どうしてこんなことになったのか。陽子は地上の煌めきを眼下に眺めながら高鳴る鼓動を抑えることができなかった。浩瀚の絶妙な言い回しにうまく乗せられて、結局は浩瀚に送ってもらうことになったことまでは理解できる。しかしそれがどうして空中散歩と相成ったのか……
「雲海上から見る夜景とはまた違った趣があるだろう?地上が近いぶん光もより強く感じる」
陽子を後ろから抱きかかえるように手をまわして手綱を操る浩瀚の声は、耳元で囁くように陽子に掛けられる。吐息が耳朶を刺激して、陽子の頬はいやでも紅潮した。
夜で良かったと陽子は思う。こんなに暗ければ顔の色など判別つくまい。きっと昼間なら耳まで真っ赤な自分に浩瀚はあきれたことだろう。
そんなに意識されても困るのだが、と。
ああ、それでも―――
陽子は思う。
うれしい気持ちは偽れない、と。
背中のぬくもりがこの上なく温かく、今この瞬間が永遠に続けば良いのにと陽子は無意識のうちに願った。
そんな陽子の心境を悟ったかのように、浩瀚はいだく腕に力を入れた。
「―――陽子」
耳元で甘く囁けば、陽子の身がぴくりと震える。しかしそれが拒絶や嫌悪とは全く違う反応であることを浩瀚は読み取って、耳朶から頬へと唇を寄せた。
そんなわずかばかりの愛撫にも陽子の唇から甘い吐息がかすかに漏れる。その小さな嬌声を耳にして浩瀚の理性はもはや崩壊ぎりぎりであった。
ここが宙を滑空中の騎獣の上でなければ間違いなく押し倒していたところだ。それをどこかでおしいと思いつつも、同時に、今この場所があの路亭でなくてよかったと心底思った。
男の愛と欲望が紙一重となった行為を目の当たりにすれば、この無垢な少女は自分をどう思うだろう。
拒絶、嫌悪、侮蔑。自分を拒む言葉が瞬時に脳裏に浮かんで浩瀚は思わず苦笑した。
もうこのあたりが限界だ、と浩瀚は思う。今宵はここまでにしておかなければ、不可能を可能にしかねない。
「さて、帰ろう」
浩瀚は雰囲気を変えるような声音でそう告げると、手綱を捌いて騎獣を大きく旋回させた。
―――年が明けたら。
浩瀚は目的地へとゆっくり下降しながら思う。
―――陽子に愛を請おう。そのために堯天から戻ったら、真っ先にその準備をしよう。柴望にも話をしなければ……。
そう思うだけで浩瀚の胸は熱くなった。
だが、浩瀚はどこかでわかっていたのだ。自分が穏やかに年を越せる可能性はかなり低いということを。
そして事実、二人を翻弄することになる運命の大波は、すでに二人の背後に静かに迫っていたのである。
(第一部 完)
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