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 唇を噛んで痛みに耐え、無理にでも状況を受け入れねばと柴望は自分に言い聞かせた。だが、その時はっとした。

 目の前の我が主は何と言ったか。

 ―――女性官吏を雁へやる。

 その言い回しにふと思う所あって視線を上げれば、「気づいたか」と言わんばかりの浩瀚の視線とかちあった。

 「……どうやら、何かお考えがあるようですね」

 探るように柴望が問えば、浩瀚は小さく笑った。

 「もちろん。この私が、ただで人材を手放すなど、そんな勿体ない事をすると思うか?」

 「確かに。貴方は転んでもただでは起きない方だ」

 「その通り。使えるものは何でも使わなければな」

 「それで、何をさせるおつもりなのです?」

 「もちろん、荒民の世話だ」

 浩瀚はきっぱりとした口調で言い放った。

 「我々がどんなに港を押さえたところで、国外へ逃れようとする民のすべてを足止めすることは難しいだろう。だが、雁へ逃れてその後どうするか。つてやあてのある者などほとんどいない。雁の荒民対策はしっかりしたものだが、色々手続きが必要だ。そのためのきちんとした情報を掴むのは流れたばかりの者たちにはなかなか難しいし、慣れた者には簡単に思える手続きも一般の民には恐ろしく煩雑に思えたりするのが実情だ。それによって、わけもわからず悪意あるものに騙されることだってあり得る。だから荒民を世話し雁の役所との橋渡しになる者が必ず必要になる」

 「だから、そのためにまず女性官吏を雁へやると」

 「そうだ」

 「―――なるほど」

 浩瀚の先を見越した読みの鋭さに柴望はただただ唸った。しかし言われてみれば浩瀚の言うことは最もなことで、当然打っておくべき手であった。

 「わかりました。そういうことなら早急に船を手配しましょう」

 「ただ、わかっていると思うが、このことは秘密だ。表向きは勅に従って女性官吏を追い出したことにしなければならない」

 「当然です。でなければあの男が、どんな言いがかりをつけて来るかわかったものじゃありませんからね」

 「あの男、か」

 浩瀚は意味深に呟くと、再び柴望の肩をたたいた。

 「では、早急に麦州へ帰るぞ」

 「は!」

 
       
 
 
       
 
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 陽子にとって今回の正月は、こちらで迎える二度目の正月であった。

 蓬莱で正月と言えば、今や普段と変わらない生活を送っている人も少なくないが、こちらの正月は盛大にそして華やかに祝われる。陽子はいつもより早めに起きると、顔を洗って髪を結い、今日のために用意された晴れ着に袖を通す。正月のための衣装はとても華やかで、普段あまり着飾ることのない陽子は少し気後れしてしまうが、乙女心としてはやはり心浮き立つ。

 しかもこの晴れ着を用意してくれたのが浩瀚だと思うと、陽子の胸中はわけもなくざわめいた。

 昨年暮れの最後の登城日。陽子はひょんなことから浩瀚に送ってもらうことになった。いつも面倒を見てくれていた柴望が留守で、彼なりに気を使ってくれたのだろう。帰路の途中はしばしの空中散歩と相成った。地上から見た麦州の夜景。蓬莱のイルミネーションあふれる夜景からすると貧層と言えるものかもしれなかったが、人工的でない人のぬくもりにあふれているような夜景だった。その夜景を陽子は、今もはっきりとまぶたの裏に映し出すことができる。背に感じた浩瀚のぬくもりと共に。

 別れ際浩瀚は、「良い正月を」という言葉を残しただけで、あっさりと去っていったが、数日後にこの晴れ着が届けられたのである。

 堯天から帰って来た暁には、すぐに晴れ姿を見に来るという一文と共に。

 州侯は毎年正月には、王のもとへ挨拶に伺わなければならないと聞く。昨日の晦日には王宮入りして、今頃は王宮で新年の儀式に臨んでいるのだろう。

 こちらに帰ってくるのはいつぐらいになるのだろうか。

 そんなことを考えながら四苦八苦していると、途中、年嵩の世話役の女の人がやってきて着付けを手伝ってくれた。この日のために練習をしておいたのだが、細かいところをいくつか直された。襟がぴしゃりと決まったところで彼女は笑い「上出来だ」と満足げに頷いてせわしなく去っていった。

 きっと、次の着付けの手伝いへと向かったのだろう。

 最後の仕上げは一人ですませ、身支度がすむと外へと出た。戸を開けた途端、ひやりとした空気が肌を刺す。だが、新年と思うからだろうか、その寒さはどこか心地よく清らかで、大きく息を吸い込めば体の中のよどんだ空気が一気に清められる感じがした。

 「遠甫、あけましておめでとうございます」

 「陽子か。あけましておめでとう」

 まず長老に挨拶する。それがこちらのしきたりだ。陽子がすっかりなれたこちら風の礼をとると、遠補は、孫娘でも迎えるような朗らかな笑顔で陽子を迎えた。

 「今年もよろしくお願いします」

 「ああ、こちらこそよろしくな」

 陽子にとってのこちらでの2度目の年明けは、こうして実に穏やかに始まったのである。

 
       
 
 
       
 
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 「ほれ、お年玉じゃ」

 「え?」

 遠甫が懐から取り出した小さな包みを陽子は驚いて見やった。こちらにお年玉の習慣がないことは、一度こちらで正月を迎えたことがある陽子は知っている。

 そんな陽子の様子に、遠甫はいたずらっぽく笑う。

 「蓬莱では、新年にお小遣いをあげる習慣があるのじゃろう?」

 確かに以前、蓬莱の習慣についてあれこれ聞かれたときに、お年玉のことを話したことはあるが・・・・・・

 「陽子はこちらでとてもよく頑張っている。あちらを懐かしんでも帰ることは叶わんが、故郷の思い出に触れるくらいのことはしてあげたいのじゃ」

 「・・・・・・遠甫」

 その心遣いがうれしくて、目尻に涙が浮かんだ。そんな陽子の背を遠甫はそっとなでる。

 「ほれ、泣くでない。新年に泣き顔は似合わん」

 答えるように陽子は頷いたが、目頭はますます熱くなった。

 「それにこちらで銅銭は、魔よけの効果があると言われておる。旅路の護符として懐に忍ばせておいたり、時には衿の中に縫いこんでおいたりするのじゃよ。この一年陽子が息災であるように、そんな願いも込めておる」

 そう言われては、ますます目頭が熱くなる。遠甫は「ほれほれ、泣くでないと言うておるに」と困ったような顔になり、その様子に陽子は何だかおかしくなって、涙をぬぐいながら微笑んだ。

 「ありがとうございます。では、お守り代わりに」

 小さな包みを押し頂いて、懐にそっとしまう。その時部屋をおとなう声があって、晴れ着に身を包んだ李真が現れた。李真は部屋に入るなり、陽子の様子に心配げに声をかけてきたが、陽子は笑みを浮かべて「なんでもない」とだけ答え、この場を李真に譲った。

 こちらに来て人の暖かさが身にしみる、と陽子は思う。自分はあちらでは誰ともしっかりつながっていなかった。両親の前では萎縮し、真に友達と呼べる相手もいなかった。他人の目が気になって、素の自分などさらけ出せなかった。

 優しくしてほしいと思っていた。心を開き合える相手がほしいと願っていた。でもそう願いながら自分はどれだけ相手に歩み寄ろうとしていただろうか。ただ自分が傷つくことだけを恐れて、他人との間に壁を作っていたのは自分だ。

 こちらで同じことを繰り返してはいけない。

 優しくしてほしければ自分から人に優しくするのだ。心を開きあいたいなら、自分から心を開くのだ。

 この一年、それを自分の課題にしよう。

 新年の抜けるような青空を見やって、陽子は己の心に誓った。

 
       
 
 
       
 
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 松塾の新年は実に大いに盛り上がった。

 中には実家に帰省する者もいたが、多くは残ってこちらで新年を迎えたし、通いの塾生たちも多くがあいさつに訪れて宴の席へと引っ張り込まれた。いつも気難しい顔をして政治を語っている論客達も、この時ばかりは酔っ払って冗談を言い合ったり、弾けて踊りだしたりもしていた。

 中庭には酒瓶を抱えたまま転がっている人もいたが、こちらの正月でそれはむしろめでたい正月の象徴として受け入れられており、みんな朗らかに笑ってみているだけ。泥だらけの晴れ着を密かに心配していたのは、どうやら陽子ひとりのようであった。

 こちらの正月は、そんなどんちゃん騒ぎが松の内の間中続く。陽子も誘われて宴の席に何度か顔を出したが、本来の仕事は客をもてなすための宴の準備や片づけをすること。その日も宴席から下げられた大量の食器を片付け終えて、ふうと一息つく頃にはすでに夜も更けようとしていた。

 先ほどまで堂から響いてきていた騒ぎ声も、さすがにもう静かになっている。だが、まだ静かに語り合っている者たちもいるはずだ。

 陽子は軽く酒肴を用意して堂へと向かった。

 夜空は星で明るい。明かりの少ないこちらの夜は、まるで落ちてくるように星が迫って見える。何度見ても見飽きない美しい星空。ただ、今夜は思いのほか風が強い。吹き付ける風が、時折戸を激しく揺らす。その風のせいか、今夜は一段と寒い。

 客間の炭を足しておいた方がいいだろうか。

 そう思ったときだった。

 焦げ臭いようなにおいが、どこからともなく流れてくる。なんだろうと辺りを見回していると、建物の一角から勢いよく火の手が上がった。

 ―――あっ!

 突如夜空に立ち上った火柱に陽子は言葉もなく驚き立ちすくんだ。炎は見る間に夜空を赤く染め、星空はあっという間に黒煙に遮られた。

 渦巻く轟音。炎の爆ぜる音に悲鳴が交じる。その夜空を切り裂く激しい叫びを、陽子はどこか遠くに聞いた。

 「陽子!」

 強く手を引かれてようやく我に返る。視線の先に李真がいた。その表情は、いつものあどけない顔からは想像もつかないほど険しかったが、度を失っているわけでも興奮状態にあるわけでもなく、修羅場をかいくぐって生きていた男の強さを感じさせた。

 「ここにいては駄目だ。急いで逃げるんだ」

 言われて陽子の思考はようやくゆるゆると動きだす。

 火事だ。そうだ、逃げなきゃいけない。あの火の勢いだ。もう消すのは無理だ。

 その間にも火の手は益々勢いを増していた。

 
       

   
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 「さあ、早く!」

 再度手を強く引かれて陽子はたたらを踏んだ。反動で盆が手から滑り落ちる。鈍い音を立てて酒瓶が地面に転がって辺りに強い酒の匂いが立ち上ったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。

 「遠甫に知らせなきゃ!」

 陽子は反射的に叫ぶと李真の腕を振り切って遠甫がまだいるはずの堂(ひろま)へと駆け走っていた。陽子は完全に我を失っていて、ただ遠甫に知らせなければならないという思いだけに捕われていた。

 「待って、陽子!」

 叫びながら李真が慌てて後を追う。

 堂近辺は、既に煙が充満しようとしていた。 

 「遠甫!」

 陽子は声の限り叫ぶ。立ち込める煙をかいくぐって堂へと飛び込もうとしたその腕をすんでのところで李真がつかんだ。

 「だめだ、陽子」

 「でも!」

 「これだけの騒ぎだ。遠甫もすでに気がついていらっしゃる。遠甫ならどうなさるべきかよくわかっておいでのはずだ!」

 李真の言葉に陽子はわずかに理性を取り戻した。確かにそうだ。遠甫なら火事だからと我を失っておろおろとその場にとどまっているはずもない。

 「それに他の方々が遠甫をお守りするはずだ」

 その間にも辺りは火の粉が舞い始める。煙が目にしみ出して、息苦しさを感じ始めていた。折からの強風にあおられ、火は瞬く間に敷地内全体に広がろうとしていた。はっきり言えば一刻の猶予もなく、他人にかまっている場合ではなかった。すぐに外へ逃げ出さなければ外へとつながる道を失ってしまうのは時間の問題だった。

 「さあ、早く陽子!」

 李真は有無を言わさず陽子の腕を引っ張った。陽子は李真に引きずられるように歩を進めたが、それでも躊躇いが払拭されたわけではなかった。

 「……でも」

 煙に飲まれてすでにほとんど見えなくなってしまった堂を、陽子は心配げに振り返る。建物の陰から怪しい人影が飛び出してきたのは、その時であった。

 「餓鬼か」

 現れた男は嫌な笑みを浮かべながらもどこか残念そうにつぶやいた。その手には抜身の刃物が握られていて、その刀身からは鮮血が滴り落ちていた。男が一体何者で、なぜ全身が赤く染まっているのか陽子は瞬時には理解できなかった。

   
   
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