| TOP | 小説 | イラスト | 雑記 | リンク | 拍手

       
 
<21>
 

 「陽子!」

 浩瀚は声の限り叫んだ。広い松塾の敷地内のあちこちから火が出ていて、渦巻く煙の向こうにわずかに動く人の姿が見え隠れしていた。

 「陽子!」

 声をとどかせようと騎獣をぎりぎりまで降下させようと浩瀚は必死に手綱を操っていたが、降りかかってくる火の粉を嫌って現場から離れようとする騎獣を御するのは容易ではなかった。

 「くそ、駄目だ!」

 煙の向こうの人影が判別できるほどに近づいてくれない騎獣にいら立ちながら、浩瀚は火事の様子を瞬時に頭に叩き込み、火の影響の一番少ないところを確認した。

 「よし、あの広場に降りるぞ」

 浩瀚は騎獣に言い聞かせるように呟く。

 「お前は俺を降ろせばすぐに立ち去ってよい。だが、必ずあそこまで行ってもらうからな」

 拒否するように騎獣が首を激しく降ったが、浩瀚は手綱を締めて逆らうことをゆるさなかった。

 「行くぞ!」

 浩瀚が騎獣の腹をけると、騎獣は抵抗を諦めたように一気に地上めがけて降下した。背後で自分を制止するいくつもの声が聞こえたが、浩瀚はもとより聞く気などなかった。瞬く間に地面が近づく。それでも騎獣の勢いが緩むことはない。騎獣も興奮状態にあり、完全に御しきれなくなっていたのだ。このままでは大人しく着地するとは思えない。それでも浩瀚はぎりぎりまでねばり、地面すれすれに近づいたところで騎獣の背から飛び降りた。

 騎手を失くして軽くなった騎獣は、わずかに地面をすったがそのままの勢いで再び空高く舞い上がっていく。一方の浩瀚は、騎獣の背から飛び降りてそのまま勢い余り、地面を三転四転してからようやく止まった。

 かぶった土ぼこりを払いながら浩瀚はたちがある。そして周囲を見回して浩瀚は思わず顔をしかめた。

 目に飛び込んできた倒れ伏した人々。その体が血濡れていることに気がついたからだ。

 刹那、嘉煕の言葉がよみがえる。

 この火事は事故ではない。そして、敵の動きが思っていたより早かったということを浩瀚は悟った。

 らしくもなく、思わず舌打ちした。この惨事が火事だけではないのなら、ますます陽子の身が心配だった。

 「陽子!」

 浩瀚は叫びながらその姿を捜した。

 
       
 
 
       
 
<22>
 

 陽子。どこだ。どこにいる、陽子!

 浩瀚は火をかいくぐりながらその姿を捜し続けた。

 「陽子!」

 声を上げれば容赦なく煙が体内に流れ込んでくる。仙といえど煙にむせる。その時、「陽子」と誰かがその名を呼ぶ声がした気がした。

 服の袖で口元を覆いながら、浩瀚は耳をすます。再び「陽子、早く」と誰かの促す声がした。

 ―――間違いない!

 浩瀚は無我夢中で走った。

 直後、するどい悲鳴が夜空を切り裂く。

 彼女の悲鳴に違いない。浩瀚は確信し、気が気ではなかった。燃えさかる建物を回り込み、そこに捜していた姿をようやく見つけた。それと同時に浩瀚の表情はより一層険しくなる。

 陽子の前に立ちはだかる男。そして、腹に剣の突き刺さった少年。男がその剣を引き抜いて再びふり上げる直前、浩瀚は袂から取り出した短剣を男めがけて投げた。短剣はあやまたず男の喉に突き刺さり、男はそのままひざから崩れ落ちるようにして倒れた。

 「陽子!」

 浩瀚は叫ぶ。しかし陽子の視線は目の前の少年に張り付いており、驚愕に見開かれた双眸に、もはや正気を失っているのは定かだった。

 浩瀚は駆け寄りながら手早く少年の具合を検分した。流れ出ている大量の血に、人の身ではもはや助からないことは明らかであった。少年の体が大きく痙攣する。何か言いかけたようだったが、その口から出たのは言葉ではなく大量の鮮血だった。

 浩瀚は陽子に駆け寄ると、目の前の惨劇から陽子の視界をさえぎるように前に回り込んだ。両肩を掴んで揺さぶって、強く呼びかければようやく双眸が揺れて視点が定まって、涙にぬれた瞳で陽子が力なく浩瀚を見やった。

 「……こ」

 震える声は言葉にならない。だが何を言いたいかは充分伝わった。浩瀚はそのまま陽子を力強く抱きしめた。細く華奢な体が浩瀚の腕の中にすっぽりと収まる。その存在が愛おしくて、無事であったことがうれしくて、浩瀚は泣きそうだった。

 「もう大丈夫だ」

 抱きしめながら浩瀚は天に感謝した。生まれてこのかた、これほど天に感謝したことがないというほど浩瀚は天に感謝した。何が何でも彼女は自分が守る。浩瀚の中にはその思いしかなかった。

 「すぐにここから脱出しよう」

 浩瀚は言いながら愛しい少女の唇にそっと口づけを落とした。

 
       
 
 
       
 
<23>
 

 触れあった唇の甘い刺激に浩瀚は酔う。しかしその間にも業火は二人のすぐそばまで迫っていた。渦巻く熱気にむせる。ここに長居はできない。浩瀚は陽子の唇から名残惜しげに離れると、頭に叩き込んだ上空の映像を思い返し脱出経路をはじき出し始めた。どうすれば陽子を無事に外へ連れ出せるのか。浩瀚の頭はフル回転する。

 仙なる己の身では多少の火の粉は何でもない。だが、只人の陽子にとっては熱風さえ辛いはずであり、愛おしい少女の身にやけどのひとつだって負わせたくはなかった。

 浩瀚は近くにあった井戸から素早く水を汲むと、いたわりの声をかけながら陽子の身に水をかけ、さらに水を含ませた己の上着で陽子を頭から包んだ。

 水に浸した絹は火に強い。これで多少の火の粉には耐えられるはずだ。

 浩瀚は陽子を抱えあげた。

 わずかに身を震わせている少女の身は、羽のように軽かった。

 「大丈夫だ。私が必ず外へ出してやる」

 浩瀚が力強く囁くと、小さな頷きが返った。それだけで浩瀚は勇気づけられる思いだった。

 浩瀚は意を決して一気に駆け出す。無事に外へ出られるかは、勢いを増す火との時間勝負だった。少々の火に怖気づいていては、本当に脱出路を失ってしまう。浩瀚は腕の中の少女に火の粉がかからないことだけを気にしつつ、業火の中を駆け抜けた。

 服が焼ける。髪が焦げる。足や手が見る見る火ぶくれするのがわかる。だが浩瀚にとってはそんなことは瑣末なことだった。

 ただひたすら、出口だけを目指して一直線に駆け抜ける。

 やがて、浩瀚の視界が目指す出口を捕えた。火はそこにもすでに回っていたが浩瀚は迷うことなくその火をくぐり抜けた。

 「候!」

 外へと飛び出した途端、外に控えていた者たちが声を上げた。火事に気付いて動いていたのか、柴望らから連絡がいったのか、敷地の外には思いのほか州師が詰めかけている。

 「瘍医だ。瘍医を呼べ。すぐに手当てだ!」

 誰かが浩瀚を一目見るなり叫んだ。よほどひどい恰好なのだろう。誰もが息を飲むような硬い表情で浩瀚を見つめていた。

 「それより騎獣を用意しろ」

 浩瀚は叫ぶ。この混乱する現場から一刻も早く陽子を遠ざけたかった。そしてそれと同時に、早く陽子を州城の奥深くへ匿ってしまいたかった。

 「……しかし」

 「いいから早くしろ!」

 問答をしている間に、柴望が駆けつけてくる。その顔には、珍しく怒りがはっきりと表れていた。

 
       
 
 
       
 
 <24>
 

 「浩瀚さま!あなたという人は!」

 鬼の形相で駆け寄ってきた柴望の勢いに浩瀚は内心面食らった。決して短くはない付き合いの中でこの男がこれほどの怒りを自分に向けてきたことがあっただろうか。柴望には随分と無理難題を押し付けてきたし、わがままも言ってきた。それによって、口うるさく諫言してきたり、あきれたり、不平不満をぶつけてきたりといろんな顔を見せてはきたが、これほどの怒りを見せたのは記憶にない。

 「ご自分のお立場というものを分かっておいでなのですか!」

 「―――わかっている」

 「いいえ、わかっておいでではない!わかっておいでなら、こんな無謀なことをなさるはずがない!」

 その言葉は心配から来るもの。しかしそれがわかっていながらも浩瀚は、柴望の言葉に思わずむっとした。心配をかけてしまってすまなかったという気持ち以上に、自分のこの行動が非難されることが許し難く感じたのだ。陽子を助けに行った行動が非難されるということは、陽子は見捨てるべきだったと言われているも同然であった。

 ふつふつと怒りが沸き起こる。だが、浩瀚はその怒りを何とか抑え込んだ。

 息を飲んで事の成り行きを見つめている衆目の存在に、今ここで自分と柴望が口論を始めるべきでないと判断したからだ。

 「話があるなら後で聞く。私は州城に戻る」

 浩瀚はようやく登場した騎獣にまたがると、努めて冷静に柴望に告げた。

 「お前はここに残り現場の処理にあたれ。それと、賊徒の正体を早急に調べろ」

 浩瀚はそれだけ言うと騎獣を上昇させた。柴望がまだ何か言いたげに不満の色を浩瀚に向けていたが、浩瀚はあえて無視して視界から柴望を消した。

 浩瀚は陽子を抱く腕に力を入れる。今は一刻も早く州城へ戻り、陽子を休ませてやることが何より優先事項だ。

 ―――誰の手も届かない州城の奥深くへ、早く陽子を連れていかなければ。

 浩瀚は心の中で呟くと、騎獣を一直線に州城へ向けて飛ばした。

 柴望はそんな浩瀚の姿を無言のままに見送った。上着に包まれ姿は確認できずとも、大事そうに浩瀚が腕に抱いていたのが誰であるか、柴望はよくわかっていた。

 浩瀚が陽子に好意を抱いているのはわかっていた。今まで割り切った大人の女性しか相手にしてこなかった浩瀚にしてみれば珍しい相手に興味を持ったものだと思わなくもなかったが、そのこと自体をどうこう言うつもりはなかった。重責ある身。慰めになる存在があった方が安心する面もある。

 だが、あれほどに執着するとは……。

 そのことが柴望には意外であり、そして今のこの時期にそういう状況に陥っていることが歓迎されるべきことなのかどうか柴望はわずかな不安を感じていた。


 
       

   
 <25>
 

 「陽子、大丈夫なの!」

 浩瀚に連れられるがまま州城のある一室へと陽子がやってくると、さほど間をおかずにやってきたのは玉葉だった。どんな時でもおっとりと静かにふるまう玉葉らしからず、駆け寄ってきた彼女は髪も着衣も少し乱れていた。

 よほど慌ててきたのだろう。あがった息を必死に整えながら、玉葉は陽子の前に膝をつくと手を取って顔を覗き込んだ。

 「どこにも怪我はないの?」

 こくり、と陽子は頷いたが、まだどこか意識がぼうっとしていて、一切の感情が陽子の中から抜け落ちていた。

 無表情の陽子の様子を見て、玉葉は思わず顔をしかめる。傍らの浩瀚を見上げれば、浩瀚も同じように険しい顔で眉を寄せていた。

 「―――浩瀚さま」

 「風呂に入れて、躯をきれいにしてやってくれ。とにかくまずは、ゆっくり休ませることだ」

 「……ええ、そうですわね」

 玉葉が促せば、陽子は素直に立ち上がって玉葉に連れられて行く。しかしそれはまるで操り人形のように、意志というものを感じない動きだった。

 浩瀚は二人が部屋の奥へと姿を消すのを見送ってから少々後ろ髪引かれる思いで踵を返す。内殿へ行って早急に処理しなければならないことが山とあった。

 執務室へとやってくれば、時を計っていたように下官が青鳥を運んでくる。足に付けられた文書を開くと、現場に残してきた柴望からのものだった。その中身は、遠甫が無事に見つかったことと、賊を数名捕えたものの皆口に忍ばせていたらしい毒で自害して果てたこと、逃げた賊については現在士師に追わせているというものだった。

 浩瀚は急ぎ返事を書く。できるならば遠甫はそのまま安否不明にして匿うこと。自害した賊については細部に至るまで調べ、一方の逃げた賊についてはしばらく泳がせどこへ逃げるか確認すること。以上の指示を手早く書いて浩瀚は青鳥の足に結び付けた。

 「これを急ぎ放て」

 わずかに一瞥を投げて指示ずれば、下官は軽く一礼して機敏に立ち去った。

 それを確認するのももったいないと言わんばかりに、浩瀚はすぐに紙を広げてこれから必要になる文書を公文書から密書に至るまで作成した。しかしその作業を行いながらも頭の片隅には常に陽子のことがあった。

 陽子を自分の目の届かぬ所へやるつもりは毛頭ない。しかし王のあの勅命によりこれから州城の女性を表向きとはいえ全員追放しなければならないこの時にあって、陽子を州城へとどめ置くことが可能だろうか。いや、どうやったらそれが可能になるのか。浩瀚はそのことを考え続けていた。


   
   
  背景素材
     
inserted by FC2 system