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 混乱する現場で的確に指示を出し、一通りの処理を終えた柴望が州城に到着したのはすっかり夜が明けた頃のことだった。下官が心配して一度官邸に戻って身を改めてはどうかと勧めてきたが、柴望は兎にも角にも一度浩瀚に会う必要を感じていた。煙にいぶされ煤で汚れた体のまま州城を闊歩し内殿へと向かったが、昨夜のことを知らぬ者はすでに州城内にはいないと見えて、柴望の姿に心配の視線を向ける者はあっても、ぎょっと驚くものは皆無だった。

 「候!」

 伺候の挨拶もそこそこに柴望は州候に執務室に踏み込んだ。部屋には数名の官吏が詰めていて、忙しそうに書類の作成に追われていた。その中心で誰よりも忙しそうにしていたのが部屋の主である浩瀚だったが、柴望の声に浩瀚はわずかに手を止めてちらりと視線を上げた。

 「柴望か。現場はどうなった」

 「火はまだかすかにくすぶってはおりますが、鎮火に向かっております。街への延焼の可能性は低いでしょう」

 「そうか」

 うなずいて再び筆を滑らせる。見る見るうちにいくつかの書類を書きあげて官らにてきぱきと指示を与えると、部屋にあふれていた官吏らは、それぞれの仕事を手にあっという間に部屋から出て行った。

 最後の者が気を利かせたように戸を閉めていく。部屋には浩瀚と柴望の二人だけが残された。

 「それで?」

 浩瀚は大卓の上で手を組んで柴望を見上げた。どことなくいつもと違った雰囲気を感じつつ、柴望はまずは報告すべきことを告げた。

 「乙老師の件についてはご指示通りに。老師を救出した時に一緒だった塾生数名とともに城下のとある場所に匿っております。塾生も一緒にいる者以外老師の安否を知りませんし、老師行方不明の噂も流させておりますので敵側にもおそらくそのように伝わるでしょう。それと賊徒の件については引き続き調査中です。現在入っている情報では和州方面に向かっているようだということですが」

 「見失うな。できれば賊徒と接触してくる人間までつかみたい」

 柴望はうなずく。それは自分とて同じ思いだった。今回の件の黒幕がだれであるのか想像はつく。だが、想像で終わるのと証拠が手に入るのとでは大きく違う。自分の身や仲間の身、ひいては麦州を守るためにも必要なものだ。そしてそれと同じように、柴望は今、はっきりさせておかなければならないことがあると思っていた。言うまでもなく陽子のことだ。陽子をどうするつもりなのか。どのような立場に置くつもりなのか。それを明確にしておくことは州候を補佐する自分の役目だと感じていた。

 

 
       
 
 
       
 
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 「それで、陽子はどんな具合です?」

 柴望が問うと、浩瀚の表情は一瞬ぴくりと動いた。その表情をさりげなくもつぶさに観察しながら柴望は、浩瀚が真実陽子にどのような思いを抱き、どうするつもりなのか、その内心を読み取ろうと必死だった。

 だが相手は、腐っても朝に巣くう海千山千の古だぬきを相手に一歩も引かぬつわものだ。すぐにどうとも読めぬ表情をしてさらりと答えた。

 「怪我はないが、動揺が大きいようだ。今は玉葉が付き添っている」

 「そうですか」

 その答えに柴望も一応ほっとする。陽子の身が心配だったのは柴望だって同じだ。それに柴望は、「彼女を最初に保護した者」としての責任感を抱いており、松塾に預けたとはいえ、今だって最終的な庇護責任者は自分だと考えていた。

 だからこそ、今彼女を保護するのは自分が最もふさわしく、かつ、自然であり、浩瀚がそれにとってかわるのは不自然極まりなく、どうしたって他の者の目にもそう映ることを懸念していた。

 いま浩瀚が、いや麦州の州侯が、そういった個人的感情でひとりの女性を庇護することがどういう意味を持つのか、そのことが周囲にどういった認識を植え付け、どのような事態を生む可能性を秘めているのか、柴望はそのことを最も懸念していた。

 「取りあえず無事だったのは何よりです。乙老師も随分と陽子のことを心配しておられたので安堵なさるでしょう。それで老師のことは、今後どうなさるおつもりですか。安否不明でかくまったのはよいですが、ずっとこのまま隠れ家に閉じ込めておくわけにはいきますまい」

 「その点については、すでに台輔にお願いしてある」

 「台輔に?」

 柴望は意外な答えにわずかに目を見開いた。

 「候はすでにそこまで手をまわしておいででしたか。―――それにしても、台輔にお願いしたということは、候は老師を瑛州に行かせるおつもりなのですか?」

 「灯台下暗しという。それに黄領では靖共とて大手をふるって動くわけにはいかない。やつが冢宰でいるがゆえに、踏み込めない領域というものがある」

 「彼の者にそれだけの良識があれがよいのですが」

 柴望の心配をよそに、浩瀚は自信ありげに笑みを浮かべた。浩瀚の中では遠甫の逗留先は瑛州以外考えられないということなのだろう。よくよく考えれば、柴望にも確かにそれが最良の策だと思えた。だが、一人で行かせるのはさすがに心配である。誰か世話をする者をつける必要もあるだろう。しかし塾生をつければ敵方に悟られる危険もある。それに瑛州はいま、何と言っても慶のこの混乱を生んでいる中心地だ。血なまぐさいことも多く、治安も悪い。従者を誰にするかは慎重に考えなければならないと柴望は思った。

 
       
 
 
       
 
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 ―――女人追放令さえなければ。

 柴望は胸中ひとりごちた。

 遠甫と共に瑛州に行かせる供の者として陽子を推しただろう。身の回りの世話を任せるにも安心だし、何より海客だ、こちらに人間関係のしがらみがあるわけではなく人質として取られるような身内がいるわけでもない。それは、万一敵方に目をつけられたとしても弱みを握られたり取り込まれたりする心配が少ないことを意味している。それに陽子はおとなしいようでいて意外と度胸があり、また、鋭い観察眼の持ち主でもあるということも州城での働きを通して柴望は気づいていた。

 ―――まったくおしいことだ。

 柴望は小さく息をついた。考えれば考えるだけ、遠甫の供として陽子はうってつけだった。

 「今後の女性官吏の動きはどうなっているのですか?」

 柴望はひとまず話題を変えた。金波宮で指示された通り、女性官吏を雁へやるための船の手配もしなければならない。

 「今日中にはすべての女性官吏に触れを出し、数日中には第一陣として渡航させる顔ぶれを決定し本人たちに通知を行う予定だ。併せて、麦州の民にも主上の勅命を知らせ、速やかに慶から退去する準備を進めるよう通達を出す。そうだな、七日以内には船を用意してほしい」

 浩瀚の指示に柴望は頷く。相変わらずのよどみない指示に頼もしさがあふれていて柴望はひとまず安堵した。

 「それと、清谷の倉庫街を荒民の一時受け入れ場所とする。今その準備を早急に進めるよう各関連官府に通達を出した。が、他州からの難民の数も考えれば、倉庫街だけでは到底収容できないだろう。余計な混乱を抑えるためにも、ある程度は本当に雁へ人を運ばねばなるまい。その船に乗る順番を決める際に横行するであろう賄賂を制御しなければならないのだが―――」

 浩瀚はそこまで言って、思案するように沈黙した。その姿を眺めながら、柴望は浩瀚が何を考えているか手に取るようにわかった。この男は何も賄賂をきっちり取り締まろうとしているのではない。本人もそう言っている。「制御しなければならない」と。規模が大きくならないよう表向きの取り締まりはするとしても、どうやったって裏で金が動くことを認識し、その裏で動く金の流れさえも自分の管理下に置くための体制作りとそれを任せるべき人選について思案しているのだ。表も裏も知り尽くした上で動くからこそ、この混乱期にあっても麦州が他州より豊かで治安が良い裏付けとなっていることを、柴望は承知していた。浩瀚という男のすごさがここにある、とさえ柴望は思っている。

 「典許(てんきょ)などいかがです」

 柴望がするりと口にのぼらせると、浩瀚は満足そうに笑った。

 
       
 
 
       
 
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 「あれは芝居のうまい男です。ひと月もすれば侯の御希望通り立派な腹黒い役人と世間に周知されることになるでしょう」

 「お前は時々辛辣だな」

 浮かべた笑みをひっこめて浩瀚は柴望をにらんだ。

 「まあ、いい。それよりもお前は、一度官邸に戻って身を改めてくるんだな。残念ながらあまり時間はやれないが、風呂に入るくらいの時間は大丈夫だろう」

 「そのあとで陽子に会ってもよろしいですか?」

 唐突に柴望が問えば、浩瀚の表情がわずかに動いた。

 「……さて、どうかな。随分動転していたから」

 「長い時間は必要ありません。何なら遠くから姿を見るだけでもいいのです。乙老師が陽子のことをとても心配しておられたので、どのような様子でいるのかお伝えしたいのです」

 「……陽子の様子による。今は何とも言いようがない」

 「そうですか。確かにあれだけ混乱した現場に居合わせれば、動揺も深かろうと」

 「そればかりじゃない」

 浩瀚は険しい表情で軽く頭を振った。

 「私が駆けつけた時、陽子と共にいた少年が賊の凶刃に倒れるところだった。恐らく深く親交していたであろう者を目の前で殺されたのだ。……というのに、今は泣きも叫びもしない。一切の感情を封じてしまっているのだ」

 柴望は軽く目を見開いた。そういう状況に陥っているとは想像もしなかった。それは体に怪我を負うよりも深刻な状況ではなかろうか。

 「そうでしたか。では今は、無理に会うのはやめておきましょう。ただ、様子を見て伝えられるようなら、遠甫はご無事だと伝えてください。陽子のことをとても心配していると」

 「わかった」

 柴望は軽く会釈をすると、部屋を退室した。そして深く息をはく。

 ―――さて、どうしたものか。

 柴望は思案する。陽子を長く州城にとどめ置くことはできないが、状況が状況なだけに今無理を通して陽子を自分の官邸に引き取ることは良策ではないように思える。すべては陽子の状況次第だと思うのだが。

 ―――そばに玉葉がついていると言っていたか。

 柴望は浩瀚との会話を思い出して、胸中呟く。玉葉は気遣いのうまい女性だ。そばに玉葉がついているならひとまずは安心だ。が、今の慶の状況を考えればそれでも悠然と構えていられるわけではない。

 柴望は急ぎ官邸に戻ると、玉葉と連絡を取るべく書簡をしたためた。


 
       

   
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 陽子は自分の身に何が起きたのかよくわからなかった。目が覚めると信じられないくらい豪奢な臥牀に横たわっており、しばらく夢を見ているのかと思ったぐらいだった。

 「ああ、よかった。目が覚めたのね」

 「―――玉葉さん?」

 「喉は乾かない?それとも何か食べるかしら」

 気づかうその様子に戸惑いながら、陽子が「じゃあ、お水を」と言うと、玉葉は優しい頬笑みをひとつ残してすぐに部屋を出て行った。

 その後ろ姿を見送って、陽子は改めて室内を見回す。やはり見覚えのない、そして豪華な室内だ。決して派手ではないが、素人目に見ても置いてある調度のすべてが高価なものであろうと想像がつく。

 ―――ここは玉葉さんのお家なんだろうか。

 しかしそうであるなら、どうして自分が玉葉に家にいるのかさっぱり分からない。自分は松塾にいたはずだ。正月の祝いの席で、お客様のお世話をして―――

 「!」

 記憶の糸を手繰り寄せて、陽子ははっと息を飲んだ。

 突如上がった煙。一気に回った火の手。そして、突然現れた謎の殺人鬼。

 ―――李真!

 陽子は叫びをあげそうになった口もとを無意識に両手で覆った。胸が痛い。息が苦しい。しかし、心の奥底から湧きあがってこようとする大きな感情を恐れて、陽子はそれを必死に飲み込んだ。意識的に深呼吸を繰り返せば、胸の痛みが引いていく。

 陽子それに安堵した。

 玉葉が水を手に戻ってきたのはその時だった。

 「ありがとうございます」

 笑顔で水を受け取る。玉葉が痛々しそうな表情をしたのがなぜかわからなかった。

 「……ところで、ここは玉葉さんのお家ですか?」

 陽子がゆっくりと水を飲みほしてから問えば、玉葉は「え?」驚いた表情をした後、ゆっくりと頭を振った。

「―――いいえ。ここは、州城よ」

 「州城?」

 「……覚えてないかしら。昨夜、浩瀚さまと一緒に来たのよ」

 言われて陽子は記憶の糸を手繰る。そう言われれば、昨夜誰かが助けてくれたような気がする。そうだ、ずっと耳元で「大丈夫だ」と言ってくれて、それで少し安心できたような気がする。

―――では、あれは浩瀚さまだったのか。

 自分を包み込んでくれたぬくもりを、陽子はそっと思い返した。

   
   
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