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 柴望の話は静かに続いた。

 「国を出た民が頼るのは恐らく多くは雁だと思われる。麦州清谷の港から船を出せば、雁州烏合まで二日の距離だし、何より雁は豊かな国。荒民の保護も他国に比べれば手厚い。とはいえ、追いたてられるように国を出て行った民の生活が困難に陥るのは火を見るより明らかだ。それで浩瀚様は、先に女性官吏を雁に渡して、荒民となった慶の民の世話をさせようとお考えだ。役所に必要な届け出があっても民だけでは難しいこともある。そんな世話を女性官吏たちに任せれば安心だと」

 陽子は驚きに目を見張った。そこまで考えてすべてを動かしているのかと舌を巻く。そして陽子は改めて思った。麦州侯浩瀚という男は、そういう立場にいる存在であり、自分とは何もかも違うところに生きている人なのだと。

 「それで近々、女性官吏を雁へ渡す船を出すのだ。その船で陽子も雁へ渡ったらどうだろうか。女性官吏らと一緒なら陽子の不安も少しは軽減するだろうし、それに雁は海客の保護も手厚い。届を出せば、戸籍を与えているとも聞く。今慶では海客に戸籍を与えないので我々が陽子のために戸籍を用意することはできなかったが、こちらで生きていくためには戸籍はあった方がよい」

 「私も一緒に行くわ、陽子」

 玉葉が微笑んで陽子の手をそっと握った。そのぬくもりに安堵して、陽子は思っていた以上に自分が緊張していたことを自覚した。

 玉葉の笑顔に、肩に入っていた力が抜ける。気にも留めていなかった雁という国が、急に形を持って陽子の目の前に立ち上がり始めていた。

 ―――雁へ。

 胎果の王が治めるという五百年の大国。そこへ行けば、浩瀚や柴望を煩わせることがなくなる。それは陽子にとってとても大切なことだった。

 陽子は視線をあげて浩瀚を見た。

 「陽子、最初に言った通り、そなたが望むならここにいることができるんだ。私を見くびってもらっては困る。ここに残ることの選択の先は、決して袋小路ではない」

 浩瀚の言葉に陽子は小さく微笑んだ。自分を気遣ってくれる人々の存在がうれしかった。何より、浩瀚が熱心に自分を引き留めようとしてくれることがうれしかった。勘違いでも何でもいいから、その思いに甘えて浸ってしまいたかった。この上もなく極上の男性に愛されているのだと思ってしまいたい誘惑にかられた。

 でも、と陽子は自分を戒める。

 絶対にそれはすぐに破綻する夢なのだ。陽子の脳裏に再びあの妖艶な女性の姿が浮かぶ。自分はどんなに背伸びをしても、ああいう女性にはなれない。

 陽子は決心を固めた。

 「……私は、雁へ行こうと思います」

 
       
 
 
       
 
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 浩瀚は知らず、膝の上に置いた手をぐっと握り締めていた。

 できることなら陽子にはここにいてもらいたかった。ここに匿うことで、安堵していたかった。日々傍に陽子の存在を感じて己の心を慰めたかった。そのためには、柴望との口約束など、なかったことにだってできなくはない。陽子の思いなど口先でいくらでも丸め込むことは可能だと思う。あるいは、恥も外聞もかなぐり捨てて泣いてすがることだって厭わない。

 浩瀚は陽子の発した一言を聞いた刹那、その発言をひっくり返すためのありとあらゆる方法をその脳裏に巡らせたのである。

 しかし、浩瀚は湧きあがったその思いをぐっと飲み込んだ。「陽子に正式な戸籍を」というたったひとつのことが浩瀚の心を大きく揺さぶっていた。

 先々のことを考えれば、陽子には正式な戸籍を持ってもらいたい。そして、その方法と言えば柴望が言う通り雁で海客の手続きをするのが一番いい方法であると思う。いずれかの時期で雁へいかなければ行けないというのなら、この時期に、というのも浩瀚としても納得しない話ではなかった。陽子にはきちんと随従をつけ充分な路銀も渡して渡航先での宿も手配する。それで慶が落ち着くまで滞在してもらえば、確かに憂えは少ない。雁州烏合までは船でわずか二日の距離。すべてが済んだ後、足の速い騎獣でもって飛べばすぐに陽子を迎えに行くことができる。

 「―――わかった」

 苦渋の末、浩瀚は声を絞り出した。

 「では、そのように手配をしよう」

 刹那、陽子の瞳が揺れた。ちくりと胸が痛むのを陽子は自覚した。

 ここにはいられない、と強く思う一方で、心の隅では頑として引きとめてくれることを期待していた。義務や責任感からの申し出ではないという熱い思いを感じたかった。愛されているという確かな証が欲しかった。しかし……

 ―――ああ、やっぱり。

 あっさりと了承する浩瀚の言葉に、陽子は気落ちしつつ、同時にそんな自分の気持ちを嘲笑した。彼のようなひとが自分のような者を選ぶはずなどないのに、何を夢見ているのかと声をあげて笑いたかった。そして、良かったと安堵する。勝手に勘違いして、ここに居座ろうとしようとしなくてよかった、と。もしそうしていれば、いずれ義務と責任感を愛情と勘違いされていることに気付いた彼が、自分の扱いに困ることになっただろう。世間知らずで馬鹿な女だと蔑み、自分のような女に魅力を感じたと勘違いされたことに憤慨するかもしれない。近くにいるのに遠い。一方的な愛情は苦しいだけだ。それでも相手に、不快に思われていないならまだ我慢できる。だから、自分にできること。それは―――

 陽子は、心の内のすべてを隠すように微笑んだ。その笑顔が無邪気に見えることだけを願った。


 
       
 
 
       
 
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(注:今回浩瀚が変態暴走しています。大人だと自覚のある方のみご高覧下さいますようお願いいたします。) 

 やるべきことが決まれば、日々はその準備にあわただしく過ぎていった。そして、三人での話し合いがあった四日後の深夜、陽子は州城をひそかに後にして清谷に身を移すことになった。人目を避けるためだ。その移動に関して柴望は、浩瀚が北宮から禁門まで陽子を連れて行ったあとは、桓?と玉葉に任せるように主張した。しかし長らくの別れになる最後の夜。それはあんまりだと、浩瀚は自分で清谷まで送ることを譲らなかった。

 結局は柴望が折れた。

 夜も深けた頃、浩瀚はひそかに後宮へとわたった。月の明りを頼りに人気のない回廊を行く。その道すがら、浩瀚はこの期に及んでも内心はゆれていた。いや、別れが目前に迫ったこの時だからこそ、浩瀚の心は激しく揺れた。柴望の言う通り慶の混乱はこの後どのくらい続くかわからない。二年、三年と言わず、半年もそばになければ、陽子に新たな男が現れてさっさと自分のものにしてしまうかもしれない。雁にいけば戸籍が得られるということは、その危険も孕んでいることにいまさらながら不安が募る。

 ―――いっそのこと、今夜。

 身の内をままならぬ熱が突き上げた。一気に血がたぎる。人に取られるくらいならいっそ、つぼみを無理にこじ開けて、今夜の内に自分のものにしてしまいたかった。

 ああ、と声を漏らしながら浩瀚は、彼女の黄金の肌を愛でる自分を想像した。首筋を下って胸のふくらみを堪能し、頂を親指の腹でこすって舌で優しく転がしてやれば、彼女はどんな声を上げるだろうか。二つの乳房を交互に甘く刺激しながら同時に腿をなで上げて彼女自身が足を開くのをゆっくりと待ち、現れた花芽を愛撫する。指で、舌で。やがて花は蜜で潤って得も言われぬ芳香を放つだろう。

 想像するだけで、浩瀚の男の証が熱を帯びた。これでもかというほどに膨らんで、痛みさえ感じた。

 この熱を早く開放したい。しかし開いたばかりの花に無理をすれば、苦痛だけが残るだろう。己の欲望を押さえ込んで、ゆっくりとゆっくりと開かせるのだ。指に、舌に、蜜を絡ませながら。そして、この行為が深い愛の行為であり、心を体を開放するものであることを教え込み、己の体に充分慣れたところで、深く深く彼女の身の内に己を沈めるのだ。

 彼女は熱くとろけるように、それでいながらきつくきつく己を包み込むに違いない。

 ―――ああ!

 浩瀚は回廊を行く足を速めた。もう、我慢ができなかった。

 体中に己の物だという証をつけよう。もう周りの誰がなんと言おうとかまうものか。

 ―――陽子は私のものだ。

 浩瀚は心の中でその言葉を繰り返した。やがて陽子のいる堂屋が見えた。わずかな明りが漏れるその部屋に浩瀚は静かに身を滑り込ませると内からそっと鍵をかけた。そもそもここには誰もこられない。しかし、万が一にも誰にも邪魔されたくなかった。朝までたっぷり彼女を愛でるのだ。そして雁行きはなくなったと、浩瀚は皆に言うつもりだった。


 
       
 
 
       
 
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浩瀚が静かな室内に身を滑り込ませると、旅装に身を包んだ陽子は、薄暗い部屋の中でひっそりと窓辺に立っていた。淡い月明かりに照らされた彼女の横顔は、はっと息をのむほどに美しい。と同時に、侵し難いほどの清麗さを湛えていた。

 浩瀚は、縫いつけられたようにその場に佇んだ。胸の前で両手を握りしめ、そっとうつむいたその姿は、まるで何者をも邪魔してはならない神聖な祈りのようである。浩瀚は息をする音さえ立ててはならぬと思った。

 近づくことも、息をすることもままならない浩瀚に、陽子がゆっくりと振り返る。

 「時間ですか?」

 静謐な空間を決して壊すことがないひそやかな声。しかしその声には明確な決意がこもっていることを浩瀚は感じた。

 たぎっていた血がゆっくりと引いていく。冷めた、のではない。覚めた、のだ。花は自ら開くのを待たねば、決して真の美しさを見せてはくれない。そう思わせる片鱗を、浩瀚は陽子の瞳の中に見た。

 ―――待とうじゃないか。

 花が自ら開くのを。

 ―――信じようじゃないか。

 花は再び己のもとへ返って来ると。

 浩瀚は一瞬瞑目して大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出してからうなずいた。

 「ああ、出発の時間だ」

 さぁ行こう、と手を差し出して、固く握り合う。二人の間にそれ以上の言葉はなく、静かに夜の回廊を抜け、禁門から騎獣に乗って夜の空に飛び立った。

 降り注ぐような満天の星空が、二人の道程を見守っていた。後から抱き込むような形で手綱をさばく浩瀚のぬくもり感じながら、陽子は年の暮れの空中散歩を思い出していた。あれはひと月も前のことではない。それなのに、空から見る地上の様子は随分と印象が変わっていた。明りは減り、心なしか全体的にくすんでいるように感じた。

 ―――あの明かりひとつひとつの下に命の営みがあると思うからより愛おしい。

 ―――私はあの明かりが輝きを増して広がっていくのを見るのが何よりの励みなのだ。

 地上の煌めきを見て語るあの時の浩瀚のおだやかな顔を思い出し、陽子は胸が痛んだ。地上の煌めきを慈しみ、喜びとしていたこの人は、今どんな気持ちで地上を眺めているのだろうか。この国の王は、どうしてこの人と同じ思いで地上の煌めきを眺めては下さらないのだろうか。陽子は思う。しかし何よりの苦痛は、自分がただ守られるだけの何もできない存在であることだった。

 大人になりたい、と陽子は思った。大人になれば、大切な人を守る力や知恵が手に入るはずなのだ。浩瀚と再び会う時期がめぐってきた時、成長した自分であるよう今日から努力していこうと陽子は密かに決意していた。


 
       

   
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  「陽子、これをあげよう」

 騎獣の上、陽子を後から抱えるように手綱を握っていた浩瀚は、密やかにそう言って陽子の首に何かをかけた。胸元に手をやって、首に下げられた物を持ち上げる。ひんやりとした冷たい感触が陽子の手のひらに伝わった。

 「翡翠だ。護符や魔よけの力があるとされ、妖魔が嫌うとも言われている。お守り代わりだが、石自体もそれなりに価値がある。もし、旅先で金子に困ることがあれば売ってお金に変えなさい。ひと月分ぐらいの路銀にはなるはずだ」

 さらりと言われた言葉に陽子は思わず息を呑んだ。こちらで旅をすれば一日いくらぐらいかかるものなのか明確に知るわけではなかったが、こちらで生活してきた感覚でひと月の生活費と思えばかなり高額な値段になる。

 石の高価さにもらうのは気が引けた。

 「・・・・・・浩瀚様」

 「そなたの無事を祈っている」

 浩瀚はそういうと、陽子の頭を抱えるようにして髪にひとつ軽い口付けを落とした。その挙動はただ優しくて、高価だと遠慮してしまうのは浩瀚の優しさと思いやりに対しきっと失礼に違いないと陽子は出かけた言葉を飲み込んだ。

 代わりに微笑む。

 「ありがとうございます」

 言いながら陽子は、あずかったと思えば良いと思った。旅の間石を預かって、無事に旅が終わって再会したときに返せばいい。おかげで無事だった、という報告と共に。

 「―――陽子」

 「はい」

 「雁は豊かな国。きっと慶とは違う色々なものを目にすることができるだろう」

 「・・・はい」

 「これから慶がどうなるかわからないが、陽子が慶のことで心を悩ませることはない。雁での生活を充分に楽しんでおいで。それが私の心の支えになる」

 「浩瀚様」

 「全て終われば迎えにいく。その時、雁で何を見、何を聴き、何を感じたのか、教えて欲しい。いいね。そのために、雁での生活を楽しむんだよ。私は陽子からどんな話が聞けるのか楽しみにしていよう」

 浩瀚の優しさに陽子は目頭が熱くなる。でも、泣いてはいけないと無理に笑った。

 「はい、浩瀚様。必ず」

 頷く陽子に浩瀚は微笑んだ。

 眼下にはもう清谷の町が見えていた。浩瀚はゆっくりと騎獣の高度を下げていく。

 これが、長い長い二人の別れの始まりだった。             

 (第2部 完)


 

   
   
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