| TOP | 小説 | イラスト | 雑記 | リンク | 拍手

 
   
 「 茶人-さじん- 」 (前篇)
 
     
 

 慶の首都堯天の天地を貫く一本の柱。限りなく垂直に近い角度で聳えるその巨大な山は堯天山と呼ばれる。山はそれ自体が王宮で、山頂には王と高官のみが住まう燕朝が広がる。燕朝と堯天の間には、真実天地ほどの落差があり、しかも両者の間は透明な海で完全に隔絶されていた。
 しかし地上から見上げても、そこに海があることはわからない。山頂に打ち寄せた波が、まとわりつく白い雲のように見えるのみだ。
 その雲の下に下級官の住まう治朝がある。そこには無数の府第(やくしょ)と官邸が立ち並ぶ。夏官府はその南西に広がり、四角く院子を囲むように並んだ堂屋が、高さを変えつつ縦横に連結されて巨大な府第を形成していた。
 その一郭に齊右(さいゆう)の府署(ぶしょ)はあった。


 齊右を務める男は祖仲(そちゅう)という。年の頃は三十後半。背は高くもなく低くもなくといったところで脆弱な雰囲気はなかったが、本来ならばすべてにおいて脂の乗り切る壮年期であるにもかかわらず、男の纏う空気は憂いを含んだ倦怠感とでも言うべきものを孕み、その双眸には生命の力強い輝きは微塵もない。長らく官吏をしている者の中には、こういった空気を纏うものが少なからずいるものだが、そういった者は大抵が遅からず自ら仙籍を離れていくものだ。
 だが祖仲は、輝きのない瞳とは裏腹に、身なりを整え糊のきいた官服を纏い、いつもの時間に自分に与えられた書房へとやってくる。
 随従はいない。下官もいない。いつも一人、邸から書房までの道のりを黙々と通うのだ。
 その日も祖仲は、いつものように日の出より前に起き出すと、簡単な朝餉を済ませて身なりを整え、治朝を東西に貫く大緯(おおどおり)を自分の府署へと向かった。
 途中幾人もの人とすれ違う。多くはたくさんの随従を連れ、険しい顔をして足早に過ぎていく。仕事に追われているのだろう。中にはめったに病を得ぬ仙であるにもかかわらず今にも倒れそうな顔色をした者もいる。
 近頃国府の雰囲気が変わってきた、と祖仲は感じていた。
 新しい王が立って数年が過ぎようとしている。最初こそ、また女王か、という失望感と、何も知らぬ異境の娘だ、というあざけりの声を多く聞いたが、登極直後に起きた和州の乱を主上自ら平定したことをひとつのきっかけとして表だった批判の声はとりあえずなりを潜めている。
 それと同時に近年断行されている人事刷新。それが功を奏し、長らく淀んでいた空気がいたるところで攪拌(かくはん)され新たな活気を生み出している。
 慶は変わろうとしている。
 多くの者がそれに対して期待感を抱いているのを肌で感じる。
 だがその空気を肌で感じるたび、祖仲は言い得ぬ疎外感に気分を重くするのだった。


 祖仲は、何とも言いようのない重い気分を引きずったまま自分の書房へとたどり着いた。部屋へ入るとまず窓を開けて空気を入れ替えた。こじんまりとした室内には申し訳程度の小窓がひとつあるのみだったが、それでも外の清涼な空気を室内へと運びいれるのに十分だった。
 窓からのぞく院子は、秋の終わりを告げようとしていた。数日前まできれいに色づいていた紅葉も今はほとんど葉を散らせてしまっている。それを残念に思いながら祖仲は戸棚から茶器一式を取り出して茶の準備に取り掛かった。
 茶に使う水は、わざわざ堯天山の北側まで汲みに行く。そこの山肌を清水が流れていて、茶の湯にするには最適だった。汲んできた水を火にくべ、その間に堅い団茶を丁寧に削る。時々堯天に降りて買い求める団茶は決して安いものではなく、祖仲の得る給金から言えばかなり贅沢なものだといえたが、それでも祖仲は団茶を欠かしたことはなかった。
 湯が沸けば、手慣れた所作で茶を入れる。ひとつひとつの動きを確認するかのように丁寧に、それでいて優雅に茶を入れると辺りには馥郁とした香りが漂った。その香りを確かめるように味わって、祖仲はゆっくりと茶を含んだ。
 口の中にわずかな酸味が広がった。
 その事実に、祖仲は茶器を降ろして小さく息をついた。先日求めた団茶は、どうやらまだ熟成の日が浅かったようだ。店の主人がめったに手に入らぬ良い茶が入ったと言うので少々無理をしたというのに。
 期待感が大きかっただけに、落胆は祖仲自身驚くほど大きかった。思わずため息が漏れて、胸に大きな失望感が広がった。
 そのやり場のない胸の痛みに耐えるように祖中は瞑目し、期待していたかつて味わった最高の茶の味を思い出す。
 思い出して、祖仲は苦笑した。
 そもそもあの味を求めることがおかしいのだ、と。


◇     ◇     ◇


 祖仲が官途についたのは、いまから百年以上も前のことだ。時は莉王最盛期。達王以後、慶が最も隆盛を極めた時代である。学費のやりくりに苦労して大学を出るのに多少時間はかかったものの、首席で卒業した祖仲の前途は時節相まって洋々たるものであった。
 その象徴たる出来事が、茶人への選出だったといえるだろう。
 茶を特産とする慶では、年始行事の一つにお茶講というものがある。何種類かの茶を飲みその銘柄を当てるというものだが、その聞き茶を行う者を茶人と呼ぶ。茶人は、官に登用されて十年未満の若い官吏から選ばれるのが慣例で、茶人への選出は将来を嘱望されている証だというのが専らの噂であった。
 というのも選出される茶人は六人。各官府を代表する。選出する上司らも己が官府の面目を掛けて茶人を選ぶわけだから、自然将来有望な者が選ばれる仕組みになっていた。
 だから祖仲が茶人への選出を上司より伝えられたとき、祖仲は己に与えられたその幸運に心から感謝すると同時に、周囲に期待される自分をこの上なく誇りに思ったものだった。
 だが現実はどうだ。
 祖仲は手の中の小さな茶器に視線を落として苦笑した。
 己が身の栄光などほんのひと時だった。確かに見事茶人を勤め上げ祖仲は出世街道に乗った。階段を駆け上るように位はどんどん上がっていき、気づけば上大夫になっていた。部下の中には大学の同期や先輩もいて、同世代の中では一番の出世頭になっていた。
 だが、そこまでだった。
 位が上がれば、自然政治の中心に近づく。政治の中心に近づけば、どうしたって陰謀渦巻く。その中で生き残るには、与えられた仕事をこなす以外の能力を必要とする。
 それに祖仲が気がついたとき、すでに祖仲は閑職に追い払われていた。
 齊右(さいゆう)という名ばかりの役目を祖仲が拝命した時、莉王の治世は六十年を超えようとしていた。


◇     ◇     ◇


 祖仲は結局入れた茶の半分も飲まずに捨てた。別にもともと茶が飲みたかったわけでもない。他にすることがないから茶を入れる。祖仲が毎朝時間をかけて茶を入れるのはその程度の意味しかなかった。
 茶器を片付けてしまえば、もう本当にすることがなかった。
 暇な時間をやり過ごすため、図書府から本を借りて来ることもあったが、もうすべて読み終えて、興味のあった物は二度三度と読んでいる。
 今日はそんな気分になれなかった。
 さて今日一日をどうやってやり過ごそうか。祖仲は椅子に腰をおろしてぼんやりと思案する。部屋をおとなう誰かの声がしたのは、その時であった。


 誰だろうと不可解に思いながら祖仲が顔を出すと、そこにいたのは齢五十ほどの男。男は春官校書補栄小と名乗った。
 「お忙しいところをお邪魔して申し訳ない」
 栄小と名乗る男はそう言って丁寧に拱手した。
 祖仲は苦笑したが、出かかった自嘲の言葉は呑み込んだ。男の真摯な様子に、無理やりに言葉を深読みするのは良心がとがめた。
 「いや、特段何かすることがあったわけではない。私は夏官齊右祖仲という。春官のお方が一体私に何用だろうか」
 問うて祖仲はふと、ここに客人が来るなど何年振りだろうかと思った。
 出世街道をひた走っていた祖仲が失脚し、閑職に追いやられた直後から、祖仲の周りにいた人々はさっと潮が引くようにいなくなった。閑職に追いやられた敗者になど構っていられないという思いで去った者もいただろうし、祖仲と関わることで自分も同じ境遇に落ちることを恐れた者もいただろう。理由はどうあれ、以来祖仲は一人だった。
 だがそれゆえに、左遷以後起きた莉王の粛清に無関係でいられたというのは実に皮肉なことだった。祖仲を左遷した中心人物もその粛清の中で職を追われた。いずれまた復職させてやるからそこで数年我慢しろと言ってくれた者も処刑された。謀反があったと風の便りに聞いたが、それがどんな謀反だったのか祖仲は知らない。
 多くの者が姿を消して、祖仲の知る者はもはやおそらく誰もいないだろう。そのような中で現在、夏官の隅に齊右を務めている男がいるなど誰か本当に認識しているのだろうか。
 だがそれでも、祖仲は夢見ているのだ。いつか誰かの使いがやってきて、祖仲をここから引っ張り上げてくれることを。長らく不遇を掛けたとねぎらい、自分の存在理由を実感できるような役目を誰かが与えてくれることを。
 だから祖仲は、仕事がなくても毎日ここへやってくるのだ。その唯一の機会を、知らずに失ってしまったりしないように。
 それゆえ祖仲は、客人に来訪の目的を尋ねながら内心緊張していた。
 この者が自分の待っていた来訪者なのではないかと期待して―――。
 だが、その祖仲の期待はあっさりと裏切られた。
 「申し訳ない。貴方に用があったわけではないのだ」
 栄小はすまなそうに言った。
 「実は羅氏のところを訪ねたいのだが、どうも道に迷ったようで。羅氏の書房がどのあたりかご存じないだろうか」
 祖仲の顔には今度こそはっきりと自嘲の笑みが浮かんでいた。


 淡い夢を抱くのはいい加減にやめにしよう。
 突然の来訪者を見送って、再びひとりになった祖仲は苦笑しながら室内に戻った。
 すでに自分は終わっているのだ。誰も自分に期待などせず、同時に自分などいなくても国は全く困らない。近頃盛んに行われている人事異動でも自分に声がかからないのがその証左だ。同じように長らく閑職にあった斜め向かいの書房の主は、昨年新たな役目をもらって去っていった。
 自分だけが取り残された。そろそろ認めねばならないだろう。
 祖仲お前は、己が思っている以上に凡夫なのだ、と。
 笑いが止まらなかった。
 茶人に選ばれたのだから自分は特別なはずだと思い続けてきたが、考えてみれば茶人は毎年六人必ず選ばれる。登用されて十年に満たない官吏から毎年六人ずつ。合計すれば一体どれほどの数になるか。それらがすべて官吏として成功するには、高官の席は間違いなく足りないのだ。
 荷物を整理しよう。
 祖仲はこじんまりとした室内を見回した。
 そもそも仕事などないのだから、室内にはほとんど荷物などない。それでもここをきれいに引き上げるには二、三日は必要だろう。
 「やることができた」
 祖仲は皮肉に笑った。

 
 
 
 

後篇に続く ・・・

 
 
     
inserted by FC2 system