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  - 終 -
 
     
 

 主の姿を捜して王宮の外れまでやってきた浩瀚は、眼下に広がる雲海の眺望の他何もない寂しげな岬にその姿を見つけた。
 辺りには潮騒の響きだけが満ちていて、潮風に翻る少女の赤い髪が鮮やかだった。
 ―――何を見ていらっしゃるのか。
 浩瀚は立ち止まってその小さな背を見る。
 雲海なのか、その下に見える国土なのか、はたまた、視界が捉えるものとは全く別のものなのか。
 浩瀚は少女の胸中に思いをはせながら、これ以上近寄ってもいいものか躊躇った。
 あの乱以降、少女が時々にこうして一人物思いにふける時間が増えたと浩瀚は思う。そしてそんな時の少女の背は、やんわりとだが確実に他者を拒絶していた。
 近寄って声をかければ、誰に対しても気遣いをする少女のこと、当たり障りのない言葉を交わしてはくれるだろう。だが浩瀚は望んでいるのは、そんな表面上の交流ではなかった。
 では自分は、主上とどんな言葉を交わしたいのか。
 浩瀚はふと自問する。
 あの乱が終息した後、当然のことながら様々な調査が行われた。詳細な死傷者の数や乱によって生じた損害額。そもそもの発端となった荒民の実態や、荒民狩りの真実。文饒の経歴や人柄、交流関係、そしてこの乱をいつ計画し、どういう予定であったかなどの事件の全貌。それらの調査は膨大かつ困難な面が多々あり、現在もまだ調査中であるものもあるが、そんな諸々の調査の中で浩瀚が最も重視した点が、楊侯や楊州府が今回の乱に果たして意図的に加わっていたか否かであった。
 今回の乱が文饒一人の計画によるものではなく楊州府そのものが関わっているとなれば楊州府を大々的に変革しなければならないし、当然のことながら楊侯を処罰しなければならない。そして当然そのことを楊州府も考え恐れるであろうから証拠隠滅を図る恐れがあり、楊州府への調査は迅速かつ徹底的に行われたのである。
 果たして調査のために派遣した官らはいかな報告書を持ち帰って来るものか。そしてそれに対して自分はどんな準備をしておく必要があるのか。さまざまな場合を想定し今後自分の打つ手を思案していた浩瀚であったが、結果はあまりに意外なものであった。
 結論を先に言えば、楊侯はすでに死んでいた。
 州城の奥深く、閉め切られていたはずの建物の一室で首から血を流して絶命していたのである。調査官が見つけた時にはすでに腐敗が始まっており顔の判別もつかないほどであったが、衣服や体型から楊侯本人であることはまず間違いなかった。
 だが、調査官らを悩ませたのが、楊侯の死が自殺なのか他殺なのか、決め手となるものがなかったことである。
 死因は首の損傷によって大量の血が失われたことによる失血死。仙である楊州侯は、首切られるか胴を断たれるかでもしない限り即死はあり得ないが、激しく首を損傷したことで仙の治癒能力が発揮されるよりも早く生命を維持するに必要な血を損失し、じわりじわりと苦しみながら死んだと思われた。
 その証拠に、かなりもがき苦しんだ跡が室内に残されており、その激しさに調査官の中には気を失う者がいたほどであった。
 基本的に仙に自殺は難しい。自分で自分の首や胴を断つ。それが難しいからであり、即死できなければ人よりも丈夫であるがゆえに長く苦しまねばならない。そしてそれに対する恐怖心というのは、仙である者にとって計り知れないものがある。
 とはいえ、それでも死を選ばねばならないと決意したのならば、自殺もないわけではない。首を大きく損傷しながらも断ち切れるほどではないのは、自刃ゆえと見ることもできた。
 だが、それでもやはり仙に自殺は難しい。即死できない時の苦しみを想像すれば、それはなお困難にさせる。そして他殺であってもやはり人の首を一刀両断するのは武人であるかよほど腕に覚えのある者でない限り困難で、首を断とうとしたが断ち切れず、痛みと苦しみから楊侯が大暴れしたためにそれ以上首切るのをあきらめて犯人が立ち去ったと見ることもできた。
 自殺ならば楊侯は己の罪を自覚していたと見ることができ、他殺ならば己の計画を完遂するに楊侯が邪魔になった文饒の仕業であると見ることができた。
 死亡推定時刻をかなり細かく調べるすべを持っていればもっといろいろなことがわかったのかもしれないが、残念ながらこの世界ではまだそれは難しかった。
 つまりその判定は、王である少女に託されたといってもいい。要は王の心ひとつ。その胸三寸で、楊侯の死を自殺にも他殺にもできた。
 だが、楊侯の死を報告された少女はただ「そうか」と言っただけだった。
 ゆえに楊州府をどうするのか。その結論はいまだ出ていない。現状のまま据え置かれている状態に王への不信を口にする者もあったし、あまり放置するのはよくないと浩瀚自身も考えていた。
 楊州に対する処遇を如何にするか。
 それを主上と話し合いたい。それは偽らざる本音であったが、それではわざわざここまで少女の姿を探し求めた理由にはならないと浩瀚自身気が付いていた。
 ではなぜわざわざ自分はここまでやってきたのか。
 その理由に思いを巡らせた時、浩瀚は胸をつかまれるような息苦しさを覚えた。
 今少女の心は様々な問題によって揺れ彷徨い、迷走しつつ漂着点を求めてもがいている。そのひとり静かに苦しんでいる姿を想像すれば、居ても立ってもいられなくて姿を求め、気づけば急かされるようにここへとやってきた。だが、実際ここまでやっては来たもののやんわりと他者を拒絶する背の前になすすべなく立ち尽くす。
 それが今の己なのだ。
 できることなら、その揺れ彷徨う心に添いたいと思う。そっと抱きしめて思いのたけを吐き出させ、共に語り合って二人で辿り着く先を見つけられたらと思う。
 だが、臣である以上それは自分には不可能で、そして臣であるからこそ、少女の背はやんわりと自分を拒絶しているのだと浩瀚は確信していた。
 雁にいる友人にならば、その胸の内をわずかなりとも語って聞かせたりするのだろうか。そしてそのことで少女の心が少しでも軽いものになるのならば、その手配をするのも必要かと思う。
 だがそれを思う時、浩瀚は湧き上がってくる嫉妬心を抑え込むのに苦労する。
 冢宰であるがゆえに少女のためにできることは多い。だが、冢宰であるがゆえに踏み込むことが許されない場所があることもまた事実。
 今現在の少女と自分との間にある立ち位置の距離がそれを如実に表しているように浩瀚は思った。
 やはり、このまま立ち去ろうか。
 だが、それも何となく名残惜しくて、浩瀚はただただ少女を見つめたまま立ち尽くす。
 そうした時間が幾ばくか過ぎ去ったのち、
 「浩瀚」
 少女が静かに言葉を発した。


 「浩瀚」
 潮風に乗って届いたその静かな響きに、浩瀚の心臓はぴくりとはねた。
 振り返りもせずにかけられた声は、自分がここにいたことに気が付いていたことを意味しており、それは喜びでもありどことなく恐怖でもあった。
 続く言葉が拒絶の言葉であったならどうしようか。そんなことに身構えて浩瀚が身を固くする中で、少女はゆっくりと振り返る。
 まっすぐに向けられた翡翠の双眸は吸い込まれそうなほど美しくて、そして孤高であった。その事実に浩瀚は息をのむ。
 「―――主上」
 発しようとした声は喉でかすれた。
 「所詮玉座とは血であがなうもの」
 その穏やかな囁きに浩瀚はどきりとする。
 ふり返った少女は間違いなく王であった。寸分の隙もなく王の仮面をかぶりきっていた。
 「私はその覚悟をして玉座を背負うと決めた。だから―――」
 少女はゆっくりと浩瀚に向かって歩いてくると、すれ違いざま囁くように小さく言葉を落とした。
 「何も言わなくていい」
 そのまま通り過ぎていく少女をふり返り、浩瀚はその場に縫いつけられたように動けなかった。彼女が心の内に隠してしまった悲しみと傷みと、そしてそれに寄り添うことを拒絶された寂しさに、浩瀚はなぜだか泣きたかった。
 胸が苦しくて喘ぐように呼吸を繰り返しながら、浩瀚は遠ざかっていく少女の背をただ黙って見送るしかなかった。

 
 

  
 
 
     
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