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  - 終 -
 
     
   「くそ、一体いつまで俺をここに閉じ込めておく気だ」
 班素は、誰もいない室内で小さく悪態をついた。食品庫でのひと騒動があってから優に二刻は経っていた。あの謎の少年が連行されたあと、班素も衛士に同行を求められたのだ。その理由として、事件の概要を文書にするためにもう一度詳しく話しをしてもらう必要があるからだと説明された。面倒くささを感じたが、突っぱねて不審の目をこちらに向けられるのも嫌だったので班素は同意した。
 だが、事情聴取は直ぐに行われず、この部屋へ連れてこられてこらずっと放置されている。誰が訪ねてくるでもない。しかし、外には何人かの衛士がいて、外出は許可されなかった。「もうしばらくお待ちを」「向こうの取調べが難航しているのかもしれません」彼らはそう繰り返すばかりだった。
 班素は、いらだたしげに室内をうろうろと歩き回っていたが、そうすることで何か変化が起きるわけでもなかった。
 もう一度衛士のやつらに文句を言ってやろうか。班素がそう思って戸に視線を向けたときだった。やおら外が騒々しくなる。
 ―――やっと、来たのか?
 人をこんなに待たせて、開口一番嫌味のひとつも言ってやろう。そう構えた班素の前に三人の男が現れる。そして男らを見た班素は、口を開きかけて、あわてて言葉を飲み込んだ。三人が三人とも、かなり高位の官であることをその身なりが語っていたからである。しかも内二人は見覚えがあった。一人は宣州州司寇、そしてもう一人が州宰克明であった。
 「そなたに話が聞きたい」
 口火を切ったのは州司寇。司法を司る秋官の長なのだから、取調べに首を突っ込んできてもおかしくはない存在だったが、自身取調べをするのは異例ではないかと班素は思った。
 「は」
 班素は、あわてて跪礼する。返事をしながら班素は、いまさらながらに、これが州宰や州司寇がじきじきに取り調べに関わるほどの大事件にならないはずがないではないか、と思い至った。
 宣州候に出されるはずの葡萄酒に何かが混ぜられたのだ。未遂に終わったことや混入された物が何かということとは関係なく、誰かが何かを意図的に混入したことそのものが大事件であるはずだった。
 まかり間違っても、自分が犯人だと見破られてはならない。班素は改めて思った。
 「そなたの見聞きしたことを教えてくれぬか」
 班素は促されて、事件の話を始めた。もちろんほとんどが嘘である。商品の納入が済んだあと、どうにも貯蔵の仕方に問題がなかったか気になって食品庫に行ったという理由も、入ったら直ぐに不審人物を発見して衛士を呼んだというのも嘘である。しかし班素は、州司寇を前にしても動揺するそぶりも見せずにそれがまるで事実であるかのように雄弁に語った。真実と嘘を混然一体にし、すべてを堂々と語ることが最もうまく人をだますコツであることを班素は知っていたのだ。
 「ではそなたは、食品庫にはいるや否や不審人物を見つけたということだな」
 「州司寇さま。その通りにございます」
 「そしてすぐに衛士を呼んだと」
 「はい」
 「衛士は直ぐに駆けつけたか?」
 「はい。近くを巡回していた者達がすぐさま駆けつけました」
 班素の話に、州司寇はうなずく。
 「ところで衛士の話では、そなたから不審人物が持っていたという怪しげな包みを受け取ったと聞いたが事実か?」
 「その通りでございます。私が怪しげな奴を見つけたとき、やつは葡萄酒の樽になにやら包みから取り出した物を混ぜているところでございましたので必死にそれを取り上げたのでございます」
 「それは、衛士を呼ぶ前か後か?」
 「それはもちろん、衛士が駆けつける前です」
 「それはわかっておる」
 ややぞんざいに州司冦は頷いた。
 「衛士から駆けつけた時の様子は聞いた。それから考えると、衛士らが駆け付けた時には包みはそなたが持っていなければおかしいということになる。だから私は、そなたが包みを取り上げたのは、衛士が駆けつける前か後か、ではなく、衛士を呼ぶ前か後か、と聞いているのだ」
 やけに細かいことにこだわる、と班素は思った。どうしてこんな細かいことを気にするのか。もともと司法の行う事実確認とは、ここまで細かくおこなうものなのか。疑問を抱きつつも、班素は話のつじつまが合うように気をつけながら答えた。
 「は・・・。おそらく、不審人物を見つけて衛士を呼びながら包みを取り上げたのではないかと。あの時は私も必死でございましたから、その辺の細かな部分はあいまいでございます」
 「なるほど」
 今の言い訳をどう思ったのか。州司寇はぴくりとも表情を動かさずに頷いただけだった。
 「ところで、そなたが不審人物だといっている者だがな。かの者はまた別のことを言っておる。そなたの方が怪しげな薬を混ぜた張本人であると」
 「馬鹿な!」
 班素は思わず声を荒げて、あわてて姿勢を正した。
 「言い逃れしようとしている犯人の戯言でございましょう」
 「あちらの言い分では、そなたが葡萄酒に怪しげな薬を混ぜているところを目撃したため、取り押さえようとしたがはねつけられ、包みを取り上げることが叶わず。しかもあろうことかそなたは、己の罪を隠すためか自ら衛士を呼んで自分に罪を押し付けようと画策したと主張しておる。なるほどそれが事実でも状況の辻妻が合う」
 「何をおっしゃいます、州司寇さま!」
 班素は声を張り上げた。
 「食品庫への出入りは限られた者のみ許されている場所。そんなところへ許可なく入り込んでいたあちらの方が明らかに不審。それに、州候さまにお出しする葡萄酒に毒を混ぜるような所業を舎人たる私がするはずがございません」
 「包みの中身が毒だとは一言も申しはおらぬが?」
 「は?」
 班素は一瞬動きを止めた。余計なことを言ったかと動揺したが、すぐさま言い繕った。
 「―――でも、こそこそと混ぜ物をしておれば毒だと思うのが普通でございましょう?」
 「そうかな?」
 「少なくとも、私はそう思っておりました」
 班素は努めて冷静なふりをした。州司寇は相変わらず淡々とした表情を浮かべるのみ。しかし、その内の読めなさが逆に班素の気を落ち着かなくさせる。
 妙にそわそわしだした気持ちを必死に宥めていると、
 「そなたが取り上げたというこの包みだがな」
 おもむろに州司寇が懐から包みを取り出した。見覚えのある包みだ。班素はそれに視線を向けて注意深く州司冦をうかがった。
 「付着していた物から薬の成分を調べた。調べた結果、毒だということが判明した。そなたの言うとおりだ。しかし、これは随分と特殊な毒で、入手が大変に困難な物であることがわかった。一体、犯人はこんな物をどこから手に入れたのやら」
 州司寇の視線が班素に突き刺さるように向けられる。背中を嫌な汗が流れた。
 「―――さあ。私にはさっぱり」
 「さようか?」
 「もちろんでございます」
 「では、これはどう説明するつもりか?」
 州司寇がそう言って班素の目の前に出したのは、書房の二重棚の奥に隠されているはずの、あの箱であった。
 班素は思わずぎょっとして息を飲んだ。
 ―――なぜ、あれがここに!
 「これがそなたの書房から見つかった」
 「これは陰謀だ!何者かが私を陥れようと画策した陰謀に違いありません!」
 反射的に班素は叫んでいた。
 「いや、あいつだ。あの、食品庫にいたあいつの陰謀に違いない。食品庫に行く前に密かに私の部屋にその箱を隠し置いていたのだ。全ての罪を私にかぶせるために!」
 「語るに落ちるとはまさにこのこと」
 叫ぶ班素をよそに、冷ややかな呟きをこぼしたのは、見知らぬ三番目の男だった。小さな笑みを浮かべて班素を一瞥したその瞳には、有無を言わさぬような力があった。
 「そなた。その箱の中身が何であるか知っているのか?」
 問われて班素ははっとする。同時に全身の毛穴から汗が噴出した。
 「だがまあ、悔やむことはない。そなたが犯人であることは、我々は最初から百も承知している。我々が知りたいのは、そなたが誰に頼まれてそんなことをしたのか、ということだ」
 一気に窮地に立たされた班素は、ただただ動揺して三人の顔を見回した。今の状況を例えるなら、剣先を咽喉もとに突きつけられて、あとは一思いにぐさりとやられるのを待つだけの身である。しかし言い換えるなら、まだ突き刺されたわけではないと班素は思った。まだ何か。何か手はないのか。この場を切り抜ける、うまい手が。あわただしく思考を空転させていると、再び部屋の戸が開いた。官服を着た赤い髪の少年が入ってくる。その顔を見て、班素は反射的に叫んだ。
 「違う。私は犯人ではない。こいつだ、こいつこそ犯人だ!」
 しかし、三人の男達は班素の叫びに取り合いさえしなかった。全員がさっと礼をとって少年を迎えた。
 「あちらでお待ちくださいと申し上げましたのに。―――主上」
 その一言に、班素は信じられない思いで、赤い髪の少年―――否、少女を見やったのだった。


◇     ◇     ◇

 
 「お手間を取らせてしまって申し訳ございませんでした」
 宣州城の正寝の一画で、陽子と浩瀚は宣州候や州宰らと対峙していた。
 班素の取調べは終わっていた。言い逃れようとあがいていた班素も、罪をなすりつけようとしていた相手が王と知っては、さすがに観念したようだった。
 班素は温恭と名乗る者に指示され、渡された薬を葡萄酒に混ぜ、また以前は蜂蜜に混ぜていたことを自白した。見返りは、金だった。楽だがうま味などほとんどない舎人という仕事に辟易していたところに話を持ちかけられ、ただ金欲しさに手を貸したという。温恭のことは、どこぞの郡官吏らしいという気はしていたが、直接問いただしたこともなければ、向こうから語ることもなかったため、詳しくは知らなかった。
 「班素が温恭のことをよく知らない、というのは嘘ではないでしょう。金さえもらえれば、詳しいことを知る必要などなかったようです」
 そして郢緯(ていい)郡のほうですが、と浩瀚は桓?から受け取った報告書を読み上げる。
 「今のところ、特に不審な動きは見受けられないようですね。現段階では、温恭が太守の命を受けて動いていたのか、独断で動いていたのか、はたまた別の人物の指示を受けて動いていたのか図りかねます。また、宣州候に毒を盛ってその後どうするつもりだったかも。それで今後、このまましばらく事実を伏せて相手を探るか、とにかく温恭を捕まえるか、ということですが」
 「それは、宣州の者たちに任せよう。州の統治は州候の職分だ。温恭に罪があるのは確かだが、その温恭を罰するのは私ではなく宣州の者たちがすべきこと。これから先は、お前の仕事だ」
 陽子はそう言うと、目の前の物静かな面の男を見やった。浩瀚よりも若く見える黒髪のこの男こそ宣州候偃月(えんげつ)である。
 「ともかく、お前が無事でよかった」
 陽子が微笑めば、目の前の男はわずかに頭を下げた。
 「もう、大丈夫なのか?」
 「はい。まだ少し痺れが残っている感じはございますが、時間が経てば自然と体外へ出て行くもののようですし、混ぜられた薬が何かわかれば解毒薬の準備もできると瘍医が申しておりました。近日中にはこの痺れも取れると思います」
 「よかった。お前には、もう少しここで頑張ってもらわねばならないからな」
 「―――しかし」
 陽子の言葉に表情の薄い偃月の顔がわずかに歪んだ。
 「なんだ、何か不満でもあるか?」
 例えそうでも聞きたくはないが、という視線を陽子が向ければ、偃月は真っすぐに見返した。
 「主上。私は今回これだけの騒ぎを引き起こしたのです。まったくのお咎めなしでは他の者手前示しがつかないのではありませんか?」
 「私は、お前が処罰されるほどのことをしたとは思えないが?」
 「姦計にかかり、主上にお出ましいただくような事態を招きました」
 「お前が心配だったから、しゃしゃり出てしまった。もう少し私に我慢強さがあったら、克明が全てを解決していただろう」
 陽子は言って、偃月の隣に座す州宰克明を見やった。
 噂では、金で州宰の地位を買い、以後州候におもねることを得意とすると噂に聞いたが、対峙すれば人の噂は当てにはならないと痛感した。
 自分の使命に忠実で、州候をよく支えることに心血を捧げている人物である。なればこそ、堯天からの使者を装って乗り込んだ宣州城で、州宰に身元を明かして調査の協力をお願いする気になったのだ。時すでに克明も、州候の状態は何らかの混ぜ物によるものではないかと疑い密かに調査を始めていた。そこに陽子が飛び込んできたのだ。克明は驚きはしたが、協力を約束し、言われたとおり蜂蜜の残りを提供し、曹家に葡萄酒の注文が行くよう手を回したのである。 
 「いえ、私の働きなど取るに足りぬものにございます」
 陽子の視線を受けて、克明は表情を固くして視線を伏せた。それに・・・・・・、と言いにくそうに言葉を続ける。
 「今回の事件は、私の撒いた種といえなくもありません」
 「え?」
 「なので、罰を受けるべきは私なのです」
 「克明」
 突然に割って入った偃月の語気が珍しく強い。口をとじよ。そんな風な叱責を含んだ口調だと、陽子は感じた。
 しかし、当の克明はゆったりと首を振った。
 「いいえ、候。やはり私が間違っていたのです。私の罪を候に被せることがあってはいけません」
 「勘違いするな、克明。主上より一州預かったはこの私である。この州における権と責は私のものだ。誰にも貸与した覚えはない」
 「―――しかし」
 克明の顔にはっきりと苦悶が浮かんだ。
 「あの者を舎人にと願ったは私でございます。それなのに私に一片の責もないと言われては、逆に悔しゅうございます」
 「それとて私が納得し、私が決めたことだ」
 「いいえ。やはり候がお考えになっていたように、何もかもわかった上であの任務をやり通す者を起用すべきだったのです。いや、それよりも、はやり早々に組合を解体させるべきでした」
 「一体お前たちは何の話をしているんだ?」
 陽子はわけがわからず、偃月と克明を交互に見つめた。克明は眉間にくっきりと苦悶を浮かべて押し黙り、偃月は薄い表情ながらも重々しい雰囲気を潜ませてこれまた黙り込む。
 いくばくか無駄に時が流れた後、陽子は静かに告げた。
 「両名は私にわかるように説明せよ。でなければ勅命(きりふだ)を使うぞ」

 王と直接に接する機会のほとんどない州官に対して、王の勅命発言は効果絶大であった。口に岩が張り付いたかと思われた克明は、飛びあがらんほどに血相を変えると、伏礼しかねない勢いで陽子に頭を下げた。
 「すべては、すべては私のせいなのです!」
 克明は語る。
 陽子が登極する前の慶全体が波乱含みであった頃、各州どこも風紀が乱れていたが、宣州もまたひどかったという。和州のように民を肉体的に酷使し精神的に虐げ、些細なことで処刑にするようなことはなかったが、賄賂の横行は目を覆うばかりで、宣州では息をするのでさえ袖の下がいる、とまで言われるありさまだった。
 この事態を何とかしなければ宣州はどうにもならなくなる。それを案じた克明は、いっぺんに全体を正すのは無理でも、どこかからか賄賂を排除していかなければならないと考えた。そして克明が目をつけたのが、州府に納入される食品を一手に扱う舎人であった。
 州府に納められる食品は多岐にわたりまた量も多い。州府と取引をしたいと願う商人は多く、そのため舎人と商人との間でやり取りされる賄賂額もまた他を抜いてひどかった。
 克明はまず多額の賄賂を要求している舎人の罪を暴き罷免させ、その後釜に自分がついた。次に東遼一の豪商曹家に組合設立の協力を要請した。実は克明と現曹家当主である鄭徳(ていとく)の父である前当主は懇意の仲であり、それ故に思いついた計画であった。つまり、曹家を唯一の州府の御用達商人にし、州府が必要な商品のすべてを曹家経由で扱うようにしたのである。これにより、このあと誰が舎人についても賄賂の取りようがない仕組みになると考えたのだ。組合費を取ったのは、賄賂になれた者達に対しては明確な金額を提示した方が逆に裏で金を払うことがなくなると考えたからだ。そして事実、こそこそと裏で払っていた金を思い切って表に出したことで賄賂の横行がなくなったのである。そして組合費として集めた金は、曹家に荷を集積することで必要になる人件費や管理費あるいは浮民の保護などに充てられた。曹家が浮民を積極的に家生として受け入れていたのは、そもそもこういった取り決めがあったからであった。
 曹家に全てを仲介させるやり方を十数年続けて軌道に乗せると、舎人のすることは膳夫から聞いた注文を曹家に伝えることぐらいしかなくなった。克明は思惑通りの仕組みが出来上がったと感じたところで、舎人の役職を他に譲ることにした。他人がしてもうまくいくかを知りたかったからである。昇進さえ望まなければ配置転換は案外すんなり叶えられる。克明は新たに中大夫州遂人の役職をもらってそちらの仕事に精を出した。そして静かに舎人の様子を見守り続けていた。
 克明の後直ぐに舎人になった者は、最初こそどこかからかうま味を取れぬかと怪しげな動きをしている風に見えたが、しばらくするとあきらめたようだった。そしてうま味のまったくない仕事に辟易したように配置換えを希望して移動していった。そんな感じで二、三人舎人は代わったが、誰も同じようなものだった。そのうち舎人は曹家に注文を伝えるだけの重要でもない仕事と認識されるようになり、出世意欲も仕事意欲も低そうな者が配属される場所になった。そのことで益々、曹家が全てを仲介する仕組みが強化されていると気付いた克明は、舎人には意欲の低い者が着くことを望むようになった。やおら仕事に忠実で、本来の職掌どおり自分で商人一人一人と商談し納めるべき荷を注文されたら、克明が曹家当主と腐心して作り上げた仕組みが壊されてしまうと恐れたのだ。
 克明は自分たちが作り上げた仕組みのおかげで、横行する賄賂が激減し、東遼の浮民問題まで解決したことに誇りを感じていたのである。それが壊されるなどあってはならないことであった。
 「偃月様が新たな州候の任にお付になったとき、州官全てを集めて話をなさいました。その時私は、候は宣州を改革なさる方だと直感いたしました。問題ありと思ったところは迷わずてこ入れをなさるおつもりであると。であるならば舎人についても決してそのまま目をつぶられる方ではない。その確信は、私にとっては不安であり恐怖でありました」
 それで克明は、偃月に全てを話すことにしたのだという。全てを話し、理解を得、その上で舎人と曹家を中心とした組合の仕組みはそのままにしていて欲しいと嘆願した。
 「候は私の話に理解を示してくださいました。それでも、ただ黙ってうなずかれたわけではありません。世の仕組みは情勢と合わせて変化させねばならない、と私にそうおっしゃいました。その時うまくいったからと固執しすぎてはならないと」
 状況をよくよく見ながら緩やかに変えていこう、と偃月は克明に言った。そのための手伝いをせよ。そうして克明は中大夫州遂人から州宰に大抜擢されたのである。
 「私は候にお手伝いを約束しながら、それでもやっぱり商業者組合に手を入れるのを恐れていました。とりあえず舎人を全てを理解した上で仕事をこなせる者に変えてはどうかと候はおっしゃいましたが、私は人選を考えておきますと答えたきり、うやむやにしておりました。先ほども言ったように、下手に意欲を出されて変に商業者組合の仕組みを壊されることを恐れたからです」
 だが、責任感も向上心もない者を舎人にしていたために、候に仇なす者たちにあっさりと取り込まれてしまった。己の仕事に責任感と使命を抱いている人物であったら、自らの手で食品に毒を混入させるなとどいう悪事に手を貸すことはなかったはずである。
 「私の中にあった、こんなに立派な仕組みはないという驕りと、己がその仕組みを築き上げたのだという矜持が全ての元凶なのです。だから、全ての責任は私にあるのです」
 そういって肩を震わせて泣く男を陽子は複雑な思いで見つめていた。

 「お前は部下に恵まれたな、偃月。私は正直、お前がうらやましい」
 声を殺して泣く克明を見やりながら、陽子はやおらそう言った。
 「克明の後悔は、お前の命が危険にさらされたからだ。それが己のせいだと泣いている」
 陽子は言ってふと苦笑する。そしていたずらっぽくも見える視線を偃月に向けた。
 「以前私は王宮内で命を狙われる目にあったが、その時近臣たちは私に何と言ったと思う。一人は、だから水禺刀は肌身離さず持っていろといっただろうと怒り、一人は、襲った奴等にも言い分があるなどと思うなと説教をたれた。誰も克明みたいに己の不明だとわびもしなかったし、泣きもしなかった」
 後ろで浩瀚が不服そうに眉をぴくりと動かしたが、何も言いはしなかった。
 「それを思えば、お前の身を心底心配するがゆえに後悔し泣いている克明は、本当に貴重で大切な存在だな」
 偃月はなんと言っていいものか迷うように陽子を見つめていた。そんな偃月に陽子は微笑む。
 「主思いの部下に恵まれるのはお前の人徳の賜物だろう。そしてそんなお前を宣州候にと願った私の見る目も、なかなか捨てたものじゃないと思える。私の希望は、お前を宣候に任じた時とひとつも変わらない。宣州をよりよく治めること。偃月には今後もそれを希望する。私は、一年や二年で宣州を劇的に変えてくれと思っているわけではない。時間を掛けてゆっくり、お前がいいと思う形に変えていけばいい。途中でうまくいかないように見えることもあるだろうが、そのたびにころころ州候の首をすげ替えては何も形にならないだろうし、そもそも慶にはそんなに次々に優秀な人材を送り込めるほど余裕があるわけじゃない。だから、お前が今やめたいと思っていても聞いてやるわけにもいかない、という事情もある。観念するんだな。それと、克明がやたら罰を受けたがっているが、残念ながら私には州候を任じる権はあっても州官を任免する権はもたない。それは州候の職分だからな。だからどうしても罰が欲しいのなら偃月に頼むんだ。しかし、世の中欲しいからとそう簡単に手に入るものはないということも覚えていた方がいい。王である私だって欲しくったって簡単に手に入らないものが多いぐらいだ。例えば、自分の身を心配して泣いてくれるかわいげのある臣とかな。だから、克明も我慢すべきだ」
 陽子はそこまで言うと、さてと、と身軽に立ち上がる。
 「偃月の不調の理由もわかったし、組合が悪用されているわけでもないこともわかった。我々が宣州に来た理由はひとまず解明したわけだ。後は、宣州の者たちに任せるべきだな、浩瀚」
 「御意にございますね」
 浩瀚はすまし顔でうなずいたが、口もとには隠しきれないわずかな笑みが浮かんでいた。
 「そろそろ王宮にお帰りになりませんと、主上のすべき仕事が山積みになっていることでしょう。帰るのが楽しみでございますね、主上」
 「う゛っ!」
 思い切り顔をしかめた陽子に、浩瀚は笑う。
 「偃月や克明に逃げるなとおっしゃるならば、主上がまずそれを示さねばなりませんからね」
 「―――こいつにかわいげを求めるのはやっぱり無謀なのか」
 陽子は心底嫌そうな声を上げると、天を仰いだ。そんな陽子に浩瀚は、お望みとあれば私はいくらでも泣ける男ですよ、としれっと言う。そんなところがまたかわいげがないんだと口を尖らせて、陽子は不服をあらわした。
 「それじゃあ、邪魔をした。温恭のことはけりがついたら報告してくれ」
 そういって去りかけ、陽子はふと思い出したことがあって足を止めた。
 「ああ、そうだ。ここに蜂蜜を納入していた夏句(かく)という男だが、不正の罪にて罰されその後命を落としている。結局は冤罪だったのだから、遅いとはいえ名誉を回復しておくように」
 陽子の言葉に二人は、必ず、と深々と頭を下げる。
 失った命は戻らないが、これで季容にも明日を生きる希望が生まれるだろう。名誉回復がなれば、没収された財は戻り、賠償金が支払われるはずである。それを元手に父の築き上げたものを再興し養蜂の技を受け継いでいってくれれば幸いと思う。
 あるいは、宣州府が全面的に協力して養蜂を宣州の産業にしてしまうのもいいかもしれない。すべては、宣州候である偃月が如何に考えるかによるが。
 「宣州は先が楽しみだな」
 にっこりと笑った陽子を三人の男達はどう受け止めたのか。三人とも何も言いはしなかったが、いずれもまぶしそうに目を細めたのだった。



 
 

  
 
 
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