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 「―――すごい」

 それはまさに絶景というにふさわしかった。

 陽子はすべてを忘れてただただ目の前に広がる光景に見入った。

 辿り着いた路亭は雲海に張り出しており、その雲海越し、地上の煌めきがまるで満天の星空のように眼下に広がっていたのだ。しかも路亭の足元の一部には玻璃がはめ込まれ、その絶景をより演出していた。

 足元に星空が広がるという不可思議。陽子は玻璃越しに地上を見下ろして、自分の立ち位置があいまいになる不思議な感覚に軽くめまいを覚えた。

 ―――ああ

 陽子は軽く嘆息する。

 こちらに流されて一年半。異国に流されたのだという自覚はあっても、異界に流されたのだという実感がいまいち持てなかった陽子だったが、今この瞬間、陽子は間違いなく自分が慣れ親しんだ世界とは違う場所に立っているのだと認識しないわけにはいかなった。

 だがそれは、悲観とか絶望とか恐怖とかいう負の感情を伴うものではなく、ただただ不思議な感覚として陽子を包み込んだのだ。

 絶景を前に立ちすくむ陽子の肩を浩瀚はそっと抱き寄せた。意外なほどすんなりと腕の中に収まったその細い肩に満足しつつ、浩瀚は静かに唇を耳元に寄せた。

 「見事だろう?」

 囁きに緋色のまつ毛が揺れる。眼下を見つめ続ける翡翠の瞳をわずかに覗き込んで浩瀚は続けた。

 「天上に輝く綺羅星も見事だが、地上の星は、あの明かりひとつひとつの下に命の営みがあると思うからより愛おしい」

 それは偽りのない思いであった。

 執政者として、時に非情を選択せねばならぬこともある。己の歩んできた道が決して誇れるものばかりでないことも重々承知している。しかしそれでも、地上の命の営みを尊く愛おしいという思いに嘘偽りはなかった。

 「私はあの明かりが輝きを増して広がっていくのを見るのが何よりの励みなのだ」

 その言葉に陽子は視線を上げた。

 間近にあった横顔は、ただ静かに地上を見つめていた。

 その横顔を見つめて、ただ美しいと、ただただ不思議だと、そう思った自分とは違う目線でこの人は地上の煌めきを見つめているのだと陽子は思った。その姿は執政者としての姿を垣間見させ、しかもそれを愛おしいという男の言葉は陽子の心にじわりと染みた。

 この人のそばにいたい。

 この人の見つめる先を自分も一緒に見てみたい。

 いつの間にか陽子の胸に自然とそんな思いが広がっていた。

 
       
 
 
       
 
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 もう少しこのままに……

 そう思えば逆に、別れの時間はあまりにもあっさりやってきた。

 「遅くまで引きとどめてしまったな。これ以上遅くなれば乙老師が心配しよう」

 さらりと口にされたその言葉を寂しく思いながらも、陽子は頷くしかなかった。

 「あの、今日はありがとうございました」

 陽子が礼を述べれば、浩瀚は小さく微笑んだ。

 「門まで送ろう」

 その言葉に、陽子はわずかに何かを期待したのかもしれない。

 いや、あの路亭に連れて行かれた時から、どこかに期待するものがあったのだ。

 昼間のことがあったから。

 玉葉の言葉があったから。

 でも、浩瀚は立ちくらんだ陽子の肩をそっと支えた以外何もすることはなかった。

 玉葉の言葉を裏付けるような甘い言動など微塵もなかったし、いまも門まで向かう道中少し先を歩く浩瀚は、なんの言葉もなくただただまっすぐに門へと向かっていく。

 ―――きっと、柴望様がいらっしゃらなかったから、気を遣ってくださったんだ。

 今になってみれば、今日の一連の浩瀚の行動は、陽子にはそうとしか思えなかった。そしてそう思えば、一人勝手に浮かれた自分の心が恥ずかしかった。玉葉に炊きつけられたとはいえ、一人ドキドキして、勝手に思いを寄せようとしていたことが、相手にばれていなければいいがとそればかりが心配だった。

 ―――ああ、もう。何でもいいから早く帰りたい!

 帰って、頭を冷やして、とにかく余計なことを頭から追い払うこと。幸いなことに今日は今年最後の登城だ。次は年明け。随分と時間が空く。それまでには平気な顔で対面できるようになっているはずだ。

 そんなことを考えているうちに、あっという間に門に着いた。門には、いつものように陽子を送るために騎獣が用意されていた。だが、その騎獣の手綱を握っているのはいつも送ってくれる桓魋ではない。

 「桓魋はどうした」

 陽子が不思議に思ったと同時に、浩瀚が声を上げた。その声に、手綱を握っていた男が申し訳なさそうに頭を下げる。恐らく桓魋の部下だろう。

 「は、先ほどまでいらっしゃったのですが、急に夏官長よりお召がありまして。すぐに戻ってくるとはおっしゃっておられたのですが……」

 「そうか」

 兵卒の返答に、浩瀚は軽く腕を組んだ。わずかに考えるように黙り込んで、兵卒と陽子をちらりと見やる。

 その視線に陽子はなぜだかドキリとした。

 
   

 
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 ちらりと向けられた浩瀚の視線は、陽子には到底名残を惜しむ男の視線などには見えず、ただただとても困っているように見えた。

 やっと子守から解放されると思ったのに―――

 そんな風に勝手に捉えて、陽子の胸がちくりと痛む。同時に、言いようのない寂しさがこみ上げた。

 「夏官長に呼ばれたとなると、待っていてはいつになるかわからんな。そもそも、今日は少し遅い。これ以上引き留めるわけにもいくまい。陽子は、私が送っていこう」

 「え、そんな!」

 陽子は思わず声をあげていた。

 これ以上迷惑は掛けられない。そんな思い以上に、もうこれ以上一緒にはいられなかった。居心地が悪いのではない。ばつが悪いのだ。

 「お忙しい浩瀚さまに、そんなことまでして頂くわけにはいきません」

 「とはいえ、桓魋がいないのだ。しかたあるまい」

 「……私なら、一人でも帰れますし」

 「それは駄目だ」

 きっぱりとした口調に陽子はたじろぐ。

 「夕餉を共にすれば遅くなる。だから乙老師にはきちんと責任を持って送り届けると約束しているのだ。到底一人で帰すわけにはいかない」

 「……では、桓魋さんを待ちます。急いで帰らないといけないわけでもありませんし」

 陽子が視線を落とせば、浩瀚が小さく息をつくのがわかった。そのため息に、聞き分けの悪い駄々っ子のようで呆れただろうか、と陽子は思う。そんな風に思われていたら悲しい。だが、どうしても浩瀚に送ってもらうわけにはいかなかった。

 騎獣をひとりで操れない陽子は、どうしたって送ってもらう人と同乗しなければならない。密着度が高いのだ。州城から松塾まで騎獣でいけばわずかの時間とはいえ、その間の密着具合を想像しただけで気が変になってしまいそうだった。自分の意志とは関係なく早まる鼓動がばれてしまうのが恐ろしい。

 「―――陽子」

 鼓膜を震わせた低い声にびくりと肩を震わせて、陽子は視線を上げた。恐る恐る浩瀚を見やれば、自分を見つめる視線はいつになく力ない。

 「ひょっとして私は、陽子に嫌われているのだろうか」

 「ま、まさか!」

 「騎獣に同乗するのが嫌だから、私に送ってもらいたくないのだろうか?」

 「そ、そんなことありません!」

 同乗するのは嫌じゃない。―――ただ、恥ずかしいだけだ。

 陽子が思い切り首を横に振れば、力なかった視線にふと喜びの色が浮かんだ。

 
 
       
 

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 どうしてこんなことになったのか。陽子は地上の煌めきを眼下に眺めながら高鳴る鼓動を抑えることができなかった。浩瀚の絶妙な言い回しにうまく乗せられて、結局は浩瀚に送ってもらうことになったことまでは理解できる。しかしそれがどうして空中散歩と相成ったのか……

 「雲海上から見る夜景とはまた違った趣があるだろう?地上が近いぶん光もより強く感じる」

 陽子を後ろから抱きかかえるように手をまわして手綱を操る浩瀚の声は、耳元で囁くように陽子に掛けられる。吐息が耳朶を刺激して、陽子の頬はいやでも紅潮した。

 夜で良かったと陽子は思う。こんなに暗ければ顔の色など判別つくまい。きっと昼間なら耳まで真っ赤な自分に浩瀚はあきれたことだろう。

 そんなに意識されても困るのだが、と。

 ああ、それでも―――

 陽子は思う。

 うれしい気持ちは偽れない、と。

 背中のぬくもりがこの上なく温かく、今この瞬間が永遠に続けば良いのにと陽子は無意識のうちに願った。

 そんな陽子の心境を悟ったかのように、浩瀚はいだく腕に力を入れた。

 「―――陽子」

 耳元で甘く囁けば、陽子の身がぴくりと震える。しかしそれが拒絶や嫌悪とは全く違う反応であることを浩瀚は読み取って、耳朶から頬へと唇を寄せた。

 そんなわずかばかりの愛撫にも陽子の唇から甘い吐息がかすかに漏れる。その小さな嬌声を耳にして浩瀚の理性はもはや崩壊ぎりぎりであった。

 ここが宙を滑空中の騎獣の上でなければ間違いなく押し倒していたところだ。それをどこかでおしいと思いつつも、同時に、今この場所があの路亭でなくてよかったと心底思った。

 男の愛と欲望が紙一重となった行為を目の当たりにすれば、この無垢な少女は自分をどう思うだろう。

 拒絶、嫌悪、侮蔑。自分を拒む言葉が瞬時に脳裏に浮かんで浩瀚は思わず苦笑した。

 もうこのあたりが限界だ、と浩瀚は思う。今宵はここまでにしておかなければ、不可能を可能にしかねない。

 「さて、帰ろう」

 浩瀚は雰囲気を変えるような声音でそう告げると、手綱を捌いて騎獣を大きく旋回させた。

 ―――年が明けたら。

 浩瀚は目的地へとゆっくり下降しながら思う。

 ―――陽子に愛を請おう。そのために堯天から戻ったら、真っ先にその準備をしよう。柴望にも話をしなければ……。

 そう思うだけで浩瀚の胸は熱くなった。

 だが、浩瀚はどこかでわかっていたのだ。自分が穏やかに年を越せる可能性はかなり低いということを。

 そして事実、二人を翻弄することになる運命の大波は、すでに二人の背後に静かに迫っていたのである。

(第一部 完) 



 

   
   
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