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「 楼 」 〜8〜
 

 「いらっしゃい!」
 威勢の良い掛け声がとんできた。
 あまりの声の大きさに、音に軽く頬をはたかれたような気がするほどだ。見ると、ひどく黒光りしている前掛けをつけた禿頭のおやじが手の鐘を派手にふりまわしながら「安売り!安いよ!」と大声でわめいている。
 路上に張り出した、変てこな屋台の店先である。粗末な木の台の上には雑多なものがごちゃごちゃと並んでいて、何を売る店なのかいまひとつはっきりしない。陽子はそれらのいくつかを目元にかざしてみて、思わず口を開けた。
 ――― MADE IN JAPAN。
 たしかに日本製だ。
 丸い筒はどうみても単一の乾電池だし、欠けたプラスチック製の人参の玩具、ぜんまいで動くロボット、色とりどりのビー玉もある。
 熊本産の芋焼酎の一升瓶、傷だらけの古いレコード(表にビートルズと書いてある)、カビの生えたしゃもじ、空っぽのサバの水煮の缶詰。黒い紐の生えた小さな皿は、携帯の充電器のなれの果てだ。
 楼の間を飛ぶときに感じるいつもの眩暈がおさまると、陽子は目をこすって歩き出した。
そこには和洋中入り混じった商店街だった。さらに現代と過去までがごっちゃに溶けたような雰囲気がある。両脇にひしめく店にはさまれて、中央に石畳がまっすぐに延びていた。石畳は桃色と白のモザイク模様で、ところどころに鳥の形のタイルが埋め込んである。
 そこそこ人がゆきかっているが、人間以外の生き物も多数混ざっているようだった。半獣というわけでもない。蓬莱ではお化けとか妖怪と呼ばれるたぐいのものだ。
 首のない七面鳥のわき腹から人間の太腿がにょっきりと生えた不思議な生き物が、登山靴を履いてすたすたとわきをゆきすぎて行った。卵に目鼻の生えた男性(髭が生えているから、女性ではないだろうと思われた)は、きちんとタキシードを着て、ごろごろと転がって前に進んでいく。そのすぐ後を、髪の毛が全部蛇でできた中年女性がかっぽう着をはおり、自転車のかごに蛙をいっぱい乗せて走っていく。
 今まで渡ってきた楼はまるきりの無人か、奇抜な発想を衒うものか、あるいは用途に忠実なだけの人工的な作りのものが多かったが、この猥雑な雰囲気漂う楼には実際に人が生活している空気が漲っていた。
 この人達は楼のために作られた偽物なのか、あるいは自分と同じくどこかから飛ばされてきた人間なのか。飛雀がいればすぐに答えてくれるだろうが、あいにく陽子にはさっぱりわからない。
 やがて十字路に出た。まっすぐ続く石畳に横合いから似たような細い道が合流して、また離れて行く。
 二つの道が交差する接点に、小さな噴水があった。中央に羽の生えた幼児が壺をかかえてたたずむ彫像があり、壺からは澄んだ水が流れ出て、大理石の水盤に注いでいる。りんりんと雫のしたたる涼しげな音が商店街中に響いている。
 陽子は大理石の端に腰を下ろした。さて、これからどうしようかと首をひねる。
ひねってみて、浩瀚がどこに飛ばされたのかということだけを、ひどく気にしている自分におもむろに気付いた。飛雀ではなくなぜ浩瀚なんかを気にするのだろう。あの男なら放っておいても自分でなんとかするに違いないのに。
 ―――ボチャン。
 背後で、何かが水盤に落ちた音がした。振り返ってみると、浅い水底に銀色の丸いものが沈んでいる。手を突っ込んで拾い上げてみると、キャットフードの缶だった。陽子は濡れた手を裾でぬぐいながら、天使の持つ壺を見上げた。どうやらあそこから落ちてきたようだ。
 と、また何かころりと転がり落ちてきた。水に飛びこむ前に両手でキャッチして眉根を寄せた―――バタバタ動いている、これはいったい何だろう。黒い胴に黒い羽、何の生き物だろうか……見たことがなかった。だいたいどっちが頭かわからない。
 手を離すと、謎の黒い生き物は羽ばたいて、軽々とアーケードを飛び越えてどこかへ飛び去って行った。
 ガランガランという音が近づいてくる。さっきの変てこな店の禿頭のおやじがこっちにやって来るところだった。手に持った鐘を派手に振りまわし、相変わらず「安いよ!」と叫びながらのしのしと歩いてくると、噴水の水盤を眺めまわして、陽子にむかって手を突き出した。
 「獲物はどれだい」
 「は?」
 「さっき壺から何か流れてきたろう。嬢ちゃん、横取りしてないか」
 「ああ、これか」
 猫用缶詰を手渡すとおやじはうむ、とうなづいて前掛けのポケットにしまった。
 「もう一個なかったかい」
 あとから出てきた黒い変なものは飛んで行ってしまったと言うと、おやじは大げさに肩をすくめた。
 「困るね。一刻から三刻までの間にここから出てくるものは、俺の取り分だと決まっている。店に並べる商品にするんだ。商店街の皆で泉を独り占めしないように時間帯で決めて約束してるのさ。嬢ちゃん、そこにまだしばらく座ってるんなら、出てきたものをまとめて俺の店に届けてくれなくちゃいかん。でないと商店街警察の連中に逮捕されても文句は言えんよ」
 「それはすまなかった。あいにく、ここに長居するつもりはないんだ。もう行くよ」
 陽子は服の裾を払いながら立ちあがった。
 「この壺には、いったいどこからものが流れてくるんだ?」
 「知らん。知らんが、とくに蓬莱のものは多いな。むろん、崑崙のものもある。だからこそ貴重だし売り物になるのさ」
 「ふうん。不思議だな」
 「そうでもないさ。……おい、ところで嬢ちゃん」
 陽子の赤い頭のてっぺんから粗末な靴の先っぽまで無遠慮に見やると、さっき猫缶をしまったポケットから一枚の折りたたんだ紙を取り出した。広げた紙には女の顔が描かれていた。
 おやじは紙を陽子の顔の横に並べてつくづくと眺めた。
 「やはり、さっき回ってきた回覧板の尋ね人の女に似ている。おまえさん、名前はなんというんだね」
 この瞬間、陽子は自分が偽名を名乗っていることなど、綺麗に念頭から抜け落ちていた。
 「陽子」
 答えたとたん、左の手首に衝撃が走った。わずかなぴりっとした痛み。見下ろすと、細い手首のぐるりを輪の形に細く血がにじんでいる。次いで、ずしっと身体が重くなったような気がした。しまったと思ったがもう遅かった。飛雀が作ってくれた輪は壊れてしまったのだ。
 「ああ」
 気が抜けたようにため息をついたのはおやじの方だった。
 「翼がもげたね。もう飛べまい。なら、あんたもこの街の住人だ。どこかに店を持っちゃどうだい。あんたがその気なら、回覧板を回してよこした追手の連中から守ってやってもいい」
 商店街の結束は固いからな、と胸をはるおやじに、陽子はしっかりとかぶりを振った。
 「悪いな、おやじ。ここにじっとしているわけにはいかないんだ。別れた連れも探さなくてはならないし、帰らなくてはならない家もある―――もう行くよ」
 おやじの顔色がすっと青ざめた。手の鐘を振り上げる。
 「本当に行っちまうかね。考え直さないか?ここに定住しないのか?」
 「しない」
 きっぱりと言い切ったとたん、ガランガランとひときわ派手な鐘の音が商店街中に鳴り響いた。おやじが太い腕に血管を浮かべて、今や鬼の形相で手の鐘を打ち鳴らしていた。
 「手配中の女がここにいるぞう!生け捕って、ここから出る権利をもらうなら今だ!」
 とたん、店の中からも外からも、わらわらと雑多な姿かたちの生き物たちが噴水めがけて駆け寄ってきた。脚の7本あるもの、毛が七色に光るもの、全身が目でできたもの。まだまだ湧いて出る。
 鹿のように敏捷に陽子は身をひるがえした。
 してみると、ここの商店街の人たちは皆飛べなくなった者ばかりのふきだまりで、仕方なく定住を余儀なくされた者の街らしい。
 巨大なケチャップにしか見えない茶褐色の生き物が体当たりしてくるのを紙一重でよけると、お茶屋の暖簾をまくりあげて、地面に山と積まれたビール瓶をひっくりかえし路上にぶちまけた。わあわあと騒ぎがだんだん大きくなってくる。しかし、陽子は逃げることにかけては手慣れたものだ。
 「そっちだ、雨具屋の近くにいったぞ!」
 真っ黄色のレインコートと穴のあいたビニール傘が置いてあるガラスケースに飛び乗り、そのまま上を駆け抜ける。雨具屋のおやじは濡れた皮膚に眼鏡をかけた蛙に似た男だ。台からぽーんと楽々飛び下りて、石畳に着地したと思ったとたん、そこに落ちていたバナナの皮に見事に滑ってどすんと尻もちをついた。
 「なんてまあ、ベタな……」
 バナナの皮をつまみあげて傷めた腰をさすっている最中にも、奇妙な住民たちの壁はずいずいと包囲をせばめてくる。おそらく陽子を生け捕れば、彼らのうちの誰かに飛ぶ力を持つ手首の輪を与えられるのだろう。みな必死の顔つきだ。
 天使の壺から落ちてくる外界の珍品を旅人に売りながら生計を立てるこの街の暮らしは堅実だが、先が見えないだけに息が詰まる。同じ街、同じ人、転売するだけで何を生み出すでもない仕事。飽き飽きし、皆、この閉塞した楼の中からどうしても出たいのだ。
 ふと、陽子の耳元で小さな声がした。
 「ペットショップへお行き」
 ぺっとしょっぷ。久しぶりに聞いた外来語に耳が慣れず、とっさに反応しそこねた。
 誰だろうと見渡すと、小さな虻が頬の辺りを舞っていた。目鼻口に黒い髪。人面がちょこんとついている。
 「伝言だ。瑠璃鳥があんたを待っている。ちゃんと伝えたよ」
 虻は周りをはばかるように見やってついっと離れて行った。
 さてペットショップね、ペットショップ―――ざっと辺りを探すと、履物屋、装飾品屋の看板の向こうに、ワニと翼龍が毒々しく描かれた看板が一枚、群を抜いてそびえているのが見えた―――あれだろうか。
 飛びかかってきた真珠の首飾りの肥った女から身をかわし、陽子は看板の店に駆け込んだ。
 「まいど」
 のんびりと落ちついた声がした。入口をはいったすぐのところに立派な尾羽のオウムがいて、声はその嘴から聞こえてくる。
 「ご主人?」
 「いえ。私は小さすぎて人の目には見えませんので、古株のオウムに店番を変わってもらってるんですよ。こうして奴の嘴も時々借りましてな」
 オウムが言った。きょろきょろと見回しても主人らしき人物は見当たらない。代わりに、看板の通りに本当にワニがいた。ただし桃色で、囲いの中で大人しく新鮮なキャベツをかじっている。ワニの背中にはヒヨコ大の翼龍が羽に首を突っ込んで眠っていた。
 「伝言は伝わりましたかな」
 「ええ。瑠璃鳥がどうとか……」
 「そこの右の棚の上から二番目の引き出しをお開けください。あなた様をずっと待っておられた鳥がおります」
 店の外に押し寄せた群衆の怒号が暖簾越しにここまで聞こえてくる。否応なく背後を気にしていると、オウムは尾羽をすきながらゲッゲッと鳴いた。笑い声のようだ。
 「大丈夫。ペットショップは治外法権です。彼らも中には踏みこめません。さ、引き出しを」
 古い桐箪笥の取っ手を引くと、中には硝子の枝を組んでつくったきらきらした巣があった。ちょこんと真ん中に瑠璃色の小鳥が座り込んでいて、つぶらな瞳で陽子を見上げると、さも待ちくたびれたというようにきゅるり、と鳴いてみせた。
 「おやおや。名をなくされましたな」
 オウムの口を借りたご主人が思案げに言った。青鳥はまたきゅるっと鳴くと陽子の肩にちょんちょんと人懐っこくのぼってきた。
 「まあその鳥と一緒に行けば、輪がなくても飛べましょう。瑠璃鳥の飛ぶ力は甚大ですからな。ただ行きは良いが、帰りは難儀でしょう。誰ぞ、輪をつけた人間がもう一人いれば良いのですが」
 「連れがいたのですが、さっきの楼で別れてしまって」
 「そのお方は名をお持ちで?」
 「ええ」
 「もしかして、あのお方ですかな」
 「え?」
 その時、表の暖簾をあげて、男がひとり入ってきた。全身ぐっしょりとぬれ鼠で、髪と言わず服といわずぽとぽとと雫をふりまいている。たちまち店先に水たまりができた。はじかれたように、瑠璃鳥を肩にのせたまま陽子は立ちあがった。
 「……っ浩……!」
 「穿龍でございます。遅くなりました、翔鷹さま」
 恭しく拱手すると袖口から滝のように水がこぼれる。少々間抜けな姿だがまぎれもなく浩瀚だった。
 「それがさ。その名を不注意で無くしてしまった」
 情けなさそうに手首を見せると、びしょぬれの浩瀚は赤い傷をそっと濡れた指でなぞって押しいただくように額に当てた。
 「なに、拙めがお側におりますゆえ、ご心配召されますな」
 頬が熱くなった気がして、陽子は慌てて手をふりほどいた。
 「よくそれだけ濡れたな、おまえ。どうやって、どこから来たの」
 べったり張りつく黒髪をかきやると、ふりほどかれた手を宙に浮かせて男はわずかに苦笑した。
 「排水溝に流されまして、広場にあります噴水の、幼児の持つ壺から出てまいりました」
 「あそこから!」
 「は」
 小さな壺から這い出てぼちゃんと水盤に落ちただろう冢宰殿の様子を想像して陽子は思わず噴き出した。笑われた男は冷え冷えと美しい笑顔を浮かべた。
 「噴水から出てみますと、住民が大騒ぎして集まっている店が一軒だけございました。間違いなくきっとあなた様はあそこにおいでだ、騒動の元はあなた様であろうと、すぐにわかりました」
 陽子はぴたりと笑い止んだ。
 「さ、行かれませ。そろそろ猫めが限界のようです。待っていても娘さんはもうここへ迎えには来られないでしょう。気の毒ですが、こちらから行くしかありませんよ。河原へお急ぎください」
 オウムはそう言って、暖簾へ飛んで行くと隙間に首をつっこんで外を覗きこんだ。相変わらず表はわあわあと賑やかしい。
 「外は無理そうですな。なら中からどうぞ。ちと窮屈ですがな」
 翼をひるがえして向かった先は、桃色のワニだった。一言二言オウムが鳴くと、ワニはかじっていたキャベツを離して、従順に大口を開けた。磨かれた水晶の歯がずらりと並んで美しい。
 歯が尽きた喉の奥には、もうすっかり見慣れた例の黒いトンネルが続いていて、覗きこむ陽子の顔に湿った夜の匂いをのせた外の空気が吹きつけてきた。可愛い翼龍が背で飛び跳ねている。
 「なあ、飛雀に何かあったんだろうか。猫ってなんのことだ?」
 小声でこっそり浩瀚に尋ねてみたが、行けばすぐに分かりましょうという答えが返ってきただけだった。
 「ご主人。世話になった」
 身をかがめて首をつっこみながら、体をねじって振り返りオウムに礼を言う。しわがれた声でなんのなんの、と主人は笑った。
 「ここは折れた者のふきだまりですからな。日々の暮らしは確かでも、あまり伸びゆく変化がない。久しぶりに伸びて行く旅人と出会えたのは嬉しいことでした」
 「ご主人は……その、ここから出たくはないか?よかったら一緒に行かないかと思って」
 「さて。昔は出たくなかったわけではありませんが、そんな気持ちもすっかり忘れてしまいましたなあ……おそらく、閉塞した中でしか暮らせぬ臆病な人種というものもあるのです。私など、その典型でしょうな―――どうぞ気になさらず、お捨ておきください」
 「……そうか」
 さ、参りましょうと浩瀚に軽く背を押されてうなづき、陽子はワニの喉へ身を躍らせた。固く握りあった手が温かい。瑠璃鳥が丸まって襟もとにもぐりこんでいるのがくすぐったい。浩瀚が後に続いて滑り込んでくる気配に、陽子は体の力を抜いて渦に身を任せた。
 「どうぞ、お達者で―――景王さま」
 遠ざかるワニの口の向こうで、オウムの声が切れ切れに聞こえた。

 ぽん、と音がした。
 ビニール袋いっぱいに空気を入れて、両手で勢いよく叩いたような音だ。
 「うわっ?!」
 陽子は思わず体のバランスを崩したが、しっかりした腕が背後からその腰を支えた。
 体全体が下へ下へと落ちて行く感覚がする。髪が煽られて千切れそうで、ひらひらした服の裾はとんでもないことになっている。肩のすぐ横を、黒いタイルのような欠片がゆるりと落下していった。なんだろうと落ちてきた方向を仰ぐと、満天の暗い夜空の一カ所が、何かが無体にぶつかったようにぽっかりと穴を開けていた。欠片はタイルではなく、夜空の一部分だった。
 何かとは、つまり自分たちのことだ。
 ペットショップからこちらの楼へ移ってきたのはいいけれど、今までのように流暢に静かに入り込むのではなく、どうやら壁をぶち抜いて力づくで侵入したらしい。そうして、まっさかさまに、眼下を流れる銀色の川にむかって勢いよく落ちているのだ。
 「雨が……」
 黄金色の蜂蜜のような雫が、あちらこちらを粒状に漂っている。手を伸ばして触れようとして慌てて引っ込めた―――雨ではない。
 「お気をつけて。例の虫です。だいぶ弱っているので害はなさそうですが」
 浩瀚が言う。大きく空気が動いて、二人は下を流れる川の向こう側に、びゅうっと叩きつけられそうになった。そこの地面は上空から見てもちりちりと不穏にくすぶっていて、ところどころ白い煙をあげていた。土の上に淡い残光がきらめき、消えかけた巨大な円陣の名残をとどめている。そのすぐそばに見覚えのある小さな人影が倒れ伏していた。派手な裳、綺麗に結った空色の髪。耳飾りをはずしたこぶりな耳たぶまで、なぜかくっきりと浮きあがって見えた―――あれは。
 「飛……!」
 陽子が人影に呼びかけようとしたのとほぼ同時に、視界に暗褐色の毛皮が割り込んだ。柔らかく身体が毛の海に沈みこんだかと思うと、振動をつたえぬよう細心の注意を払ってふわりとすくいあげられる。腹の下から低い声が響いた。
 「ご心配申し上げました、主上。ご無事でなによりです」
 「班渠!」
 「はい。あの親玉めに手を焼かされておりました。お迎えに出向けませず、どうぞお許し下さい」
 「親玉って何だ」
 妖魔の背にまたがり直しながら聞く。浩瀚は陽子の背を守るように後ろに座る。
 「この楼の世界を束ねている主のようでございますよ。……ほら、あの猫です」
 見上げて、しばしぽかんと見惚れる。夜空いっぱいに白く巨大な猫が浮かんで、苦しげにのたうっている。黄色い目をしている―――虫の住む目だ。しかも片方が無残に崩れている。
 「ペットショップのご主人の言っていた猫ってこれのことだったのか」
 「ようやく片目をつぶしはしたものの、痛みに悶えるだけで、なかなか落ちようといたしません」
 またもや殴りつけるような空気の波が襲った。今度は班渠の上なので、空気は二人を避けて脇を流れ過ぎて行った。キィィと板を硝子でこするような耳障りな悲鳴が轟く。また上空からぱらぱらと黒い夜空の欠片が落ちてくる。楼が壊れかかっているのだ。
 陽子は水禺刀のつかに手をかけた。班渠に乗って猫の真正面に飛びこみ、あの黄金色の虫の卵果をつぶせるだろうかと考える。しかしそれよりも、地に倒れ伏した娘の様子もどうにも気になった。
 「班渠、悪いが一度下へ降りてくれ。先に飛雀を助けたいんだ」
 「は」
 「そういえば虎嘯はどうしたか知らないか?」
 「ここに幽閉されていた農民達をつれて、さきほど下の円陣で脱出したようです。おそらく、農民たちはそれぞれの邑へ、虎嘯は堯天の例の妓楼へと戻ったものと思われます」
 「妓楼ってあの寝具通りの?」
 「はい」
 「そうか、飛雀が円陣で逃がしてくれたんだな。よくやってくれた。よかった……」
 「これで邑の皆も、目覚めましょう」
 後ろから浩瀚も言う。
 主の衣の襟元から瑠璃色の小さな小鳥が顔を出して、小首をかしげて暗褐色の妖魔を見やると、軽く頭を下げたように見えた。さっと上空に向かって飛び立っていく。音も無くふわりと着地しながら班渠はくつっと小さく笑った。
 仰向けに横たわった娘の姿は、会わなかったわずかの間にずいぶんと萎んで見えた。陽子は膝をついてかがみこむと袖を裂き、血の気を失った細い手の、その根元のひどい傷に巻きつけた。碧双珠を持ってこなかったことが悔やまれた。
 大量の出血は娘の体だけでなく周囲の土を汚している。血は赤ばかりではなく、ところどころ一筋、ふた筋と青いものが細くばらけた糸のように混じっている。ぐったりした両目は閉じられていたが、奥から押したように異様なふくらみをみせていた。眼球の形がくっきりとあらわになり、隆起する球体を覆うことができず、まつ毛に縁どられた瞼は下方が薄く開いていた。その薄く開いた隙間から、ちらちらと黄金色の光が漏れている。
 ―――この色は。
 「……飛雀」
 呼んで、そっとゆすってみる。娘の指がかすかに動き、払いのけるような仕草をする。隙間の幅がすこし大きくなって、血管の浮いた眼球の腹面がのぞいた。目玉は今にも転がり落ちそうに見える。ああ、と血の気を失った唇からためた息が吐きだされた。
 「―――翔鷹、あなたなの?来てくれたのね。迎えに行けなくてごめんなさい」
 「どうして、こんな……この傷は自分でつけたのか?それより、その―――目が」
 ぼこりと青蘭の瞼が波打って黄金色の光が強くなった。陽子は口をつぐんだ。
 「目が……」
 「うん。そろそろ出てくる頃合いなのよ。さっきから押しているの……でも、ぎりぎり間に合ったわ。自分の目で最後にあなたの顔を見ることができるなんて」
 あたしの運も案外捨てたものじゃいのね、と笑った。息がひどく熱く、生臭く香った。
 「邑の皆を円陣で送ってくれたのは飛雀だろう。本当にありがとう。礼を言う」
 なんであなたがお礼なんか言うの、とまた笑うと、ざわざわと白目が蠢く。目尻から青い血がつ、と一筋あふれ出た。
 「主上。そろそろのようです。お下がりください」
 「穿龍は知っていたのか?飛雀は……虫に憑かれている。いったいいつからだ?」
 「おそらくは、出会った最初から」
 無表情なまま、浩瀚は主の身体をかかえこむと娘から引きはがし、後方へいざった。
 「箱渡りの一族の身体には代々、蟲の血が流れているのです。そうして虫を憑きやすくし、虫の宿として体を提供することで寿命を永らえさせてきました。虫は脳に作用して思考を操り、やがて時が来ると眼球を押し出して、かわりに卵果を眼窩におさめます。……彼女はよく持ちこたえていたが、残念ながらもう、最終段階に入ったようだ」
 「そんな!」
 ―――大丈夫。外に逃がしてあげられると思うわ。
 ―――もちろんあたしも一緒に外に出るわ。
 屈託のない飛雀の言葉が脳裏によぎる。
 ―――もう一度、やり直してみたいの。陽の汗の匂いのする健康的な汗をかいてみたいのよ。
 「ああ…………来たわ。虫がブツブツ頭の中でなにか言ってるわ……あらまあ、あなたって……」
 不意に娘は起き上がりたい、とでもいうように手足をばたつかせた。
 「王?……そうなの翔鷹?あなたって女王さまだったの?それで、ようやくわかったわ、だからこんなに、虫があなたを食べたがって追いかけたのね……それに」
 あたしもあなたに惹かれたのね。
 「あたしは……前にも言ったけど、ずっと王様に会ってみたかったのよ……堯天は素敵な街になっていたんですもの。こんな街をつくれる王様ってどんな方か、とても興味があったの」
 青い血を流しながら娘は歌うように続けた。
 「あたしは、父みたいに権力志向はないと思っていたけど、……あなたが王なら、あたし、仕えてみたかったな」
 あたしも、慶の民のはしくれってことかしら―――ちょっと虫に食われているけれど、ね。
 青蘭が唇だけで笑った次の瞬間、葉が風にあおられる勢いで瞼がぐりっと裏返り、眼球がむき出しになった。徐々にせりあがった眼球はついに、ぷちゅっという音とともに目の縁から転がり落ちた。点々と青い血が噴いた。白い視神経の束が地面に糸を引いた。
 「飛雀!」
 「主上、なりません」
 浩瀚の手を振りほどこうともがく身体を、硬い腕ががっちりと羽交い絞めにした。陽子がいかに暴れようが引っ掻こうが、腕は一寸たりと動こうとしない。万力のような強さだ。
 夜空で白いものが爆発した。
 猫だった。猫が爆ぜたのだ。
 大きくのけぞって奇声をあげている。そのすぐそばで、非常に小さな瑠璃色のものがちらちらとよぎった。
 空気がひどく金臭く、キイインと耳鳴りがする。耳の奥が、頭の芯が痛い。
 ―――どおん!
 大地が吠えた。
 銀の大河が消え、底しれぬ谷間となり、また消えて、空へ落ちる逆さまの滝となった。
 木々は鱗を光らせた蛇になり、すぐに満開の桜の木となって花開いたと思うと、一気にさらさらと崩れた。そしてたちまち広大な見渡す限りの砂漠と化す。
 楼が軋んで、身をよじっている。
 瞬き一つほどの間に目まぐるしく景色が変わり、よじれて、溶けて、また変わり、また溶けた。
 突きあげるような衝動が襲った。大地を鉈でぶった切っているようだ。幾度も揺れる。ひび割れる。
 浩瀚は腕の中に主を抱え込むと固く身構え、身を伏せた。班渠は上を見上げながら、そのそばにぴたりと体を寄せる。
 ―――おおおおおおおおお。
 音にならぬ無数の空気のよじれが陰々と響きわたり―――ついに、夜空が消えた。
 いくつもの黒い壁のようなものがバラバラと降ってくる。班渠はそれを尾で打ち払いながら、落下する板の間隙をぬって青く小さなものがまっすぐにこちらにむかって飛んでくるのを見た。あの小鳥だ。細い嘴が、頭が、翼が、黄色い粘液にべっとりとまみれている。
瑠璃鳥は、なすべきことをなしたのだ。
 己の父親である猫の、つぶれていないもう片方の虫の目をつぶして葬った。しかし、瑠璃鳥にはまだもうひとつなすことが残っていた。妹だ。
 楼のささえる柱である主を失って、世界は荒れ狂った。その激しく吹きすさぶ暴風をこそりとも感じておらぬ風情で、娘は突然、むっくりと人形じみた仕草で身を起こした。頬に青いものが幾筋もつたった跡が残っている。
 その目はもう盛り上がっておらず優しい涙型をして、眼窩に居心地良く納まっている。ただし、濡れ濡れと光る黄金色をしていた。
 「王はどこだろう」
 ―――さっきまで、この娘と話をしていたと思ったが。
 まだ卵果の目はよく焦点を結ばない。手を伸ばして地面を探ると、空色の眼球に触れた。唇が笑みの形をつくり、濡れて温かい眼球の上に手を乗せた。力をかけると他愛なく、べしゃりとつぶれた。
 瞬きをしてかつて夜空が広がっていたあたりを見上げる。今は白くけぶる牛乳のような靄が渦巻いていて、見通しがきかない。どんどん世界が縮まっているようだ。靄は崩れた夜空のかけらと共に下へと降りてきて、体にまとわりつき始めている。
 ふいに呼ばれたような気がして振り返る。肩に軽い重みがかかった。嗅いだ事がないくせに、どこか懐かしい匂いがした。もうすでにさんざん喰いちらかしたはずの娘の脳の中に、ぽかりと言葉が浮かびあがってきた。
 ―――お兄様。
 兄?
 頭をめぐらせると、納まったばかりの眼窩にようやく慣れてきた目が、ぼんやりと、しかし瑠璃の色だけははっきりとわかる柔らかな輪郭を持った小さなものの姿を結んだ。
 輪郭は急に大きくなった。視界を覆うほどに瑠璃が広がり、何か尖った一点が見えた。一瞬遅れて貫いた激痛に、娘の口から断末魔の絶叫が上がった。
 手を振りまわして、さかんにちらつく瑠璃色のものを振りおとそうとする。何故か急に、手は鎖で縛られたかのように強張ってうまく動かなくなった。誰かが邪魔をしている―――誰が?
 穴だらけの脳を泳ぐように、また言葉が流れた。―――あたしが手をおさえているわ。はやく、潰して、お兄様。
 視野が突然暗黒に閉ざされた。痛みだけが白熱する柱のようだ。手で眼窩をさぐる。卵果はもうそこにはなかった。黄金色の火が、青い水が、全身から力が抜けて行った。
 「王……」
 王が食べたかった。すぐ側まで来ていたのに。あと少しだったのに。
 娘の脳が最期の言葉をかきよせ、消えていった。
 ―――アイシテイルワ。アイシテイタ、ワ。
 卵果からこぼれた虫が小さく跳ねた。それきり虫は動かなくなった。

 

 
 
 
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