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「 楼 」 〜4〜
 

 班渠は走っていた。
 真っ白い空間の中だった。上も下もない。天井も床も、右もなければ左もなかった。ただ白い。走る足元に、背に、靄のような水滴が毛先にともってはやがて伝って肌を濡らした。耳元でびょうびょうと風が鳴っている。
 主が―――正確には主の主だが―――絨毯の円陣を踏む直前、危ないと叫んでとどめようとした前脚は、あと一歩で届かなかった。主は黒い渦の中に消えた。己の失態であった。
主の姿が完全に消えうせる間際に、とっさにぐにゃりと歪んだ狭間に無理やり体をねじこんだ。皮膚が空間と空間の壁にこすられる感触があり、毛の先端が焦げた。くるりと一回転して、何もない白い空間にすとーんと落ちた。
 以後、班渠はやみくもに走っていた。走っていくうち、白い靄の中から時々にぬっとそそりたつ楼や、なにかの扉の輪郭がちらりと垣間見えることがあった。そちらに足を向けるとたちまち壁は遠ざかり、その場にはただ湿った空気だけが茫と広がっていた。それを幾度か繰り返したのち、班渠の毛皮はすっかりしとどに濡れそぼっている。
 妖魔の鋭い五感を錐のように硬くするどくとがらせると、かすかな気配の残滓がごくごく微量の糸となって、するりと前方に伸びているような気がした。色でいうなら赤。―――おそらく、主の気配だ。
 かのお方の気は神仙だけあって常人よりはるかに煌々しく、また荒々しくも瑞々しい。もしかしたら、あの渦にまきこまれる途中でこぼれ散った気の雫が、こうして点々と己の鼻腔をくすぐっているのかもしれない。
 班渠はとりあえず糸をたどることにした。
 足の下はふわふわとして頼りない。白い。なにもない。なにも見えない。
 走れば走るほど身体は濡れてゆき、祈るような気持ちでたどるくだんの糸は太くなったり細くなったり、ひたすら曖昧で朧だった。糸が切れそうに細くなり、班渠は牙をむいて唸った。風が鳴る。白い空間のどこか、遥か遠くで鈴を振るような音もする。
 ふいに、めざす前方に何かの影が見えてきた。
 影―――輪郭。
 川か?―――いや木か。
 よくわからない。
 白い靄が邪魔をする。まぶたを上下させて目にたまった雫を追い出すが、いっこうに映像ははっきりしなかった。ただぼうっと明るい。穴があるようだ。
 (・・・出口か?)
 トンネルの中から彼方をのぞめばこのような丸く切られた景色になるかもしれない。
 走れば走るほどに、徐々に明るい丸は大きくなっていく。班渠が近づいても、今度は遠ざかる様子はなかった。輪郭に、わずかばかりの色がさした。草原のような広い空間。そして若草の緑色。
 肝心の糸の気配は散漫で、進むにつれてなおいっそう細くなるようでさえある。
 班渠は迷った。このまま先へ進むか、それとも糸の切れるのを恐れて引き返すか。走る速度を落とすと、ゆるんだ風に混じって、みゃーお、と小さな小さな音が聞こえた。
 (―――猫?)
 場違いな鳴き声に班渠の耳がぴくりととがる。
 右のわき腹近くで、何かが蠢いた。見ると、黄色の燈籠が二つぽっかり灯っている。木の実型の瞳は炯炯と光って、すぅっと滑らかに班渠の前へ躍り出た。
 前方の丸い穴へ移動していく。細長いものがゆらりと打ち振られて、しっぽだと気づく。真っ白い猫なのだろう、靄と同化していて胴体との境目がはっきりしない。獲物につられた獣の本能が、無意識に足を前へと進めさせた。猫を追う。露を含んだ白い空間はみるみると遠ざかり、草原が駆け足で迫ってくる。
 すぽん。
 身体が何かを突き破った音がした。軽い衝撃が背筋を抜いたが、痛みはなかった。今の今までふわふわした宙を蹴っていた班渠の脚は、しっかりとした青い草を踏みしめていた。背後を振り返ると、白い靄の空間は消え失せていて、ただ夕焼けの残照を受けて紫藍にしっとり染まった空に、夕星がぽつんとただひとつだけ所在無げに輝いていた。気を凝らして主の気配を探ってみるが、すぐに困惑してやめた。糸は切れてこそいなかったが、さっきよりさらに細く頼りなくなっていた。風に舞う蜘蛛の糸のほうがまだしも鮮明に思える。これではどちらに行ったら良いのかもすぐには見当がつかない。失敗した、やはり戻れば良かったのだと後悔する。
 にゃー、と甘えたような、どこか馬鹿にしたような響きの鳴き声に我にかえると、茂みの根元にさっきの猫がいた。全身が白くて黄金色の目をした、しっぽの長い猫だった。優美に背を丸めると、するりと班渠の足の間をすり抜けて、草を蹴散らかして脱兎のごとく駆けていった。
 追おうとして数歩飛びだし班渠は、慌ててたたらを踏んだ。草原はそこでふいに落ち込んで急斜面となり、谷へと続いていた。眼下にはるばると拓けた景色に目をみはる。
 川が―――いや河があった。銀の河だ。
 磨きぬかれた鏡のようにぴかぴかと反射し、夕空の藍も星もそっくりそのままその水表に映している。大蛇が満足気に寝そべっている姿に似たゆるやかな流れは、いくつもの曲線を描きながら下り、草原をあちらとこちらに綺麗に二分していた。河の真ん中あたり、曲線がいちばん丸い角度をなす浅瀬に、円弧状の細い木の橋が渡してある。橋のたもとには小舟もひとつ、ふたつほど係留してあったが、渡し守はいなかった。
 橋をはさんだ両の河沿いにはなにやら蚕の繭のようなものが夥しくひしめいていた。
 白い布をたらした天幕だった。
 流れのすぐそばから土手にかけてみっしりと一面に白布で埋めつくされている。はるか下流のほうまで天幕は途切れることなく続いていた。そのほとんどの内側では橙色のほのかな明かりがぼうっと灯っていて、わずかに人影が透けているものもあり、白布の表に黒々と模様を刻んでいる。しかしざっと見渡したところ動いているものは見当たらなかった。微動だにせず横になっている影ばかりである。
 灯りはちょうど人が息を吸って吐くぐらいのリズムを保ちながら時にゆるく、時にはやく、また刻みに点滅して、あたかも生きた幼虫が集団でうずくまっているかのようだ。
 (これはいったい・・・)
 なんだろう。
 班渠は用心しながらそっと土手を降りて行った。一番手近にあった天幕に鼻面を寄せると、どこか甘ったるいきつい香の匂いとぼんやりした灯りが布の隙間から漏れ出てくる。顔をつっこむと、中には粗末な榻がひとつ置いてあるだけで、榻の上には見知らぬ中年の男が昏々と眠っていた。藁を詰めた古びた寝具は敷いてあるものの枕は見当たらない。あかりは簡易な燈籠が一つ、天井の梁にぶらさげてあった。寝息もほとんど聞こえぬほどに天幕の内は静まりかえっている。眠りというよりむしろ昏睡に近いように思えた。他にも二、三の天幕をのぞいてみたが、すべて同じだった。榻がひとつと人間がひとり。人間は男ばかりでみな昏睡している。見たこともない顔ばかりだったが、その陽にさらされて色落ちした衣類などからして農民のようだった。街の人間ならもっと裾が長くて、動きにくくはあるが小洒落た格好をするだろう。
 ・・・班渠・・・
 夕空に吹きすぎる風にのって、聞きなれた声が漂ってきた気がした。とたんに班渠は全身をバネのように緊張させると、長い首を上空へ仰向けた。大気には湿った夜空の匂いと、甘い匂いが混ざり合ってゆるやかな渦をつくっている。空はさらに藍の色合いを強めて、星の数がぽつぽつと増えていた。
 「主上」
 己のいらえは届くだろうか。班渠は目を閉じて気配を探った。どこかはるか遠い空のむこうから暖かな温度を持ったものが―――赤く沸騰した湯のようなものがひたひたと飛沫となって毛皮に滴り落ちてくる心地がする。
 ・・・班渠。
 また、かすかな声。潮騒のようによせてはかえす残響。
 班渠は力強く大地を蹴り上げると、夕空へと飛びあがった。冷やりとした風がゆきすぎる。
 間違いない、主の声だ。
 見下ろすと、草原の緑と、銀蛇の大河と、灯りのともった白い繭とが入り混じり、まるでひっくりかえした絵具箱のようだ。天幕の灯りはちかちかと、小さな邑のように瞬いている。暮れていく空のどこかにあるはずの主の気配の糸を探して、班渠は再び疾走を始めた。

 「班渠」
 呟くのはこれでもう三度目になる。
 青蘭はそのたびに怪訝そうにこちらをちらりと見やるが、何も聞いてはこなかった。
 この空間に来てからというもの、いつもの慣れた班渠の気配は刃物で断ち切ったかのように消え失せ、全く感じられなくなった。当然、陽子の呟きにいらえはかえってこない。それでも定期的に使令を呼ぶことをやめないのは、あの班渠のこと、なんとしてでも手段を講じて必ず陽子の側にはせ参じてくれると信じているからだ。
 青蘭は陽子の背後に立ち、椅子に座りこんだ少女の朱髪を小房にわけては編み込み、ねじって丸めて簪で留めることに熱中している。豊かな深紅に映える金と翠玉の歩揺は牡丹と小蝶の透かしが交互に連なったもので、首を動かすたびに時雨が葉を叩くような音がする。いささか上品さには欠けるが華やかな一品だった。
 陽子は俯いて、淡い胸の谷間を申し訳程度に覆っている桃色の薄紗をさっきからしきりに引っ張っている。ちょっと猫背になるとあれよと胸の頂まで全開になってしまう柔らかな布地は、落ちつかないことこの上なかった。腰をしぼる帯も、これまたやたらと滑りがよい。急に身体を捩じったり床にかがみこんだりすると、とたんにはらっとほどけてしまう仕組みになっている。生来きびきびした所作の陽子は、着つけてもらってからすでに数度、身動きするたびにぐずぐずと襟元を乱し、裾をひきずっては着崩れていた。これじゃあ着物をおさえる帯としてはまるで役立たずないか、という陽子の抗議はあっさりと笑い飛ばされた。
 ―――男を誘うための衣なのよ。脱ぐことが前提なんだから、当然でしょう。
 いっそこのこと全裸の方がまださっぱりと開き直れるかもしれない、と陽子はまたもむきだしになりかかった胸元を押さえつつ、いささか凶暴な心地になった。
 「さあ、できたわ」
 最後のひと房に簪をさし終えると、青蘭は満足気に己の仕事の成果を眺めた。腰に剣をさし、裾の破れた袍を着てまるで少年のようだった娘は、がらりとその印象を変えていた。
 若い娘らしく耳上の両脇をこんもりとふくらませた髪型、さらに小分けした髪房でいくつもの編み込みをほどこし、形の良い頭全体をゆるくふわりとまとめている。髪の間からこぼれる落ちる歩揺は光のかけらをちかちかとふりまいて、襟足には滴玉と呼ばれる雫形の半貴石が留められている。しゃらしゃらとした音につられて目をむけると、細いうなじが否が応でも際立つしかけだ。
 健康的な琥珀色の肩から滑らかな胸元までおしげもなくあらわになったぐるりを、鷹が縫い取りされている草緑色の綾布がわずかに覆っている。綾布の下に重ね着した薄紗は身動きするたびに金魚の尾のようにひらめいて、煽情的に肌を舐める。ぎゅっと絞った腰帯は腿の付け根からふくらはぎまでの脚線をすっかり際立たせ、紅のぼかしと硝子玉の飾りのついた絹の裳裾はくたくたとはしたなく広がって、内に隠されたひきしまった足首をうっすらと透かせていた。
 気品のある清冽な容姿なだけに、けばけばしい俗悪な衣装をあえて身にまとわされているというその雰囲気は、全体にぞくりとするほど背徳的で、どこか淫猥にすら感じられる。
 「これで仕上げね。ちょっとこっちむいて」
 陽子が仰向くと、唇をつるりと湿った筆が撫でた。
 「紅よ」
 青蘭は手鏡をとりながら言う。見てみて、と目前にかざされた鏡をのぞきこんで、陽子は思わず噴き出した。
 「すごい。キャバ嬢も真っ青だ」
 「ぎゃばじょうってなに?」
 「いや、なんでもない」
 「とりあえずその格好なら、当座はあの皺くちゃ婆さんの目ぐらいはごまかせるはずよ。まずは妓女見習い修行を真面目にやってるふりをしなくちゃね」
 耳を澄ませてみたが、まだ鈴の音は聞こえてこなかった。ほっとしてすこしだけ肩の力を抜いた。
 衣装で敵の目をごまかすといってもせいぜいが子供の目くらまし程度だ。一番の心配は、ここから飛ぶ手段がまだ見つけらないでいる間に鈴が鳴って、新たな客を連れてこられることだった。こうして二人並んだ姿を見れば、客は十中八九、陽子を選ぶだろう。
 楼には楼の規律がある―――長年楼を造ってきた青蘭はそのことがよくわかっていた。この楼の基柱は売春である。快楽のためにこの楼は作られ、実際にすでに使用されてもいる。楼の壁や柱には、男たちの劣情がいぶされた煙のように沁み込んでいる。
 客が陽子を選んだとき、楼の規律は有効な呪文としてこの場を支配し、中の人間を拘束するよう作用するだろう。この娘は身を汚されるかもしれない。―――それだけは避けたかった。この娘は昼日中に陽のにおいのする綺麗な汗をかくべき娘だ。
 「じゃあ、脱出作戦開始よ。始めましょうか。まずはさっき接合したあなたのお部屋に行きましょう。穴がね、どっかにあるはずなのよ」
 「穴」
 「うん。これっぐらいのね、ちっぽけな」
 小指の先っぽをちょんとつついてみせる間にも、青蘭の目は油断なく小部屋の壁を這っている。
 「この楼を作ったひとはずいぶんな手練だと思うわ。ここに連れてこられてから何度も探したのだけど、あたしですらその穴が見つけられないんだもの。でもね、楼を接合するとどうしても接合した側の穴が大きくなるのよ。その穴に糸を通して留めるからね」
 「糸でとめるって、楼と楼を?」
 「船と同じ仕組みなの。河岸に紐で係留するでしょう?楼の浮いている空間は河よりももっと不安定なのよ。真っ白でもやもやしてて、足で踏むととても頼りないの。だから支えに糸を使うのよ。楼は、実は人間の気配ととてもよく似ているわ。楼には穴があって、人間は糸を出すの。そうして箱渡りするのよ」
 「凸と凹同士、互いに惹かれあってくっつこうとする性質をうまく利用しているわけか」
 「あら、そうよ。すごいわ、翔鷹。あなたっていい箱渡りになれそう」
 耳慣れない名で呼ばれて陽子は頭をかいた。歩揺がさざめく。
 「慣れてちょうだい。その名でいる限り、あなたの手首の輪は有効に働くわ。さ、行きましょう。こっちよ」
 「ああ」
 剣を手に取り、青蘭のあとに続いて扉をくぐる。
 扉のむこうの部屋は、ちょうど青蘭の部屋と対照となる構造をしていた。同じような天蓋付きの壮麗な壯榻、ふかふかの絹の寝具。中央に鎮座したその周囲には、寄木細工の卓や酒杯を並べた黒檀の棚などがおいてある。
 天井からつり下がる燈籠の数はわずかにこちらの方が多いようだった。甘い蜜色の光が、眠気をさそうような粘度でゆるりと降ってくる。明滅する光に、女たちの肌は淫靡な照りを帯びる。青蘭はさっそくぱたぱたとあちこちの壁を叩き始めた。数度叩いてから耳を寄せ、わずかな音の違いを確認する。壁や床のすべてを同じ方法で調べるとなるとずいぶんと時間がかかりそうだった。
 陽子は寝台に気が向いた。金波宮で使っている寝台はこれほど大げさではなくもうちょっと品があるものの、見た目の豪奢さは似たりよったりである。掛布をまくってぽんと飛び乗ると、榻は驚くほど柔らかくぐっと下方へ沈んだ。新雪に大の字になって埋まったような気がする。これでは手足の自由が効きにくいだろう。そう飛雀に言ってみると、そのための台なのよ、困った人ねと青蘭にまた苦笑された。
 そうえいば昔、子供のころに読んで聞かせてもらったお話の中にこんなのがあったな、と燈籠だらけの天井を眺めながら思い出す―――グリム童話だったか別の童話だったかもう忘れてしまったが。
 旅の途中、一夜の宿を請うさすらいのお姫さまは、ある城で一夜を明かす。城主は若い男で、男は姫の寝台の上に分厚い7枚の布団を重ねて置くと、その一番下に小さな硬い豆を忍ばせておいた。翌朝、男によく眠れたかと尋ねられた姫はこう答えた。いいえ、何か硬いものがあって、背中が痛くて仕方ありませんでしたわ・・・。なるほど、これは本物のお姫様に違いないと確信した男は、姫を娶って幸せに暮らしたという。そんな話だった。
お姫様どころか、今の自分はなんと女王様だ。全く笑ってしまう、と寝がえりをうとうとして、ふとわずかな違和感をおぼえた。
 (背中のまんなからへんが)
 (なんだか冷たくないか?)
 豆の話を考えていたので気になるだけかもしれないが・・・いや冷たいというより、風が通るというか・・・すうすうするのだ。まるで堯天の薄荷飴を食べてからあんぐりと口を開けたようだ。
 何だろうと早速飛び起きてもぞもぞ縁まで這ってゆくと、じゅうたんにころりと飛び降りる。勢いよく布団をまくりあげて顔をつっこんだ。黒檀の棚のそばの床を調べていた青蘭が悲鳴をあげた。
 「翔鷹ったら、髪の毛!乱れるじゃないの、せっかく結ったのに」
 さっぱり頓着のない陽子は簪の一本を引っこぬくと、榻の底面と布団の間につっかい棒にして差し込んだ。じっと目を凝らすがなんだか暗くてよく見えなかった。
 「飛雀、灯りを持ってきてくれ」
 「なんなの?」
 「まだわからない」
 小さな毬の形をした灯球を受け取ると、奥に転がしてみる。球はころりと進んで、数瞬ためらうように震えたのち―――ぴたり、と止まった。布団に、球の飾り彫りの葉模様が引き延ばされて黒い影を映した。
 並んでのぞきこんでいた青蘭があっ、と息を飲んだ。
 球のすぐ近く、そこには小指の先のさらに半分ほどの控えめな闇があった。黒々と濡れた小さなすり鉢状の渦である。蟻地獄の巣に似ているが、もっと傾斜が急で奥が深い。指をつっこむと冷んやりとした風が指先をなぶった。空の色が褪める黄昏の頃、星が輝き始めた大空の高所をぼうぼうと吹きすぎる夜風の冷たさだ。
 外の風だった。
 「風がくるわね、きっと楼の通り道よ・・・うん。穴だわ。間違いない」
 「これが?」
 「ええ。こんなところにあったのね」
 妓女が一日で最も長く過ごす場所でありながら、最も集中力を欠き、なおかつ最も忌み嫌う場所。ことが済んだらさっさと降りてしまって近づきもしない場所。なるほど、盲点をついている。これは巧妙だ。
 「やったわ。お手柄よ、翔鷹」
 「ここから飛べるかな?」
 「うん。やってみましょうか」
 いったん布団の隙間から頭を引きぬくと、青蘭は陽子の首根っこをつかんで、これまた有無を言わさず引きずり出した。箱渡りの里にいるとき、青蘭は男顔負けの活発な少女だった。だんだん地が出てきたみたいだわ、と自分でもおかしくなる。しゅるりと袖から細帯を抜くと、自分と陽子の手首を結び合わせた。
 「二人がバラバラにならないようにね。あ、さっきの剣は?あるわね、それって冬剣かしら」
 「そうだ。よく切れる」
 「しっかり持っててね。楼の中では普通の剣は役に立たないんだけれど、冬剣なら切ったり刺したりできるのよ」
 「まかせてくれ」
 生真面目な台詞につい、ふふっと声に出して笑うと、陽子の唇の横を親指でこすった。さっき布団に顔をつっこんだせいだろう、紅が禿げて頬に流れていた。情事の最中を思わせる淫らな姿だが、この娘に限っては凛々しさが消えぬのが不思議だ。瞳の力強さが勝っているせいかもしれない。
 「不思議な人ね。でも可愛い人」
 面食らって瞬きする様子にもう一度笑うと、青蘭はあらためて陽子の手首をつかんで布団に顔をつっこんだ。
 「いい?想像して。あなたが一番行きたいところか、あるいは会いたい人の顔を思い浮かべるの」
 「どこでもいいのか」
 「いいわよ、でもなるべく近い方が飛びやすいわね。できるだけ具体的に思い描けるとなお良いわ」
 「よし」
 陽子は目をつぶり、金波宮の正寝を一心に念じた。
 広大な敷地。露台からのぞめる雲海。梁に彫り込まれた龍の彫刻。磨き抜かれた床。窓飾りの透かし彫り。軒先につるされた風鐸が、滝からの微風に揺れるたびにカラカラと柔らかい音を鳴らす。回廊の手すりに優美な角度で踊る水鳥の首の意匠。つややかな手触りが好きで、通るたびになでるのですっかりつるつるになってしまった。庭へおりる階段の先には、さりげなく置かれている絹張りの小さな靴。陽子は赤が似合うから、と鈴が朱色の赤布を使って手作りしてくれたもの。
 鈴に続いて、親しい側近の面々の顔が次々と泡のように浮かぶ。堯天におりたままいつまでたっても帰ってこない王を、彼らはさぞ心配しているに違いなかった。
 ―――鈴、祥瓊。月餅が届けられなくってごめん。あそこのは本当に美味しいのに。
 ―――虎嘯。どこにいる?どうか無事でいてくれ。すぐ助けに行くから。
 ―――景麒。口さえきかなければおまえ、髪と顔だけは文句なしに綺麗なんだけどな。
 もし班渠が景麒と連絡をとれたなら、救援を送ってもらえるはずなのだが・・・心配性の麒麟によって仁重殿の灯りは今宵、一晩中消えることはないだろう。
 そういえば仁重殿の灯火は、誰が用意しているのか?どうでも良いことがふと気になった。
 正寝では灯火係の女御がいて、夕刻になると各室をめぐって灯りをともしていく。しかし仁重殿ではその係がいないのだ、といつだったか小耳に挟んだことがあった。まさか景麒が自分で灯しているわけではなかろうが。
 思考がやや変な方向にぶれたのを、首を振って戻す。
 禁苑とその隅にある堂。小さな澄んだ池、秋になったら実をとろうと桂桂と約束した栗の木。瑠璃色の鳥がやすめるようにと樹の上にしかけた巣箱―――根元にころがる自分、樹から落ちた陽子を抱きあげた硬い手。なんだかまた思考があっちの方向へ向き始めてしまう。濃紫の袖の下、筋肉が張り詰めていた。腕の持ち主。
 ―――浩瀚。
 とたんに鮮やかによみがえった怜悧な男の顔に、陽子はそのあまりの生々しさに面食らって眉根を寄せた。そういえば堯天へ行けと勧めたのは彼ではなかったか?そう、団子屋へ行け、と。団子屋じゃない月餅屋だと陽子がいったら、どっちでもよろしいなどと言ったんだ、あの馬鹿め。
 やれ困った。難儀なことだ。陽子は焦った。今の今まで頭に構築されていた正寝の光景がきれいさっぱり、浩瀚の顔に塗りつぶされてしまったのだ。
 (なんだというんだ。団子屋と月餅屋の区別がつかないような男のことなど、今はどうでもよいのに)
 しかし焦れば焦るほど、あの剃刀みたいな薄茶の瞳がこびりついて離れない。目を開けても駄目だった。
 青蘭が励ますように、紐でつながれた手首をぎゅっと握ってくる。陽子も軽く握り返して、再び目をつぶったところで、青蘭の手に震えが走った。痛いほどに陽子の手が掴まれる。
 「鈴の音だわ・・・!」
 ・・・りん、りーん・・・
 空中のどこからともなくあの音が降ってくる。かすかだけれども間違えようがなかった。恐れていた音だ。ついに鳴った。
 二人はとっさに顔を見合わせた。青蘭は引きちぎる勢いで互いをつなぐ手首の紐をほどいた。さらに布団の上に飛び乗ってぎゅっと押し、穴を隠す。紐を袖にしまって立ちあがったところで、間一髪、扉が開いた。ギギギと木のこすれる音がする。
 あの小さな老婆が杖を手に、敷居に立っていた。
 背後にもう2名、人影が見える。扉の影でよく見えないが、ふたりとも似たような背格好で、ともに細身で長身だった。
 「飛雀。うまく教えているかい」
 かさついた手で皺深い顔をなでながら部屋に入ってきた老婆は、少々着崩れてはいるものの、派手な妓女の衣装に身を包んだ陽子の姿に、おやまあ、としわがれ声をあげた。どうやら悦んでいるらしい。
 「ずいぶんとべっぴんに仕上がったじゃないか。ご苦労さん、飛雀。うまく覚悟を決めさせてくれたようじゃな。・・・とりあえずその乳をしまいな、おまえさん」
 言われて俯くと、さんざん布団に顔を突っ込んだり強引に引っ張り出されたりの出し入れを繰り返した結果、袷が見事にはだけ、若い果実のふくらみが半ば堂々と露出していた。
 ぎょっとして、慌ててささやかな布地をかきよせて手で蓋をする。老婆は紙をこするような声で笑った。
 「さっそくだがお客さんをご案内したよ。いい頃合いだったね。この娘がまだ強情を張るなら、無理にでもとらせてしまおうかと思ったが、まあそんな無体なことはせずに済みそうだ。お二方いらっしゃるからな、さあ選んでもらいな」
 どうぞお入りくださいよ、と老婆が声をかけると、戸口に佇んでいた二人の男が扉をくぐり、うっそりと老婆の脇に立った。
 一人目の男は、地味ながらも上質のいでたちをしている。脛まで覆う脚絆をつけていることから、おそらくは旅の途中での火遊びなのだろうと思われた。目深にかぶった頭巾が目元を半分隠し、わずかにのぞく茶色い口髭がすこしばかり埃に汚れている。
 もう一人の男はというと、質素な袍をまとい、闇夜の色の髪を後ろでひとつにまとめている。端正ですっきりと長身だった。街の者という雰囲気でもないが、と思いながら男に目をやって―――陽子は、冗談でなく数秒ほど息がとまった。
 「・・・こっ、・・・こっ、こ」
 「こ?」
 老婆がいぶかしげに睨んでくる。
 「こ、っ、こけこっこ」
 「はぁ?なんだね、この娘は」
 噴き出しかけたように、男はさっと口元を袖で隠した。笑みの形にたわんだ瞳は、陽子のよく見知っている浅瀬の海藻の色だが、光の加減かいつもより黄色味を帯びて見える。男は笑んだまま腕を伸ばし、陽子の手首をしっかりと掴んだ。鋼のような力だった。
 「気に入った。こっちの娘を選ばせてもらおうか」
 もう一方の男を老婆が問うように見上げると、頭巾をかぶった男は落胆した風に茶色い髭を上下させた。ご馳走をちらっと見ただけで下げられてしまった風情だ。
 「私も・・・できれば、そっちの娘が良いんだが」
 ごほごほと咳こみながら言う男の声に老婆のしわがれ声がかぶさった。
 「なにお客さん。飛雀もずいぶんあっちの具合のいい娘だよ。ためしてみな。まあそんなに気になるなら、いったん飛雀がすんでからまた、あの娘を買いなおすという手もある。そうしなよ、なあ」
 商品の取り合いにすっかり気を良くした老婆は、がぜん商売気をみせて男達の間に割り込むと、さあさあ早くやっちまいなと言いながら、この干物のようなくちゃくちゃの手のどこにこんな力がと思われるぐらいの強さでぐいぐいと男の腰を押し出した。
 頭巾の男はなおもあきらめきれぬ様子で、陽子の頭のてっぺんから足先まで見やるとわずかに口の端をあげて笑った。しばしの逡巡の後、ようやく飛雀の腰を抱いて隣室へ歩き出した。
 飛雀は迷った。今すぐ、ここで老婆や男を振り切って暴れるべきか否か。
 (そうして布団に突進して、翔鷹だけをあの穴に放り込んでしまおうか)
 その場合、自分は外には二度と出れなくなるのは確実だった―――おそらく、一生楼の中に閉じ込められて終わるだろうが、翔鷹はひとまずこの場を逃れることができる。
 しかし、飛び方を知らない翔鷹がただ一人で穴に落ちたところで、ここより安全なところへ飛べると相場が決まったものではないのが問題だった。自分が一緒についてさえいれば、飛び方に決して目測を誤ったりはしないけれど・・・どうしよう。二人で逃げるなら今しかない。どうしたらいい。
 切羽詰まって翔鷹を見やると、驚いたことに彼女は、どうも気になるらしい胸元のひらひらを引っ張り上げている最中だった。
 取り乱している青蘭にむかってちょっとだけ首を振ると、老婆に見つからぬようかざした手の影で、
 (大丈夫だ)
 と唇だけ動かして見せる。
 青蘭は首をかしげたが、かまわず、可愛い唇はぱくぱくと続けた。紅が半分禿げたままだ。
 (飛雀も大丈夫だ。安心して、とりあえず隣室へ。すぐ助けに行く)
 よくはわからないまま、頭巾の男に腰を抱かれて、気づけば青蘭は敷居をまたいでいた。
 扉は再びギギギと軋み、動き出す。軋みが止んだとたん、このかた一度も開いたことなどないかのように、まるで模様のようなふりをして扉は壁にきちんと埋めこまれて微動だにしなくなった。りん、とどこか遠く高いところで鈴の音が響き、老婆が消えたことを知った。
 「さて、飛雀といったか」
 二人きりになると、男は青蘭の腰からあっさり手を外しながら、頭巾をずらして顔をあらわにした。さっきの咳き込んだ声とは一転して、心地よい涼やかな声だった。
 「悪いが少々ご教授願いたい」
 「はぁ?なにを」
 もしかしてこの人、変な趣味の持ち主なのかしらとちょっと気が重くなった。そういうたぐい遊びの相手は面倒だし、第一、翔鷹が気になってそれどころではない。
 「知りたいことがある」
 男は壯榻には近づかずに、卓の側にあった長椅子に腰をおろした。ぴりりと無駄のない所作である。変な客―――青蘭は用心深く相手を観察した。今までの応対したことのない、近寄りがたい雰囲気の持ち主だ。
 男の瞳に自分の姿が映っていた。ずいぶん薄い色の瞳をしていて、まるで表情が読めなかった。
 (翔鷹。こっちはなんだか変な客よ)
 落ちつきなく、閉じた扉をそわそわと振り返る。
 どん、と扉が鳴った。向こう側からなにかずっしりと重量のあるものが投げつけられたかのように、わずかに扉がこちら側にたわみ、すぐ平らに戻った。ついで陶器が割れて飛び散る音、何かがひっくりかえる派手な騒ぎが聞こえた。騒音の合間にかすかな悲鳴が混じった気がして、たまらず青蘭は扉へむかって駆けだした。が、身体は何かに阻まれてそれ以上進まなかった。
 男が、青蘭の腕をしっかりと抱え込んでいた。見上げればすぐ間近に、息遣いまで感じられるほどに男の顔がせまっている。青蘭は身震いした。

 正寝から龍の門ひとつへだて回廊を右に少し進んだ所に、女史や女御たちの控室であるこざっぱりした広い堂室が設けられている。床まで切りとおした縦長の窓がずらりと壁面に並び、飾り窓にはめこまれた色玻璃が陽光を透かせるたびに、錦の虹でさまざまに床を染めている。格子組みの天井を見上げれば、格子と格子の間には鮮やかな彩色で鳳凰や鸞、極楽鳥が群れ飛ぶ山水の風景が描かれていた。壁際はぐるりのすべてがつくりつけの棚になっており、宮内で使うさまざまな道具類、在庫品、消耗品が山と収納されている。主な家具は見当たらず、隅っこに簡易な椅子がごちゃごちゃと積まれているだけの堂だ。仕事の合間に休憩したい宮女は、ここに来て勝手に椅子をひっぱってきて腰をおろし、一服できるようになっている。
 いま、堂室の中央に7人の女が不安気に佇んでいた。夕暮れの時刻も過ぎ、灯明台に灯りをともした堂内は、まだどこかに陽光の不在の気配を色濃く残している頃合いだった。
7名はいずれもこのたび、禁苑の小堂に緻世楼を奉納した者たちである。祥瓊の招集に応じて集まった彼女たちは、そこに祥瓊の姿は無く、かわりに思いもよらぬ自国の謹厳な台輔を見いだして驚愕した。氷の彫像と揶揄される台輔は静かに、その作り物めいた美しい唇を開いた。こぼれ出た言葉は意外なものだった。
 いわく、隣の者同士、互いの名を呼びあえ、という。
 たとえ奇妙な命でも、麒麟からくだされたものなら是非は無い。たちまち宮女たちは横目で互いを確認しつつ名を呼びあった。普段からよく見知っている者同士、名を呼ぶのにいささかの遅延もない。
 向かい合って右から二番目の空色の髪の女御に、台輔の目は止まった。
 「そなたは名をなんという」
 「恐れながら青椿と申します、台輔」
 女御はどこといって特徴のない白いうりざね顔を伏せて拱手しつつ、かしこまって答えた。
 「雨の降る緻世楼をつくったのはそなたか」
 やや間をおいて、女御は息を吐いた。
 「さようでございます」
 「回廊に出ていなさい」
 「は?」
 「遠くまで行く必要はない。すぐそこで待っているように」
 麒麟はその女御を堂の外へ退出させると、他の6人の宮女に向き直り改めて尋ねた。かの女御の名はなんといっただろうか。
 「ええと、青・・・」
 「いえ黄でしてよ、・・・湖?海?」
 「ちがいますわ、さて、・・・」
 さきほど名乗り合ったばかりなのに、しきりに首をひねりながら思い出そうとする。異様な光景に、台輔の目が確信を持って細められた―――どうやら間違いないようだ。
 「この堂内には最初、何人の宮女が集まっただろうか」
 台輔の問いに彼女たちはまた顔を見合わせた。
 「6人でございます」
 「ええ、6人でございます」
 「・・・7人ではなかったか?」
 「はて?」
 「よい。大儀であった。もう下がって良い」
 キツネにつままれたような顔で、ぞろぞろと不安そうに退出する宮女たちを見送ると、やわら麒麟の黄金の鬣がざわりと逆立った。風もないまま金糸がゆらゆらとたなびく。瞳の紫色が濡れたように光を増し、虹彩が縦に細長く伸びた。宮内にあっても、人と獣のどちらにも属するこの神獣はときおり、本来の獣である部分を垣間見せることがあった。たとえば今のように。
 「芥瑚」
 「ここに」
 「あの女御は?」
 「回廊に。不穏な動きはございません。驃騎が見ております。連れてまいりますか?」
 「よい。私が行く」
 灯火がひとつぽつんと灯っただけ、磨きこまれた回廊の手すりに寄りかかるようにして、青椿と名乗った女御はひっそりと立っていた。女という生き物を雑多に縫い合わせて絵に描いたらこのような抽象的な容姿になるだろうと思われる。空色の髪は襟足で清楚な丸髷になっている。
 麒麟の姿を見ても、彼女はもう拱手はしなかった。茫とした目鼻立ちの中で、黄色い瞳だけが灯火のように生きていた。目の光と釣り合わぬ気だるさで、女はじっとりと髪を撫でつけた。
 「ばれてしまったようですね。麒麟に目をつけられたら・・・」
 もうお手上げですわと揶揄するように言う。
 「そなた、人ではあるまい」
 「でも完全な妖魔というわけでもないんですのよ。かつてはちゃんと人だったのです。青椿という名の娘だったときにはね」
 「そのようだ」
 私、火が好きなんです、と女は呟いた。黄色い火が、灯火が好きなのです。黄海ではなかなかこのような純粋な明るい火はのぞめません。だから、いつも舐めてしまうのですよ。
 「夕刻、正寝に灯火をつけてまわる係はそなたであったか」
 「ええ。ここにあがって以来、毎夜黄色い火をともす作業はそれはそれは楽しゅうございました。楽しくて楽しくて、もともとどうしてここに来たのか、その目的を忘れそうになるぐらい。貝殻に脂の小さな池があり、そこに溺れている紐を火でそっと触れるのです。すると黄色い灯火が燃える―――でも仁重殿だけはつけにゆかずとも良いと春官長に言われました。なにせ、そこには妖魔を折伏するという恐ろしい麒麟がいらしたのでね、私はかえって好都合でした」
 ことを成し遂げるまでは正体を知られては困る、とこの私の黄色い瞳めがさざめくものですから。女は笑った。目と口元が釣り合っていない。
 「もともと仁重殿では灯火は用いぬのだ。蛍石を置いてあり、暗くなれば勝手に随所で光る」
 「黄海の蛍石ですか。私には遠い親戚になりますかしら」
 「親戚ほど近くはなかろう。あちらは石で、そなたも見た目は石だが、本性は・・・虫だ」
 「あら、もうすっかり何もかもおわかりなんですね」
 女は両手をあげると、ためらいもなく目に指を刺しこんだ。
 ずぶり。―――ぬちゃ。
 湿った音をたてながら、指にはさまれた黄金色の丸い眼球を引きずり出した。肉片が周囲に付着しているが、赤い血は流れなかった。かわりにどろりと濁った青い汁のようなものがのぞく。ぽっかり空いた眼窩には底知れぬ闇が詰まっている。
 女はうっとりと眼球を灯火にかざした。よく見るとそれはむくむくと表面が微細に蠢いている。灯りの逆光を浴びて、細かな虫の影がびっしりと詰まってのたうっているのが、黒く透けている。
 「昇山の者たちには寄生虫とか寄生獣なんて適当な呼び名で呼ばれていたりしたんですの。気に入りませんでしたわ。先祖たちは、そういった者に積極的に取り付いてやったそうでございます。我らの包まれた殻は、ぱっと見は黄金の石みたいに見えますのでね。欲の皮のつっぱった者どもの身体に潜り込むのは簡単なことでした。ぎしぎしと喰らってやりましたとも」
 蓬山でかつて公として暮らした時、景麒は女仙から石に似た寄生虫のことを夜語りに聞かされたことがあった。
 ―――黄金色の石が多数転がっている谷をうかつに通ってはなりませぬ。
 女仙は繰り返し、幼い麒麟に諭したものだ。かの女仙の手にはくだんの黄金の石がのせられていて、その手の物は危なくないのかと尋ねると、女仙は灯火の中にぽいっとその石を放り込んだ。灯火はいっとき勢いを増して燃えたのち、しとしとと雨のように水滴を降らせて自然と鎮まった。しばらく石を雨にさらしておくと、中の虫は死んでしまうので大丈夫なのですよ、と女仙は言った。
 ―――雨に弱いから、この虫は灯火を好むのでしょう。
 黄金色の石は実は卵果であるという。
 「そなたの目を見るまでは忘れていたが、・・・幼い頃、女仙に見せてもらった黄金の石とそっくりだったのでな。そんな虫がいたことを思い出した」
 黄海には長年にわたって人間を食ったがゆえ知恵を持つようになった寄生虫がおり、それは相手の身体に入り込んでは無数に分裂し、脳に侵入してついには意思までも支配するようになるという。虫は宿主の肉だけでなく、脳のつむぎだす夢や妄想を主な糧にして喰らい、どんどん増殖する。よき精神世界の持ち主ほどよい餌になる。 
 宿主の眼球を喰らって眼窩に納まった卵果は、新しく繁殖したい新天地まで、あたかも自分の意思のように支配した生き物を歩かせ、移動させるのだそうだ。
 「そなたらの存在は天帝もお許しになっているものであろうから、それ自体についてとやかく言うつもりはない。しかし黄海を出て放浪し、あまつえさえ新しい繁殖地に金波宮を選んだとなれば話は別だ。理由はなんだ」
 もう片方の目からも眼球をえぐり出した指を、女はぺろりとうまそうに舐めている。
 「食欲ですよぅ。食べたいんです。それだけです。私はかつて一度だけ、神を食べたことがあるんです」
 ざわり、と麒麟の毛が再びゆらめいた。おお怖、と女は大げさに肩をすくめてみせた。
 「ずいぶん昔のことですよぅ。禅譲しに黄海へ入った南の国の王様でね。男の人でした。すでに天意が去っていたからでしょう、楽々と中に入ることができました。このお方の肉、そしてなにより夢ときたら。そりゃあ素晴らしかった」
 あの味が忘れられなくってねぇ、と女は奇妙な葉ずれのような声で鳴いた。
 「いつかもう一度食べたいと思っていたところ、この青椿とかいう小娘が黄海にのこのこやってきた。さっそく食ったところ、この娘の脳には金波宮の映像がしまってあった。本人が行ったことがあるわけでなく、親か誰かに教えてもらった映像らしいのですがね」
 娘の脳にはまた、神の姿が映っていたのだという。緑色の髪をした青白い顔をした女だった。それを見ると唾がわいて矢も楯もたまらなくなりました。舌で卵果をねぶりながら、女は屈託なく続けた。
 「それで、来ることにしたんです。この娘は箱渡りができたから、その力を利用させてもらいましたさ。行商人の男二人を捕まえて体をのっとりましてね、箱枕の楼をつかって道中の邑でたくさんの人間を捕まえて夢を喰らいました。男どもは寝入ってから枕をはずして楼から出られなくし、巣に蓄えました。やつらが夢を見ると楼の中にぽうっと灯りがともるんです。これがまた美味しいのでね。火は好きなんですよ。女どもは身体ごと箱枕に放り込んで男をおびき寄せる餌に使いました。おかげで、この大きな街へ来るまでに、私の仲間の虫たちはもうずいぶんと増えましたとも。」
 「主上・・・」
 思わず漏らした麒麟の呟きに耳ざとく女は反応した。手の上の黄金色の石が内側からもぞりと泡立った。
 「あの若い赤い神ですね。ほんとに美味しそうで。ぜひ仲間の皆で喰らいたいと思っています。でも宮の中はさすがに警備が厳しくてなかなか近づけなかった。いつも側に麒麟がひかえていたし。女御になって隙をうかがってはみたものの、遠目に見るのがやっとでした。だから今日、宮から出て街に行くっていうので、見計らって行商人に連絡したんです。あたしが灯火を正寝に入れに行ったら、ちょうど街へ降りるからって大僕を連れて禁門へ降りて行くところでした・・・廊下ですれ違ったのでね。すぐわかりました。そうして、さっそく楼のひとつに閉じ込めることに成功したんですよ。ああ・・・・ああ」
 もうすぐですね、と闇色の眼窩を虚ろにさらしながら女はぐにゃりと身悶えした。明らかに人間離れした肉の柔らかさだった。
 「もうすぐ神の味を味わえる。今頃は、もう仲間が味見をしているかしら」
 「―――っ」
 「台輔!」
 景麒が何か叫ぼうとした瞬間、突如、回廊を曲がった向こうからあわただしく床を踏みならす足音とが響いてきた。祥瓊だ。
 「見つかりました、捕えました。ほら、これでしょう、浩瀚さまがおっしゃっていた鳥!」
 銀の鳥かごを頭上にかざしながら、紺青の髪の娘が走り寄ってくる。鳥かごの中には瑠璃色の小さな鳥がバタバタとさかんに羽ばたきしていた。風切り羽の模様も尾羽の形もあまり見たことのない変わった鳥だ。からだは鸞よりやや小ぶりで、蜜を吸うのに適していそうな鋭く赤いくちばしをしている。
 「小鳥です。やっぱり陽子のしかけた巣箱の近くに飛んできていました」
 ちゅるり、と一声、澄んだ鳴き声をあげた。小鳥は鉤爪で籠にしがみつき、小首を傾げて油粒のような目で麒麟とその後ろの女御を眺める。ひっと息を飲む音がした。
 手のひらに黄金色の球を握りしめたまま、女が一歩後ずさった。
 「この鳥がどうかしたか」
 台輔が尋ねるのも聞こえない様子で、じっと籠の中の鳥に、空洞となった眼窩を向けている。かみしめた歯の間からしゅうしゅうと息が漏れ、その掠れた音の中にお兄様、という言葉がたしかに聞きとれた。
 「兄?あの鳥がか」
 鳥はちゅるり、ちゅるりと鳴き続けてはさかんに暴れている。出してくれと言っているようだ。
 「祥瓊、籠を開けてやりなさい」
 「え、でも」
 「大丈夫、たぶん逃げない。その鳥が正寝に飛んできて探していたのは、おそらくその女御だ」
 籠の掛金がはずれるのを待ちかねたように瑠璃色の小さな塊が飛び出してきた。青い礫のように一直線に女御へ―――正確にはその手のひらに覆われた、黄金色の石へ―――ぶつかっていった。
 女御は踵をかえしたが紙一重の差で間に合わなかった。長くとがった嘴が錐のように振りかざされ、指の間をかいくぐって、ざわざわと蠢く玉の表面に一気に突き刺さる。突如、堪えきれないほどの腐臭が立ち昇った。
 ぎいいいいいぃぃぃえええええええぇぇえぇぇぇ
 鼓膜を逆なでするざらざらした奇声が湧く。女が絶叫している。
 祥瓊は両手で耳を覆ってしゃがみこんだ。嘴が刺さる粘着質な音が爆ぜる。
 ぶちゅり、ぶちゅ。
 やがて―――音がやんだ。
 おそるおそる顔をあげた祥瓊の目に飛び込んできたのは、回廊の床上にまき散らされた黄色い汚液と、その海でのたうちまわる小指の先ほどの、細くのたくる無数の糸くずのような幼虫だった。とっさにこみあげる吐き気を唇を覆って押さえこむ。
 瑠璃色の小鳥は、回廊の手すりにとまっていた。嘴がどろどろした液体にまみれている。女御はその場に仰向けに倒れていた。まだ手足がぴくぴくと、ありえない動きで痙攣している。
 「台、輔」
 「立ちなさい。終わったようだ」
 女史の肩を叩いて支えると、麒麟はうごめく虫を器用にまたいで女御のもとにひざまづいた。口からふっ、ふっ、と小刻みな呼吸が聞こえる。呼びかけると返答があった。
 「青椿。聞こえるか」
 「は、い。たい、ほ。ありが、とう、ござい、ました」
 声帯からではなく、どこか遠い彼方の洞から陰々と伝ってくるような不思議な声だ。
 「この瑠璃色の鳥の名は?なんという」
 「青矢です。兄です・・・わたしは三つ子です。その、きょうだい、のうちの一人です」
 三つ子、と祥瓊は目をみはる。卵果から生まれ出るのはおおむねひとつの果実に一人である。三つ子など聞いたこともない。
 「最初は半獣かと思ったのだが違うようだな。兄君は鳥でもなければ人でもないようだ」
 「兄は・・・すでに死んで、います。死ぬ直前・・・病のからだを捨てて、鳥の中に箱渡りしました。その鳥は、兄の楼なのです」
 「なんと。それは禁忌の術として硬く戒められているはずだ。なぜ、そのようなことを・・・」
 「私を、殺して、くれるため。私は・・・三人の中で、極端に、箱渡りの力が、弱かったため役立たずだった。父は兄だけを可愛がった。家を出奔して黄海に行ったのは、じゅうなな、のときです」
 そうして虫に食われてしまいました、と声はなく、息だけで青椿は語った。祥瓊はたまらず口を挟んだ。
 「三つ子というと、もうひとりは?」
 「いもうとが」
 しゅうしゅうしゅう。息がかえる。
 硫黄に似た、卵が腐ったような香りが漂う。
 「青蘭、です。あのこは、箱渡りの力が、つよい。」
 しゅう、と青黒い舌がわずかにのぞいた。蛇のように二股に割れている。
 「兄は鳥になって、わたしを探しにきてくれました。殺すためです。わたしは、生きていてはならぬ存在、ですから。やっと・・・虫から自由になった。これでよう、やく」
 逝くことができます、という声は、ごくごく微量の、筋肉の震えでしかなかった。仙の力がなければ聞きとれなかっただろう。
 ぽりっと軽い何かが砕けるような音がして、青椿の身体はきゅうにへしゃげた。空気の抜けた革袋のようだ。と思うとたちまちぐずぐずと末端から皮膚が溶けだして、見る間に床一面に広がった。
 麒麟と女史は数歩さがったところから、これを見つめた。
 暗い眼窩も空色の髪も、すべてが混ざり、溶解した。人の形の汁の中に女官の衣装と丸髷をとめていた質素な簪だけが、ぽつんと浸っているだけとなるのに、数分もかからなかった。
 「―――浩瀚さまは、女御の身柄を拘束し、瑠璃色の鳥の捕獲を、とおっしゃいましたが」
 祥瓊は悲しそうに服の浮いた汁を眺めて言った。ちゅるり、と鳥が鳴いた。
 「これで・・・良かったのでしょうか」
 「この娘の始末はこれで良いのであろうよ。だが鳥の方は、まだなすことがあるのかもしれぬ」
 鳥は粘液にまみれた嘴で、またちゅるりと鳴いた。焦れたような声だった。
 「おそらく浩瀚は最初から、主上を堯天に下ろして、お身がいらっしゃらない間に安全にこの寄生虫の始末を考えていたのだろうと思う。街に降りた主上が楼に閉じ込められてしまわれたのが、予定外のことだったのか、それとも想定内のことだったのか、あの男の考えていることは未だにわからぬが。―――重作」
 あらわれた狒狒に似た妖魔がかしこまってひざまづくと、まだもぞもぞと身をくねらせている虫を残らず潰すよう命じて、景麒は額の汗を懐紙でぬぐった。
 「問題は、虫がこれで全部ではないことだ。仲間が増えたと言っていたであろう。どこに巣をつくっているのか早急に突き止めねばならぬ。眼窩に卵果を入れて人間のふりをしている者も、枕の行商人の他にまだ数名ほどおるやもしれぬ。主上のお身がなにより気にかかる」
 「はい」
 「祥瓊、緻世楼を見せてくれぬか。雨の降っている楼だ。青椿がつくったものを」
 「楼など見て、なんとなさいます?」
 壊す、と麒麟は踵をかえした。瑠璃鳥も翼をひるがえすと、一度、かるく景麒の顔の前でもの問いたげに止まってから、ぱたぱたと軽い羽音を響かせて庭先へと消えていった。
 「追うぞ」
 「は、はい」
 祥瓊は手蜀を持って慌てて庭に降り、先に立った。ずいぶん先の暗がりの梢で、ちゅるり、と囀りが聞こえる。景麒はかなりの速さで歩いていく。主の危機とあればこの麒麟は多分にせっかちになる質らしかった。
 「雨が降るしかけは、雨にさらされて死んだ卵果を箱に埋めてつくる。青椿があの緻世楼をあえて宮内に持ち込んだのは酔狂ではない。何かに使うためだ」
 「―――箱渡りのできる者は、たしか芳にもおったように思います。早い段階で父にすべて粛清されてしまったので、直接には存じませんが・・・・でも、そういわれれば聞いたことがあります。その人やその場所に関係の深いものを懐に所持していれば、同じものを埋めてある箱へ非常に渡りやすくなる、とか」
 小道はうっそうと闇が漂い、庭木のところどころの梢に丸い釣り燈籠が下がっては濡れた石畳の足元を照らしている。
 やがて暗い空を背に、小堂の輪郭が見えてきた。鳥の姿は無く、此処だ、早くといいたげな鳴き声だけが切れ切れに響いてくる。
 「虫の卵果の埋まった楼がひとつでもあれば、生きた虫はあの中に容易に箱渡りできる―――そういうことだろう。宮中は仙だらけだ。仙の見る夢も、また虫にとっては美味な馳走なのであろうよ。そろそろ農民の素朴な夢を喰い飽きたのだろう」
 堂の扉を開ける。油を刺したばかりの扉は軋みもせずに滑らかに内側へすべった。ついっとわずかな風が頬のそばをゆきすぎ、待ちかねた鳥が二人をすり抜けて中に入ったことを知らせた。
 「楼の浮いている、こことは異なる空間がどこかにあるのだ。緻世楼は、空間からこちら側へ出るための主要な駅のようなものとなる」
 手蜀が堂内を照らし出すまでもなく、室の奥がぼんやりと明るい。水とも火ともつかぬ不思議な灯りが卓上からちらちらと洩れてくる。丸い燐光が息をするように明滅を繰り返しては宙に漂い、ふっと瞬き、ふっと消える様は夏の小川を覆う蛍火のようだ。
 7つの箱は卓に変わらず置いてあった。しかし昼間とは明らかに様子が違っている。どの箱も自らの楼の中に光をともし、燐光に艶々と照り映え、生々しい生気にあふれている。
 瑠璃鳥は、瞳をきらきらさせながら青椿の作った雨の楼の上にちょこんととまっていた。
 「台輔、楼の中の雨の勢いが増しておるように見えます・・・・昼間はたしか、小糠雨程度でしたのよ。それにほら、池の中で鯉が跳ねて・・・ほら、また!生きて動いていますわ」
 麒麟は目を閉じて、空気の中に何かを聴きとろうとするかのように一心にそのすらりと優美な首を伸ばした。
 「空間が―――非常にざわめいている。ここではない。おそらく、どこかずいぶん遠くの方だが・・・何かが起こっている」
 「楼の中で、ですか?」
 「わからぬ」
 楼を壊すつもりで来たが、と麒麟は呟いた。
 「―――少し待とう。下手に壊すと主上のお身の安全が脅かされるかもしれない。嫌な予感だが、たいていあたる。こと主上のことにかけては私も場数を踏んでいるからな。この不穏な空気のざわめきは、主上が関係しているような気がする」
 「陽子ったらいったい何をしてるんでしょう」
 こんなに私達に心配をかけて、と憤慨した言葉尻をさらうように瑠璃鳥が飛び立ち、錐のように一声鋭く鳴くと、勢いよく雨の楼へと頭から突っ込んでいった。
 ぴりっ。
 空気に青い火花が散って、わずかに空気が揺らぎ、すぐ凪いだ。わずかに焦げくさい匂いがする。
 瑠璃鳥は不思議なことに、楼のサイズに合うように縮んでしまっていた。豆粒の半分ほどの大きさになり、雨粒にひっきりなしに翼を叩かれながらも楼の池の上を旋回していた。
ぐるぐるとまわるその円弧が回を重ねるごとにしだいに狭まっていき、ついにある一点に達した時、ふっと小鳥の姿は楼の中から消失した。
 「消えましたわ」
 「渡ったな。そのためにあの鳥は、青椿を見送ってなおここに残ったのであろうよ。楼の中に、彼のまだ仕事が残っているのだろう」
 「仕事」
 なにかしら、と祥瓊は眉をひそめた。陽子に関係のあることでなければいいけれど・・・
 「主上には、あまり無茶をなさらなければ良いが」
 麒麟の言葉は、祈りというよりは多分にあきらめに近かった。
 楼の池の中で鯉が跳ねるぴしゃんという小さな音がする。雨脚はさらに強くなったようで、すでに豪雨といってもいいほどになり、水面には無数の棘が逆巻いている。すぐ隣の夜祭りの楼からはにぎやかな雑踏のざわめき、お囃子の笛や太鼓の音楽が聞こえる。数個先の貴族の若妻の楼からは甘ったるい化粧品の匂いが流れてくる。
 夜が更けるにつれ、楼の放つ丸い燐光は、徐々にその数を増していくようだった。

 

 
 
 
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