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  - 序 -
 
     
   その日、昌果(しょうか)は妙な胸騒ぎを覚えて目を覚ました。
 そっと身を起こして暗闇のなか目を見張り、辺りをうかがうように耳を澄ます。しかし聞こえるのは、粗末な天幕をはためかせる夜風の寂しい響きのみ。
 気のせいか。昌果は視線を落として、隣に眠る幼子の顔を見つめた。
 すやすやと眠るその顔は、今の苦境をものともしないほどにあどけない。
 その寝顔に、昌果はそっと息をつく。
 ここは、巧との国境、高岫山の麓(ふもと)に位置する慶東国南部、楊州華県南鄭の街。故郷の巧国淳州安陽県郭洛からは、徒歩でひと月ほど離れた場所である。
 昌果は娘と二人、半年ほど前からこの街の閑地で生活していた。
 故郷の巧国は、先の王が倒れて五年になる。巧は王が倒れた直後より国が傾き、妖魔が跋扈するようになった。その現状に、多くの民がすぐさま国を捨てて他国へと流れ始めたが、荒民となることに躊躇い国に留まる者も少なくはなかった。
 昌果も躊躇った者のひとりだ。夫は再三にわたり国を出ることを提案していたが、幼子を抱え、家も土地も捨てて他の地へと流れることが、昌果にはとんでもなく恐ろしかったのである。それに、数年も我慢すれば各祠に麒麟旗があがり、すぐにでも新王がお立ちになるに違いない。そうすれば、以前と同じように慎ましくも安穏とした生活が戻るのだ。そういう楽観的と言われると否定できない、希望とも期待ともつかない思いがあったことも否めない。
 昌果は幼子を見つめつつ、故郷の荒廃を思い出す。
 やせた大地に、枯れていく井戸。人の減った里は閑散として、里祠は手入れされることなく荒れ果てていた。天候は狂って日照りが続き、かと思えば豪雨に見舞われて川はあふれた。
 夫は地を耕すことに限りをつけて出稼ぎへと出て行ったが、以来ゆくえはようと知れない。仕事先が見つからずに放浪しているのかも知れなかったし、途中で妖魔に襲われたのかも知れない。あるいは、自分だけ先に他国へと流れたのかも知れなかったが、昌果に知るすべはなかった。
 そうこうするうちに、跋扈する妖魔は里までも荒らすようになった。それまで昌果と同じように荒民となることに躊躇い里に残っていた者達も、いよいよ国を捨てることを決意せざるを得なくなった。しかしその時には、すでにあふれる妖魔で内海は閉じており、国を出るには、陸路を慶へと向かうか、奏へ向かう船が出ているという虚海側の港へ向かうかの二者択一となっていた。里の者達は何度も話し合い、結果下した決断は、慶へ向かうことであった。
 一番の理由は、何より近さ。大国奏の方が荒民に対する支援が万全であるとの噂ではあったが、港は遠い。しかも、そこへ向かうには途中山を越えねばならない。山は妖魔の巣窟だ。生きて抜けられると思う方がおかしい。
 それに慶は新王が立ったばかりだが、今度の景王は今まで短命に終わった景王とは趣が違い、大国雁の後ろ盾も得ているとの噂を聞けば、波乱の国という印象のぬぐえない慶でも何とかなるかも知れないとの淡い期待を抱いたのである。
 戻らぬ夫を気にしつつも、昌果は里の者達と一緒に国を出て、幼子と二人ここへと流れた。道中何度か妖魔の影を見たが、それでも全員がここにたどりつけたのだから、かなり運が良かったと言えるだろう。
 南鄭には今、昌果と同じように巧から流れてきた荒民が多く暮らしている。国境に近いこの街に荒民が留まるのは、新王が立てばすぐにでも国に戻りたいからに他ならない。昌果も、巧に王が立つのはいつかと、一日千秋の思いで待ちわびていた。
 何よりも、早くこの生活を終わりにしたい。慶は、荒民に対して何かと対策を練ってくれているようだったが、それでも荒民生活が辛いことには変わりなかった。
 昌果は、傍らに眠る幼子の頬にそっと手を伸ばす。ぷっくらと柔らかかったその頬は、今や荒れてかさついていた。その頬をなでる自分の手も、ささくれだって汚い。
 今は何時(なんどき)ほどか。
 昌果は天幕の布をまくって、月の位置を確かめた。
 夜明けが近いなら、このまま起きてしまっても良いと思った。早く起きて、今日は市場へ行ってみよう。うまくいけば、落ちている野菜くずが拾えるかも知れない。
 そんなことを思って空を眺めれば、月はまだ中天を少し過ぎたほどであった。煌々と輝くその月には雲がかかっており、細く黒い雲が、流れるように月を横切っていく。
 なんと不気味な雲か。
 昌果は天幕の中へ顔を引っ込め、布団を被りなおした。
 何となく不吉な感じがして、気分が悪かった。
 無理矢理に目をつぶって睡魔を待つ。しかし、目を覚ますに至った妙な胸騒ぎは消えやらず、頭は冴え渡るばかり。
 ごろごろと何度寝返りを打っただろうか。突如、悲鳴が闇夜を切り裂いた。
 「!」
 驚いて昌果は飛び起きる。天幕からそっと顔をのぞかせると、周囲の天幕からも、何だ何だと人々が顔を出して辺りをうかがっていた。
 再び悲鳴が上がる。それと同時に響いてくる喧騒。
 どう考えても、ただ事ではない。しかし何が起きているのかわからない。それがより一層不安をかき立てた。
 様子を見に行くべきか、ここでじっとしているべきか、それともどこかへ逃げた方がよいのか。昌果か逡巡していると、どこからともなく。
 「火事だ!」
 と声が上がった。
 その声と同時に、遠くで火の手が上がるのが見えた。
 ばちばちと火がはぜる音とともに、ものすごい煙が辺りに立ちこめる。
 昌果はあわてて顔を引っ込め、まだ深い眠りに落ちていた幼子を揺すった。
 「貞貞!起きなさい、貞貞!」
 子を揺する傍らで、昌果は大急ぎで荷をまとめる。たいした財など持ち合わせてはいなかったが、逆に言えば、いま持てる物を失えば、それこそすべてを失ってしまうのだ。
 「貞貞!」
 再三呼びかければ、幼子はようやく重そうにまぶたを持ち上げた。しかしそれでもまだ意識がはっきりしないようで、とろんとした目で昌果を見上げた。
 「起きなさい!」
 昌果はかき集めるようにしてまとめた荷を、天幕代わりにしていた布にくるんだ。瞬くまに、親子二人が生活していたその後には、支柱にしていた棒きれが立つばかり。
 昌果は荷を背負うと、幼子の手をつかんだ。
 人々の悲鳴と火の手は、刻一刻と激しさを増す。
 それにしても、一体どこへ逃げれば。
 昌果は辺りを見回して迷う。まだ深夜。門は閉まっている時間だ。街の外へは出られない。
 「とにかく風上へ!」
 誰かが叫んだ。
 その声に誘導されるように、周りの人達が動いた。その流れに昌果もついていく。
 幼子の手を強く握りしめ、同じように逃げまどう人々にもまれながら、昌果はとにかく走った。火の手から少しでも遠くへ。少しでも安全な場所へ。
 そうして駆けながら、昌果は信じられないものを見た。
 駆ける先に、様々な武器を手にした者達が道をふさぐように立っていたのだ。
 ごくり、と昌果は息を呑む。
 男達の下卑た笑顔が、月夜にくっきりと浮かんでいた。
 武器を手にした男達は、逃げまどう荒民の群れに駆け寄るや、何の躊躇いもなく刀を振り下ろした。その瞬間を、昌果は信じられない思いで見つめた。
 「!」
 血しぶきが飛んだ。
 絶命する者のうめき声と、居合わせた者達の悲鳴が暗闇を切り裂く。
 辺りは一気に恐慌状態に陥った。
 もはや何が何だかわからない。しかし、逃げなければならないということだけは、はっきりしていた。
 昌果は反射的に身を翻す。風上とか風下とか、そんなことを考えている余裕などない。とにかく身を翻して駆けた。
 「荒民は皆殺しだ!」
 背後に賊徒の咆吼を聞いた。
 「ひとりものがさんぞ!慶を蝕む虫けらどもめ!」
 逃げる昌果の背後に、追いかけてくる足音が迫る。必死に振り切ろうとしたが、ものすごい力で肩をつかまれた。その反動で昌果は身を反転させ、肩をつかんだ男と目があった。
 にやり、と男が笑った。
 同時に腹から背に向かって何かが突き抜ける。足から力が抜け、昌果はくたりとその場に崩れ落ちた。
 男の手にした刃が、深々と腹に突き刺さっているのを昌果は呆然と見つめた。男は、倒れた昌果を踏みつけながらその刃を引き抜く。
 全身が痙攣した。
 傍らで子の泣く声が聞こえる。急速に薄らいでいく意識の中で、昌果は最後に我が子を見た。
 逃げなさい。
 そう言いたかったが、口からは、げぼっと音を立てて血があふれ出したのみ。そして、昌果の見ている目の前で、自分を見下ろしてただ泣きじゃくる幼子にも刃が振り下ろされる。
 その一連の動きは、ゆっくりとそして鮮明に昌果の脳裏に焼き付いた。
 ―――ああ、なんと無慈悲な。
 私たちが一体何をしたというのか。
 昌果は傍らに倒れ伏した幼子を抱きしめたかったが、もはや指一本動かすことは出来なかった。


 赤楽六年、三月。楊州南鄭にて、荒民狩りが勃発。この日犠牲になった荒民は、二百人にもおよんだという。

 
 

  
 
 
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