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<16>
 

 「餓鬼でも松塾の人間には違いねぇ。ここにいたのが運のつきと思うんだな」

 男は卑下た笑みを浮かべて二人に近づいてきた。

 「一人殺るごとに褒賞がでることになってるんだ」

 とっさに李真が陽子を背にかばった。

 陽子は全く状況が飲み込めなかった。突然の火事。そしていきなり目の前に現れた刃物を持った男。しかしその男が自分たちに危害を加えようとしているのは明らかで、陽子は本能的な震えが足元から襲ってきた。陽子は恐慌状態に陥る一歩手前だった。

 「いいかい陽子。裏の勝手口まで一目散に走るんだよ」

 李真が男を見据えたまま陽子に小声で告げた。

 「李真」

 陽子は声に出して言おうとしたが、震える唇はうまく言葉を紡がなかった。

 「いいね。僕があの男を足止めしている間に必ず逃げるんだよ」

 李真は念を押すように再度言った。小さくとも力強い声だった。

 「何をこそこそ言ってやがるんだぁ。逃げる算段か。かあぁぁぁぁ!いくらでもするといい。どうせ逃げられやしなんだからよぉ!」

 男は愉快そうに声を上げた。男が刃物を振り下ろす。李真は身をひねりながらその攻撃を交わし刃物を持つ腕にしがみついた。

 「陽子、早く!」 

 「餓鬼が!」

 李真の声と苛立たしげな男の声とが重なった。腕を掴まれた男は李真を膝でけり上げる。うっと唸り声をあげながら、李真はなおも陽子を促した。

 「は、早く!」

 陽子はどうしていいか分からなかった。丸腰の李真があの男を倒せるなどできるはずがない。わが身を呈して陽子を逃がそうとしているのはわかる。でもむちゃすぎる。逃げるなら一緒にだ。そう思うが、いまさら李真と男を引き離して二人で一緒に逃げる良策なんてあるようには思えなかったし、だからといって必死な李真の声を無視してしまうこともできない。陽子の足は縫いとられたようにその場に固まってしまった。

 その間にも李真は男になぶられ続ける。ひざ蹴りを受けた次は容赦ない手刀を背後から受ける。一瞬意識が飛んだ隙に男は李真を振りほどき、そのままよろめいた李真を思い切りけり飛ばした。

 「李真!」

 「よ、陽子。早くするんだ」

 よろめきながらも李真は、なおも陽子を背にかばった。李真の言う通りにすべきだと頭の中では警鐘が鳴り響く。しかしどうしても体が動かない。ただ震えながらその場に立ちすくんでいるしかない陽子の目の前で、男の刃は再び李真に振り下ろされようとしていた。

 
       
 
 
       
 
<17>
 

 その頃浩瀚は、早々に金波宮を後にし麦州城を目指して騎獣を急がせていた。これから忙しくなる。浩瀚はこれから打つべき手を脳裏に浮かべながら、一人静かにどこからどう手をつけていくべきか算段をつけていた。そしてひと通り思案が済むと、ふと脳裏に嘉煕との密会が終わった後に対面した台輔のことが浮かんだ。

 仁重殿の奥の部屋で静かに体を休ませていたらしい台輔は、以前見かけた時よりももっと蒼白な顔をして、身を起こすのもだるそうな様子であった。

 「……麦侯か」

 「はい。本日は拝謁賜り恐悦至極に存じます。体調がお悪いとうかがい、お見舞い申しあげに参りました」

 「―――不調の原因はそなたもわかっているだろう。見舞われたところで治癒は叶わぬ」

 仁の獣はそう言って、紫の双眸をわずかに伏せた。その瞳に絶望が広がっているのを浩瀚ははっきりと見てとった。

 「かつてそなたは私に随分手厳しい諫言をしたが、結局はそなたの憂いていた通りになってしまったというわけだ。……なぜあのお方なのか。なぜ天はあのお方に王気をお授けになったのか。何度私はそう問うただろう。天のなさることが私にはまるで理解できない。そしてあのお方の心の内もわからない。私にはわからないことだらけだ。―――だが、ひとつだけはっきりわかることがある」

 景麒は瞼を持ち上げるのでさえ一苦労と言わんばかりの緩慢さで、ゆっくりと浩瀚を見やった。

 「……慶は沈む。そして私にはそれを止める力がない」

 「台輔」

 浩瀚はゆっくりと頭を振った。

 「それは誰にも不可能なことです。主上ご自身がそれを望まぬ限り」

 景麒はゆっくりと息を吐き出した。わかっていても言葉にされるのはつらい。景麒の表情にはそんな苦痛が浮かんでいた。

 「しかし、国が沈もうと残るものがございます。そして私には、残ったものを守る責務がございます。―――恐れながら台輔にも」

 浩瀚は言いながら全身で台輔の反応を探ろうとしていた。一方の景麒も、目の前の男の真意を探るようにじっと浩瀚を見つめていた。しばしの沈黙が二人の間に落ち、ようやく景麒が口を開いた。

 「……そなたは私に何をさせようとしているのだ」

 「次の世代に希望を残す手助けを」 

 浩瀚の瞳が真っすぐに景麒を見た。景麒もまっすぐに浩瀚を見ていたが、その瞳の奥にある感情は読み取れなかった。浩瀚はゆっくりと繰り返した。

 「どうかご助力を」

 
       
 
 
       
 
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 浩瀚は遠甫の身柄の保護を景麒に頼むつもりでいた。遠甫こそ松塾そのものだ。遠甫さえ無事であればいつでも塾は息をふきかえす。そして遠甫の教えは、これから荒れていく慶には何としても残さねばならならない宝であり、優秀な人材を育て得る教育者が慶に残るということが希望の灯そのものであると浩瀚は考えていた。

 空位の時代が長くなればなるだけ、靖共による仮王の治世が長くなればなるだけ、朝は靖共支配が強まることになる。靖共王国が出来上がってしまえば、このあと立つ王はよほど強靭な精神力の持ち主でない限り、王としての確固とした立場を作り上げていくことは困難になってしまう。対立に倦み、靖共の傀儡となってしまうなら慶はいつまでたっても安寧を迎えることができないのだ。

 いずれ立つ新王のためにも、国の安寧のためにも、遠甫には道を知る官吏を育て続けてもらわなければならない。

 浩瀚は景麒の前に深々と頭を下げた。

 「麦州に乙悦と申す者がおります。字は遠甫。道を知り理を知る方なれど、人望厚く慕われるをねたみ害さんとする輩がおります。このまま麦州にとどめ置けば賊徒に襲われるのは時間の問題かと憂慮しております。できますならば身柄を瑛州に移したく、どこかよい場所を台輔にお願いできないかと」

 「―――そのようなことならすぐに手配しよう」

 「ありがとうございます」

 浩瀚は言って再度頭を下げた。そしてゆっくり立ち上がる。

 「すっかり長居をしてしまいました。私はこれにて失礼させて頂きます」

 「―――麦侯」

 浩瀚が踵を返しかけると、景麒は呼びとめるように呟いた。小さなその声を拾って浩瀚は振り返った。

 「何でございましょう、台輔」

 浩瀚が振り向いた時、景麒の視線はあらぬ方を向いていた。呼び止められたと思ったのは空耳だったのかと思うほどで、浩瀚はわずかにいぶかしんだが、その視線が遠くの何かを探るような視線であるのに気がついて浩瀚ははっとした。

 「台輔?」

 「―――そなたは玉座を望んだことはあるか?」

 遠くを見つめていた景麒の視線が一瞬苦痛を伴うような色を見せて伏せられた後、景麒はゆっくりと浩瀚に視線を戻しながら問うた。その質問の真意を測りかねながら浩瀚は慎重に口を開く。

 「私は自分という人間をよく知っております」

 「それはどういう意味だ」

 景麒の言葉に浩瀚はわれ知らず苦笑を浮かべていた。

 
       
 
 
       
 
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 「恐れながら台輔。もし朝をまとめる自信があるかと問われれば、不遜を承知ながら迷いなく是と応えます。しかし、官吏と王とは全く違うものでございます」

 「王に朝をまとめる力はいらぬというか」

 「そうではございません」

 浩瀚はゆっくりと頭(かぶり)を振った。

 「官吏として朝とまとめるということと、王として朝をまとめるというのは全く意味が違うということです。官吏としての能力が優れた者が王としてふさわしいのなら、歴代の王は官吏から多く排出されるはずでございます。しかし実際はそうではございません。むしろ官吏出身の王の方が少ないくらいでございます」

 「それは単に民間出の王が官吏としての道を歩んでいなかったというだけかもしれぬ。官吏にさえなっていれば、その能力を発揮したかもしれない」

 「可能性はございます。しかしそれでも、王と官吏は全く別物だと申し上げましょう。なぜなら、官吏は頭で朝をまとめ、王は心で朝をまとめるからです。そして私には心で朝をまとめることはできません。それほどの心を私は持っていないのです」

 ですから、と浩瀚は続ける。

 「台輔のご下問に応えるなら、否となりましょうか。―――ただ、正直申し上げれば、想像したことはございます。しかしその結果、私は根っからの官吏だと自覚を深めただけにございます」

 浩瀚は思わず苦笑を深めた。

 「私は決して、主上が玉座にふさわしい方ではなかったなどとは考えておりません。いまさら何を言っても遅いのかもしれませんが、うまく朝をまとめられさえすれば、穏やかな治世をおしきになられたことでしょう」

 「……まったく今さらだな」

 だがそれでも絶望の淵にいた麒麟はわずかながらに心が慰められたのか、険しかった表情がわずかに緩んだように見えた。

 「それではこれで、本当に失礼いたします」

 浩瀚はそう言うと丁寧に拱手してその場を去った。

 あの気真面目な若い麒麟に再び相まみえることが叶うだろうか。浩瀚は騎獣の手綱を操りながら蒼白だった台輔の顔を思い出す。

 まだ失道の報は聞いていなかったが、それも時間の問題であるようだった。失道がはっきりしたものとなれば、麒麟はほとんど助からない。もって一年。そして麒麟が亡くなって王の寿命が尽きるまで、また更に一年。

 台輔の先行きを心配しつつも、その時間を冷酷に考えていた自分に浩瀚は苦笑する。

 「……だから私は根っからの官吏なのだ」

 自嘲交じりの呟きは、新年の夜空に吸い込まれていった。

 
       

   
 <20>
 

 夜空を駆け抜け麦州城を目指す浩瀚一行は、そろそろ瑛州を抜け麦州へと入ろうとしていた。金波宮から麦州城まで騎獣を駆って空を行けばさほどの時間はかからない。やがて浩瀚は月明かりに照らされた凌雲山を視界に捕えた。闇夜に浮かぶ凌雲山は黒々と大地に突き刺さる柱のようである。

 しばらくはいっかな近づかないかに見えたその柱だが、ほどなく視界に納めきれなくなった。その頃には麓の明かりもはっきりと見えるようになってきて、浩瀚は目的地が近付いていることを実感した。

 あの明かりの下に陽子がいる。

 そう思うだけで浩瀚の胸がぽっと温かくなった。

 彼女はいま何をしているだろうか。もう休んでいるだろうか。そう思って、いや、と心の中で否定する。今は正月。この時間にもかかわらず城下のそこここでにぎやかな宴が続いていることだろう。そしてそれは松塾も変わらないはずだ。

 帰城の前に立ち寄ってみようか。

 浩瀚の心は揺れる。非常識な時間であることは承知だが、城へ戻ればしなければならないことが山とある。陽子を訪ねる時間が取れるとは思えない。となると、陽子に会えるのは陽子の次の登城日となるが、主上のあの勅があってこれから城にいる女性を追い出さねばならない現在、今後陽子を城へ招くのは恐らく不可能になるだろう。

 そう思えば何としても今夜陽子の顔が見たかった。

 ―――それに、遠甫にもお話し申し上げねばならぬことがある。

 言い訳のように浩瀚は心の中で呟いて、先導する桓魋の横に騎獣を寄せた。

 「帰城の前に松塾へ寄る」

 「え、これからですか」

 「一刻も早く遠甫にお伝えせねばならぬことがある」

 浩瀚が言うと、桓魋は頷いた。

 「わかりました」

 そして徐々に高度を下げて行く。やがて街の明かりがはっきりと目に飛び込んでくる。そしてそれと同時に、城下の異常も一行の目に飛び込んできた。

 「あれは」

 「火事か」

 街の一画から立ち上る火柱。立ち込める黒煙。焼けた匂いが上空まで充満していた。

 「あれは塾の方角では」

 桓魋の緊張を孕んだ声が浩瀚の鼓膜を揺らした。

 街から立ち上る火柱を見たときから「まさか」と胸騒ぎを覚えていた浩瀚は、桓魋のその一言に瞬く間に理性を失った。浩瀚は周囲の制止を無視し、夜空に立ち上る火柱目指して騎獣を一気に加速させたのだった。

   
   
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