側近らとの密談を終えると、浩瀚は急ぎ陽子のもとへと戻った。
一人残してきた少女が一体どうしているか、心配しつつも、この間に少しでも事態が好転しているとよいのだがと願わずにはいられない。
急に失ってしまった記憶なら、突然に戻ることもあり得るだろう。
だが、楽観的に構えてなどいられないことは重々承知していた。
さて、戻ってまず何と声をかけようか。
浩瀚は悩む。
電話の件は、とりあえずごまかさねばならない。まずは昼餉にして、それから内殿を少し散策させてみよう。見慣れた場所を見れば記憶がよみがえるかもしれない。
そんなことを考えつつ、浩瀚は長楽殿の中に陽子の姿を捜した。
彼女は薄暗い室内の中、静かに窓辺に佇んでいた。その姿は迷子の幼子のように寄る辺なく、途方に暮れているように見えた。
「お待たせしてしまいました」
浩瀚が声をかけると彼女はゆっくりと振り返る。いつも力強い光をたたえている翡翠の双眸が潤んでいるように見て、浩瀚の心は激しく揺さぶられる。それでも冷静を装った。
「お一人で退屈ではありませんでしたか?」
柔らかく問いかけると、彼女が首を振る。鮮やかな緋色の髪が踊った。
「そろそろ正午を回ります。昼餉にいたしましょう」
そう告げて女官に食事を運ばせようときびすを返す。刹那、浩瀚は腕を捕まれていた。
驚いて振り返る。間近に自分を見上げる翡翠があった。
「教えてください。ここはどこなんですか?」
少女の必死さに、思わず息をのむ。動揺を隠し切れた自信がなかった。
「なぜここにいるのか記憶がないんです。私は一体いつここに来たんですか。なぜここにいるんですか?いいや、それよりも―――」
真っすぐに向けられた視線が浩瀚を射抜く。
彼女の訴えは悲鳴に近かった。
「私が私じゃない!顔が違う。髪だってこんなに赤くて」
語尾を震わせながら少女は両手で顔を覆った。
「こんな姿じゃ、家に帰れない。私だってわかってもらえない!」
泣き崩れる少女を、浩瀚はただ見つめることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
動揺しきった陽子を玉葉に任せ、浩瀚は一旦下がると、今後についてひとり静かに考えていた。
不覚だった、と浩瀚は反省する。胎果の彼女はあちらとこちらでは姿が異なる。その事実に記憶のない彼女が動揺を覚えるなど当然予想できたはずだ。
だが同時に、これで悩みの種がひとつ減ったかもしれないと浩瀚は安堵する。
彼女は言った。―――こんな姿では家に帰れないと。
ならば当面、家に帰りたいとは言いださないだろう。
だがそれは同時に、なぜここにいて、なぜ姿が変わってしまったのか、彼女の中にくすぶる疑問にどう答えるか早急に考えなければならないということでもある。
すべてを知らないことにすることもひとつの手だ。しかし、どうしても記憶が戻らない場合は最初からすべてを説明しなければならず、その時になって「こちらは何も知らない」という態度をとってきたことが支障をきたすことも想定できる。
「さて、どうしたものか」
浩瀚は軽く息を吐いた。
そして卓に載せられた書類に視線を移す。山と積まれた書類は、この国が未だ多くの問題を抱えていることを如実に表していた。次々と上がってくるこの書類の山を処理していかなければならない。だが御璽がいる書類は、しばらくは処理できないだろう。国政に支障が出るのは否めない。
「結局のところ、我々にはあまり時間がないのだ」
浩瀚の顔には苦渋の色が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
夜になって、その男は再び陽子のもとに姿を現した。
浩瀚と名乗った謎の男。記憶のどこを捜しても彼に関する記憶はなかったが、彼の顔を見るとなぜかほっとした。
彼がいるなら大丈夫。そういう根拠のない安堵感をなぜか覚えるのだ。
「昼間は済みませんでした」
開口一番陽子は謝る。
「混乱してしまって、あなたにわめき散らしてしまったような気がします」
「―――いいえ」
男はやんわりと首を横に振った。
「姿が変わっていれば誰だって驚くものです。―――ただ、以前のお姿がどうだったか知りませんが、今のあなたのお姿はとても良いと私は思いますよ」
私は好きです。
男の言葉に陽子の頬が朱に染まる。お世辞でも心臓がどきどきした。
「少しは気分が落ち着かれたようで安心いたしました。夕餉はお済になりましたか」
男の言葉に陽子は頷く。昼間陽子の世話をしてくれた玉葉という女性は、本当によくしてくれた。動揺する陽子に意味のない気休めを言うでもなく、単に慰めるでもなく、そっと傍にいて寄り添ってくれた。さりげなく掛けられる言葉にはぬくもりがあって、それで陽子は気分を落ち着かせることが出来たのだ。
姿が変わったのは確かに驚きだが、取り乱していても物事は何も解決しないのだと、気持ちが落ち着いてくればそう思えるようにもなった。
「玉葉さんが何もかも良くしてくれて」
「それはようございました」
「それで、その―――」
陽子はしばし躊躇って口を開く。
「玉葉さんに、訊ねたいことがあるならあなたに訊ねるようにと言われたんです。私が本当に知りたいと思うなら、あなたは答えてくれるはずだと」
陽子はまっすぐに男を見た。男はまっすぐに真摯な視線を陽子に向けていた。
やがて男は頷く。
「私に答えられることならば何でもお答えしましょう。しかしその前に、お見せしたいものがあるのです」
「見せたいもの?」
「どうぞ私についてきて下さい」
男の言葉に頷いて、陽子は後に続いた。
どのくらい歩いただろうか。夜の庭園を抜け、辺りから建物の影が消えてしばらくすると、陽子の耳が何かを捕えた。
寄せては返すその響きは潮騒の音色。やがて視界が開け、眼下に夜の海が広がった。
―――海の近くだったのか。
陽子は岬から海を見下ろす。夜の海は月光を映して金色に輝いていた。
―――なぜだか心が落ち着く。
潮騒の響きを聞きながら、陽子は思う。家は海から遠く、海水浴にも行ったことがないというのにどうしてだろうか。
そしてふと疑問が浮かぶ。
彼はなぜ、自分をここに連れてきたのだろうか。
「あの、見せたいものって」
陽子が声を掛ければ男は頷いた。間違いなく、男が見せたかったものとはこの海なのだ。
―――なぜ?
陽子は再び海を見つめる。
やがて陽子はあることに気がついた。
海の中に光るものがある。夜光虫のようなものだろうか。
もっとよく見ようと身を乗り出すと、男が静かに口を開いた。
「あれは街の明かりです」
「え?」
「この雲海の下には、堯天の街が広がっております。慶国の首都、堯天。ここ数年で夜の明かりもだいぶ増えて参りました」
驚いて男を見やる。男も陽子を振り返った。
「あなたは、ここからの眺めを大変気に入っておられた」
陽子は、瞠目する。男の言葉はさらに続いた。
「街の明かりが増えると、とても喜んでおられた。慶も少しずつ復興していると、夜明かりをともせる家が増えてきたと」
陽子の思考は一気に混乱した。だが、必死にその混乱を抑える。そして冷静に得た情報を整理しようとしたのだが、なかなか処理が追いつかなかった。
「ここは慶東国。あなたが本来お住まいであった世界のどこを捜しても存在しない場所にある国です。―――何か質問がございますか?」
急に問われて陽子は戸惑う。問いたいことは色々あるように思ったが、まだ思考が追いついていなかった。それを察したように男は急かすことはなくただ微笑んだ。
「お聞きになりたいことが生じましたら、いつでもお訪ねください。しかし今日はもうお休みください。色々あってお疲れになったでしょうから」
男の言葉に陽子は頷いた。
◇ ◇ ◇
翌朝早くから、陽子の姿は雲海を望む岬にあった。
昨夜はあまり眠れず、夜明けとともに足がここに向いていた。
―――私がここからの眺めを気に入っていたというのは本当だな。
陽子は思う。見ると落ち着く。そして、いつまで眺めていても飽きることがない。昨夜見た時は、街の明かりだと聞いたものが闇夜に浮かぶ星のようにしか見えず、海の底に街があるなど本当だろうかと半信半疑だったが、朝になって改めて見てみれば、眼下に本当に街が広がっていて思わず息をのんだ。
どこまでも透明な海の下に広がる街。しかし海の底に沈んでいるということではなくて、どうやら空中に海が浮いていて、それを通して眼下が見えるらしかった。
彼が雲海、といったのがなんとなく納得できる。確かに雲海のような物なのだろう。だが、本来雲海とは海のようにみえる雲のことだが、こちらの世界では本当に海が広がっているのだ。
本来住んでいる世界のどこを捜しても存在しない場所にある国。
―――つまりは異世界ってことだよね。
本当にそんな世界が存在するんだろうか。昨夜は随分悩んだが、この雲海を眺めていれば無理にでも納得せざるを得なかった。
「……雨はしょっぱくないんだろうか」
どうでもいい疑問がふと浮かんで、口をついて出る。彼に会ったら聞いてみよう。そう思って陽子は苦笑した。彼に問うべきことを昨夜色々考えてはうまく整理できずに多少いらいらしていたというのに、一番にまとまった疑問がこれだとは、自分でも少し呆れた。
問うべきことは他にあるだろう。
自分はいつからここにいるのか。
なぜ、ここにいるのか。
ここで何をしていたのか。
昨日の彼の口ぶりからは、自分はここでそれなりの時間を過ごしていたように思う。
少なくとも彼が、私がここを気に入っていたとわかるくらいの時間は。
でも、と陽子は思う。
それを聞いて、彼の答えを自分はすんなり受け入れられるだろうか。
これまでの自分が自分の意思でここにいて、ここでの生活を気に入っていたのかどうかわからない。しかし、覚えていない過去に縛られても意味はないと陽子は思う。もし何もかも思い出せなくても、このままここにいるか帰る方法を捜すかは、過去の自分がどうだったかではなく、今の自分と向き合って決めなければいけないのだ。
けど、そう自分に言い聞かせても、どうしたって不安がつきまとう。
ここでの記憶がないんだから、一度家に戻って、それからゆっくり考えればいいのではないか。またこちらに来たければ、それからでも遅くはないんじゃないか。
そう思う気持ちも当然ある。
だが、「戻る」という言葉が脳裏に浮かぶたびに、陽子の心はなぜか動揺する。
陽子の中の何かが警告するのだ。その言葉は、気軽に口に出してはいけないのだと。
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