣で別れ別れに飛んだあとも、すぐに自分のいる商店街まで飛んできてくれた。あれは胸に茶器を隠し持っていたからこそ、なのだ。
 「じゃあ、最後に金波宮の禁苑に飛んだとき、小堂に見事な緻世楼がいっぱいあったというのに、あえて鳥用の巣箱に飛んだのは」
 あの時、陽子は目印に景麒を思い浮かべていた―――だから。
 「巣箱に、台輔の下履きが結び付けてあったからですよ」
 浩瀚の言葉に、苦虫をかみつぶしたような顔で神妙にうなづいた。きっとそのとおりなのだろう。
 「あの下履きは、実は刺繍に失敗して穴を開けてしまってさ。だから、堯天に降りた時、箱枕屋を見に行くついでに布屋さんにもよって、新しい絹布を買ってこようかと思っていたんだ。……結局、楼に閉じ込められてしまったから、見にいけなかったんだけど」
 「なに、台輔のお怒りは解けますよ。主が自分のために刺繍をしてくれたなんて、それだけでも本当は嬉しく思っておいでなのですから」
 「……だといいけどな」
 般若のごときだったあの麒麟の姿を思い出して、陽子は萎れた。浩瀚はくすっと笑う。
 「団子も買い損ねたままでいらっしゃるし、そのうちまた堯天に降りられて、ついでに布を見に行かれればよろしいでしょう」
 「団子じゃないよ。月餅だって何度も言っただろう」
 「それは失礼を」
 「だいだいな、おまえは」
 陽子は立ちあがって浩瀚の胸元に指を突き付けた。
 「おまえは、いつだったか茶菓に出た月餅をかじって、これは美味しいですねって言ったじゃないか」
 「……そんなことを申しましたか?」
 言ったんだ。陽子は吠えた。
 「だから、城下に評判の月餅屋があるって聞いて、買いに行こうかと思ったんだ。鈴たちのためもあるが、主としておまえのために、だぞ。なのにおまえときたらいつも団子と月餅をごちゃごちゃにする!あのおまえに化けた虫男でさえ団子と月餅の区別はついていたのに」
 「―――よくそんな雑談の些事を覚えておいででしたね」
 陽子はふふんと笑った。
 「私の記憶力を舐めてもらっては困るな、冢宰殿」
 「これからは肝に銘じておきましょう」
 二人は顔を見合わせてしばし見つめあった。ややあって陽子は言った。
 「なあ浩瀚。楼って、人みたいだと思わないか」
 「人でございますか」
 「うん。その人に関係の深いものを持っていると、その人めがけて飛ぶことができる―――この間、楼の間を飛んでいるときに気づいたんだ。私の中にも、おまえの欠片がある」
 思わぬ言葉に、浩瀚は目を見開いた。
 「だから、おまえはたびたび私の中に、たやすく入ってくることができるのではないか」
 主の翡翠の目は浩瀚をひどくまっすぐに捕えて離さない。
 「同じように、おまえの中に私の欠片はあるか?―――それとも、ないだろうか。私はときどき、おまえの中に飛んで、懐の奥深くに触れたような気持ちになることがある」
 ―――あれは錯覚なのかどうか、教えてほしいんだ。
 「……なぜ、あなた様は奥深く隠したつもりの、私の罪を御存じなのです」
 ゆっくりとひざまづきながら浩瀚は主を見上げた。惹かれてやまない暁の女王の可愛らしく凛々しい顔は陽に澄んで美しい。
 「そのようにまっすぐに……あまりに簡単に、拙めの想いを太陽の下に引きずり出さないでください。焦げてしまいます」
 「焦げて何が悪いんだ?」
 あっけらかんと言い放つ少女は清水のようにすがすがしかった。浩瀚は眩しくて目を細めた。鬱屈して屈折した己の想いと比べるとなんとこのお方は清いことか。麒麟のように深く額づくと、小さな足の甲にそっと額を押し当てた。
 「あなた様の欠片は、私の中にございます―――それも、これ以上入らないほどに。私の中は常にあなたでいっぱいなのです」
 御存じでしょうと問うと、女王は嬉しそうに胸を張った。
 「班渠から私が落ちそうになった時、おまえ言ったよな。私から離れることは許しませんって」
 「あれは……とんだご無礼を申し上げてしまいました。どうぞお許しを」
 「いいや、許さん。いいか。今後、私からおまえが離れることは許さんからな。覚悟しておけ」
 「―――謹んで承ります」
 「浩瀚」
 「ここに」
 立ちあがった男の腕が背に回るのを感じながら、陽子は力を抜いて体を預けた。
 「この耳飾りと、青い羽と。一緒にして、箱渡り族の里に葬ってやって欲しい」
 「御意」
 「飛雀って、本名は青蘭っていうのか。二人は兄妹だけど、愛し合っていたんだな」
 「許されようが許されまいが、人は人をどうしようもなく愛してしまうことというのはあるものです」
 「へえ?」
 陽子が笑って身じろぎすると、浩瀚は見つめられるのを避けるようにさりげなく横を向いた。
 「おまえらしくない物言いだな」
 「そうでしょうか?」
 「うん」
 くすくすとひとしきり笑ってから、陽子は呼んだ。
 「浩瀚」
 「はい」
 「少しかがんでくれ。中腰に」
 「は」
 碧い瞳がなかば伏せられ、朱色のまつ毛が一度だけ下がって、また上がった。顔を上げた浩瀚の唇に、不意打ちのように突然、何か柔らかくて甘いものが触れた。
 世界のすべてが止まったように感じられる数秒、浩瀚は目前で桃色の唇が動いて言葉をつむぐのを信じられぬ心地でただ見守った。
 「この唇も、おまえに下賜する。今後ずっとだ」
 きらきらと瞳を輝かせて、太陽より赤い髪をひるがえして陽子は腕を抜け出すと、戸口に立った。振り返って、陽を浴びて茫然と立ち尽くす男を見やる―――覚悟はいいか。
 「浩瀚」
 「……は」
 「それとな、好きな時に、私はお前の名前を呼ぶことに決めた。いつだって、どんなときだってだ。呼びたいときはいつも呼ぶ。いいな」
 続けて数語呟いて、そのまま返事を待たずに、緋色の女王は真昼の日差しの中へと出ていった。
 浩瀚は唇を押さえた。
 ―――許されようと許されまいと。
 ―――人は人をどうしようもなく愛してしまうことあるものです。
 あれな、その通りだと私も思うよ。
 ―――だって、私は浩瀚、おまえのことが好きだもの。
 耳に残る幻聴が繰り返し波を寄せるのを、浩瀚はただ黙って聞いていた。


 
 
 

皆様いかがでしたでしょうか。スケールの大きなお話に、ハラハラドキドキする展開。そして葵様独特の語り口に引き込まれたのではないでしょうか。このお話を頂いた時、正直「こんな素晴らしい大作を私が頂いてもいいんですか!」って感じでした。そして「こんな素晴らしい作品をアップしたら私の作品がかすんじゃう」とも(苦笑)。しかし、こんな素晴らしい作品を一人占めするのも悪いしもったいなく、「一人でも多くの人にこの作品を楽しんでもらいたい!」という思いでアップさせていただきました。
皆様楽しんでいただけると幸いでございます。
そして、 葵様、本当にありがとうございました。次の作品も心より楽しみにしております。

(オマケ画像はのぞき見終了です)
inserted by FC2 system