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 戻ってきた陽子を見た瞬間、玉葉は驚きに目を見開いた。玉葉もまた、桓魋と同じく陽子の髪を飾る花の正体に気がついたのだ。しかし、玉葉はすぐにその驚きをひっこめて、にっこりと笑顔で陽子を迎えた。

 「遅いのでもしや何かあったのかと心配していたけど、どうやら侯に引きとめられていたようね」

 玉葉がそう言えば、陽子はさも驚いたように玉葉を見やった。どうしてそれがわかったのか。驚きの色をたたえた双眸は、明らかにそう問うていた。

 そんな陽子を見て玉葉は、どうやら彼女は冬牡丹がどんなものか知らないらしいと推測する。だが、それも無理もないか、と思う。此度の朝賀の献上品として麦侯が冬牡丹を用意したことを知るのは、州府の中でもほんの一握りだ。そもそも、献上品というのはありきたりではあまり意味がない。物を差し出す以上、差し出す方にもそれなりの思惑があるし、それなりの期待というものがあるのだ。ゆえに相手の好みに合わせたり、あるいは相手が驚くような珍しいものを用意したりするなど色々と腐心するわけだが、驚かせるためには先にネタがばれては意味がない。よって州府内でも献上の品に関しては秘密にされるのだ。では、なぜ侯はそんな大事な冬牡丹を彼女の髪に挿したのか。いや、挿すだけならまだしも挿したままここに戻ってくることを許したのか。

 それを考えた時、玉葉ははっとする。

 冬牡丹が王への献上品と知る一部の人間が今の陽子を見たら何と思うだろう。間違いなく、この少女は侯が特別な思いを抱いている少女なのだと思うはずだ。そしてあの無駄に頭の切れる侯は、当然ながらそれを狙っているはずなのだ。

 つまりは、彼女の髪に冬牡丹を飾ることで、この少女は自分が大切にしている少女なのだと宣伝し、ついでに、彼女に好意を抱いているかもしれない者たちに「手を出せばどうなるか分かっているだろうな」というような無言の重圧をかけたかったのだろう。

 玉葉は女の勘でかなり前からピンと来ていたが、侯の周辺にいる者たちでもそんなことには露ほども気づいていない者がほとんど。なんたって侯は女好きと知られ、女の扱いに関しては手慣れたものだと皆が思っている。そんな侯が少女相手に本気で恋をして、恋仲になる機会をじっくりうかがっているなど思いもしないだろう。

 ―――要は、もう黙ってはいられなくなったってことかしら。

 玉葉は思って苦笑する。

 あの侯にしては随分気の長いことだと感心していたが、やはりそろそろ限界が来ているらしい。年甲斐もなく本気で恋をして、どうしたものかと困惑している侯をはたから見ているのは好感が持てたが、恋が成就するのを願っているかというとそれはまた別問題だった。なんといっても、陽子の気持ちを大切にしたい。

 ―――そろそろ陽子の気持も確認しておく必要があるようね。

玉葉はそう考えてそっと陽子を見た。

 
       
 
 
       
 
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 何で浩瀚さまと一緒だったってわかったんだろう。

 陽子はそれを不思議に思いながら、顔つきがどこかおかしかっただろうかと気になった。

 ここに戻ってくる間ずっと、陽子は花園でのことを思い返していた。というのも、顎に触れた浩瀚の手の感触が未だかすかに残って、陽子の心を揺さぶっていたからだ。

 あの時、陽子は自分の中に、今までにない感情が湧きあがったのを確かに感じた。羞恥や困惑。その陰に隠れつつもちらりと顔をのぞかせたその感情は、つかみどころのない靄のように感じられもしたが、陽子の中に確かな存在として残ったのである。

 この感情は何と表現していいものか。陽子は答えが見つけられずにもどかしくもあったが、同時に、答えを見つけようとするとなぜだか心臓がどきどきして、それ以上深く考えるのを躊躇った。

 結局、答えを求めたいのか求めたくないのか。陽子は自分でもわからずに思考を混乱させ、そんな胸中が顔に出ていたのかもしれないと思った。

 ただ、事実変な顔をしていたのだとしても、どうしてそれから浩瀚さまと会っていたとわかるのかは謎であるが・・・・・・

「ねぇ、陽子」

 何やら慌ただしく思考しているらしい陽子の顔をのぞき込んで、玉葉はゆったりと微笑んだ。

 呼びかければ、思考の淵に沈んでいた翡翠の瞳がまっすぐに玉葉に向けられる。

 何だろう、と言わんばかりにぱちりと瞬かれた双眸が愛らしい。澄んだ翡翠はどこまでも無垢で、こんな清らかさにあの侯が惹かれたのだろうことは想像に難くなかった。しかし同時に、この清らかさゆえに触れるのを躊躇っているのだろうと玉葉は思う。誰だって土のついた手で玉や錦に触れるのは躊躇うものだ。

 ―――そのくせ、人に取られるのは嫌なのよね。

 玉葉はかすかに苦笑して、陽子に問いかけた。

 「今、陽子には、好きな人とかいるのかしら」

 その問いかけはあまりに直球で、陽子は思わず絶句した。

 「え……」

 そんなことを聞かれるとは、予想だにしていなかった陽子はとにかくあわてた。

 「い、いませんよ!」

 あわてて首を横に振れば、玉葉は、あら、と意外そうにつぶやく。

 「あなたくらいの年齢だと、好きな人の一人や二人、いてもおかしくないと思うけど」

 「一人や二人って……」

 「ああ、そう言えば、この間買い物に付き合うとか言っていた春官府の下官とはどうだったのかしら」

 どうって…、口ごもる陽子はすでに玉葉の歩調に乗せられていた。

 
   

 
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 「・・・・・・別に何にもなかったですよ。妹さんへのお土産選びに付き合っただけです」

 「まあ、陽子ったら、まさか本気でそれを信じていたわけじゃないわよね」

 玉葉が少々驚いた声を上げると、陽子は戸惑ったように視線を伏せた。

 あの簪のことがあるから、今ではなんとなく陽子も察しが付いている。けれどもはじめは本当に、言葉通りの意味にとらえていたのだ。

 でも、玉葉のこの態度を見れば最初に察して当然のことだったようだ。

 「―――あの、こちらではそれって当たり前のことなんですか?」

 「何がかしら?」

 「その、つまり。別の理由をつけて買い物に誘ったりするのが、実はデートのお誘いだったりすることです」

 陽子がおずおずと問えば、玉葉が笑った。

 「意中の相手と同じ時を過ごすためならば、男には何でも理由になるのよ」

 要はね、と玉葉は言い含めるように続けた。

 「気のない相手なんて、どんな理由があったって誘わないってことよ」

 「そうなんですか?」

 陽子は戸惑ったように玉葉を見た。

 では、趣味があうからとか、本当にただ仲良しなだけだからとか、そんな理由で共に出かけたりはしないのだろうか。いや、趣味が同じとか普段から本当に仲良しならば互いに変な誤解をしたりはしない意思の疎通ができているのかもしれないが……。

 陽子がそんなことをうろうろと考えていれば、玉葉はその心中を察したかのように笑う。そして、

 「どんな男でも同じ」

 玉葉は意味深に呟いて、陽子の髪を飾る冬牡丹にそっと手を伸ばした。

 「州城の奥にある花園にしか咲かない冬牡丹をわざわざ貴女に見せに行くのもね」

 「―――え?」

 驚きと戸惑いを含んで見開かれた陽子の視線に、玉葉は柔らかく笑った。

 「おせっかいが過ぎたかしら。でも、気をつけなさい陽子。貴方はとても魅力的だから、案外貴女を狙っている男は多いのよ。気のない男とは、例え日中でも二人っきりにはならないことね。襲われてからじゃ遅いでしょ?」

 「そ、そんな……」

 陽子の頬にさっと朱が昇った。

 色恋に疎い陽子には、たったこれだけの言葉でもあまりに刺激的だった。玉葉の顔をまともに見ることができなくて、陽子は視線をうろつかせる。その一方で、玉葉は勘違いしていると陽子は思った。蓬莱でもこちらでも、異性に告白などされたことがない。だから自分が異性の目に魅力的に映るなどとても信じられなかった。

 
 
       
 

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 「さあ、どうぞこちらへ」

 夕刻、いつものように陽子は夕餉へと向かった。各府第の並ぶ州城の奥、州侯の私的空間にあたる部分でその晩餐会はいつも開かれていた。正殿と呼ばれるらしいその建物群の入り口にはいつもの案内の女官が待っていて、いつものように陽子を奥へと誘った。近頃ではすっかり慣れたその道を、陽子は気負いなく女官の後に続いて歩く。だが、女官は途中でいつもはまっすぐ行く回廊を右へと折れた。「え?」と思わず陽子が小さく声を上げれば、女官は振り返ってわずかにほほ笑んだ。

 「今宵は少々趣向を変えられるとのことで。どうぞこちらへ」

 簡潔すぎてあまり親切とは言えない説明にも、陽子はただ黙って頷く。彼女らにはあまりあれこれ説明する権利がないらしく、尋ねても大した答えが返ってこないことをこれまでの経験で知っていた。

 行けば分かるだろう。わからなければ柴望様に聞けばいいんだし……。

 そう簡単に考えた陽子は、今宵柴望がいないことを知らなかった。

 「こちらです。どうぞお入りください」

 ある部屋の入り口で案内の女官は足を止めた。そのまま片ひざをついて頭を下げ、陽子に入室を促す。それは、この女官がこれ以上先へは入れぬという合図で、陽子は軽く頷くとひとり部屋へと足を踏み入れた。

 そこは、いつも夕餉に招かれる部屋よりこじんまりとしていた。

 洗練された趣はあったが目を見張るような装飾や調度は特になく、いつもの客人を招くための部屋といった雰囲気が流れる部屋と比べれば、とても個人的な空間に見えた。

 その部屋の中央に大卓がひとつ。ただし大卓といってもいつもの夕餉で使われる卓からすればかなり小さく、椅子も二脚しかない。

 夕餉の準備がされている卓上を見れば今からここで誰かが夕餉をとるのは間違いないようだったが、陽子は本当にここだろうかと不安になった。

 確認しようか。

 振り返ったその時、浩瀚が現れる。それでひとまずほっとして、陽子は会釈した。

 「来ていたか。待たせたかな」

 「いいえ。私も今来たところです」

 「そうか」

 浩瀚は軽く微笑むと陽子を席へと促した。

 やはり、今日の夕餉の場所はここで間違いないらしい。だとすると、どうして二人分の用意しかないのか。

 陽子が疑問を口にすれば、浩瀚はさらりと告げた。

 「柴望は仕事で外出中だ。そういえば、陽子によろしく伝えてくれと言っていたな」

 初めて聞かされる事実に、陽子の脳裏に玉葉の言葉がよみがえった。

 

   
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 ―――気のない男とは、例え日中でも二人っきりにはならないことね。襲われてからじゃ遅いでしょ?

 わ、私ったら何を…

 玉葉の言葉が鮮明に脳裏によみがえった陽子は、ひとり慌てた。

 浩瀚相手にそんなことを考えるなど、とても失礼だと自分を恥じた。相手は大人の男の人だ。自分のような子供など恋愛の対象になるはずがない。

 それに…、と陽子は周囲を見回す。

 卓に着いたのは確かに二人だが、いつものように給仕の女官らが傍に控えており、二人っきりとは到底言えない。こんな状況下で襲われるはずもない。

 そう考えれば幾分心に余裕ができた。陽子はいつものように運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、いつものように他愛もない会話を浩瀚と交わした。

 浩瀚は変わらず聞き上手でありながら話し上手で、柴望がいないという緊張感はすぐさまほぐれていった。

 「そういえば、いまさらなんですけど」

 料理も一通り終わった頃、陽子は最初に感じた疑問をふと思い出した。

 どうして今日は場所が違うのか。そう問うてみれば、浩瀚は笑む。

 「大した理由じゃないが、今日は二人なのでいつもの場所では広すぎるかと思ってね。それに―――

 「それに?」

 「昼間の礼というわけではないが、陽子に見せてやりたいものがある」

 昼間の礼の意味は分からなかったが、見せてやりたいものがあるという言葉には興味がそそられる。陽子が、それは何か?といった視線を向ければ、浩瀚は柔らかく笑った。

 「それは、見てのお楽しみとしよう。ここで明かしてしまってはつまらない」

 浩瀚はそう言うと、立ち上がって陽子の席へと回り込んだ。そしてそのままさりげなく椅子を引いて陽子を立ちあがらせる。

 「少し外へ出る。寒いだろうからこれを羽織りなさい」

 浩瀚はそう言って、自分の着ていた上着を一枚脱いで陽子に掛けた。

 「でも、浩瀚さまは」

 「何、私は心配いらない」

 浩瀚はそれだけ言うと、視線で陽子を促して部屋の奥へと向かった。陽子は慌ててそのあとを追う。奥にはどうやら部屋が続いていたようだ。浩瀚はその部屋なのか通路なのかわからない空間をいくつか通り抜け、そう長くはない回廊を渡った。その先に現れた路亭の前で足を止めようやく陽子を振り返る。

 「ここだ」

 誘われてそこへ足を踏み入れた陽子は、目の前に広がる光景に思わず息をのんだ。

   
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