| TOP | 小説 | イラスト | 雑記 | リンク | 拍手

     
 
「 楼 」 〜3〜
 

 虎嘯が通された二階の部屋は、天井こそ高い古風な作りなってはいるものの、窓はすべて厚く黒い布で覆われ、むっと蒸し暑く、饐えたカビのような臭いが満ちていた。廃屋に毛が生えた程度の荒れ具合といったらよいのか、よく足を下ろす通路の部分だけ白いホコリが消えているものの、おそらく雨でも漏るのだろう、床の板には黒いシミが点々と血痕のように散っていた。ところどころはぼろぼろになって黒ずんでいる。脚をのせれば、ぎぃと嫌な弾力で軋んだ。ちょっと力を入れれば、一気に床を踏み抜いてしまいそうだ。
 「こっちさ」
 手招きされて男の側へ行くと、ホコリをよけてできた獣道が続いている。両脇には薄暗がりにも白々と、蚊帳がつってあるのが見えた。ひとつではない。隣りの蚊帳との隙間はわずかに女の細腕一本ほど、互いにくっつきあったり重なり合ったり、さながら湯屋の脱衣場のように天井から垂れ下がっている。
 犬歯の男はそのひとつをまくり上げると、ぞんざいな仕草で親指をそらした。首をつっこんでのぞいてみると、大人の男が一人ようよう横になれるほどの空間に低い榻がひとつ置いてあった。粗末な白い藁布団が敷かれている。上掛け布は見当たらない。頭の位置にはぽつんと、四角い木の箱がむきだしのまま転がっていた。箱枕だった。さきほど店先でみたものと同じような品だ。
 男は虎嘯に砂時計を手渡し、ぶっきらぼうに、一刻でどうだい兄さんと言った。
 「それとも二刻にするかい。料金は倍よりかはちょっとお安くなる。ねちっこい方がお好きかね、兄さんは」
 「・・俺は女を買いに来たわけじゃないとさっきも言ったろうが。そこの枕をちょいと見させてもらえればいいんだ。なあ、陽子。ほらこれ」
 こいつが見たかったんだろう、とかがんで枕を拾うと、おもむろに後ろを振り返ってみて虎嘯は仰天した。すこし離れた向こうには、さっき入ってきた戸口とおぼしき朧な四角い光がある。その光の中にも、この布だらけの部屋の中にも陽子の影はなかった。さては階段をのぼっていなかったのだと今更ながら気づいて、たちまち虎嘯の大きな身体からどっと汗がふきだした。
 「陽子!おい!」
 返事はなかった。
 「陽子!」
 たまらずに駆けだしたとたん、足元の床にごろりと転がっていた丸太のようなものにつま先がひっかかった。勢い余ってつんのめる。頭から床へと派手につっこむと、ずしんと地響きがあたりにとどろいて柱がさんざんに揺さぶられる。白い布がよじるように揺れ、腐った床板が剣呑な軋み声をあげた。
 火事場の煙のごとく舞い散るホコリの中に、虎嘯は己がつっかかったものを見た。毛むくじゃらの武骨な男の腕だった。腕は肩につながっており、肩の先には当然のごとく頭がついていた。魂が抜けたような表情、口をぽかんと開けてよだれをたらし、白目をむいただらしない中年の男の顔がそこにあった。息をしているかはさだかでない。
 「おっ、おい、おっさん!なんだ、大丈夫か」
 ばんばんと胸元を叩いてみたが、中年男は微動だにしない。垢で汚れた襟元からほのかに血色がのっている皮膚がのぞいている。どうやら死んではいないようだ。
 「枕をはめてやんな」
 いつの間にかすぐ横に、犬歯の男がひざをついていた。
 「枕?」
 「そいつの箱枕さ、ほれ、転がってるだろう。頭の下に敷いてやらんとな」
 虎嘯の巨体でふっとばしたのか、箱枕は中年男の脇腹のあたりに落ちていた。言われたままに木箱の角にふれたとたん、妙なぬくもりがじわりと指先を這いあがってきて、思わず手をひっこめた。
 「なんだこの箱は。ぬ、ぬくいぞ」
 「そりゃあ夢を見ている最中はぬくいに決まっとろうが」
 犬歯の男は無造作に枕をつかんで、寝ている男の首元に押し込んだ。好きな夢が見れると言っただろう、と無精ひげの生えた顎を撫でながらにやにや笑う。
 「この箱枕に頭をのっけてな、抱きたい女を想像するのよ。そしたらたちまち夢の中さ。べっぴんさんが綺麗な部屋であんたを待っててな、好き放題にさせてくれる」
 ただしな、と男は続けた。守らんといかんことがひとつある。
 「なんだ」
 「決して夢の途中で枕をはずしてはならん。魂を抜かれたまま、こっちに帰ってこれんようになっちまう。生きた屍みたいなもんさ」
 「屍・・」
 「おうよ。うっかりはずしてしもうて、帰ってこれんくなったやつはごまんとおるわ」
 「へっ。まっぴらごめんだな。悪いが俺は断るぜ」
 虎嘯は犬歯の男を押しのけると憤然と立ちあがった。
 「こんなツラだが、これで結構モテるんでな。女は間に合ってる。陽子を連れて、もう帰らせてもらおう」
 けけけ、と嫌な音を喉奥でたててのけぞると、舐めるように男は虎嘯を見上げた。
 「そりゃ無理だ。あの可愛らしい嬢ちゃんにはついさっき、一足先に楼のひとつに入ってもらったからな」
 「な・・んだと?」
 「無理無理。箱は無数にあるんだ。嬢ちゃんがどこの箱に入ったか、おまえさんに見つけられっこないね」
 「このっ・・」
 殴りつけてやろうとこぶしをふりあげたとたん、右足の甲にチクッとした激痛が走った。うっと呻いてかがみこむと、犬歯の男の歪んだ顔がぐっとそばにせまってっくる。無理さあ、と息だけで言う、黄色い歯からもれるくさい吐息がぬるりと頬をなでる。
 「乱暴してすまんけどもな。こうなった上はもう覚悟することだ。眠っちまいな兄さん。ゆっくり楽しんでくるがいいや」 
 目の奥に急激にちかちかと白い星が散った。がくっと膝から力が抜ける。次の瞬間、頬の下にはホコリだらけの腐った木の板があった。倒れたという感覚も衝撃もなかった。ただ刺された足先が徐々に冷たく、じんわりと痺れていくのがわかる。視界が半分に陰っていく・・瞼が閉じようとしているのだ。
 虎嘯は叫ぼうとして、舌が動かないことに気付いた。中途半端に開いた唇からよだれが流れ出た。
 「箱に入っちまった方が、案外、幸せかもしれんさ。嫌な面倒なことはすべて忘れちまいな。夢の国だよ、いい女だよ・・ああ、こいつはもらっておくぜ」
 袷に手をつっこんで財布をひっぱりだすと、ちゃらちゃらと小銭を鳴らして、男はありがとよ、と言ってひょいと視界から消えた。首がわずかに持ちあがって、うなじに四角くて硬いものが押し込まれたのがわかった。
 「あばよ」
 遠くかすかに、こだまのような声が響いたのが最後だった。たちまちぐるぐると回り出した黒い渦に、虎嘯は飲み込まれていった。

 ちかり。
 光が瞬いた。
 小さな小さな、針のさきほどの点だ。
 白く透明で、ぬくもりのない寒々しい色をしている。点はみるみる大きくなり、瞬く間に赤ん坊の頭ぐらいの大きさになった。黒い渦の中に、白い穴がぽかりとあいている。そして、その縁の向こうには色鮮やかで豪奢な堂室が小さく丸まって納まっていた。
 水を吸って膨らむ水中花のように、むくむくと堂室は大きくなってたちまち視界いっぱいに広がった。きつい香の匂いがこちらにむかって吹きつけてくる。気づくと、虎嘯はその部屋の中に、両足をつけて佇んでいた。どこかで鈴の音がりん、と鳴った。
 「やれ、いらっしゃい」
 ずいぶんと低い位置からさびさびとした声がかかり、下を向く。水が抜けてからからに干上がったような皺だらけの老婆がちょこんと立って、大男を見上げていた。虎嘯の膝のあたりまでしか背丈がない。
 「ご新規さんだね。ずいぶんとガタイの良い兄さんじゃないか。どんな女がお好みかい」
 よりどりみどりだよ、と老婆は笑顔のつもりだろう、皺くちゃの顔をさらに歪めて愛想よくそう言った。
 すぐ横には牡丹の花をかたどった洒落た小卓があり、筆と冊子が置かれている。香炉から青い煙が高い天井へとたちのぼっているをうるさそうにあおいで、老婆は冊子を手に取った。
 「婆さん。悪いけどな、俺は女はいらん」
 「あ?なんだって?」
 「人を探している・・さっきこっちに来たはずなんだ。居場所を知っていたら教えてくれんか、赤い髪の若い娘なんだが」
 皺に埋もれた、古い傷跡のような目が妖しい光を湛える。剣呑な光だ。虎嘯はしまったと頭を掻いた。いつだって俺は腹芸というもんができない・・敵の陣地にも等しい中で、これじゃあいきなりの馬鹿正直だ、直球すぎたと気づいたが遅かった。老婆はがらりと不機嫌になった。
 「なんだねぇ。客じゃんなくって役人さんかい、あんた。あたしゃ面倒なことは嫌いだよ」
 「違う、聞いてくれ。役人じゃなくってだな、娘は俺の連れなんだ。一緒に街に買い物に出ていた。あの娘を無事に連れて帰れればそれでいいんだ。あんたがたをどうこうするつもりは全然ない」
 「へぇ」
 じろじろと全身を無遠慮に眺めると、腰の大剣に気付いてちょいちょいとつついた。
 「まずはこれをはずしてもらおうかえ、兄さん」
 「あ、ああ」
丸腰になるのは気が引けたが、得体の知れぬこの空間の中ではたして剣が実際の役に立つのかはやや疑問だった。虎嘯は大人しく冬剣を牡丹の小卓にたてかけた。
 りん、りんと遠くで二回、また鈴が鳴った。かすかな音を拾おうとうするようにしばらく目をつぶって耳をかたむけていたが、やがてじわりと目を開けて、老婆は亀のように首をすくめると、今度はがらりと馴れ馴れしくなった。
 「赤毛の娘はたしかに来たよ。じゃがな、この近くの部屋にはもうおらん」
 「どこだ。教えろ」
 「まあ急ぎなさんな。あんた金を払ったんだろう?じゃあまずはとりあえず遊んだらどうだね。その娘を探したいなら、遊び終わったあとはあんたの時間だ。探すなり連れ戻すなり好きにしたらいいさ。あたしらは邪魔はせん。まず遊べ。でないと」
 皺だらけの手招きに腰をかがめると、耳の奥にぼそぼそと、毒を吹き込むように老婆は囁いた。 
「この楼の中で不穏な、けったいな動きをしたらな。あんたの損にこそなれ、得にはならん。ああ、これっぽっちもならん。たちまちあたしがむこうに連絡をするのよ。むこうだよ、あの妓楼だよ。で、」
 老婆はほっほっと掠れた鳥のような声を上げた。笑っているらしかった。
 「あっちの箱枕をな、あんたの頭からはずしてもらうことになるのさ」
 「・・・・」
 犬歯の男のにやにや顔が脳裏をよぎる。奴もそんなことを言っていた。唇をかむ。ここは、さっきの馬鹿正直のつけをはらって大人しいふりをしておくべき場面なのかもしれない―――いやそうでないのかもしれない―――よくわからなかった。しかし、箱を外されたら帰る手立ては断たれることは確実だ。
 虎嘯は考えた。普段はあまり頭を使う方ではないが、陽子を守るためには今こそ使うときだった。俺の取り柄はなんだ、と自問自答すると、いつだったか出来の良い弟に言われた言葉が、思考の湖面に波紋のように広がった。
 (兄さんは、実際よりも馬鹿に見えるよね。ほんとは賢いのに)
 (馬鹿になれるっていうのは、相手を油断させることができるっていうのは、実はすごい取り柄なんだよ)
 夕暉、と心の中で呟く。ありがとよ。虎嘯は老婆にぐいと親指を突き出した。
 「よし決めた。ならそうするか、婆さん」
 遊ぶぜ、と片目をつぶってみせる。実は大の女好きなんだ。
 「俺の好みはな、背が高くって胸も尻もでかい女だ。ついでに感じのいいすっきりした美人だとなお良い。いるかい」
 「おお。いるともさ。賢いな、兄さん。そうこなくちゃな、兄さん。それでこそ男さ」
 りん、とまた鈴が鳴った。老婆はしばらく耳をかたむけて、それからおもむろに虎嘯を壁際にいざなった。丸い円の中に一羽ずつ胡蝶が描かれている壁紙である。その一点に杖の先をあてたかと思うと、ゆらりと空間が震えたような、わずかな違和感が背筋を駆け抜けた。次の瞬間、もうそこには緞帳が下がっていて、まくりあげてみると、忽然と黒い木彫りの扉が出現していた。老婆が扉に触れる仕草をするだけで、わずかな風の力に押されてぎぎぎと開いた。扉の向こうは、ここよりもさらに豪奢な意匠をこらした壯榻が続いていた。
 「あっちだよ。枕元に砂時計があるからね。いちおう一刻にしておくよ。一刻たったら鈴が鳴る。延長するならまたその時に言っておくれな」
 良い夢を兄さん、と背中を(正確には膝のあたりを)押されて、よろめくように向こうの部屋に一歩踏み入れると、ふわりとした風とともにもう背後の扉はかすみのように消え失せていた。
 「いらせられませ」
 消えた壁のあたりを解せぬままに首をかしげつつなでさすっていると、涼やかな声が聞こえた。ふりむくと薄緑の衣装をつけた大柄な女が、目の前で膝をついて拱手していた。年のころで23〜4ぐらいだろうか。
 「花梨です。可愛がってくださいませ」
 派手な化粧に、ほつれた髪。だいぶ疲れているようだ。髪をおさえている簪や手足、首元にとじゃらじゃらつけられている装身具は部屋の華やかさに比べると安手なものだったが、胸元や襟足などに要点をしぼって露骨に劣情をさそう工夫がこらされている。結いあげた髪形のたどたどしさも、拱手の仕草のぎこちなさも、まだこの仕事について間もないもののようだ。
 「顔をあげてくれ。少し話をしよう」
 「はい?」
 意外な台詞に顔をあげた女は、良く見ればもう少し若い。虎嘯は髭をぽりぽりかいて、居心地悪そうに榻に腰かけた。
 「安心しろ、俺は客じゃない。身体は使わんでいいから、かわりにこれから一刻あまり、すこしばかりおまえのことをいろいろと話を聞かせてくれんか」
 「はあ・・」
 隣をぽんぽんと叩かれ、女はおそるおそるといった風に虎嘯の横に座った。
 「おまえは、いつからここにいる。家はどこだ。どうしてこんな枕の中に閉じ込められることになった。誰にそそのかされた。見返りは何だ」
 矢継ぎ早の質問に、花梨という名の女は首ねっこをつかまれてぐるぐる振り回されたような顔をした。あまり頭の回転の速い方ではないらしい。咳払いをひとつして虎嘯は質問を変えた。
 「ここから出たくはないか」
 何気なくのぞきこんだ女の目に、みるみるうちに涙が盛り上がってきたのをみつけて虎嘯は驚愕した。慌ててなだめようととしたとたん、牛のような咆哮と共に膝上に女がつっぷしてきた。
 「出たい出たい出たい。邑に帰りたい」
 堤防の決壊した海原に目鼻が浮きつ沈みつばらけているような顔になって、女は息を突く暇もないぐらいにしゃくりあげ始める。
 「お、おい。落ちつけよ、姉さん。邑?邑ってどこの邑だ。夫はいるのかい」
 「あたしは・・」
 ばらばらの中から真っ赤に塗られた口だけがぱくぱくと、とぎれとぎれに言葉をつむいでいく。虎嘯はじっと耳を傾けた。
 ――― 一刻後。
 りん、と鳴った鈴の音と共に現れた老婆に、虎嘯は乱れた上着もそのままに、へへっとだらしなく笑いながら延長を申し出た。あんたも好き者だね、と満足顔を残して老婆が消えるのと同時に、化粧がすっかり流れてしまった女と一緒にぺたぺたと、四方の壁をところかまわず撫で始めた。女が聞いたという、その棟黄という男の漏らした言葉が正しければ、どこかにあるはずだった。
 小さな、穴が。

 「これは、浩瀚さま」
 掃除道具をあらかた片づけて、髪に巻きつけていたほこりよけの布もほどき、そろそろ堂の扉を閉めようかと足置きの台をひっくりかえしてはきちんと卓上にのせることに余念のなかった祥瓊は、開けっぱなしの扉をすりぬけて、かすかな気配すら感じさせず、歩幅までも端正に侵入してきた意外な人物の姿に大きく目を見張った。鈴は一足先に、遠甫の夕飯の支度があるからと桂桂と共にすでに退出していた。
 慌てて跪礼した娘に軽く手を振っていなすと、六官の長は気さくな様子で堂をぐるりと見まわした。訪なう者もめったになく長らく締めきられたままだった小堂は、そのカビ臭い湿気を返上して居心地の良い小部屋へと変貌を遂げている。降り積もった埃の山は女官たちによってたかって丁寧に拭われたために跡かたもなく、小花模様の散った青い壁紙も、涼しげな華椅子の浅葱の布と品よく色調を合わせてあって、決して華美ではないながらも寛いだ華やいだ雰囲気をかもし出している。
 緻世楼を見せてほしい、という浩瀚の匂やかな美しい微笑に、祥瓊は長いまつ毛に彩られた目をさらに見開くはめになった。微笑という題で絵を描いたらまさに理想となりそうな湾曲だった。
 どうぞ、と宮廷仕込みの優美な仕草で男を導きながらも、内心では大きく首をかしげる。紺青の髪が埃を振りおとしてさらりと揺れた。大の男が女子供の趣味ごときに何の興味があろうはずもない。ましてやこの男をおいては何をいわんや。他に意味でもない限りは、であるが―――では、さていったい何の意味なのか。さっぱりわからなかった。
 「こちらです」
 指し示された卓の上に、両手でかかえられるほどの木箱がいくつも並んでいる。ひとつひとつの中を覗きこめば小さな世界が眼前に迫り、外にいる者を誘うがごとく生き生きとした艶を放ち始める。斜光に彩られた箱の縁は、古びた黄金色に鈍くけぶっている。うすく削がれた剃刀にも似た瞳が幾度か瞬いて、それぞれの箱の中を通り過ぎていった。素通りするたび、木枠の縁が切れないのが不思議に思えるほどに鋭い視線だった。やがて、浩瀚の目は楽俊の学寮の部屋で止まった。
 「これを作ったのは誰か?」
 「わたくしです」
 軽く拱手した娘に、男の口はほう、と息を吐きだした。息根のわずかな震えを悋気の残滓とみるのは己の深読みのし過ぎだろうか。ふと盗み見た浩瀚の微笑はわずかも崩れていない。
 「よくできている。主上もお喜びになろう」
 「ありがとうございます」
 「ではこれも」
 浩瀚は楽俊の箱の隣にある、雨がしとしと絶え間なく降り注いでいる箱を指差した。
 「そなたが作ったのか」
 「いえ、女御の一人で・・あら?名はなんと申しましたかしら」
 祥瓊は名を思い出そうとして、はたと動きが止まってしまった。
 もちろん、顔はなんとなくわかる。いや、なんとなく、という時点で変な心地がした。丸いうりざね顔に一重の瞳、肉厚の唇。同じ青ながら祥瓊よりはだいぶ淡い、空色に近い髪。それは浮かぶのだが、さてではどういう顔立ちだったかと思いを凝らしたとたんに、まとまりかけた印象がふわふわとぼやけてしまうのだ。そして名前は何だったろう。色にちなんだ名前だったような気がするが、もしかしたら全然見当違いかもしれない。彼女から箱を手渡され、ここに置いたのは自分だ。なのに、紗の布を通したようなもどかしい感覚は何なのだろう。
 「もうよい」
浩瀚の声がもの思いの糸を断ち切った。
 「申し訳ございません」
 「あやまることはない。そんなことだろうと思っていた。なに、女御の名はいずれ知れよう。・・・ところでこの雨が降り注ぐしかけは面白いが、どういう仕組みか知っているか」
 「たしか石を・・・なんとかいう特別な石を拾って入れるだけだった、はずです。でも石の名前がやはり、なんだったのか・・思い出せません」
 「よい。祥瓊」
 「はい」
 「今日はここに瑠璃色の鳥は姿を見せただろうか」
 祥瓊は少々面食らった。鳥?・・・鳥が何の関係があるのだろう。
 「いえ、そういえば姿を見ていない気がします。でも堂内での掃除に熱中していましたから、もしかしたらその間に庭に飛んできていたのかもしれません」
 「そうか」
 浩瀚は顎に手をあててほんのひととき、何やら考えているような表情をしていたが、口に出しては何も言わなかった。祥瓊に軽く会釈をしてくるりと扉の方へ向き直ったところへ、ふと眉根をよせた。静謐な夕刻のひとときを破るかのように、ばたばたと、やけに乱れた足音が庭から響いてきたのだ。こちらへ向かってくる。
がたんと扉を鳴らして駆けこんできた人物を見て、浩瀚も祥瓊も思わず意表をつかれた。
金波宮における貴人の中では、おそらく最も礼儀を重んじるそのお方が通常、回廊を走る姿などありえないのに、今は白皙のおもてをぴんとはりつめ、長く美しい金髪は風に弄ばれて茫々と散っていた。
 「浩瀚!主上は」
 「台輔。どうなさいました」
 「班渠の気配が消えたのだ。主上は?主上は今どちらに」
 「堯天に降りられたまま・・まだおもどりには」
 「陽子!」
 とっさに手で口を覆ったが、祥瓊の叫びは指の間から洩れてしまった。
 掠れた声音で、主上、とぽつりと呟くと、椅子の一つに崩れるように座った麒麟は蒼白だった。
 「使令は常に私につながれていて、その糸は互いに途切れることがない。離れていても遁行していても、彼らの気配は身体のどこかで感じ取れる。しかし、それがつい先ほど不自然に」
 突然切れたのだ、と景麒は言った。
 「おかしな切れ方だった。別の次元に飲みこまれたような、回るような、白く発光するような、唐突な消え方だった。班渠はいつも、主上がどこかへ行かれる際にはお側にはべるように命じてある。班渠が消えたとなると、主上は・・」
 ―――どちらに。唇だけで声にはならなかった。金糸の滝がさらりと流れ落ち、玻璃の彫刻のような麒麟の肩を覆った。
 「浩瀚さま!すぐに禁軍を堯天に、」
 詰め寄る祥瓊を手で制すると、浩瀚は両手で頭を抱え込んでいる麒麟の前に落ち着き払ってひざまづいた。
 「台輔。他の者はこのことを御存知でしょうか」
 「否。そなたと、そこの女史殿以外は知らぬはずだ。班渠が消えて、私はすぐにこちらへ来た」
 「ならばこの件はご内密に。他言はなりませぬ。禁軍へのご下命も、今はまだ保留に」
 「浩瀚さま!」
 男の流し目が氷矢のように飛び、祥瓊を黙らせる。
 「恐れながら、拙めにいささかの心当たりがございます。今はまだ台輔に申し上げることはできません―――」
 顔をあげて何か言いかけた麒麟を拱手でとどめると、浩瀚は裾を払って立ちあがった。
 「すべて主上のお身の安全のためでございますゆえどうぞご容赦を。ご無礼ついでに、そのうえでいくつかお願いしたき議がございます」
 「・・・申してみよ」
 「まずは、この楼を作った女御を見出し、できるならば身柄の拘束を」
 「楼というと、その卓上の箱か」
 浩瀚がぴたりと指差しているのは、例のしとしとと雨の降り注いでいるあの箱だった。おそらく、と浩瀚は続ける。
 「おそらく妖魔を鎮めるなんらかの呪具が必要になるかもしれません。あるいは最悪の場合は台輔自ら折伏をお願いすることになるやも」
 景麒の紫色の瞳はあどけないほどに清く澄んだまま、強い光をたたえてまっすぐに臣下に向けられる。
 「その女御が妖魔だと?そのような気配が宮内にあれば、麒麟である私が気づかぬわけはないが」
 「は。黄海にいるような純粋な妖魔ではなく、しかしかといって純粋に人というわけでもまたないのだと思われます。私にもよくわかりませんが、台輔が気配をお読みになれなかった理由はそのあたりにあるかと」
 「拘束して、それから?」
 「ここ最近庭にたびたび来るという、瑠璃色の鳥の捕獲を」
 「鳥?」
 鳥?と祥瓊も口を挟む。鳥です、と男はうなづいた。
 女御の次は鳥か、と麒麟は絞るようなため息をついた―――さっぱりわからぬ。
 「そなたが言うのでなかったら聞く耳をもたぬところだが・・仮にもそなたが何の考えがないまま荒唐無稽な戯言を申しているとは思えない。・・わかった。主上の御ためになることであるなら、私に否やはない。すぐに手配しよう」
 「ありがとう存じます」
 深々と立礼すると、では急ぎますのでお先に失礼いたします、と扉を開けて敷居をまたぐ。心なしか急いているようなその背に景麒が呼びかける。
 「浩瀚」
 「は」
 振り向いた顔は落ち着き払っている。
 「そなたはこれからどうするのだ」
 「堯天に降ります」
 「主上を?」
 「おまかせを」
 麒麟は椅子から立ちあがった。細身でなよやかな印象の強い景の麒麟は、こうして間近で見るとずいぶんと長身である。暗い堂内で白い肌と金の髪はほのかに、内側から光を放っているようだ。神獣たる気品をのせて、貴人はそのまま臣下にむかって丁寧に頭を下げた。
 「頼む」
 「は。必ず」
 拱手したまま、祥瓊、と呼んだ。
 「はい」
 「台輔のお手伝いを」
 「もちろんそのつもりですわ」
 わざわざ言われなくてもわかってます、と言外ににじませた声音に、浩瀚の頬をわずかに苦笑がよぎった。
 「今宵が明けるまでに事態をおさめましょう。では後ほど」
 はやくも薄闇がおり始めた木立の中に濃紫の官服が消えるのを見送って、祥瓊はかたわらの麒麟に向き直った。
 「私達もまいりましょう、台輔。あの食えない浩瀚さまにまかせておけば、陽子はきっと大丈夫ですわ」
 「そうだといいが。いや、・・まいろうか」
 「はい」
 外は昼間よりも冷めた風がわずかに流れていて、足早に踏みしめるたび下草が青臭い香りを放つのを、瞬く間に吹き散らかしていく。長身の麒麟と少女の姿も、風に散らかされたように瞬く間に宮へと消えていった。

 

 
 
 
inserted by FC2 system