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「 楼 」 〜5〜
 

 風はますます湿り気を帯び、夕の空は夜へと衣を替えた。
 空気は藍色から薄墨色に、そしてよく冷えた炭の色になり、息をするたび肺の奥まで黒く染まるような心地になる。銀の河は深い裂け目のように悠々と大地を穿ち、どこまで走っても、どこまで飛んでも眼下にうねりながら続いていた。滑らかな銀の帯をはさんで密集している天幕の灯りは空が暗くなればなるほどその強さを増し、ゆるやかに点滅するさまは地上に散らばった星の群れのようだ。夕焼けのわずかばかりの余熱も拭いさられた大気の中を疾走していると、手毬ほどの丸いものがぽつぽつと浮かんでいて、班渠の顔といわず背といわずところかまわずぶつかってくる。
 最初は石かと思ったが、どうやら天の星のようだ。この世界では星は単なる球形の石ころであり、夜空を照らすほどの光量も無く、こうしてただぶらぶら浮いているだけらしい。足下の天幕の方がよほど生気に満ちて明るい。
 主の声はあれから絶え、耳を澄ませてももう、こそりとも聞こえてこなかった。わずかな気配はあるものの、相変わらずとぎれとぎれの細いものでしかない。班渠は徐々に苛立ちを覚え始めていた。黄海を出てからというもの、これほど感情が波立つのは拓峰の乱以来だった。あの時も赤い王は死と背中合わせだったが、まだしも向かう相手が明確で、班渠は敵対する相手を的確に始末しさえすればよかった。ただやみくもにこうして夜空を駆けているだけというは、優秀な使令としての矜持をひどく引っ掻かかれることだった。果たして正しく目標に向かっているのかさえ今の班渠にはわからないのだ。
 ―――みゃーお。
 ふいに、また。猫の鳴き声がした。それほど遠くではない。
 猫のことなどすっかり頭から抜け落ちていたので、わずかに足をゆるめた。ひっかくような甘さが特徴的な鳴き声だ。ねばっこく、柔らかく耳朶にまとわりつく。
 (下から聞こえてきたのか)
 見下ろすと、天幕から吐きだされる光の強さがさらに勢いを増していた。光は橙に近い白から緑、青へとさまざまな色の波長を変えていた。ふくらんだり縮んだり、生き物が息をしているようにも見える。
 ひときわ大きく膨らんで入道雲さながらに猛々しく屹立した光は、薄青い先端がぷつりと千切れてくるりと丸まって玉になった。たちまちいくつもの、ぼんやり瞬く燐玉となってふわふわと空中へと漂い出した。
 青、緑、橙。
 白、銀、朱、紫。
 溶けたり混ざったりしながら闇夜を飛びまわる光の乱舞は、夢のように美しい光景だった。
 と突然、目の前の空がぐにゃりと奇妙に歪んだような気がした。班渠は足をとめた。
気のせいではなかった。ぶらりとただ浮いていると見えた天の星のうち、ことさら蜂の蜜のような黄金色を放っていた二つの光玉が夜空を動き出している。
 ―――にゃあ。
 空が轟いた。いや、猫だ。猫が鳴いている。白い毛並みの巨大な猫である。空いっぱいに広がって引き延ばされてはいるものの、トンネルの中で出会った白い小さな猫だと班渠にはわかった。
 猫は小馬鹿にしたようにとろりとした流し目で班渠をなでると、頓着なくゆらゆらと河の方へ降りて行った。しっぽらしい長い紐のようなものが天の星のひとつにぶつかり、払い落した。星はまっさかさまに河へ落ちて沈んだ。河面には何の波紋も広がらない。
 ひときわ大きな青い燐光が夜空にのぼってくるのを、肉厚の舌が舐めとった。光がすっと消える。べろり、ぴちゃ、という水たまりに足を突っ込んだような音がする。
 ごくり。
 猫が光を飲みこんでいる。舌で天幕の産んだ光を舐め取ってはうまそうに食べているのだ。
 (天幕の中に眠りこけている人間が、夢を見ることでこの光を生んでいるのか)
 猫はそれを喰うために、人間を集めて栽培している。班渠は喉の奥でぐるぐると唸り声をあげた。
 (この場所は、奴の広大な巣だ)
 妖魔にも種々雑多な能力を持つものがおり、力の差もぴんからきりまである。班渠はかなりの力を持つ妖魔だったが、その班渠をしてこのような奇怪な術で幻惑する力のある生き物にはかつて出会ったことがなかった。
 ―――いや、待てよ。
 班渠はよくよく目をこらした。黄色くて大きな丸い―――星々を圧してひときわ爛々とした猫の目玉。あれは、もうちょっと小さいサイズのものなら、どこかで見た覚えがあるような気がする。
  ―――谷だ。
 ふいに映像が蘇った。黄海の密林の中、ぽかりとあいた暗い谷間に、黄金色の石がたくさん落ちている場所が分布している。谷間は虫の住みかであり、うかつに近づくと、強大な妖魔でも虫に眼球を喰われてのっとられることがよくあった。
 (なぜ黄海の虫がこんなところにいるのか)
 宙を駆って目玉めがけて飛びかかってやろうかと油断なく身構えたところで、またも目の前の空が歪んだ。
 (今度は何だ)
 小刻みに、ひっかくように夜空が震えている。コツコツ、何かを叩くような音もする。突に夜空がぼこっと陥没したかと思うと、たちまち丸くて小さな穴が開いた。穴の向こうは燈籠の火だろうか、ほのかに明るい。灯りをまとわりつかせて、みるからにごつい男の手首がにゅっと突き出され、ひらひらと左右に振られた。剣たこに槍たこまである武骨な指、荒事に向いた腕である。
 「なんだか冷たいぜ。すうすうしやがる」
 手首に見合う野太い男の声が、穴から洩れてきた。班渠の耳がぴくっと突っ立った―――聞いたことがある。
 「おい花梨さんよ。ここから飛びこんでみようか」
 もたもたと何か答えている女の声がするが、滑舌が悪いため意味は不明だ。手はしぶしぶ引っ込んだ。
 「こわい?あのなあ、このままこの堂室にいたって邑には帰れないぞ。もう客をとるのは嫌なんだろうが。とりあえずいったん別のとこに出ようぜ。ほら一緒に飛び込んでやるから、さあこっち来な」
 毛深い肘までが再びあらわれ、とっかかりを探してむやみに空をうろついた。空から生えた手をたわむれに咥えてみると、ぎゃっと叫び声があがって、牙に挟まれた腕の筋肉が盛り上がった。
 「なんだ?なにかいる!」
 女の金切り声が響く。
 前脚を穴の周囲にかけて思い切り体重をかけて引っかくと、ぽろりと黒いしっくいのような空の塊が崩れて、河へ落ちて行く。何度かくりかえすと、ようよう人の顔ほどの大きさになった穴の向こうに、灯火を逆光に黒く塗りつぶされた頭の輪郭があった。齧りがいのありそうな頭の大きさとその形、目鼻立ちこそ見えなかったが、班渠はこの男をもちろんよく知っている。
 「班渠!おまえか!」
 おざなりにしっぽを振ってみせる。あいにく麒麟と王以外に愛想をふりまく趣味は無かった。虎嘯は吠えるように笑い出した。
 「なんてこった。穴のむこうに班渠がいるとは。おい噛むなよ」
 「―――そんなところで何をしている」
 「待て待て。おまえさん、もうちょいと穴を広げてくれんか。これじゃあ、胸がつっかえちまうんでね」
 「……諾」
 ぽろん、ぽろん。ひっかくたび、空は干菓子のように崩れた。
 穴の縁に手をかけて虎嘯の巨体が降りてくる。宙に脚をぶらさげたところで、班渠は背に男を受け止めた。虎嘯は花梨を呼び、しぶる女の着物の裾を捕えて否応なく引っ張りおろした。悲鳴と共に落下した身体を腕で抱きとめ、ひょいと自分の前に座らせる。妖魔の姿に絶句した女は急に静かになり、必死の形相で毛皮にしがみついた。
 「主上はいずこに?」
 「すまん。それがわからんのだ」
 申し訳なさそうに大男は頭をかいた。
 「おまえさんでも陽子の居場所がわからんのか。まいったな」
 「気配はある。しかし辿れるほどに強くはない」
 「さてどうするか。しかしまあ、なんだここは」
 どこまでも続く河とかぶさるような夜空、吹き抜ける風に目を細めた。
 「やたらと広いな……っ、うわっ?!」
 空のかなり上の方まで立ち昇ってきた燐光を、桃色の広大な肉布団が舐め取っていった。ごうごうと風がおこり、髪を頭皮から追い出そうとするほどに逆立てる。
 「なんだこの化け物は」
 「猫だ」
 班渠は簡潔に答えた。べろり、とまた風が起こる。下界の燐光は猫の旺盛な食欲に負け、さっきよりいささか灯りの光量を減じたように見える。
 「馬鹿言え、あんなデカい猫がいるもんか」
 「正確には猫に寄生している虫だ。おそらくは、この奇妙な空間の主であろうよ」
 虎嘯は夜空にぎらりと輝く黄金色の球体を見つめた―――虫、ねぇ。
 「妙な虫もいたもんだ。おや、あの天幕は……」
 見覚えがあるぞ、と呟いた。規模や数こそ違え、あの古びた妓楼の二階にあったのと同じもののようだ。
 「湧いている灯りは人間どもが見ている夢だ。―――虎嘯」
 「あ?」
 「主上を見つけるいちばん確実で手っ取り早い方法は、あの猫をどうにかすることだ。この空間にほころびができれば、主の居場所も自然と知れるだろう。あなたは下に降りて、寝ている人間を片っ端から起こしてくれぬか。人間が起きれば、猫の餌もなくなるはずだ」
 「餌を横取りして化け物を怒らせるって作戦か?」
 「猫の気を下界にそらす。その隙を私がつついてみる」
 「さてなあ。そんなにうまくいくかわからんが、まあやってみるか……うわっ」
 虎嘯がまだ言い終わらないうちにもう、班渠は頭を真下に向けて頓着なくすとんと垂直に飛んだ。みるみる黒い河が眼前に迫ってくる。目の中に燐光の海が次々とまばゆく飛び込んでくる。空気が壁となって迫り、耳をこすった。ぐっと腹を押される感じにのけぞった女はいまにも心臓が口から出そうな蒼白な顔をしている。
 地面ぎりぎりの高さで急激に停止すると、勢いあまって転げ落ちた二人をこれっぽっちも気にせずに、しっぽをちょろりと振っただけで、また上空へと疾風のように駆け上っていった。
 虎嘯は腹に女をかばい、抱きかかえたまま天幕のひとつに落下した。円弧に布がたわみ、重さに耐えきれない細い支柱を引きずり倒して天幕の中へところげこんだ。もうもうと埃が立ち、壯榻に落ちた燈籠が掛布に燃え移ってちりちりと煙をあげはじめる。慌てて手当たり次第そこらじゅうやたらと叩いてはぼやをもみ消しながら虎嘯は悪態をついた。
 「……ったく、班渠の野郎!もうちょっと丁寧に降ろせんのか!おい花梨。そこの燈籠をとってくれ」
 女は震える手で、まだわずかに火の残っている燈籠を押しやった。芯のぐるりを褐色に染める程度しか明るさがないか、天井が抜けたためにさほど暗くはなく、腹の上に人間が降ってきても相変わらず眠り続けている男の顔をぼんやりと浮き上がらせている。
 「おい、おっさん。起きろや」
 男の頬を幾度かぴたぴたと張った風で、とうとうふっと火が消えた。白い煙がねじれながら渦を巻くと見るや、男が唐突にカッと目を見開いたものだから、虎嘯はびっくりしてのけぞった。しかし目覚めた男も同じぐらい、いやもっと驚いたようだ。
 「わ……っ、お、おい。ここはどこだ。誰だい、あんた」
 「俺が聞きたい。急に目覚めんでくれよ、心臓に悪い」
 「ここは……どこの州だ?水の匂いがするが」
 「なに、表に河があるのさ。それでだろう」
 「河なんか俺の邑にはないぞ」
 「邑の者か。おおかた、女の夢を見たくて行商人の口車に乗ったな。箱枕を頭にしいて寝た、そうだろう」
 「―――おうよ、悪いか?」
 男はあぐらをかいて座り込んだ。
 「慶は女が少なかろうが。前の王様が追い出しちまったからな。俺の邑なんて、戻ってきたってせいぜい2〜3人ってところ、しかも結構なばあさんばっかりよ。だから、つい……」
 行商人から夢を買っちまったのさ、と男は言った。
 「ふぅん。今までどこにいた」
 「いろんな場所だ。結局、望み通りに女を抱かせてもらえたのは最初の一刻だけだ。そのあと皺苦茶の婆が来て、駄賃が足りない、普請をして働いて返せという。俺は怒ったね。金はちゃんと払ったからな。でも駄目だ。変な場所に次々飛ばされて、建物の補修工事ばっかり来る日も来る日も働かされた。まいったよ。……で、」
 男はぐるりとあたりを見回して、途方にくれたように訥々と首をかしげた。ここはどこなんだ、と呟く。
 「急に天地がひっくり返って、目が回って、気が付いたら、あんたが俺の頬をひっぱたいていた」
 「この燈籠のせいじゃないかしら?」
 ずっと黙っていた花梨が急に大きな声を出したものだから、男二人はぎょっとして身を離した。
 「燈籠が消えたから、この人、目が覚めたのよ。そうえいばあたしの閉じ込められていた部屋もたくさん燈籠が釣ってあったわ。常に火が消えないよう脂をたしていたもの」
 「なるほどな。おまえさん、意外と頭がいいじゃないか。燈籠が夢を促す作用をしてるのか」
 虎嘯は立ちあがった。向こうの方まで点々と広がる天幕を眺めやる。ずいぶんと数があるが、やってみるしかなさそうだった。
 「いいか花梨。これから片っ端から燈籠を消して回るぞ。あんたも手伝ってくれ、ええと、名前がわからんが、おっさんよ」
 「俺にはなにがなんだか……」
 「わからんくていい。わからんくていいが、とりあえず消すんだ。それもできるだけ早く。行くぞ、ほれ」
 他の二人の尻を叩いて追い出すと、自分もさっそく隣の天幕をめくって踊りこむ。ゆらめく焔が影を生む燈籠に飛びついて、床に転がし、芯を踏む。煙が立ち上る。眠っていた男がうめき声を上げて目をこする。
 (よし。これだ)
 起き上がるのを見届けると事情を説明するのは省略して、虎嘯はさらに次の天幕へと飛び込んで行った。

 ―――ぱたん。
 扉が閉まって、浩瀚と陽子は二人きりになった。なんとなく気まずくて、陽子はあっちをみたりこっちをみたり落ち着きがない。
 「ええっと、その……うん。よく私の居場所がわかったな」
 「当然です」
 悠然と、臣下は言い放った。
 「私にわからないことがあるはずがございません。とにかく御無事で何よりです、主上」
 ゆっくりと拱手する。普段は広幅の袖にかくれる手が、簡素な筒型の袖のためにむき出しで、なんだか奇妙だった。玩具みたいに綺麗な三日月形の唇は笑みの形のまま微動だにしない。
 「言いたいことはいろいろあるだろうが、とりあえず座らないか」
 さあ座ろう。カルタ大会でいざ、と札をはたき飛ばすような勢いで、陽子は浩瀚の手を思い切りよく捕りに行った。知らず知らず頬が火照ってくるのを唇を一文字に引くことで気合を入れる。逃すつもりなどない。手の中に包みこんだ男の指は、たったいま氷の海を泳いできたように冷えきっていた。
 牀榻まで強引に引っ張ってくると、陽子はふわふわした布団の上に乱暴に座りこみ、男を隣に座らせた。
 「おまえ、一緒に来たあの男は誰だか知っているか」
 「あいにくと。待合室で一緒になっただけの下郎ですので」
 「そっか。まあ、そうだろうな」
 陽子はほぅとため息をついた―――なら、いい。
 「御身をお迎えにあがりました。皆も気をもんで御無事の帰着をお待ちしております。すぐにでもお連れしたいところなのですが……これがまた、たいそう麗しいお姿をなさっていらっしゃるので、正直、拙の目には眩しいほどでございます」
 間近で覗きこんでくる浩瀚の顔をちらりと見やったものの、そのまま目を合わせているとやはり混乱しそうなのでそっぽを向いた。ぺらぺらと美辞麗句を並べる舌はこんな状況でもやはり滑らかなものらしい。
 「なあ、どうやってここまで来た。堯天の街を通ったのか?あの箱枕屋の通りの」
 「是」
 「なら、私のイチオシのあの店の前を通っただろう?……おいっ」
 ぐっと深く沈みこむ感触がしたかと思うと、顔の両脇にぐいぐいと布団が暑苦しくせまった。
 「ご無礼を。目が眩んでしまったと申し上げましたでしょう」
 頭がぼうっとして、自分でも何をしているかわかりませぬ、と男は涼しく言ってのけた。受ける背は頼りなく、底なし沼に落ちていくような浮遊感にとらわれる。臣下の分際で主を押し倒した不埒な男の顔が、そそりたつ布団の壁の中央にぽかりと浮かんで見える。白々とした端正な顔だ。掴まれた両の手首はどこぞに埋まってしまってびくともしない。やわらかすぎる布団のせいで、陽子は身動きどころか頭を左右に振ることも容易ではなかった。
 「主上は……本当に美味しそうでいらっしゃる」
 「あのな冢宰殿。私を連れ戻しに来たんじゃないのか」
 困ったことに、ここにきてどうしようもなく空腹をおぼえました。そう言いながら、いつもより少し黄色っぽかった彼の目は、さらに黄色味を深めて照りを帯び、爛々と尋常でない光を放ち始めている。瞳の表面がもぞりと蠢いたような気がした。
 「ああ、お胸がはだけておられますよ。もしかして……誘っておられるのですか」
 「馬鹿、そういう服なんだ!」
 陽子は吠えた。首元を氷の棒のようなもの―――男の指―――がゆるゆると伝っていく感触に身をよじるが、ただ布団の海がわずかに蠕動しただけだった。貼りついた笑みを浮かべた浩瀚の顔が空から降ってきて、鼻先で止まった。薄い唇が上下に割れて、さらに薄い舌がのぞく。陽子の全身に鳥肌が立った。
 「待て。腹が減っているなら、堯天で立ち食いしてくればよかったじゃないか。あの通りにイチオシの甘味処があっただろう。ほら、行列ができる人気の店」
 「たしかに甘味は嫌いではございません。どちらかというと団子より月餅の方が好きですが」
 さらに申しますと、と男は邪魔な紗を押しのけてなめらかな肌の奥へと手を滑らせながら、耳元で囁いた。
 「月餅よりも主上の方が好きなのでございます」
 「……っ」
 舌で耳裏をぬるりと舐められて、思わず、ふ、と吐息が漏れる。力いっぱい顔をそむけると、視界の端に男の目玉が至近距離で迫っているのがちらりと映った。黄色い目玉は、やけに丸々と太って見えた……瞼を押しのけ、眼窩から突出しているせいだ。
 今度は気のせいでなく、はっきりと瞳の表面が細かくひっきりなしに蠢いている。ぷつぷつと粘着質の玉がてんでばらばらに沸き立ってはさざ波を寄せるあまりのおぞましさに、陽子は何年ぶりかで女らしい悲鳴をあげた。
 鍛え抜かれたバネのような身体を反射的にねじると、腰帯に隠していた予備の簪をつかみとり、周囲にそそり立つ布団に突き立てて思いっきり横へ引いた。たちまち切れて溢れてくる綿の海をかきわけ、もうひと刺し布団にお見舞いする。
 舞い散る綿の山、雲の中に閉じ込められたようだ。
 わずかな空白に寝台の縁と絨毯とがちらりとのぞき見えた方向へ転がると、すかさず追ってくる男の手甲にもためらいなく簪を突き刺した。ぶすり、と湿った音がしただけで、さしたる抵抗も無くあっさりと貫通する。男は呻きすらあげず、うすら笑いを浮かべたまま、陽子を捕えようと覆いかぶさってくる。
 やみくもにのばした手が枕元の小卓の花瓶に触れた。小ぶりだが銅製の重たい器だ。陽子はとっさにそれを掴み上ると、男の顔めがけて力いっぱい投げつけた。花瓶はたがうことなく男の右顔面を直撃し、得体の知れぬ青い汁をまきちらしながら肉と、骨と、さらに瞳をこそげ落とし、勢い余って扉に激突したのち、ごろんと床に転がった。
 ぴしゃっと粘着質の音が小さく響いた。転がった瞳が器の下敷きになってつぶれた音だった。
 扉の向こうの部屋で、かすかに女の声がして、こちらへ駆けよるような気配がしたが、唐突に途切れた。陽子は壯榻から機敏に這いだすと、綿にまみれてまだ膝立ちになったままの男を振り返った。右顔面から頭部にかけてがすっかり抉られ内部が露出している―――首から身体へかけて青黒いべたべたした汁が一面に散っている。しかし、半分に減ってしまった唇はゆるやかな円弧を描いたまま、まだ笑みを形作っていた。残った左目のあったところには暗い眼窩があるだけで、眼球は男の手のひらの上へと居場所を変えていた。
 「よくおわかりになりましたね」
 半分の舌と半分の唇が器用に動き、穏やかに言葉をつむいだ。手のひらの目がぴくりと波立った。
 もちろん、と水禺刀をしっかりと握りしめ、油断なく構えながら陽子は言った。
 「浩瀚の顔してれば私がだまされると思ったか?残念だったな。部屋に最初に入ってきたときから浩瀚じゃないことはすぐわかったよ。だいたい、浩瀚は団子と月餅の区別がいまひとつつかない男なんだ。それをおまえは丁寧に区別してみせたからな」
 青黒い汁にまみれた男は半分に減った口で、枯葉をくだくような音をたてた。笑っているらしい。
 「なるほど。いささか上手に化けすぎたようで。さらに、仲間に先駆けてつまみ食いをしようとしたのが運の尽きですな」
 かざした指の間で、眼球がぐねぐねとさかんに蠢いている。我をお切りになりますか、と男は呟いた。
 「我が仲間はまだまだおります。ここで拙を切って捨てても、とかげのしっぽを切るような具合にしかなりませんが」
 おまかせしますのでどうぞご随意に、という言葉尻が消えぬ間に、陽子は刀を軽く振った。さくりと眼球が真っ二つに割れる。ぎぃ、と虫が鳴いた。一瞬遅れて無数の細かい紐のようなものが溢れ出ると、床一面に広がってびちびちと身をくねらせて悶えた。ぞっとするほど気味が悪い光景だった。虫のうねりが徐々に小さくなっていくのを、しかし眉ひとつ動かさずに見守っていた陽子は踵をかえし、花瓶を投げた傷が残る扉を開け放った。
 「翔鷹、ああ、無事だった?」
 青蘭が駆けよってくる。髭の男は椅子の側におとなしく佇んで、わずかに首をかしげて会釈してよこした。
 「私は大丈夫だ。飛雀は、」
 陽子は髭の男に顎をしゃくった。
 「……あの男になにかされなかったか」
 青蘭は笑って手を振った―――まあ、いいえ。そんなことなかったわ。
 「あのお客さんは変な方なの。隣の部屋で翔鷹の悲鳴が聞こえたときも、大丈夫だから待っていなさいっていうだけ。あたしには何もなさらなかったわ」
 ふぅん、と鼻をならして男に近づくとおもむろに髭のはじっこをつかみ、べりっと容赦なく引っぺがした。男の表情がほんの一瞬だけ苦痛に歪んだのを見て、陽子は満足した。
 「これはこれは。ひどい扱いでございますね」
 「若い娘に鼻を伸ばすからだ」
 髭のなくなった顎を撫でながら、浩瀚は面白そうに片眉をあげてみせた。
 「いつから拙めにお気づきに?」
 「最初からわかっていたとも。自分そっくりの偽物と一緒にしゃあしゃあと登場する厚顔無恥なんて、おまえぐらいだからな」
 「光栄でございます」
 「え、何。二人って知り合いなの?」
 まあな、と顔をしかめる娘と、よく存じておりますとにこやかに笑う男を交互に見比べるうち、なるほどと腑に落ちるものがあった。
 (ああ、そういうことね……)
 青蘭はひとりで納得した。
 まだ生きている虫が一匹、こちらの部屋にも這ってきて、足元でぐねぐねと蠢いているのを陽子はつま先で蹴っとばした。
 黄金色の虫。
 (……あ?)
 どこかで見たことがあるような気がした。黄色い小さな糸くずに似た虫。無数に群れて、こんがらがって、最後には丸くなる。どこで見たのだろう。
 暗い、暗い場所。
 (地下室)
 父と兄と……一緒に暮らした家。その地下。おかしい。兄と、もうひとり、誰かいなかったか?なにかを忘れているような、否、なにかを思い出しそうな、もどかしい靄のかたまりが青蘭の身体の中にあった。今まで気づかなかったかたまりだった。ふと耳に陽子の声が響いて、まとまりかえた靄は霧散した。
 「この気味の悪い虫はなんだ、浩瀚。あんなものは初めて見たが……他にも仲間がいると言っていた」
 「黄海に住まう虫です。人の中を食い荒らし、眼窩に納まって意思を自在に操ります。人間を、特に『王』を食べたがっているやっかいな虫でして、慶で繁殖しつつあります」
 「王?わた……、し、じゃない、なんで王なんか喰いたがるんだ?」
 「美味しいからだそうですよ。あいにく拙めも食したことがございませんので、正確にはどう美味なのかよく存じませんが」
 意味深な目つきで全身を見まわされ、瞬時に顔に血がのぼるのを感じた。胸元の紗を乱暴に引っ張り上げると、頬を火照らせたまま陽子は剣を振り上げた。
 「な、なんでもいい!とにかくまずはここから出るぞ。虫の始末はそれから考えよう」
 「お忘れのようですが。もともと拙めは団子を買いに行ったまま帰ってこないあなた様を連れ戻しにまいったのですよ―――まったく、困ったお方だ」
 浩瀚の目が剃刀の形になった。
 「すこしも自重なさってくださらない。もしやと思って堯天に忍ばせていた配下の者がすぐ知らせてくれたから良かったようなものの。大事となったら、なんとなさるおつもりです」
 「う……確かに軽率だった。こんなへんなところに飛ばされるとは予想外だった。悪かった」
 「今年に入ってからだけでも、何度その言葉をお聞きしたことやら」
 「うるさいな。だいたいな、私が買いに行ったのは団子じゃない。団子じゃなくて―――ああ、もういいや!とにかく出ることにしよう。飛雀。……飛雀?」
 ぼうっと呆けたように天井を見つめている娘を、陽子は覗きこんだ。
 「―――あら。ごめんなさい」
 「どうした。具合でも悪いのか」
 「ううん、そんなことないわ。……・それより、なあに?」
 「ああ。三人に増えてもここから飛べるかどうか聞きたかったんだ」
 青蘭はまだ身の内にくすぶるもやもやした、居心地の悪い物思いの残滓を振り払うと、職人の目で見分するように浩瀚を眺めやった。
 「あら身体ごと、楼にいらしてらっしゃるのね。じゃあ飛べるわよ」
 「身体ごとって?」
 「お客さんだとね、ほら箱枕に頭をのせて眠るでしょう。身体はこっちに飛んできていないのよ。中身だけ、箱の中に来ているのね。でもこの方は身体ごといらしてる」
 当然でございましょう、私のすることに抜かりはございません……と言わんばかりに端正な顔がにこりと笑った。
 「痩型でらっしゃるし、たぶん大丈夫だと思うわ。あんまり重いと飛びにくいこともあるんだけど。そうね、とにかく名前をつけて手に輪をつけましょうか。その方が飛びやすいから」
 さきほど翔鷹の悲鳴を聞いてとっさに扉に駆け寄ろうとした青蘭をひきとめて、この端正な容姿の男はただ簡潔にあなたは箱渡りか、とだけ尋ねてきた。そうよ、と青蘭が答えると、やはりな、と考え込むような仕草をした。それからぽつんと、あなたは灯りはお好きだろうか、と言った。
 そうね、灯りを見ていると楽しくて飽きないわ、と青蘭が笑いながらうなづくと、髭に埋もれた顔が不思議な具合に少しだけ歪んだ。あれは憐憫の表情だったのだと、男の手をとって名前を考えながら、唐突に気付いた。気づくと同時に、ひどくもどかしい思いが寄せてくる。なぜこの人が、自分に憐みを感じているのかわからなかった。
 「穿龍にしましょう。穿龍さん」
 返事しろよ、と主につつかれてはい、とうなづくと、手首が温かくなった。
 「はまった?」
 青蘭の優しい手がなぞって輪を確かめるのに、ありがとうと男は礼を言う。私にはあんなに丁寧な口調で言ってくれたことなんかないのに、と赤い髪の娘が横でふくれている。青蘭は笑った。
 (仲が良いのね)
 私と兄も仲が良かった。とても仲が良くって、良すぎて、兄妹以上の感情がいつしか胸の内に育ってしまったのだけれど。兄の最期は哀しかったが、つきっきりで看取ってあげられて、せめてもよかったと思う。
 (―――?)
違和感を感じて青蘭は戸惑った。本当に―――兄の最期を看取ったのは自分だったろうか。
もちろん、という思いが定まらない。曖昧に揺れる。兄の死の前後の記憶が、妙にぼやけて像を結ばなかった。
 寝床に横たわる兄の顔、薬湯の入った椀を持って側に佇む自分。それから。いや、持っていたのは確かに椀だっただろうか。ひかる―――
 「青蘭?」
 「あ?ああ、穴ね。行きましょうか」
 気づけば、手を引かれるままにさっき脱出口をみつけた壯榻の側に来ていた。
 (ひかる……)
 ―――なんだったのか。
 考え込みながら、簪で刺したために綿が変な方に飛び出ている布団を押しのけると、すぅすぅと風の通る気配が強くなる。冷えた夜の匂いに満ちた風が青蘭の頬をなぶった。
 「三人いっぺんでこの穴に飛びこむと、なんかつっかえそうだな」
 寒い、と鼻の上に可愛らしく皺を寄せた少女の赤い頭越しに穴を見やる。この大きさならなんとかなりそうだ。
 「大丈夫よ、手と手をしっかり結んでいれば……いい?離しちゃダメよ。あたしからいくわね。次が翔鷹、最期が穿龍よ。引っ張られるのに抵抗しないで、ただ身をまかせてちょうだいな」
 「わかった」
 「行くわよ」
 「よし」
 青蘭の履いている硝子玉の刺しゅうできらきらした靴の、その爪先がじゅうたんを離れた瞬間、ごうごうという地鳴りがあたりを揺さぶった。一瞬遅れて猛烈な風が室内を蛇のように駆け廻り、とぐろを巻く。壁がありえない方向にへしゃげ、その壁面から床と平行に燈籠がぶらさがる。椅子は当然のように天井に張り付いた。重力が歪んでいるのだ。
それは瞬きするほどのわずかな時間だった。
 青蘭の姿が急激に縮み、細まって糸のようになったかと思うと、ひゅうっという笛のような音をたてて穴に吸い込まれていった。強い力で引っ張られ、あっという間もなく陽子も、そして浩瀚も共に暗いトンネルへと落ち込んでいく。
 冷たくて、暗くて、ただ頭も身体もひたすら回転する。
 氷の粒に似た硬いものが頬をかすめてはふっと消える。
 手首の輪が痛いほどに熱を放っているのがわかる。
 稲光のような鋭角のひらめきが、ときどき閉じた瞼の裏まで突き刺さっては、また黒く退色する。陽子は両手に青蘭と浩瀚の手のぬくもりを感じながら、きりもみする空気の渦に身をゆだねた。


 
 
 
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