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 「 記憶 1 」
 
     
 

 布団の温かく柔らかな感触にまどろんでいた陽子は、瞼を刺激する日の光にはっと目を覚ました。
 カーテンの隙間から差し込む光はとても朝六時のものとは思えないほど強く、陽子は反射的に寝坊したことを悟った。
 あわてて身を起こし、枕元においているはずの目覚まし時計を捜す。もはやどう考えても朝課外には間に合わない時間だろうが、せめて一時間目には間に合う時間であってほしい。そうすれば、朝課外は強制とはいえ正規の授業時間ではないという事実が、生真面目な陽子にほんの少しばかりの安堵を与えるのだから。
 とはいえ、今日の課外を欠席する羽目になったのは、陽子にとってかなり気が重かった。
 今日の課外は英語だ。英語の先生は厳しいことで有名で、しっかり予習をしていかないと課外授業の間中ばつの悪い思いをする。それが嫌で陽子はきちんと予習をしていくのだが、英語が苦手な陽子は長文読解に時間がかかる。そのせいで英語がある前の晩はいつも寝るのが遅くなってしまうのだが、それが原因で寝坊とは、本末転倒もいいところだ。
 陽子は大きくため息をついた。英語の先生はなぜか陽子をよく思っていないらしい。いや、それを言うなら担任の先生にもあまりよく思われてはいないらしいことを肌で感じているが、英語の先生ほどはあからさまではない。それほどに英語の先生の陽子への態度は明らかで、今日の三限目にある英語の時間に、課外欠席のことで小言交じりの嫌味を言われるのが目に浮かぶ。
 いっそのこと、病気ということで休んでしまおうか。
 そんなことがちらりと脳裏をよぎったが、そんなことを両親が許すはずがない。そう思えば何もかも気が重くて再びため息が漏れた。
 そういえば両親は、いや母は、どうして自分を起こしに来なかったのだろう。いつもの時間に起きてこないとなれば起こしに来たっていいはずだ。だがそう思った直後、陽子は「いや」と小さくつぶやいた。
 逆に父なら、寝坊しても放っておけというだろう。寝坊して困るならその責任は自分で負うべきだと、冷たく突き放すに違いない。
 そんなことを考えながら手探りで目覚ましを捜していた陽子は、いつまでたってもその存在が手にあたらないことにわずかな苛立ちを覚える。目覚ましの位置は枕の右上。その定位置にいつもあるはずなのだが……。
 「―――うそ」
 陽子は目覚ましを捜すために手元に視線を向け、そこで初めて、ここが自分のベッドの上ではないことに気がついた。そして慌てて部屋を見回した陽子は、自分が寝ている部屋の豪奢さに言葉を失った。

 ―――ここは、どこなんだろう。
 ひと気のない部屋を抜け庭へと出た陽子は、とりあえず適当に歩いてみた。手入れの行きとどいた庭は美しく、一体どれだけの人手と費用をかけて管理しているのだろうと感心してしまうほどであったが、華美すぎず落ち着いていて、どこかほっとするような庭であった。
 どこかのテーマパークだろうか。
 陽子は周囲を見渡して思う。しかも恐ろしく広大で細部までこだわって作られた中華風のテーマパークだ。ただ問題は、自分の記憶の中のどこにも、このようなテーマパークに思い当たる場所がないということだった。
 それにどう考えても自分は、昨日普通に帰宅して、ご飯を食べて風呂に入り、夜遅くまで翌日の予習をして眠りに就いた。少なくとも陽子には、そういう記憶しかない。
 「ひょっとして夢とか……」
 呟いてみて笑いが漏れる。
 ほほをなでる風や、辺りに満ちた草花の香りや、地上を照らす日の光や、大地を踏みしめる感覚など、これほどリアルに再現された夢などあるはずがない。そしてこれが現実であるならば自分がすべきことはひとつしかないと陽子は思った。
 自分の状況を誰かに相談し、家に帰る方法を探ること。
 そう思った直後、陽子は人の気配を感じて振り返った。

 「こちらにいらっしゃいましたか」
 突然現れた男は軽く会釈して微笑んだ。あまりにも親しげで、気さくな挨拶であった。その様子からどうやら陽子を捜していたらしいことはわかったが、覚えのない男に、陽子はどう反応したものかと迷った。
 しかも、陽子が反応を迷ったのは何も「覚えがない」ということだけではなかった。男の恰好が普通ではなかったのだ。
 普通ではない、と言っても、常軌を逸しているとか、目も当てられないとかいう意味ではないが、少なくとも陽子が見慣れた一般的な装いでなかったことは確かだ。
 これまた中華風とでも言ったらいいのだろうか。中国の歴史映画の登場人物が来ていそうな服装で、ゆったりとした着物風なのだ。確かに、このテーマパークには似合いの格好だろう。
 男が動くと、腰に下げている飾りが澄んだ音を立てる。
 あれは「璧」とかいう飾りだろうか。何かの授業で「完璧」という言葉の語源として紹介された覚えがある。
 陽子がそんなことを思っているうちに、男は陽子の目の前まで歩みよって来ていた。
 「お姿が見えないと女官らが捜しておりましたよ」
 男は笑顔のままそう続けると、やおら上着を脱いで陽子に掛けた。そして大きくため息をつく。
 「いくらプライベートエリアとはいえ、そのような薄着でうろつかれるなど。もう少し慎みを持っていただかねば」
 男はわざとらしくため息をついて、悪戯っぽく微笑む。その親密な態度に陽子は益々とまどった。
 この人は一体誰なんだろう。自分の知っている人なんだろうか。
 しかしそんな疑問も、衣から伝わってくるぬくもりの前に霧散する。男性にこんな行為をされたことがないだけに、恥ずかしくて顔にかっと血がのぼったのだ。
 「ちょっと、散歩のつもりで」
 「さようであられましょう」
 「―――戻った方がいいですよね?」
 陽子が恐る恐る問えば、男の顔からすっと笑顔が消えた。その表情は、ひどく心配げな顔をしているように見えて、その様子から、ひょっとしたら自分は、ここの施設で何らかの事故にあったのかもしれない、と陽子は思った。それによって自分は意識を失い、だから医務室みたいな場所に運ばれたのだ。それが先ほど寝ていた場所。そして、その何らかの事故が原因で現在記憶の一部がぽっかり抜け落ちているという事態に陥っているのではなかろうか。そして目の前の彼はここの施設の管理者か責任ある立場の人で―――。
 陽子は想像力をたくましくして、現在の状況をそのように想像した。そしてその想像は、あたらずとも遠からずのような気がして、だからこの人が自分を捜しに来たのだと受け止めた。
 では、この人に自分の現在の状況を話すべきだろうか。
 ここがどこで、なぜ自分がここにいるのか、記憶がなくて困っているのだと。家からどのくらいの距離のあるところで、電車やバスで帰れるところなのかどうか。
 ああ、そんなことよりもまずは―――
 陽子は大事なことを思い出す。
 「電話を貸してくれませんか。家に連絡を入れたいんです。両親が心配しているといけないから」
 今度こそ、男の顔にはっきりとした驚愕が浮かんだ。


◇     ◇     ◇


 「記憶喪失!」
 鈴は驚きの声を上げた直後、一瞬で集めた皆の視線に、はっとしたように慌てて口を押さえた。
 内殿の最奥。限られた者しか出入りの許されていない一郭に、いま景王の側近らが密かに集まっていた。
 彼らを招集したのは冢宰浩瀚。王の右腕として実務のすべてを握っているこの男の密かな招集に、何事かあったに違いないという予感を抱きながらも、告げられた事実に驚愕したのは鈴のみならず誰もが同じ。だが、虎嘯が何とかぽかんと口を開けただけでとどめ、他の面々がぴくりと眉を動かしただけであったのは、やはり経験の差というものだろうか。
 「ちょっと、鈴」
 と祥瓊が小突く。
 「気をつけなさいよ。最重要機密よ」
 「……ごめんなさい」
 そんな二人のやり取りに、浩瀚はいつになく険しい表情で頷いた。
 「その通り。事は非常に重大だ」
 朝は未だ盤石とは言い難く、表面上は従順を装っている面々も、一度何事か生じれば一気に不穏の芽と化す可能性は否定できない。いや、それでなくとも王に記憶がないなどという事態が明るみになれば、王の密命を受けたという虚言が罷り通り、国はたちまちに混乱するだろう。
 「何としてもこの事実は隠し通さなければならない」
 浩瀚の言葉に、面々が固い表情をして頷いた。
 「こう言ってはなんだが、主上の日頃の破天荒なお振舞いが此度ばかりは役に立つ。ご視察に出られたということにすれば、しばらくは朝議にお姿がなくとも誰も疑いはしないだろう」
 「しかし、それにも限界があるわ」
 祥瓊の言葉は、まさにその通だった。
 「一刻も早く記憶を取り戻す方法を見つけなきゃ」
 「そのためには、なぜ記憶を失ったのか原因を探る必要があるのぉ」
 「そうね。どうして陽子は突然記憶をなくしちゃったのかしら」
 鈴は頬に手を当てながら首をかしげた。
 「昨日お休みの挨拶をした時には、何も変わった様子なんてなかったのよ」
 「ということは、昨夜鈴と別れてから朝までの間に何事かあったのね」
 「夜勝手に抜け出して、どこかに頭をぶつけたとか?」
 鈴の言葉に祥瓊が「なるほど。あの子ならあり得るわ」と頷いたが、遠甫が思案気な表情をしながら口をはさんだ。
 「記憶をなくす原因は、それだけとは限らん」
 「というと?」
 「心に過度の負担がかかった場合、無意識的な自衛本能が働き記憶を封印することがある。嫌なことを忘れて極度の緊張状態から己の心身を解放させるためじゃ。じゃが、都合良く忘れたい部分だけ忘れるなんてことはできん。それで記憶がごっそり抜けおちることになる」
 「―――嫌なことって。……確かに陽子は、あの問題に随分頭を悩ませてはいたけど」
 「記憶を失う原因はほかにもある。記憶を司る神経をマヒさせる毒もあるし、無理やりに記憶を封印させてしまう呪も存在する」
 「!」
 「―――では、何者かの仕業だという可能性も!?」
 「その可能性も含めて、とにかく早急に原因を探る必要があろう」
 「確かに太師のおっしゃる通りです」
 浩瀚は頷く。
 急に記憶を失うなど、誰かの仕業である可能性が高い。そして誰かの仕業であるのなら、それは間違いなく謀叛だ。王の身の安全のためにも、王朝の安泰のためにも、何としても摘み取ってしまわなければならない。
 「主上のご身辺を徹底的に捜査し、早急に原因を究明する必要がある」
 だが……
 「それよりも問題なのは、主上にどこまで説明申し上げるかだ」
 「どういうこと?」
 「実は、主上はすべての記憶を失われているわけではない」
 それこそが問題だ、と浩瀚は思う。
 「どうやら主上は、こちらの記憶だけを失っているようだ」
 「それってつまり、蓬莱の記憶はあるってこと?」
 「どうやらそのようだ」
 浩瀚は苦々しく頷いた。
 「ご両親に連絡を取るために、電話というものを貸してほしいとおっしゃられた」
 浩瀚の言葉に誰もがはっとしたように眉をひそめた。
 「……それって」
 そして誰もが先ほどから黙ったままでいる景麒につい視線が向く。
 「記憶がなくても陽子が命じれば、その…、台輔は従わないわけにはいかないのよね?」
 その問いかけに景麒はふいっと視線をそらす。固く唇を引き結んだその表情が、答えを言っているのも同然であった。
 帰りたい。家に帰してくれ。こちらの記憶がない陽子がそれを口にする可能性は大いにある。
 ようやく得た王を我々は絶対に失うわけにはいかない、と浩瀚は思う。
 どんな手段を使ってでも、彼女をこちらにつなぎとめなければならない。
 だが、彼女がそれを望む意外に方法などあろうか。監禁すれば体はこちらに留められるだろう。しかし、そこに心がなければ、彼女は遠からず天命を失うことになるのだ。
 早急に記憶を戻すすべが見つからなければ、彼女にはもう一度最初からこちらの理を説明し、受け入れてもらわなければならない。そうするしか方法がない。
 だが、その時もし彼女が事実を受け入れるのを拒否したら―――
 その先を想像することが恐ろしく、浩瀚は意識的に自分の思考を断ち切った。

 
 
 
 

…つづく

 
 
     
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