視界にその緋色をとらえた瞬間、文饒は歓喜に身を震わせた。
やはりいらっしゃった。
それはまさに待ち望んだ瞬間であった。
しかし同時に文饒は悟る。自分を見下ろす苛烈な翡翠の双眸が何を意味しているのかということに。
だがそれは、文饒にとって恐怖でも絶望でもなかった。多くの者が畏怖するであろうその鋭い視線さえ、文饒にとっては己にだけ向けられているという事実においてただただ喜びであった。
主上がほかでもない自分に会いに来てくれたのだ。これを喜ばずに何を喜べと言うのか。
思えばこれは、わずかふた月前には決してありえないことで、文饒はそれだけで今回の事を起こした意味があったと思った。
―――ああ、私は何という果報者だろう。
そう思えば文饒の顔には自然笑みが浮かんだのであった。
◇ ◇ ◇
陽子が文饒の前に降り立つと、彼はただ静かに笑った。
その笑みは、百年来の知己を久しぶりに迎えるような、そんな親しげな空気を漂わせており、陽子はそれを見やってわずかに眉を寄せた。
「お待ちしておりました」
恭しく膝を折る。その態度はどこまでもゆったりと落ち着いていて、こうなることさえ文饒の思惑の内だったのではなかろうかと陽子は思わずにはいられなかった。
「―――文饒」
陽子が呟くように声をかけると、文饒の唇に笑みが乗った。
「主上」
「久しぶりだな」
「お元気そうな尊顔を拝し、安堵いたしました」
跪礼したままそう述べる文饒を陽子は静かに見下ろした。
この男は一体何者なのだろうか。
ここにたどり着くまでの間中、陽子は存在意義的な意味においてそれを考えていた。慶という国にとって、景王という自分にとって。彼は一体どんな意味をもった存在なのか。あるいは、そもそも意味のある存在なのだろうか、と。
だがその答えは、つかめそうでつかめず、形を成そうとしつつも結局は霧散した。指の間からこぼれて逃げていったものは果たして何だったのか。本人を見下ろしつつ、陽子はもう一度その思いに形を与えようとしたが、やはりうまくはいかなかった。
小さくため息をついて、思考するのをあきらめる。仮にこの問いに絶対的な答えがあったとして、それを自分が納得できるかどうかというのはまた別の問題であり、納得いく答えを見つけようとする今の考え方ではいくら考えても答えなど見つからないのかもしれないし、あるいは自分の浅い経験では、到底この男を理解することなどできないのかもしれない。
それにここには、答えを探しに来たのではないのだ。
決着をつけにきたのである。
この男と、というよりも、王としてなすべきこと、に対して。
「―――あの時、お前を殺しておくべきだった」
そう、あの時何で躊躇ってしまったのか。あの時この男を殺しておけば、二十の犠牲で済んだかもしれないのだ。
あの躊躇いが一体何人の命を奪ったか。
それこそが「王としてなすべきこと」であったと、陽子は金波宮で傷をいやしながら後悔した。その思いゆえに渋る浩瀚を説得してここまでやってきたのだ。
呟いて文饒を見やれば、唇に乗っていた笑みがわずかに深まったようだった。それを見やって陽子は思わず顔をしかめた。
「私もあの時、主上の手にかかるのもよいかと思ったものです」
文饒は笑みを浮かべたまま陽子を見上げた。その表情は、穏やかであるがゆえに気味悪くさえあった。
「いいえ。私は、最初からそれを望んでいたのかもしれません」
「―――もしそれが事実なら、お前に巻き込まれて死んでいった者たちは浮かばれなさすぎる」
「主上のために命を投げ出せる者たちです。本望でありましょう」
「お前の官邸にいた二十人の娘たちも?」
「主上にお仕えするということは、己がすべてを差し出すということ。命ばかりは差し出さなくてもよいと思っていたのなら覚悟が足りなかったとしか言いようがありません。私は彼女らに最初から、主上にお仕えする役目であると伝えておりましたし、彼女らは喜んで役目を引き受けたのです。主上にお仕えできるなど身に余る光栄だと申して」
陽子はわずかに眉をひそめたが、不快感を言葉で説明するのは難しかった。
ある意味文饒の言葉は正しいのかもしれない。王に仕えるというのは、こちらではそういうことなのかもしれない。しかし、その王が自分であるということになる時、文饒の言葉はいつも陽子に不快感をもたらすような気がした。
「お前は、私のために真実を暴き慶を正しき姿にすると言った。もしお前が、それを何としてでも成し遂げなければならない己の使命だと考えているなら、何が何でもお前は生にかじりつかねばならないのではないのか」
「確かに」
文饒はふと笑った。
「私には、何としてでも成さねばならぬことがあります。そのためには己の手を血に染めることも厭わず茨の道を進むことを覚悟しましたし、私の進む道を邪魔立てするものは容赦しないと今でもそう思っております。しかしそれと主上がくださるものとはまったく別のことでありましょう?」
「つまりは、私のためなら他者を殺すことも厭わないし、私が与えるものなら死でも喜んで受け取ると」
「御意」
文饒は変わらず悠然と微笑んでいた。
その態度に陽子は文饒の本気を疑う。どこまで本気なのか。本気だとするなら、この男は正気なのか。
長年仕えた主従ならそういうこともあるかもしれないと思う。だが、陽子と文饒は面識すらなかった。いまでもたいして深い関係でもない。なのにこの盲目的な信奉は何なのだろうか。女王は碌な事をしない。そう言って謀反を試みた内宰らの言い分のほうがよほど理解できると陽子は思った。
「お前のことはやっぱり理解できない。だが、ひとつだけはっきりしていることがある」
陽子は水禺刀を鞘から抜き放った。
「お前は国府にたてつく逆賊だ。放置はできない」
「その国府は主上にたてついておりましょう」
「何を持ってそう断ずる?」
「諸処の状況を伺えば明白なこと。どうしても具体的な例を挙げよと申されるなら、内宰らの起こした謀反が一番分かりやすいかと。内宰と言えば、天官の中で宮中内宮を司る長。主上のおそば近くにあって世話のいっさいを取り仕切る官が率先して叛意を示すなど国府が主上にたてついている証左ではありませんか」
「お前の言う通り確かに問題は多い。だが、問題があるから国官すべてを屠ってしまえというのは論理が飛躍しすぎているとは思わないのか」
「主上は事の重大さをお分かりではないのですか?」
文饒は笑みを消してわずかに眉をひそめた。
「内宰が謀反を起こしたということがどういうことか」
「わかっている」
陽子はそう答えようとした。だが思わず言葉が詰まったのは、文饒の目が恐ろしいほどに真剣だったからだ。その目の鋭さは、陽子が内宰らの言にも一理あると漏らしたときの浩瀚のそれとよく似ている気がした。
「確かに朝の始まりというのは、いずれの王朝でも、種々の思惑が入り交じり何かと混乱するものです。中には新しい主や体制になじまず不満を抱える者もおりましょう。それは私とて認めるところですし、旧体制から新体制へ朝を整えていくのも王の勤めであるといえます。そして私は、さまざまな困難にぶつかりながらも主上ならきっと見事にその務めを果たし新しい慶を築き上げていくだろうと確信似た思いを抱いておりました。
―――ですがそれは、御身の安全が保証されているというのが前提だったのです」
文饒はわずかに唇をかんだ。
「内宰らが謀反を起こしたと耳にした時、金波宮が決して安全な場所ではないということに私は戦慄を覚えました。主上のお傍近くにあってお世話申し上げる官が命を狙うとあれば、主上は一体どこでその御身と御心を休めればよいのでしょう。それを思った時、私は一刻も早く主上をお助けせねばならないと思ったのです。ですが―――」
文饒が言葉を切るとしばし二人の間に沈黙が落ちた。
二人はただ見つめあって、やがて文饒が静かに笑った。
「すべては私の独りよがりだったのでしょう。私の行いがただ主上のお心を乱しただけであるのなら、幾重にもお詫び申し上げます」
「・・・・・・随分と物わかりのよいことを言う」
陽子は皮肉げに笑った。
「お前は千の命を巻き添えにしたことをちゃんとわかっているのか?」
「もちろんですとも」
頷く文饒は、笑みを浮かべたままだった。
「ですが彼らは喜んで死んでいったのですよ。蒿里で自慢しあっておりましょう」
「!」
「何を驚いておいでです。主上のために戦い命を落とすことが喜びでなくて何なのでしょうか」
「文饒!」
「理解できませんか?ですが事実なのです。そして主上、これも覚えておかれるがよいでしょう。主上から直接死を賜るというのは、この上ない名誉なのです」
「では、私はずいぶん多くの者にその名誉を与えたことになるな」
「主上はお優しくていらっしゃるから」
「嫌味か」
陽子は思い切り顔をゆがめた。
「―――誰に対しても命を奪うことに優しいなどという言葉を使ってはならない」
「主上は奪っているのではなく与えておられるのです。だから優しいのです」
「言葉を言い換えても事実は変わらないだろう」
「現象は同じでも本質が同じとは限りません」
「少なくとも私にとっては同じだ」
「命の重さを知っている貴女様だからこそより深い喜びをもたらすのです。貴女様と出会えてよかった。私の生は、今この時のためにあったのだとしみじみと思います」
「・・・・・・私は最後までお前を理解できなかったな」
陽子がぽつりと呟けば文饒が笑った。
「燕雀が鴻鵠の志を知らぬように鴻鵠もまた燕雀の喜びなど理解できぬのでしょう。そしてそれでよいのだと思います」
「お前の首はおそらく数日の間門前に晒されることになるだろう」
「死した後のことになど興味はございません」
「言い残したいことがあれば聞く」
「では最後にひと言。主上の御代長からんことを心よりお祈り申し上げます」
文饒は言うと首を差し出すように上向いた。その首に向かって陽子は水禺刀を振り下ろす。一刀のもとに切断された首はごとりと地に転がった。
転がった文饒の首は幸せそうな笑みを浮かべており、陽子は複雑な心境でその首を見下ろしたのだった。
◇ ◇ ◇
空に月が昇り始めていた。
煌々と地上を照らす満月は明るい。
桓魋は陽子の向かった先を見つめたまま、じっとその帰りを待っていた。
やがて月夜に照らされた地上にぽつりと小さな影が現れる。使令に乗って上空から現れるとばかり思っていた桓魋は少なからず驚いた。一体どこから歩いてきたのか。戻ってくるまでの時間を考えたら、ひょっとしたらずっと歩いてきたのかもしれなかった。
影はやがてはっきりと人型をとり、その姿を鮮明にした。手に何かを抱えていることに気づいて目を凝らせば、それは見覚えのある男の首であった。
自身で抱えて持ってきたのか。そのことに桓魋は何とも言えない複雑な心境を抱え、そして同時にこればかりは浩瀚に報告できないとなぜだか思った。
「おかえりなさいませ」
桓魋が迎えると陽子は首を桓魋に差し出した。
「これで終わりだ」
しかしその表情はとても終わったとは思えない顔だと桓魋は思った。
一体二人の間でどんなやり取りがあったのか。なんだかそこがとても重要であるような気がしたが、もはや誰もそれを知ることはできない。主が語る気にならなければ知りようがなく、仮に詳細に語ってくれたとしてもそれは「陽子の目を通した事実」でしかないということに桓魋は気が付いていた。
「後は任せた」
「このまま金波宮にお戻りに?」
「ああ、色々としないといけないことが溜まっているからな。あまり帰りが遅いとまた浩瀚に叱られてしまう」
「大変ですね。しかし随分お疲れのご様子。今宵ばかりはすぐに休まれるよう進言しますよ」
「浩瀚が許してくれたならな」
陽子の口元にわずかに苦笑が浮かんだ。
しかしそれは無理しているのがわかるような笑みであった。
「―――本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。では将軍、後事を頼んだぞ。速やかに楊州師を降伏させよ」
「御意」
桓魋が頭を下げるのと同時に陽子は使令を呼び出した。それにさっとまたがって上空へと飛び立ったその姿は見る見る月影に消えていく。
問いたいことはたくさんあった。だが今日の陽子はそれを許してはくれなかった。そんな雰囲気を身にまとっていた。
後にはただ冴え冴えと輝く満月だけが桓魋の視界に残る。
「地上で何が起ころうと月だけは変わらんな」
桓魋はぽつりとつぶやくとゆっくりと踵を返したのだった。
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