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  - 序 -
 
 

 大陸東部に位置する慶東国の中でも最東端に位置する地――武州。
 大陸でどこよりも早く日が昇るこの州は、慶国一の米所であるが、寒暖の差が激しく、冬は北に隣接する和州よりも冷え込むことで知られている。
 雪は降らぬが、とにかく何もかもが凍りつく。
 武州の冬は、そう表現されていた。

  時は、慶国の国暦で四年。新年を迎えてようやく春めいてきたかと思えたこの日、武州焔県にある睡稜の里は、早春の柔らかな陽光に包まれた穏やかな朝を迎えていた。
 里家に住まう琳明は、日の出と共に起きだして、いつものように朝の支度をするために井戸へと向かう。立て付けの悪い引き戸をできるだけそっと空けて外へと出れば、辺りにはうっすらと靄がかかっていた。水温の方が気温よりも高いために起きる現象で、近くを流れる川から発生しているものである。
 この辺り一体の風物詩だ。
 靄が発生するのは春が近い証。真冬に凍っていた川が、溶けたために起こるのだ。
 だから琳明は、辺りに靄がかかっているのを見て微笑んだ。
 春は、もうすぐそこだ。
 今年は春の訪れが早そうだ、と琳明は思う。去年の初靄は二月も半ばになってからだった。うんと子供の頃の記憶をたどれば、三月の下旬頃まで川は凍り付いたままであったから、それを考えれば近年は段々春の訪れが早くなってきている。
  これと同じような変化を、琳明は十年前にも経験した。新王践祚に沸いた年だ。しかしすぐに、また女王だ、と言う声が聞こえ始め、なにやらわからぬうちに川はまた以前と同じようになかなか溶けなくなったのだ。
 大人達の囁きの理由が今ならわかる。
 そしてまた大人たちは、同じような囁きを交わしている。
 しかし琳明は、そんな大人たちを哀れに思っていた。今年少しでも早く春が訪れるというなら素直にそれを喜べばよい。王の所業など、自分たちがどんなに噂をしたところでどうなるものでもないのだ。
 琳明は井戸から桶に水をくみ上げながら、里を囲む高い隔壁の向こうに見える空を見やった。靄に朝日が反射して、この時間にしか見られない独特の美しい姿を見せる。琳明が最も好きな光景。それに朝の仕度もそっちのけでついつい目を奪われていると、徐々に光を強くしていく朝日に、辺りが一瞬黄金色に包まれた。
 その美しさに琳明は思わず息を呑む。
 生まれた時よりここ睡稜で暮らしてきた琳明でさえ、初めて目にする光景であった。
 ―――なんてきれいなの……
 「こういうのを瑞兆というのかしら」
 ぽつりと呟いたその直後、目の前の景色がぐにゃりと歪んだように見えた。
 え?と思う暇もなく琳明は、自分がとてつもない風に吹き飛ばされたようにも感じたし、足元に突然穴が開いてそこに落ちたようにも感じた。
 正直、何が起きたのかわからなかった。
 五感が麻痺し、天地の感覚すらもなく、ただ、ぐにゃぐにゃと歪んだ空間の中を独楽のようにくるくると回る感覚のみ琳明を支配した。
 そしてそれさえも一瞬のことで、琳明は自分の体が白い光に融けていく感覚を最後に、意識を手放したのであった。

 武州にて大規模な蝕が発生。
 その報が金波宮の陽子の元にもたらされるのは、翌朝のことになる。



*武州の表現については創作です。

 
 

  
 
 
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