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 大陸東部、慶東国の首都、堯天―――
 その日の堯天は、早春の柔らかな陽光に包まれた穏やかな朝を迎えていた。そんな穏やかな空気は雲海上にも少なからず影響するものか、今朝はどことなく空気がやわらかいと自室の窓から外を見やった男は穏やかに目を細めた。
 眺める先に梅花が見える。今朝はずいぶんとほころんで、朝のすがすがしい空気にその香を溶け込ませていた。
 ――― 一枝、主上に献上しようか。
 紅梅に主の鮮やかな緋色の髪を重ねあわせ、男は思う。いつも民を第一に思う生真面目な女王は、政務に勉学にと何にでも真摯に向かい合うゆえ好ましくはあるが、少々根を詰めすぎるきらいがある。そんな女王に咲きはじめの梅花を添えて「もうすぐ、民が凍えながら過ごさずに済む季節がやってまいりますよ」と告げたなら、いつもどことなく張り詰めたようにしている表情を一瞬でもほころばせ、きっと「そうだな」とでもいいながら微笑まれることだろう。
 ―――ほんの一瞬でも、お心が安らかになるならば………。
 男はそう思い、服の裾が汚れるのも厭わずに朝露に濡れる庭へと降りる。そして手ずから梅の枝を一枝手折ると、手の中に納まった花を眺め満足げに微笑んだ。
 男の元に下官が慌しく飛び込んできたのは、正にその時であった。

 

 「蝕!」
 その報告に陽子は目を見開いた。
 朝議が始まる前の朝のひと時。いつもなら陽子が浩瀚からその日の朝議で取り上げられる予定の議題や予想される諸官の反応、それに対する心構え等の指南を受ける時間。その報告は陽子にもたらされた。
 とっさに、はじめて流れ着いた巧の配浪の様子が脳裏をよぎる。
 台風が通過した後のように木々は押し倒され、田圃は泥が流れ込んで沼地のようになっていた。
 こちらとあちらが交じりあって気が乱れ、色々な天変地異が一緒くたに起こる災害――蝕。
 こちらの人間が嵐より何より恐れる災害だ。
 蝕は天の範疇にあらず。ゆえに神の身である王にもどうすることもできない。
 しかし、

 ―――少なくとも配浪の蝕は、私のせいだった。

 なのに、何の償いもすることができなかった。そういう思いがあるためか、蝕の報告を受けた瞬間、陽子は鳩尾にしこりのようなものを抱えた気分になった。
 「で、被害の状況は?」
 「詳しくはまだわかりませんが、里が三つ飲み込まれ、跡形もないとか。周辺の里や街の被害も甚大のようです」
 浩瀚の言葉に陽子は眉をひそめた。
 一家はふつう二人で数え、里は里家を加えた二十五家で構成されている。つまりひとつの里に五十人。しかし本当は子がいたりするので二人以上の家も多い。
 要するに、里が三つということは、少なくとも百五十人。一家に一人以上の子がいれば三百人近くの者が死亡したことになる。
 
  ―――多い。
 
  陽子は思わず唇をかみ締めた。
 赤王朝始まって以来の大惨事であることは疑いようがないだろう。しかし、長らく波乱続きで未だ地に恵みを蓄えきれないでいる慶にあって、被災者救援を声高に叫んだところでできることなど高が知れている。治水や道路整備を最優先している今、国庫に余裕など微塵もない。
 陽子は、蓬莱での災害救助を思い出す。
 地震などの大規模災害が起きた時、それはたちどころに国中に情報が伝播される。国府は災害対策本部を立ち上げて自衛隊を派遣し、民間人はボランティアとして現地に入って救援を支援する。全国から救援物資が集まり被災者らの衣食を支え、家を失った者もとりあえず避難所へ身を寄せて野宿せずにすむ。そして被災後は、万全とはいえなかったかもしれないが、色々な支援制度があったはずだ。

 ではこの慶では?

 陽子はいまさらながら、災害時に国がどう動くのか知らないことに愕然とした。
 わが国のことであるというのに……
 だが、今は落ち込んでいる場合ではない。
 陽子は軽く頭を振って浩瀚を見た。

 こちらでは各州を実際に統治しているのは州侯だ。王は統治の指標を示すのが仕事で、つまりは、こういった災意が起きた場合はこういう風に救済せよ、との法を整えておくのが務めということになる。しかし陽子は、治水や道路整備、荒民の帰国や税の徴収、刑罰等の法整備を優先しており、正直、災害支援については手が回っていなかった。
 泰麒捜索の時、王がいなくても民が救われるような道を敷いておきたいなどと偉そうなことを言っておいて、王がいる時に被災した民を救済する法の整備をほったらかしにしていたとは呆れる。
 陽子はそう思ってつい苦笑がもれた。
 「何よりもまずは、人命救助を優先せねばならないと思うが、こういう場合、民の救済はどうなっている?」
 現地がどんな状況にあるのか、未だ詳細がもたらされぬ以上想像するしかなかったが、瓦礫に生き埋めになっている人々がいるなら一刻も早く救助せねばならない。蓬莱では、生還できるタイムリミットは三日とされていたはずだ。それ以上は奇跡に頼るしかなくなる。
 「土地を直接治めるのは州侯の職分。必要なことは州侯が采配しましょう」
 「それはそうだろうが、具体的にはどうなっているのかと聞いている。蝕が起きたとなれば、瓦礫に生き埋めになる者も、重傷を負う者もいるだろう。おいおい何らかの救済支援が取られるとしても、被災した直後の救援は一刻を争う。州侯は州師を派遣しその任につかせたりするのか?」
 「必要と判断いたしましたらいたしましょう」
 「つまりは、しているかどうかはわからないというわけだな」
 「報告がまだない以上、なんともいいようがありません」
 「しかし、報告を待っていては遅い。王師を派遣しようか?」
 陽子は言いながら考える。武州までは、どんなに足の速い騎獣を使っても半日近くかかる。すでに丸一日過ぎているから、すぐに王師を派遣しても一日半が経過する。しかも日が落ちれば捜索などできないから、実際に活動できるのは明日になってからだろう。
 こちらの国土の広さと移動にかかる時間は、いつも陽子をもどかしくさせる。
 「それについてはしばしお待ちを」
 浩瀚は、陽子の言葉をやんわり押しとどめた。
 「いくら民救済の大義名分を掲げても、王師の派遣は州侯にしてみれば、任されているはずの役目に突然横槍が入るようなもの。州侯の働きに不審ありといっているも同然で、いらぬ波風を立てます」
 ただ、主上がそういった意図をお持ちで派遣するというなら別でございますが?とあくまで涼しげな表情を崩さずに言う浩瀚に、陽子は思わず苦笑する。
 「それよりも、主上が州侯宛に一筆お書きになる方がよろしいでしょう。一刻も早く、一人でも多くの民を救済することを望んでいる旨を伝えれば、州侯は州師を動かざるを得ないでしょう」
 「なるほど」
 これが政治というやつか、と陽子は口の端に苦笑を浮かべながら心中呟く。
 「で、お前は、王としての仕事は別にあると言いたい訳か」
 「国府としてすべきことは、被害状況を正確に把握し、必要な対策が何かを見極めること。主上のなさることは、それに許可を与えるかどうかでございます」
 「要するに、すぐすべきことはないと?」
 「いいえ。先ほども申し上げました通り、被害状況を正確に把握するために人を遣る必要がございます。州侯は、往々にして、国府に金を出させるためにあの手この手を使うものでございますゆえ、誰にその役を任せるかは重要でございます」
 「被害の水増しをしたりするのか?」
 「というよりも、物は言いよう、ということです。明らかな水増し報告は己を危うくしますからね。賢い者は、そんな手は使いません。そして武州侯端厳は、なかなか侮れない男ですよ」
 浩瀚の言いように、陽子は武州侯の顔を思い浮かべる。
 外見年齢は浩瀚よりも少し上だろうか。端正な顔立ちと威厳に満ちた態度が印象的な男であった。また女王か、とため息をつきつつ、それでも王だと世辞のひとつも言いながらへつらってみせる者がほとんどの中、笑いもせず媚もせず、ただ威厳だけをみなぎらせて静かに存在していた男の姿は陽子にとって印象深いものであった。
 だからよく覚えている。だが、その男の為人と言われれば、知っていることなど皆無に等しい。
 武州侯端厳は、偽王が立ったおりいち早く偽王についたと聞かされた。その責を問う声もあったが、登極直後、偽王についたかどうかの責は誰にも問わぬと決めたゆえ、武州侯はそのまま据え置かれた。
 如何せんあの時は、そうでもせねば官の多くを罷免せねばならず、先の予王の女人追放令でただでさえ官吏の数が足りないところにそんなことをすれば、たちまち朝は立ち行かなくなってしまっただろう。
 それに、武州侯が何を思っていち早く偽王についたかはわからぬが、それ以外に問題はなく、むしろよく武州を治めてきた実績がある。そのためか、浩瀚を冢宰に迎えてから徐々に進めてきた官の整理においても、武州侯を移動させる案は一度として挙がったことはなかった。
 侮れない―――と言われたら、確かにそうなのかもしれない。思慮深くそつがない。しかしその内実を知るのは非常に難しいことだ。
 温厚篤実な麦州侯と言われていた浩瀚がこれなのだから、官吏とは往々にしてそういうものなのだろうと、陽子は浩瀚の涼しげな表情を眺めながら思う。
 確かに頭は切れるが、さらりと嫌味で、説教好き、ちらりと垣間見える腹の中はどうやら真っ黒ときている。敵に回せば非常に厄介な相手に違いなく、陽子は彼が自分に仕えてくれて本当によかったと思っていた。
 「それに、国府より、口は出させずにどれだけ金を引き出すかは、州侯の手腕と捉えられますからね。州府をきっちり押さえておくためにも、州侯としては必要な仕事なのですよ」
 「民の救済にも政治的駆け引きが生じると言うわけか。で、お前は、誰が適任だと思う?」
 「拙が参りたいところではありますが、桓魋が適任でしょう。主上の名代という形も整えられますし、瓦礫の散乱する現場に行くのにも支障ございません。それに、あれは軍人の割りに口も回りますし」
 浩瀚の言葉に陽子は少々苦笑しながらもうなずく。
 「そうだな。桓魋に任せよう。私は、とりあえず武州侯に出す親書を書かねばならないな」
 陽子は未だ慣れぬ文字を思い、さて、今回は何枚書き直せば完成するかな、と心の中でため息をついた。

 

 
 
 

  
 
 
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